新しく仕立てた上着は、椅子の背に掛けてある。
柔らかな生成りの生地に金糸で刺繍を施したもので、襟元から袖口にかけての意匠がなかなか気に入っていた。仕立て屋には随分と無理を言ったが、おかげで満足のいく仕上がりになったし、昨日も鏡の前で何度か試着して、どの装飾品を合わせるべきか考えたものだ。
その隣には、綺麗な紙箱に収められた香水瓶も置かれている。店主によれば、最近フォンテーヌから入荷したばかりの品らしい。爽やかな柑橘の香りに、ほんの少し花の甘さが混じる。普段使っているものより値が張ったが、ラザヴィーンが好きそうだったので、つい買ってしまった。
せっかく久しぶりに恋人と会えるのだから、少しくらい贅沢をしたっていいだろう。
そう思っていたのに。
「……なんで、今日なんだよぉ……」
寝台の上で、カーヴェは情けない声を上げた。
朝からどうにも身体が重く、喉も痛かった。嫌な予感がしたので熱を測ってみたところ、案の定、見事な高熱を出している。昨夜までは何ともなかったというのに、よりによって今日、七ヶ月ぶりに恋人が帰ってくるという日に!
最初は気合いでどうにかなると思った。冷たい水で顔を洗い、せめて着替えくらいは済ませようとしたものの、上着に腕を通す前に立っていられなくなった。結局、寝間着のまま寝台へ逆戻りする羽目になり、今に至る。
どうしてこんなことになったのだろう。
ここ数日は仕事も順調で、納期に追われることもなく、珍しく十分な睡眠まで取れていた。もちろん酒だって控えている。
カーヴェにとって飲酒は、嗜好と現実逃避が半々くらいの行為で、あまり良い酔い方をしないことも多い。そのあたりは自覚しているので、今回はきちんと節制していた。着の身着のまま道端に行き倒れていた若い頃とは違うのだ。食事だってちゃんと摂っている。いや、昨日は今日の準備に忙しくて、少し軽く済ませてしまったけれど。それくらいで風邪を引くほど軟弱な身体ではない。少なくとも、そう信じたい。
つらつら考えているうちに、玄関の方で物音が聞こえた。
誰かがアルハイゼンと話している。聞き覚えのある声に思わず身体を起こしかけたところで、ぐらりと視界が揺れた。
「カーヴェ、起きてるか? 随分と具合が悪いらしいけど、入っても大丈夫かな」
「ラザヴィーン……!」
扉の向こうから顔を覗かせた恋人は、最後に会ったときとほとんど変わらない姿をしていた。少し髪が伸びているような気もするが、そんなことはどうでもいい。旅装のままで、肩には大きな鞄を掛けている。
長旅の疲れもあるだろうに、帰って早々、まっすぐ会いに来てくれたのだ。嬉しくて思わず駆け寄ろうとしたものの、身体がまるで言うことを聞かず、寝台の縁から上半身がずるりと滑り落ちた。べちり、と情けない音がする。慌てて駆け寄ってきたラザヴィーンが抱き起こしてくれたが、こちらの顔を見るなり心配そうに眉を寄せた。
ちなみに、アルハイゼンに至っては一歩たりとも動いていない。今まさに具合の悪い同居人が目の前で寝台から転げ落ちかけたというのに、「大丈夫か?」の一言もない。いつも通りだ。
それに比べて、ラザヴィーンの優しさときたら涙が出そうになる。おまけに、抱き起こしてもらったときに気づいたのだが、以前より胸板が厚くなっている気がした。フィールドワークで鍛えられたのだろうか。逞しい。好きだ……。
「思ったよりひどそうだな。アルハイゼンから熱があるとは聞いたけど、医者には診てもらったのか?」
「……いやだ」
「何が? 医者に診てもらうのが嫌なのか? それとも、俺が近づくのが嫌?」
「ちがう……そうじゃなくて……きみと会うの、ずっと楽しみにしてたのに……!」
言い終わる前に涙がこぼれた。
自分でも驚くほどあっさり泣けてしまい、少し困った。もともと感情が大袈裟すぎるという自覚はあるが、この程度のことで泣くのは、せいぜい泥酔しているときくらいのものだ。よりによって、久しぶりに帰ってきた恋人の前で、こんなみっともない姿を見せるつもりはなかったのに。
「新しい服を買ったんだ……パフュームも……君が好きそうなものを、買ったんだよ。ほら、あそこにあるだろう? きみが帰ってきたら、あれを着て、一緒に出かけようと思って……」
指さした先を見て、ラザヴィーンが椅子の背に掛けられた上着へ近づいた。
「へえ、綺麗な服だな。この刺繍は君が図案を考えたんだろう? 着ているところを見たかったけど、今は無理をしない方がいい。治ったら着て見せてくれよ」
「今日がよかったんだ……! きみと並んで、そこらへんを歩きたいだけなんだ。会ってない間に何をしたのか、どれだけ寂しかったかって、言いたいだけで……きみのことが大好きだよって、たくさん言いたかったのに……」
途中から声が震えて、最後の方はほとんど聞き取れなかった。
ラザヴィーンは上着を元の位置へ戻すと、寝台の傍らに腰を下ろした。差し出された水を飲む間も涙が止まらず、カーヴェは鼻をすすっている。
「そんなに泣いたら余計につらくなるぞ。ほら、ゆっくり飲んで。別に俺は今日帰るわけじゃないんだから、散歩くらい明日にしたっていいだろう? 明日も熱があったら明後日、それでも駄目ならその次にすればいい」
「ちがうんだよ……そういうことじゃないんだ……」
「じゃあ、どういうことなんだ? 俺としては、君と一緒にいられればそれで十分なんだけど」
涙でぐしゃぐしゃになった顔を見て、ラザヴィーンは少し考えた。カーヴェはべそべそ泣きながら「違うぅ……」と何やら訴えている。額に手を当ててみると、予想どおり、日中の砂漠の砂に負けないくらい熱かった。いったい何が違うのか、ほかに何か言いたいことでもあるのか。
無駄な抵抗をして起き上がろうとする恋人を宥め、寝台に寝かせながら、とびきり優しい声で尋ねてみることにした。酔っぱらいと子供と病人を相手にするときは、とりあえず優しく話を聞いてやるしかない。幸い、ラザヴィーンはその三者すべての扱いに慣れていた。
「『ちがうちがう』、その心は?」
「七ヶ月ぶりにセックスできると思ったのにいいい!!」
廊下の方で、何かが動く気配がした。
「健康な成人男性が! 七ヶ月も! 放置されてたのに! せっかく帰ってきたのに、なんで僕はこんなところで寝込んでるんだよぉ……!」
「……なるほど。それは確かに今日じゃないといけない理由だな」
「俺の家でやるな」
開け放された扉の向こうから、冷静な声が飛んできた。
アルハイゼンが立っている。いつの間にかマスクを着けており、感染対策は万全らしい。片手には本を持ち、もう片方の手にはラザヴィーン用と思しき予備のマスクまで用意していた。
どうやら二人の会話を聞いていたらしい。
「ほらカーヴェ、この件に関しては俺たちの方が分が悪いぞ。家主は最高権力者だ」
「知ったことじゃない!」
「すまんアルハイゼン、彼は今具合が悪くて理性が蒸発しているんだ。今日の件はここでおさめて忘れてくれないか」
「わざわざ土産を持ってきてくれた君に免じて、忘れてあげるよ」
「ヴヴヴ……!!」
もはや何らかの威嚇を始め、寝具を握り締めて唸っているカーヴェの頭を、ラザヴィーンが軽く撫でた。何度か繰り返しているうちに、次第に大人しくなっていく。やはり、健全な精神は健康な身体に宿るというものだ。普段はあれほど聡明な男なのだから、今の状態がよほどおかしいのだろう。
「ああ、そうだ。アルハイゼン、渡した包みの中に君が頼んでいた資料も入ってるよ。向こうの研究者に聞いてみたら、ちょうど複写を取ったものがあると言ってね。原本は持ち出せないから、それで勘弁してくれ」
「それは助かる。古い版との相違を確認したかったんだ。礼を言う。それにしても、君が予定より早く戻ったのは意外だったな。調査の進捗はどうだった?」
「最後の方はずいぶん手間取ったよ。現地の案内人と意見が合わなくてね。まあ、あの話は長くなるし、君も面白がりそうだから、あとでゆっくり聞いてほしい」
ようやくまともな会話が始まったところで、カーヴェは不満そうに唇を尖らせた。
何しろ、ラザヴィーンはもともとアルハイゼンの友人なのだ。教令院に入る前からの付き合いだと聞いて、あのアルハイゼンが友達を!? と驚いたカーヴェが、さぞかし良い人に違いないとしつこく紹介をせがんだのが出会いのきっかけだった。実際、期待を裏切らない良い人で、すっかり好きになってしまった。初めて会ったときには、まさか恋人になるとは思っていなかったけれど。
アルハイゼンにとっても七ヶ月ぶりの再会なのだから、話したいことがあるのはわかる。わかるのだが、それはそれとして気に入らない。
「……ラザヴィーン。僕、喉が渇いたんだけど」
「ああ、ごめん。水はまだあるから、飲みたかったら言ってくれ。それと、少し窓を開けてもいいかな。空気を入れ替えた方がいいだろうし」
「うん……あの、できれば、もう少しこっちにいてほしいんだ。久しぶりに会えたのに、君の顔もろくに見られないまま寝るなんて嫌だからさ」
「もちろん、そのつもりだよ。ほら、ここに椅子を持ってくるから、ちゃんと横になって。俺は君の顔を見ながら話せるし、それなら文句ないだろう?」
寝台の横へ椅子を引き寄せてもらうと、ようやく少し落ち着いた。
ラザヴィーンが荷物を開き、旅先で買ってきた品を取り出す。小さな木箱に収められていたのは、細かな透かし彫りのある銀の腕輪だった。どこの職人が作ったのか、縁には見慣れない模様が刻まれている。
思わず手を伸ばしかけたところで、アルハイゼンが横から覗き込んできた。
「君が装飾品を買うとは珍しいな。自分のセンスに自信が無いと言っていなかったか?」
「今でも自信はないけど、カーヴェと付き合い始めてからは、美しいものに目を向ける機会が増えたからね。おかげで少しは目が肥えたと思うよ。ほら、こっちの模様なんか、以前カーヴェが描いていた図案と少し似てるだろう?」
「……これはパティサラを抽象化した意匠だね。璃月の技法を取り入れているのか。面白いな、見慣れた花なのにずいぶん印象が違う。とても綺麗だし、僕の好みもよくわかってる。ありがとう、ラザヴィーン。大切にするからね」
熱っぽい指先で腕輪を撫でると、ラザヴィーンが嬉しそうに笑った。
それを見ていたアルハイゼンが、不意に口を開いた。
「ところで、病人の看護には適度な休息も必要だ。ラザヴィーン、君も長旅で疲れているだろう。今夜は外で飲まないか? 君がいない間に新しくできた店がある」
「ヴ~~~~!!」
寝台から恐ろしい声が上がった。
ラザヴィーンが振り返ると、カーヴェは寝具を顎まで引き上げ、恨めしそうに二人を睨んでいる。
「……きみたち、僕が寝込んでる間に、二人で飲みに行くつもりなのか?」
「いや、まだ何も決めてないぞ。アルハイゼンが誘ってくれただけで、俺は返事もしてないだろう? どうしたんだ、そんな顔をして」
「だって、僕だって君と飲みに行きたいのに……。ランバド酒場で一緒に食事をして、帰りにちょっと遠回りして、それから……」
「そこから先の予定は聞かなくていい。今のところ、君が酒場まで歩ける可能性は低そうだな」
「アルハイゼン! 君は僕が寝込んでいるのをいいことに、ラザヴィーンを独り占めするつもりか!?」
「興味深い解釈だな。君の恋人は独立した意思を持つ成人男性だと思っていたが、いつから君の所有物になったんだ?」
「そういう話をしてるんじゃない!」
勢いよく起き上がろうとして咳き込み、今度こそラザヴィーンに肩を押さえられた。
「もう、いい加減にしてくれよ。熱が上がるから、良い子に寝てな。俺だって君に逢いたかったからさ、今日はずっとここにいてあげるよ。君が嫌がっても、しばらくは居座るつもりなんだから」
「……ほんとうに?」
「本当だとも。そもそも、君が元気にならなかったら買い物にも行けないし、俺の土産話だって最後まで聞いてもらえないだろう。七ヶ月も溜め込んだ話を、誰かさんのせいで全部忘れたら困るな」
「……すきだ……」
すっかり機嫌を直したカーヴェが、掛け布団の端から手を伸ばした。
その手を握ってやると、今度は嬉しそうに目を細める。
それまで黙って眺めていたアルハイゼンが、土産の包みを抱え直した。
「ラザヴィーン、夜は外に飲みに行くか」
「ヴヴヴ~~~!!」
「アルハイゼン、きみ面白がってるな?」
「君が帰ってきてから、カーヴェの言動が普段以上に騒がしくなっている。原因を調べる必要もないほど明白な現象は、観察する分には悪くない」
「まったく、相変わらずだなあ。君だって久しぶりに会えたのを喜んでくれてるんだろう? だったら素直にそう言ってくれればいいのに」
「君の帰還を歓迎しているのは事実だ。ただし、俺は誰かさんと違って、喜びを表現するために声量を上げる必要性を感じない」
「聞こえてるぞ! そこの二人! 僕を挟んで仲良く話すのはやめてくれないか!?」
廊下に響く大声を最後に、カーヴェはとうとう力尽きた。
ぐったりと枕へ頭を沈め、恨めしそうにアルハイゼンを見つめている。勝ち誇った顔をしているわけでもないのに、どうしてこうも腹立たしいのだろう。
せめて一言くらい言い返してやりたかったが、ラザヴィーンに水を飲まされているうちに、何を言おうとしていたのか忘れてしまった。
熱が高いと、どうにも頭が働かない。
アルハイゼンはその様子をしばらく眺めていたが、やがて何も言わずに部屋を出ていった。
ようやく二人きりになれたので、カーヴェは恋人の手を引き寄せた。
「……あいつ、わざとやってるんだ。昔からそうなんだ。人が怒るとわかっていて、平気でああいうことを言うんだから」
「まあ、そういうところはあるよな。でも、君のことを心配していないわけじゃないと思うぞ。俺が帰ってきたときも、真っ先に君が熱を出してるって教えてくれたし」
「それは……同じ家に住んでるんだから、当然じゃないか。僕だってあいつが寝込んでたら、それくらいするよ」
「そうだろうね。君たち、案外仲がいいものな」
「どこを見たらそう思えるんだ!?」
反論するつもりが、ひどく掠れた声になってしまった。
ラザヴィーンは笑いながら、濡れた布を取り替えてくれる。長旅を終えたばかりの男にこんなことをさせているのは申し訳なかったが、せっかくなので甘えることにした。
アルハイゼンについて文句のひとつでも言ってやろうかと思ったところで、トレーを持った本人がやってきた。
載っているのは、湯気の立つミントビーンスープと薄く切ったパン、それに水差し。スメールでは馴染み深い豆とミントのスープだが、いつもより水分が多く、ずいぶんさらりとした仕上がりになっている。食欲のない病人でも口にしやすいようにしたらしい。
「食べられるなら食べておけ。今日は何も腹に入れていないんだろう。あと、ラザヴィーンの分も用意してある。長旅の後に病人の世話までさせられて、君も災難だったな」
「ありがとう、アルハイゼン。ちょうど何か食べさせた方がいいと思っていたんだ。君も忙しいだろうに、わざわざ悪いね」
「別に手間はかかっていない。豆を煮て潰すだけの料理だからな」
言いたいことだけ言って、さっさと部屋を出ていった。ラザヴィーンから受け取った資料を大事そうに抱えているあたり、あれでも相当機嫌が良いらしい。
そもそも、自分から進んで水分を摂ろうとしない人間がわざわざスープを作ったのだから、100パーセント、カーヴェとラザヴィーンのためだろう。おそらく本人は一口も飲まない。何しろ、あの男の身体は乾き物だけでできている。いずれ水分不足が祟って重篤な病にでもかからない限り、生活を改めることはないに違いない。
この件については、優しいラザヴィーンですら半ば諦めていた。一度くらい、泣くほど痛い目を見ればいいと思われている。
「……まあ、悪いやつじゃないんだけどさ」
「知ってるよ。ああ、そうだ。食事が終わったら薬を飲もう。明日になっても熱が下がらなかったら、医者に診てもらおうね」
「……わかったよ。君がそう言うなら、ちゃんと言うことを聞くから。だから、その……もうちょっとだけ、そばにいてくれるか?」
「もちろん。俺も君と話したいことが山ほどあるんだ。きっと一晩じゃ足りないよ」
椅子を寝台へ寄せ、ラザヴィーンが笑う。
カーヴェは器を受け取って、ゆっくりとスープを口に運んだ。少し冷めていたが、喉が痛む今はかえってありがたい。
食べ終える頃には、身体のだるさもあって、ひどく眠くなっていた。
恋人が何か話している。向こうで出会った研究者のことや、途中で立ち寄った街のこと。聞いているうちに、どうにも瞼が重くなってきた。
「……なあ、ラザヴィーン」
「うん? どうかしたか?」
「……風邪が治ったら、僕の買った服、見てくれるよな? せっかく君に見せようと思って、いろいろ考えたんだから」
「もちろん。ああ、でも、せっかくならその服を着て、どこかに出かけようか。君が案内してくれるんだろう?」
「……うん。いいところを、たくさん知ってるんだ。君がいない間に、新しい店もできたし……」
そこまで話したところで、とうとう眠気に負けてしまった。
ラザヴィーンが布団を掛け直してやると、すっかり安心しきった顔で眠っている。先ほどまであれほど騒いでいたのが嘘のような静けさに、つい笑ってしまった。そっと手を引こうとしたところ、眠っているはずのカーヴェに指先をきゅっと掴まれる。どうやら、寝ていても離してくれるつもりはないらしい。
「……まったく、困った人だなあ」
仕方がないので、そのまま椅子に座り直した。
窓の外では、夕暮れのスメールシティが少しずつ夜の色に変わり始めている。遠くから人々の話し声や、商人たちが店を片付ける音が聞こえてきた。
七ヶ月ぶりに帰ってきた街は、思っていたよりも何も変わっていなかった。
それが何となく嬉しくて、ラザヴィーンはしばらく窓の外を眺めていた。
やがて寝台の方へ視線を戻し、眠っている恋人の髪をそっと撫でる。
「……俺も、会いたかったよ」
返事はなかったが、握っていた指先にわずかに力がこもった。眠っているのか、起きているのか。顔を覗き込んで確かめようとしたところで、廊下の向こうからアルハイゼンの声が聞こえてきた。
「ラザヴィーン、さっきの資料について聞きたいことがあるんだが、今はいいか?」
「……ああ、ちょっと待ってくれ。今、手が離せなくてね」
「そうか。なら、明日にしよう。君も早めに休むといい」
足音が遠ざかっていくのを聞きながら、ラザヴィーンは思わず笑ってしまった。まったく、どちらも相変わらずだ。
そして翌朝、熱は下がったものの、昨日の記憶を六割ほど失ったカーヴェから「昨日の僕は何か変なことを言わなかったか?」と尋ねられ、どこまで正直に答えたものか、随分と悩む羽目になった。
ひとまず「可愛かったよ」で押し切り、どうにか誤魔化せたと思ったのだが、昨日のことはその場限りにすると約束し、何も言わずにいてくれたアルハイゼンが、よりによって盛大に鼻で笑った。おかげでそこから先はいつもの二人の言い争いになってしまったが、まあ、あれだけ口が回るなら元気になったということだろう。
何より、本人が一番忘れたがるに違いない部分は綺麗さっぱり記憶から抜け落ちているのだから、問題ない。そういうことにしておこう。

※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます