夕方、家の中にゆっくりと夕焼けが差し込む時間帯だった。西日が障子の縁を赤く染め、畳の上に長い影を落としている。
今日はお父さんが早く帰ってくれる日だったはずだ、と燈矢は何度目かの確認をするように胸の内で呟いた。
前よりも強くなった。前よりも、きっと“立派”になったはずだ。お父さんだって、今の俺なら褒めてくれる。「凄いな」って、また褒めてくれる。No.1ヒーローになるのは燈矢だと、また信じてくれる。早くみてもらいたい。俺は、すごい頑張ったから。
だからその前に、やるべきことをやらなきゃならない。
そう自分に言い聞かせながら、燈矢は自室の勉強机に向かっていた。
鉛筆を握り、ノートに視線を落とす。集中しようとするたびに、廊下のきしむ音や遠くで鳴る生活音、誰かの気配が意識の端に引っかかり、そのたびに思考が途切れる。焦燥感だけが、見えない荷物のように背中に積み上がっていく。早く、ちゃんと、結果を出さなきゃいけないのに。いつもはもっとちゃんと出来るのに、時計の針の音がうるさくて集中できない。折れた鉛筆の芯に苛立ちながら鉛筆削りを取り出そうと棚を覗いた。
「……燈矢兄……」
廊下の向こうから細くて頼りない声が届いた瞬間、身体が勝手に反応する。椅子を蹴る音が自分の耳にうるさく響くほどの勢いで立ち上がり、考えるより先に足が動いていた。
「冬美ちゃん、どうしたの?」
声の主は妹の冬美だった。ひとつ年下で、最近少しだけ大人びた表情をするようになった少女が、燈矢の部屋の前で立ち尽くしている。様子がおかしい、というのはすぐに分かった。
胸元には一冊の本を抱え、その指先に無意識の力がこもっている。いつもより伏せがちな目、迷いと不安が滲んだ顔。普段とは違う、どこか悲しそうで、そして、困り切った表情だった。
どうしたんだろう。誰かに何か言われたのか、それとも嫌なことでもあったのか。もしかして……意地悪された? 冬美ちゃんは弱いから俺が守ってあげなきゃ。もう一度「どうしたの」と声をかけると、秘密を打ち明けるように、妹はゆっくりと口を開いた。
「……友達に、変な本渡されちゃって……」
冬美は言葉を探すように一度息を吸い、「これ、多分、えっちなやつ……」と続けた。
「わたし、読んじゃだめな気がする……」
その不安そうな目が、まっすぐ燈矢を見上げてくる。咄嗟に状況を整理しきれないまま、問題の核心が彼女の抱えているその本なのだと理解した。
燈矢はできるだけ穏やかに、“大事ではない”と安心させるように、落ち着いて本を受け取った。表紙は派手で、色使いもあまり馴染みがない。嫌な予感を覚えつつ、数ページだけ、と自分に言い訳しながらパラリとめくる。適当に開いたその瞬間、目に飛び込んできたのは男同士のどろりと生々しい濡場だった。あ、男女じゃないのか。そんな本質からずれた感想が、最初に頭に浮かんでしまったのは、自分自身も混乱していたからだろう。
クラスには、そういうサイトを見ているやつがいるとか、誰が好きだとか、どこまでしたとか、下品な話題で盛り上がる連中がいるのは知っている。
聞きたくもないのに、同じ空間にいるだけで耳に入ってきたこともある。でもそれは、自分が男だから、男同士だから、半ば黙認されているだけの話だ。
冬美は女の子で、しかも自分から望んだわけでもない。これが同性からでも、立派な嫌がらせで、セクハラってやつじゃないか。嫌がってる子に、こういうの無理やり渡すのってダメだろ。
「……うん。子供が読んじゃダメなやつだな、これ」
何事もなかったかのように本を閉じ、冬美の肩を軽く叩いた。大丈夫だ、と言葉より先に伝えるように。
これは自分がなんとかしなきゃいけない。だって、困り切って、どうしたらいいか分からなくなったときに、冬美ちゃんは“燈矢兄ならなんとかしてくれる”と思ってここに来たのだ。その期待を裏切るわけにはいかない。
「俺が返してくるから、もう心配すんな」
「……うん……」
冬美はほっとしたように微笑み、緊張が解けたのか、「今日の夕ご飯、お蕎麦だよ」と話題を変えた。燈矢もそれに合わせて頷き、軽く笑ってみせる。問題の本は、誰にも見られないように鞄の奥へしまい込んだ。
翌日、燈矢はその本を学校へ持っていった。昼休み、人の少ない教室の隅で持ち主である女子を呼び止める。逃げ場のない距離で、本を差し出した。
「こういうの、冬美ちゃんに渡すなよ」
声を荒げることはしなかった。ただ、逃げずに、真っ直ぐに相手を見据えて言った。
「変な本だって分かってて渡したなら最悪だし、分かってなかったなら、それもちゃんと考えろ」
睨みつける視線に、相手の子は気まずそうに視線を落とし結局何も言い返せなかった。その沈黙を見届けて、燈矢もそれ以上何も言わずその場を離れた。
あとから思えば、それで関係が完全に壊れてしまうこともあり得たのだろうが、実際にはそうならなかった。
その後も何度かその子は家に遊びに来ていたし、ぎこちなくなる様子もなく、少なくとも表向きは以前と同じ距離感で笑っていた。あの一件がきっかけで疎遠になったわけじゃなかったらしい、それなら良かった。
たぶん、あの子の中では俺が悪者になっているのだろう。でも、それでいい。人はわるいところもあれば、いいところもある。その両方を含めて、その子と友だちでいることを、冬美は選んでいるのだろう。
冬美はしっかりしているし、年相応以上に落ち着いていて人を見る目もある子だ。誰かの一面だけで判断したりしないし、自分がどう感じたかをちゃんと大事にする。
だからこそ、俺は余計な心配を手放すことができた。兄として前に出るのは、必要なときだけでいい。
それから数年が経ち、そういうことを真面目に学ぶ機会もなかった彼にとって、適当に流し見たその本に書かれていた知識だけが─────男同士でも“そういうこと”はできる、という唯一の認識として、記憶に蓄積された。半端で歪んだ記憶だけが、可能性のひとつとして荼毘の中に存在している。うつくしき幼き日の思い出がこんなことになるなんてな。
