拠点の奥、薄暗い廊下の突き当たりにある小部屋。そこが死柄木弔の私室だった。
床一面に散らばるのは、不要になった書類やメモの切れ端。無造作に投げ捨てられ、踏みつけられて端が折れ、椅子を引いた拍子に裂けた紙は足で蹴られて山をなし、積み重なったまま不安定に崩れかけている。破れた紙には、途中で投げ出したスケッチや、意味不明の落書きが混じり、まるで内側の苛立ちがそのまま形を成したようだった。
まだ処理の終わっていないものは壁に所狭しと貼り付けられている。その中にはゲームの攻略情報やネットの掲示板から引き写したメモまで混じっていて、雑多な紙片が斜めに垂れ下がり、空気の揺れに合わせてかさりと鳴る。視線を向けるだけで頭痛を誘う乱雑さに満ちた部屋だ。
一応つけられたままの空気洗浄機が止めどなく呻き、役に立たない音を垂れ流す。足を踏み出すたび、隠しきれない埃のにおいがざらつく煙のように舞い上がり、喉に刺さる。
だが、その混沌の中で、唯一きちんと整えられているものがあった。ラックに並んだゲームのフィギュアだ。
どれも限定版やプレミアがついた高級品で、オタク向けショップのガラスケースに並んでいてもおかしくない代物ばかり。塗装の精密さも、造形の鋭さも、安物とは一線を画していた。
それなのに───並べ方は妙に子供っぽい。高さ順に無理やり整列させられ、作品や関係性を区別するでもなく、ストーリーも無視され、ただ「持っているもの全部を見えるところに置きたい」という欲求だけで、ぎゅうぎゅうに詰め込まれた光景。まるで図鑑の見開きを乱暴に並べただけのようだった。
高級なものを子供じみた方法で扱う、その違和感は鮮烈だった。
飾り方に秩序を求めながら、秩序そのものを理解していない───そんなちぐはぐさ。
背丈だけ大人になってしまった子供が、成長のどこかを取り落としたまま飾り立てているようで、見る者にかすかな不安を残す。
周囲の乱雑な空気の中で、それは均整でも秩序でもなく、壊れかけた自我にしがみついて保たれた“幼い均衡”の跡だった。
椅子の背にもたれ、弔は机の上の古びたパソコンを起動させる。
唸るファンの音が狭い部屋の空気を震わせ、紙の山がかさついた音を立てて微かに崩れた。モニターの光が青白く広がり、弔のやつれた頬を照らし出す。爪で掻き壊された机の角に影が落ち、浅い呼吸とともに部屋はさらに窮屈に思えた。
回線が繋がると、ノイズ混じりの低い声が響いた。
「……弔。調子はどうだね」
オール・フォー・ワン。
師であり、支配者であり、自分を拾った存在。その声は画面の奥からなお重みをもって響き、弔の小さな部屋を簡単に支配する。
この定期通話は“報告”のため。
死柄木が目にしたもの、連れてこられた人材の質、現場での感触。そうした雑多な情報を伝えるのが役目だった。だが今夜の弔は、ただの報告には程遠い苛立ちを抱えていた。
机の端を爪でかりかりと掻き、眉間に影を落としたまま言葉を吐く。
「……先生から回してくるやつら、ほんとザコばっか。役に立たないんだけど、なに? 俺に対する嫌がらせ?」
ぶっきらぼうな声。だがその奥には、わずかに呆れや諦めの色が混じっていた。
オール・フォー・ワンはゆるやかに笑った。画面に収まりきらない気配を漂わせながら、声音は妙に落ち着いている。
「人材には当たり外れがあるものだよ。だが……そうだな。もし君が“ひとり”責任を持って世話をできるなら、特別に連れてきてもいい。
お気に入りが手元にあればモチベーションも上がるだろう? ちゃんとご飯を与えて、散歩もさせて、躾も忘れない。……そういうことができるなら、ね」
沈んでいた弔の目が、ぱちりと動いた。
無造作に垂れた髪の隙間から覗いた瞳は、一瞬だけ子供じみた色を帯びる。けれど、すぐに伏せられてしまう。
「……ほんとに? 俺が、面倒みるなら」
「もちろんだとも」
穏やかな頷きが返ってくると、弔は口を閉ざした。
すぐに笑ったりはしない。笑うことが苦手な子供のように、どう表情を作ればいいのか迷っているみたいだった。だが、膝の上に置かれた指はせわしなく動き、机を掻き毟っていたときの落ち着きのなさとは違う、別種の熱を孕んでいた。
爪を掌に押し込みながら、浅い呼吸が漏れる。胸の奥で何かが弾けるのを必死に抑え込んでいる。
「じゃあ、俺の子分、連れてくる。あいつ、噛まないし……飼いやすい」
声自体は低く抑えているのに、語尾だけが妙に跳ね、駄々をこねる子供のような幼さをにじませる。抑えても抑えても隠しきれない、小さな期待が音の端々に滲み出ていた。
画面に映る表情は冷え切っている。だが、その奥で灯った光は、クリスマスに犬をねだり、ついに許された子供の瞳と同じ。机の下では、本人の自覚もないまま、机の下で足が揺れる。その仕草は、並べきれないほどの宝物を見せつけようとする子供のそれだった。
弔は言いながら、指先で机をとん、と軽く叩く。言葉を繋ごうとするように間を置き、やや照れ隠しのような仕草で付け足した。
「“おとうと”ってハンドルネーム。……俺に懐いてる。聞き分けが良いし、強くはないけど、身の程を知ってるからウザくはない。
あと、なんかよく貢がれてる。……人の懐に入るってやつ? あれが上手い。狩りが上手いんだ、だから俺が躾けたら、良い猟犬になるよ」
声音は抑えているのに、その奥に確かな信頼と、わずかな誇らしさが混じっている。
───自分で見つけ、自分で傍に置くと決めた存在。
“俺が選んだ、俺が見つけた、この“良いもの”を、先生に見せてやる”。
そんな幼い独占欲と得意げな心情が、言葉の背後から透けていた。
オール・フォー・ワンは無言で聞き取り、冷静に情報を並べ替える。
───────“おとうと”。本名、轟陽火。エンデヴァーの三男。幼くして誘拐され、消息不明とされてきた少年。
だが同時に、近年拡大した《あかり教》の象徴。公安が認定したヴィランネームは『火継』。
だが弔は、その正体を知らない。
“おとうと”が轟陽火であることも、《あかり教》の象徴であることも、公安が名付けた『火継』であることすらも。
ただ無数の雑多の中から、自分の手でたった一人を選んだのだ。
灯火に導かれるように、崩壊へと至るように───互いが互いを呼び寄せた。
それは偶然ではなく、あらかじめ刻まれていた啓示であり、この歪んだ時代に与えられた聖なる定めであった。
なんと畏るべき美しさか。
灯火が揺らぎ、人々の心を照らすとき、崩壊は寄り添い、すべてを等しく呑み尽くす。
───────これを運命と言わず、なんと言おう!
その選択の先に立っていたのは、誰も予測し得なかった“力”である。
個性『灯火』。
本来ならば、ただ光を放ち、炎を操る───それだけで終わる系統。火炎系も発光系も、記録の限りすべては物理の延長であり、精神を揺さぶる要素など一度として存在しなかった。燃やす、照らす、焼き払う。そこで止まるはずだった。
だが、この“灯火”は違う。光と炎の揺らぎが、人の心に染み込み、群衆の意志を溶かし、束ねてしまう。
血脈を遡っても例はない。組み合わせの痕跡もない。継承の残滓すら確認できない。
───────ならばこれは、系譜の裏切り。
突然変異。
死柄木弔の“崩壊”と同じだ。本来はただの接触破壊に過ぎぬはずのものが、ありとあらゆる物質を分解する絶対の力に進化したように。
“灯火”もまた、ただの炎から逸脱し、精神を侵食し群衆を従える異形へと変貌した。
これは、私の編んだ網を笑うような例外。長き年月をかけて、血脈の一つ残らずを収集し、塗り替え、掌握してきたこの私に対する、世界からの嘲弄。
……許し難い。すべてを知っているはずの私の地図に、白紙の空白が穿たれるなど。
支配者としての誇りを逆撫でし、己の全能を愚弄する異端。それは私にとって最大の脅威であり、忌まわしいはずの存在。
───────だが。その痛みすら、甘美だ。
すべてを掌握したと信じた私に、まだ触れられぬものがあった。己の網をすり抜け、地図にない場所から現れた欠片。これこそ、私が渇望し続けた真の証。完全に近づいたと思った途端に差し出される“未知”。それは恐怖ではなく、歓喜だ。
そして考える。
果たして“灯火”とは、精神を揺らすだけの異能で終わるのか。群衆を従えるだけの異能に過ぎぬのか。
否。おそらく、轟陽火自身がその意味に気づいていないだけで───『灯火』はすでに“何か”に成っている。
異常な拡散力。所有者を離れてなお輝きを保ち続ける《あかり》。
それらが示すものは、ただの個性の枠組みを越えた、持続的かつ自己増殖的な機構の存在。
意思もなく、命令もなく、それでもなお拡がり続ける光。
それは、信仰を意図せず生み出す。
誰もが心の奥で抱える不安や孤独を溶かし、寄り添うように灯る光に───人々がそこに“神性”を見いだすのも、必然の帰結であった。
英雄譚の偶像や、血統の伝承といった人為の神格ではなく、ただ存在するがゆえに崇められる“概念”としての神。
その意味を理解している者は、まだいない。
だが確かに、『灯火』はもうただの“力”ではない。
それは芽吹きつつある信仰、形を持たぬ制度、あるいは新たな種そのもの───未知の進化の胎動なのだ。
弔と同じ。系譜を裏切り、常識を踏み外し、予測をあざ笑う突然変異。それこそが時代を塗り替え、未来を作る。
未知は脅威である。だが脅威であるがゆえに、誰よりも私を満たす。
私を逆撫でしたその瞬間から、もうすでに宝に変わっている。
──────これ以上の贈り物があるだろうか。
しかも、その特異点を───────死柄木弔が、自らの掌に抱き寄せた!
「俺に懐いている」と言い切る。自分の眼と声で、未知を引き込み、飼い慣らしつつある。
オール・フォー・ワンの胸奥に、重く濃い熱が広がる。
死柄木弔は、もはや拾われた子供ではない。己の意思で“未知”を見つけ、引き込み、誇りをもって報告する存在になった。
それはすなわち、後継者としての第一歩。
荒削りだった破壊衝動の中に、支配欲と選別の眼差しが育ちつつある証左だった。
画面の奥で、オール・フォー・ワンは深く、甘やかな息を吐いた。
冷ややかでも苛立ちでもない。限りなく寵愛に近い、熱を帯びた吐息。
「……よろしい。弔。君はやはり優秀だ」
声音に確かな愉悦が宿る。
あの子供が、己の手足として、未知の特異点すら引き寄せてきた。
───────死柄木弔は、間違いなく成長している。
その成長の先に、自らの後継者としての完成形がある。
そして轟陽火。
その光と炎、その正体不明の個性が自分の手元に届くとき───それは歴史を変える転換点となるだろう。
オール・フォー・ワンは静かに笑んだ。
あの不安定な光は、弔と共に、自分の帝国をさらに強固に照らす灯となる。
しばしの沈黙ののち、やわらかな声音で呼びかける。
「……弔。君が連れてきたいというのなら、私はそれを歓迎しよう。大事に育てなさい。……私が君を育ててきたように」
その言葉は、優しさの仮面をまとった鎖だった。まるで静かに撫でる掌のように柔らかく響くが、実際には決して外れない首輪の感触を伴っていた。ぞわりと背を這い上がる熱は、冷たい鉄の輪郭を帯び、胸の奥を掴んで離さない。だが弔はそれを拒まなかった。拒むという選択肢自体が、とうに失われていた。
歪められた成長の果てに残ったのは、保護者の声に縋りつく幼子の心。
抉られた傷の奥にぽっかりと残った空洞を、師の言葉だけが埋めてくれる。
「……うん、先生」
青年の低い声のはずなのに、その響きは母の言葉に応える幼子の声にしか聞こえなかった。短く、頼りなく、それでいて全てを委ねきった同意。
その直後、弔の口元が震えた。嘲笑と作り笑いばかりを繰り返してきたせいで、心から笑うという筋肉はとうに錆びついている。
久しく使われていない歯車が無理やり回るように、口角はぎこちなく痙攣し、目元は不器用に歪む。痛々しいほど拙い笑み。だが、それこそが本物の喜びの証だった。本人だけが、自分がどんな顔をしているかに気づいていない。
画面越しにそれを見つめるオール・フォー・ワンの表情は、常の威圧をすっかり隠した穏やかなものだった。オールマイトに潰される前ならば、まるで父が幼子の成長を喜ぶかのように目を細めていただろう。そして、ゆるやかに頷いた。
だがその眼差しの奥には、決してほどけない鎖の硬さが潜んでいる。撫でる仕草の裏で絡みつく鉄の輪。甘やかな吐息と共に差し出されるのは、決して逃れられぬ支配の証。
────ペットを飼うのは情操教育によい、とよく言われる。
その古い教訓が皮肉にも裏付けられていた。死柄木弔は“おとうと”という名の存在を抱き込み、初めて無垢な笑顔をこぼしたのだから。
オール・フォー・ワンにとって、それは甘美な成果に他ならなかった。
新たなペットを得た弔の笑顔は、すなわち支配の芽吹き。師の与えた鎖を喜んで受け入れるその様子は、支配の連鎖が確かに育ち始めたことを示す、何よりの証だった。
