春の月20日、午後12時42分。
愛の女神カレリアの加護に満ちた平穏な昼食時は、クラス担当魔術教師ジャンニ・ディシコが肌に感じた一筋の「魔力の乱れ」によって終焉を迎えた。
ジャンニは即座に防御の陣を教室内全体に展開し、愛弟子たちへ向けて叫ぶように伝える。
「教室から出るな!!」
直前まで穏やかに笑い、平民も貴族も分け隔てなく食卓を囲んでいた師の豹変。
最年少学年のモニカは、その威圧感に射すくめられ、手に持っていた水入りのカップを床に落とした。硬い音が響き、水が床に広がる波紋が静止する間もなかった。
午後12時43分。
世界が両断されるような、聞いたこともない轟音が校舎を揺らす。
モニカの瞳が捉えたのは、空間に生じた「黒い亀裂」が触手のように伸び、ジャンニを無理やり深淵へと引きずり込んでいく絶望的な光景であった。
─────「先生はいつも正しくて、私たちを守ってくださいました。だから私、先生が『教室から出るな』と言ったことに、絶対に守るべき意味があるって思ったんです。たとえ、先生ご自身が目の前から消えてしまったとしても」
師を失った教室内は、瞬時に地獄と化した。
窓の外から聞こえる尋常ならざる轟音と、目の前で教師が消えたことへの根源的な恐怖。唐突に突きつけられた理不尽に対し、年少クラスである第14教室の生徒たちの多くは、もはや正常な判断力を喪失していた。
彼らは怯え、庇護者を求めてパニックを起こすと、数名の生徒が半狂乱になって廊下へ飛び出そうと扉へ殺到する。
しかし、その暴走を食い止めたのは、クラスで最も小柄な少女、モニカであった。
彼女は華奢な体で扉を背に、震える両手を大きく広げて立ちはだかった。この時、モニカの鋭敏な感覚は、ジャンニが残した防御の陣のすぐ外側、すなわち冷たい廊下の空気の中に、言葉にできない「嫌な予感」が這いずる蛇のように移動しているのを、強烈な魔力の乱れとして感知していた。
扉を一枚隔てた先にあるのは“助けてくれる誰か”ではなく、“脅かしに来る何者か”であることを本能で理解していた。
「出たらダメ!!」
その幼き勇気に呼応するように、教室内の空気を切り裂いたのは、伯爵家第六子エンニオ・シャンドリの罵声であった。
「落ち着け! ジャンニ先生はこの教室に護りを施して下さった。把握しろ低脳共が! 喚くだけならその場に跪いていろ!」
エンニオは、この第14教室内においてジャンニを除けば唯一の貴族であった。
普段から平民の生徒を見下し、傲岸不遜な態度を隠さなかった彼が、この時ばかりはその特権階級特有の威圧感を「秩序」へと転換させたのである。
─────「幼い頃の私は口も態度も悪くて、……頭もそんなに良くなくて。だけど、師がいなくなった教室で、私が皆を守らなければいけないと咄嗟に考えました。昼食を共に食べる、友人達でしたから」
エンニオは、背中から這い上がってくる恐怖を歯を食いしばることでねじ伏せた。その掌には、高価な魔木で作られた杖が、主人の動揺を映すかのように小刻みに震えている。
彼はその杖を強く握り締めると、クラスメイトたちへ向けて、矢継ぎ早に指示を飛ばした。
「全員杖を持て、中心に集まれ、女性を中に! いいか? 俺が窓から様子を見る。ジャンニ先生の防御の陣はマンティコアの毒針すら防いだんだ、絶対に破られない。大丈夫、俺達は防衛術を習っている。身を守る術を教わっている。俺たちは優秀な、選ばれし第14教室の生徒達だ。自信を持て、わかったな?」
シャンドリ家は、王国において代々の武勲で名を馳せた生粋の武闘派貴族であった。当主の訓えは厳格を極め、嫡子から末子に至るまで、その血を引くすべての子供らに幼少期から徹底した騎士道を叩き込むのが家風であったという。エンニオが普段見せていた、平民の生徒に対する不遜な振る舞いや特権階級としての鼻持ちならない態度は、弱さを見せることを一切許さない苛烈な家訓が生んだ、彼なりの防衛本能の表れでもあったのだろう。
師を失い、詳細の分からない恐怖の極限状態において、彼を包んでいた幼い傲慢さは剥げ落ち、その奥底に眠っていた「弱きを守る」という騎士の矜持が静かに目を覚ました。彼は無意識のうちに、それまで見下していたはずの平民の友人たちを、自らが盾となって守るべき同胞として再定義していたのである。
泣き出しそうな友人の肩を励ますように叩いてその場に繋ぎ止めたエンニオは、外の状況を確認すべく窓の外へ視線を向けた。
視界の先、中庭には乳白色に輝く魔力の半円が見える。
第一王子の婚約者、ヴァレンティナ・サンドレッリ公爵令嬢を筆頭とした女生徒たちが敷く防御陣だ。彼女たちの周囲を除けば、庭に動く人影はない。
あるのは、ただ異常なまでに静まり返った校庭と、見たこともない濁った赤に染まり、血を流しているかのような不気味な空だけであった。
