ジャミル・バイパーがオバブロしたぞ、というのは噂で聞いた。でもまあ、寮が違えば情報なんて途中でいくらでも濁る。
ましてや事件の中心が他寮であるスカラビアともなれば、「寮長を操ってたらしい」「寮生まとめて洗脳したらしい」「砂漠でなんかすごいことになったらしい」と、こっちへ届く頃には肝心なところから順番に雑になっていて、結局どこからどこまで本当なのかよく分からなかった。
そもそもこのNRC、性格ドブカス率が異様に高いうえ、だいたい全員が魔法という凶器を標準装備している。殺し合いをしていないだけで治安は相当悪い。
ユニーク魔法が暴発して誰それが巨大化しただの暴走しただの、一年も在籍していれば「またか」で流せる程度にはこちらの感覚も麻痺する。最悪だな、我が愛しの学び舎。
そんな修羅の地で確かなものなんて、自分の目で見たものくらいだ。
ジャミル・バイパーは昔から、薄っぺらい仮面を一枚だけ器用に顔へ貼りつけたような、どことなく白々しい奴だった。
誰に対しても礼儀正しく、滅多に声を荒らげず、カリムの無茶振りにも慣れた顔で応じる。料理もできれば勉強もできる。飛行術も魔法史もそつなくこなすくせに、妙なところで絶対に一番を取ろうとしない。
そのへんは前々から胡散臭いと思っていたが、それとは別に、真面目で勤勉で、面倒見がよく、おまけにちゃんと冗談も分かる良い友人だった。
俺がくだらないことを言えば呆れながら拾ってくれるし、本当に困っている時には文句を言いつつ手を貸してくれる。
俺が実際に知っているジャミル・バイパーはそっちだ。
だから事件の後になって周囲が「あいつって実は怖い奴なんじゃないか」と距離を測りかねていても、俺にはあまり関係がなかった。少なくとも、人伝に聞いた話より自分が何年も見てきたものの方が信用できる。何より、オバブロ現場を俺は見てないからな。
「君は俺のことが怖くないのか? 」
「映画以外でリアルに言うやつ初めて見た。怖くないよ~」
中庭の端、人通りの少ない石造りの回廊で、ジャミルはベンチの背凭れへ片肘を預け、頬杖をついたままこちらを見ていた。長く編み込まれた黒髪が肩から胸元へ落ち、髪を飾る金色の装飾が陽を拾って小さく光る。
以前なら、こんなことを訊く時ですらもう少し無難な顔を選んだだろう。
困ったように眉を下げるとか、冗談めかして肩を竦めるとか、相手がどう受け取るかまで考えた上で角の立たない表情を作る奴だった。それが今は、片方の口角を持ち上げ、切れ長の目を愉快そうに細めている。隠す気がない。
面白そうに鼻で笑うな。どうした? 急に自分が映画の主人公だと勘違いしちゃいました?
人生最大級に劇的な事件があったからといって、日常まで悪役みたいな顔をしなくていいんだぞ。その顔で「俺が怖くないのか」とまで言われると妙に様になっているのも腹立つ。顔が良い奴はこれだから困る。
とはいえ、今みたいなむかつく顔をしているジャミルの方が、俺は前より好きだった。
以前のこいつは、何をするにも上手すぎた。
カリムの隣で笑う時も、教師に褒められて頭を下げる時も、相手の望む反応を過不足なく返して一歩引く。失敗しない代わりに、どこまでが本人なのか分かりにくい。
それが今は、気に入らなければ眉を寄せるし、呆れればため息をつくし、面白ければ鼻で笑う。
感じが悪い。
とっても感じが悪い。
ただ、その方が分かりやすくて俺は好きだ。少なくとも今の顔は、誰かに見せるために選んだものじゃなく、ジャミル自身がしたくてしている顔だろう。そう思えば、以前の綺麗な笑顔よりよほど付き合いやすかった。
「俺が今この瞬間、ユニーク魔法をかけるかもしれないぞ」
「その場合、俺のユニ魔が自動反撃します」
「防御系か」
「んーん。なんて言うんだろ。知りたい? 」
ジャミルの目がわずかに細くなる。
食いついたな。
とはいえ、覚えたてではしゃいでいる子供でもあるまいし、自分のユニーク魔法の効果や発動条件をぺらぺら他人へ話すなんて馬鹿のやることだ。魔法士同士ならなおさらである。切り札の説明書を自分から渡してどうする。
俺がそれくらい理解していることはジャミルも知っている。だから無理に聞き出そうとはせず、ほんの少し身体をこちらへ傾けただけだった。
「教えてくれるなら」
「俺のユニ魔は十歳の時に目覚めました」
「優秀じゃないか」
素直に感心した声が返ってくる。十歳で固有魔法が発現したなら、普通に考えてかなり早い。
まあ、そこまではいい。
問題はその先だ。
「その頃の俺は森ででっけえカブト虫を捕まえることだけが人生の楽しみでな」
「絶交しよう。二度と話しかけるな」
まあ判断が早いこと。
さっきまでの興味はどこへ行った? 俺が「カブト虫」と口にした瞬間、ジャミルの顔から余裕が消えた。眉間に皺が寄り、頬杖をついていた手が下りる。ついでに尻まで若干浮いた。露骨すぎて笑う。
「そんな訳で俺のユニ魔は、でっけえ虫が沢山集合してあれそれするやつです」
「さよなら」
「俺を無下にしたら虫が黙ってないぞ」
カブト虫と言ったあたりから、ジャミルは音もなくベンチの端へ逃げていた。なので俺も空いた分の空間を詰める。
石壁と俺の間に挟まれたところで、『ヂッッ』という聞いたことのないほど重たい舌打ちが落ちた。
へえ。人体ってそんな音が出るんだ。
「なんで言うんだ。言わなかったら気付かなかったのに」
「まあこういう訳で、俺はジャミルに関してだけは最強だから、お前のこと怖くないよって伝えたかったわけ」
「何ひとつ嬉しくない……俺に近付かないでほしい……なんかここ虫臭い」
「お? 喧嘩すっか? 今すぐユニ魔出してもいいんだぞ」
「愛してる♡ ゆるして♡」
「媚びよるわ」
両手を胸元で軽く組み、小首まで傾げやがった。自分の顔が良いと完全に理解している奴にしかできない媚び方だ。腹が立つ。しかも似合っているのから余計ムカつく。普通のやつがやったら気色悪くしかならないのに、見目麗しいから許されているポーズだ。
そのまま俺が睨んでいると、ジャミルはとうとう堪えきれなくなったらしい。肩を揺らし、口を開けて声を立てて笑い始めた。少し前なら、せいぜい片方の口角を持ち上げる程度だったと思う。こうして白い歯が見えるほど遠慮なく笑う姿は珍しい。やっぱり、こっちの方が似合う。
黙って薄く笑っていると悪巧みしているようにしか見えないんだよ。
実際、頭は回るし悪巧みもできる男だが、日頃やっていることを並べれば、料理の献立からカリムの忘れ物まで気にして生きてきた筋金入りの苦労性である。悪の宰相みたいに見えるのは半分くらい顔と笑い方のせいだろう。残り半分は本人の行いなので擁護しない。
「オバブロやってやばかったみたいだけどさあ、俺は今のジャミルの方が好きだよ」
「告白か? 俺を虫から守ってくれるなら考えてやってもいいぞ」
「ユニ魔、使い方次第で特定の場所から虫を移動させることが出来るんだよな」
「昔から君のことが好きだった、付き合おう。幸せにするよ……」
「わあ。最悪の人間だ」
言うが早いか、勝手に俺の手を取りやがった。長い指が手首を支え、そのまま恭しく持ち上げられて、手の甲へ柔らかく唇が触れる。絵面だけなら完璧だった。
褐色の美青年が伏せた睫毛の下からこちらを見て、やたら様になる仕草で手の甲へ口付けている。普通なら多少は胸が鳴ってもよさそうなものだ。ただし動機は虫除けである。
ここまで条件が悪いと、顔の良さだけではどうにもならないらしい。
「泣いて縋ってきたら助けてやるよ」
笑いながらそう返すと、ジャミルは俺の手を放して不服そうに睨んできた。
今までも虫嫌い自体は公言していたが、どうやら普段はあれでもかなり我慢していたらしい。考えてみれば当然か。アジーム家の跡取りの護衛をする人間が、虫一匹出るたび取り乱していては困る。嫌いでも必要なら始末する。怖くても顔には出さない。
そういう我慢を、こいつは虫に限らず山ほど積み上げてきたんだろう。
その必要が少しずつなくなってきた今、夜中に自室でゴキブリでも出たらどうするんだろう。誰も見ていなければ普通に叫ぶのか。それとも意地で自分で処理しようとして、限界まで追い詰められてから人を呼ぶのか。
「では、これを授けよう」
「なにこれ」
いや、見れば鍵なのは分かる。
突然掌へ落とされた小さな金属を指先で摘まみ、表と裏をひっくり返す。飾り気のない普通の鍵だ。寮の共用設備に使うものでもなさそうだし、倉庫の鍵にしては妙に新しい。
何の鍵? と目で訊くと、ジャミルは答える前から愉快で仕方がないらしく、目を細めてにやにやと笑った。
「部屋の鍵だよ。それがないと俺が泣いても助けに来れないぞ」
「マジで泣き縋る気かよ! てか鍵なくても呼ばれりゃ行くってば」
「俺の部屋は個室だが、合鍵を渡す意味すら分からないかな」
「だーかーらあ、合鍵渡すなんて恋人くらいしか……」
そこまで言って、口が止まった。
掌の鍵を見る。
ジャミルを見る。
もう一度、鍵を見る。
合鍵ということは、こいつは今、自分の部屋へ自由に入れる鍵を俺に渡したわけだ。緊急時に呼ぶなら別に鍵まで必要ない。ジャミルの言う通り、これを渡すこと自体に意味がある。
つまり。
「『昔から君のことが好きだった、付き合おう。幸せにするよ』……返事は」
「あれ、えーと。これマジのやつ? 」
数分前、虫から守ってもらうためにジャミル自身が吐いた台詞を、そのまま返された。
人が冗談で投げた言葉を拾って、こちらが逃げられない形にして返してきやがった。
ジャミルは変わらず悪そうに笑っている。ただ、急かしてはこない。俺が何を言うのか、黙って待っている。
掌の鍵が急に重くなった気がした。もちろん実際の重さが変わったわけじゃない。意味が増えただけだ。
返そうと思えば返せる。たぶんジャミルも無理に握らせ続けたりはしない。
だからこそ、受け取ったままにする方にも意思が要る。
「俺はもう、欲しいものを諦めるのはやめたんだ。手始めに君から貰っていくよ」
「俺の人権は……」
「無いな。そもそも君だって俺のことが好きだろう。据え膳だぞ、持っていけ」
「くっそ……ジャミル・バイパーめ……」
あっさり断言しやがった。しかも俺がこいつを好きだという前提で話を進めている。なんだその自信。いや顔はいいし頭もいいし料理もできるしダンスも上手いし大抵のことは卒なくこなす男なので自信を持つ材料には困らないだろうけど、恋愛まで当然のように勝ち確で進行するな。
というか、こいついつから気付いてた? どこから策略だったんだ? 今日ここへ呼ばれた時点から? 虫の話をした時? 俺が「今の方が好き」と口を滑らせた瞬間? それとももっと前? まさか俺だけが友達の顔して上手く隠せてるつもりだった期間、全部こいつには丸見えだったとかないよな?
確かに据え膳……! いや据え膳だけども……! むしろ自分から皿持って目の前まで来て「食え」と言ってるレベルだけども……! くそっ、俺の好意はいつからバレてたんだ……!
思わず鍵を握ったまま頭を抱える。記憶を遡って自分の言動を一個ずつ検証しようとしたところで、頭上からふっと笑う気配が落ちた。
「安心してくれ。惚れた者負けなら、俺がとっくに負けているから」
さっきまでの勝ち誇った声よりずっと柔らかかったので、反射的に顔を上げる。
ジャミルは笑っていた。ただし、今まで見てきたどの笑い方とも少し違う。カリムの隣で浮かべていた従順な笑顔でもなければ、人をからかう時の悪い笑みでもない。ほんの少し眉尻が下がって、視線が俺の顔から逃げかけて、それでも逃げきれずに戻ってくる。褐色の頬にうっすら熱が滲んでいる。なんだそれ。そんな顔も出来るのかよ。
「昔から、君のことが好きだった」
今度は冗談の引用じゃなかった。誤魔化す余地も逃げ道も作らず、ジャミル・バイパー本人の言葉として、もう一度きちんと差し出された。
「泣く前に、助けに行くよ」
「俺の事が好きだから? 」
「言わせんな」
「言え。ウォーレン・キャロルはジャミル・バイパーをどう思っているんだ」
さっきまで自分も照れてたくせに、人には言わせるのかよ。性格悪いな。そういうところだぞ。
けれど、ここで茶化して逃げるのも違う気がした。ジャミルが今まで欲しいと言えなかったものを、欲しいと言って俺へ手を伸ばしてきたなら、受け取る俺まで曖昧な言葉で済ませるのはずるい。
だから一度息を吸って、真正面からあの黒い瞳を見返した。
「愛してるよ。ジャミルが死ななくて本当に良かったって、もっとちゃんと寄り添えたら良かったって、たくさん後悔した。ウォーレン・キャロルはジャミル・バイパーを愛してる」
「ひぇ……」
なんでお前が怯むんだよ。
ついさっきまで「据え膳だぞ、持っていけ」なんて偉そうにしていた男が立ち上がり、一歩、二歩と露骨に後退する。逃げた先には当然さっきの石壁があって、背中がこつんとぶつかった。褐色の頬から耳まで一気に赤くなっている。おい。自分から言わせておいてその反応は卑怯だろ。
「逃げんな、向こうは壁だから逃げらんねえぞ。お前からはじめた物語だ逃がさねえ、鍵も返さない」
「待て、待ってくれ、供給が多い」
こいつ、イデア寮長と交流し始めてから妙なオタク用語への理解だけ順調に深まってるな。何を吹き込まれてるんだよ。というか供給って俺の告白のこと? 自分で要求したくせに逃げるんじゃない。
けれどまあ、俺も人のことを笑えたものではない。ここでジャミルが突然真顔になって「全部冗談だ」とか言い出したら、たぶん俺はこの場で人生初のオーバーブロットを達成する。こんな理由で歴代オバブロ組に名を連ねたくない。失恋即オバブロはあまりにも情緒が弱すぎる。
幸い、死ななくて済みそうだった。ジャミルの褐色の肌は目に見えて熱を持ち、耳まで赤く染まっている。普段なら何を考えているのか簡単には読ませない目も今は少し潤んで、逃げたいくせに俺から完全には逸らせずにいる。口を開いて何か言おうとして、結局言葉にならず閉じる。それを二回くらい繰り返している。
あうあう言ってる。
ジャミル・バイパーが。あのジャミル・バイパーが。
これはかなり珍しいものを見ているぞ。
真面目で、勤勉で、冗談も分かって、自分に厳しくて、美しくて、器用なくせに肝心なところでは不器用で、いろんなものに雁字搦めにされながら、それでも全部を投げ出さず生きてきたお前のことが、俺はずっと好きだった。
カリムの従者だから。アジーム家に仕えるバイパー家の息子だから。目立ってはいけないから。勝ってはいけないから。欲しがってはいけないから。そうやって長いこと自分を縛ってきたものが一つずつ外れて、いつか全部なくなった時、お前がどんな人間になるのか俺は知りたい。
案外ものすごく怠け者になるかもしれないし、今まで我慢してきた反動で馬鹿みたいに負けず嫌いになるかもしれない。料理だって「今日は面倒だからやらない」とか言い出すかもしれないし、嫌いな虫を見たら本当に泣いて俺を呼ぶようになるかもしれない。
それも含めて、ずっと近くで見ていたいと思うくらいには。
ウォーレン・キャロルはジャミル・バイパーに惚れている。
まあ、これは今度こいつの部屋へ行った時にでもちゃんと言うから、今はいい。せっかく真っ赤になって壁際で呻いている珍しいジャミルが目の前にいるんだ。観察できる時にしておかないともったいない。
握った鍵を今度こそポケットへしまう。
俺の恋人、かわいいなあ。

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