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 最近まで、どこか影を落としていたナマエの顔から、その曇りがすっかり消えていた。
 海面から差しこむ光が尾びれの鱗に跳ね返るたび、小さな光の粒が水中を舞う。その光を追うように、ナマエは笑っていた。目元が少し細くなる、見てるほうが嬉しくなる笑い方。それが見られるだけで、アズールも胸がいっぱいになった。

 ジェイドの話によれば、ナマエは喋れないだけで理解はしているという。実際、アズールが話しかけると、ナマエは必ずこちらを振り向き、“分かってるよ”とでも言うようにゆっくりと頷く。
 言葉を持たない友人は、代わりに仕草で返す。それは不思議と雄弁で、丁寧で、繊細だった。だからアズールは安心して、そして嬉しくって、今日もたくさん喋った。

 エレメンタリースクールに通えていないナマエだが、今のエレメンタリースクールは実質アズールの支配下だ。 契約で縛り、知恵で奪い、対価によって従わせた地位だ。
 その椅子は、幼い魔法士が血の滲む努力で勝ち取った“王座”だった。

 嫌な奴も沢山いて、そういうやつのせいでナマエは学校に通えなくなっていたのだろう。アズールにも理解出来る。ナマエのように物静かで繊細なものを嗤う愚物は、確かにいるのだ。アズールも物静かで繊細なので、いつも酷い目にあっていた。

「僕が後ろについてると言えばもう何も怖くありませんよ。一年遅れてですけど、ナマエも卒業しましょう」
ナマエ、俺たちの後輩になんの。え~一緒に学校いくなら俺ももっかい通う~~」
「同学年なら同じクラスになる可能性がありますね。アズール、何とかなりませんか?」
「んん……もう少し伝手を集めたらなんとか……」

 三人が海草に揺られながら、未来の話で胸を躍らせていたそのときだ。

 ナマエがふいに尾びれの動きを止めた。水流がふっと落ち着き、周囲の小魚たちでさえ彼に倣うように動きを緩める。

 ゆっくりと、ナマエは胸元に巻きつけていた紐をほどいた。そこには、海水に濡れても読めるよう油で処理された板がある。
 それをアズールたちにぎこちなく、でもどこか丁寧に差し出してきた。

 板に刻まれた文字は、少し歪んでいる。まだ文字を習っていない子供が、一生懸命真似して書いたような不器用さが可愛くて、アズールは微笑みながら文字を追い、そして​───────三人の視線が、そこで止まる。

『ミドルスクールにいくため、村を離れます。仲良くしてくれてありがとう』

 後半の文字は歪みすぎて読めなかったが、意味は嫌というほど伝わる。
​─────これは、別れの言葉だ。

「……いやです」

 最初に反応したのはジェイドだった。止める声は海底を歩く海老の足音より小さい。こぼれ落ちたような否定の言葉だった。我に返ったように、続く言葉が大きくなる。

「いや、いや、いやです、いやだ。なんで、これはさよならって事ですか? いやだ」

 ナマエの手を掴み、二度とはなさないとばかりに力を込める。痛みからか、ナマエの表情が変わったのに気が付かなかった。

「どこ行くの、ミドルスクールいくなら一緒のとこでいいじゃん! 同級生になるなら丁度いいじゃん! ね、どこ行くの。遠くに行くみたいなこと言わないで、いじわるやめろよ」フロイドが叫ぶように言い、続けてアズールも「誰かに強要されたんですか? 僕が全部解決しますよ、対価も無しでいいです。ねえ教えてください、誰があなたにこんなひどいことを?」と震える声を優しくみせかけて問いかける。
 ナマエは答えず、ジェイドの手を振り払った。2本の尾びれが揺れる。

「いかないでっ」

 手を伸ばしたジェイドがその尾びれに触れた時、一瞬だけ世界が赤くなった。ナマエが持っていたモリの切っ先が、ジェイドの伸ばした手のひらを切りつけたのだ。

 ナマエは振り向かなかった。握りしめた手のひらから薄く赤い水が流れる。

「ジェイド、ジェイドが悪いよ。勝手に尾びれ触っちゃだめだよ」
「はい……」

 海面までナマエを追いかけていたアズールが、沈んだ表情で帰ってくる。

「かわりに謝ったけど、返事してくれなかった……」
「…………」

 ナマエが残した板を拾う。重りが付いていて、浮かないようになっていた。

「ぐ……っ、」
「ジェイド!」
「このバカ! 何をしてるんですか!」

 まわりの水が赤く染り、糸のように海面へ伸びる。痛みで震える身体を抱え、ジェイドは手のひらの傷を二人に見せた。

「ね……これを見たら、ナマエは僕たちを思い出しますよ。ナマエは優しいから……僕を傷付けたことを忘れません。
だから……これは『約束』なんです……また会った時……絶対……絶対僕らを忘れないように……」

 血は糸のように細く、海流に揉まれながらも、どこまでも伸びていく。
 それはまるで、この海のどこにいても彼に繋がるようにすら見えた。

「……ジェイド、天才じゃん」
「素晴らしい! それでこそ僕の部下です!」
「ふふ、ありがとうございます」

 三人の影が重なる。痛みの跡が繋ぎとめる小さな“絆”。

 ​───────この日を境に、ナマエは姿を見せなくなった。

 数日後、嵐が来て、彼らが遊んでいた岩場は跡形もなく崩れ落ちた。隠れ場所は消え、世界は変わってしまった。

 それでも、約束は残っている。

 ジェイドの手のひらに刻まれた痛み。ナマエが振るった切先の記憶。あの日、海に流れた赤い糸。

 それはたぶん、きっと​───────
人間たちが語る“運命の赤い糸”と呼ぶものと、同じものなのだろう。