額にハチマキを巻いた後輩が、大きく肺を膨らませて息を吸った。これだけ人がいるのに誰も喋らない沈黙の中、誰かの『ごくり』と生唾を飲む音が聞こえた気がする。マジカルホイールの低い振動が地面を伝って、アスファルトの欠けた凹みに共鳴し、集まった連中の胸ぐらにまで響いてくる。全員、後輩が口を開くその瞬間を息を殺して待っていた。
「お前ら準備は出来てるか!」
「おう! 行くぜ!!」
「ついてきます、兄貴!!」
手を突き上げる腕が一斉に揺れ、光を反射した金属部品が星みたいに瞬いた。
なんだこれ。学年どころか顔も知らない奴らが混ざってる。いつの間にこんな群れが出来たんだ。
「ミョウジ先輩、一言お願いします!!」
「……安全、運転で……」
その瞬間、腹の底から爆ぜるような歓声が夜空へ噴き上がった。
おおーー!!!!
高く挙げられた手が、そのままハンドルを握る形に変わる。ゴムがアスファルトを擦る音、チェーンのわずかな鳴き、ヘッドライトが一斉に闇を切り裂く。視界が白く帯状に伸びて、峠のラインを照らし出した。
俺もマジカルホイールを起動し、何故か先陣をきる。先頭に立ったつもりはないのに、気付いたら一番前にいた。なんでだろう。助けて欲しい。
俺が『でもこいつ、懐いてて可愛いんだよな……』と、なあなあにしてきたせいで、いつの間にか後輩が人をまとめて族を作っていた。頭は俺だ。どこからどう計算してもそういう結論らしい。知らないうちに出来上がっていて、完成形だけはいどうぞと渡されて、今こうなっている。なんで……。
主義主張は、ちゃんと口に出しておかないとこういうことになる。曖昧な黙認は、だいたい誤解の温床だ。
海の中なら、それでもよかった。流れに身を任せても、ある程度泳げればどうにかなる。波に巻かれても、呼吸のタイミングだけ知っていれば生きて帰ってこれる。
でも陸の世界は、ちょっと違う。流れに乗ったつもりでいると、知らないうちに深いところへ連れて行かれて、足を取られた瞬間に溺れる。
俺はまたひとつ賢くなった。遅い。
ミラー越しにすぐ後ろを走る後輩を見ると、何故か気付いたらしくにこにこしている。なんかこういう犬がいたな…… そうだ。こいつ、柴犬に似てる。尻尾が見えないだけで、挙動が完全にそれだ。
俺はいつの間にか番長になっていたらしいが、そんな俺がついにミドルスクールのワルどもをまとめはじめたらしい。初耳だ。
定期的に集会をしてマジカルホイールで峠を攻めて力を誇示してるらしい。そうなのか。
番長はクールで漢気があり、弱者を護る為にしか力を奮ったことがないという。格好いいな。
集まってしまったならしょうがないので、できるだけ人の迷惑にならないように……と選んだ峠は、危険がいっぱいのデスロードだったらしい。だから交通量がほぼ無かったんだな。普通の人は賢いから下の道を通って安全に通過する。こういう“馬鹿の見せ場”みたいな場所は、馬鹿のために空いていたんだ。
この危険な道を駆け抜け、番長は度胸と技術を魅せつけるのだという。全部後輩が広めた噂だ。やってくれたな、この柴犬めが。
だめだこいつ、目を離した瞬間に好意と善意で俺をぐっちゃぐちゃにしようとしてくる。行動のきっかけが全部好意と善意なところが、本当にタチが悪い。悪意でやってるなら止めれば終わる話なのに、「先輩が格好いいから」「先輩みたいに生きたいから」「先輩を慕いたいから」とか、全部“好き”からスタートする。
しかも全部自分の主観でものを言っているから、「お前視点でみたら確かにそうですね」としかいえないし、話術が拙くても勢いで説得力を持たせる謎の力がある。こいつ実は本質的に、とんでもなく頭が良いのか……?
最近は前よりも学校に来るようになったらしく、俺のあげたノートを使って授業の内容を書き写しては「数学やりました!」とか報告に来る。その都度、「計算間違いをしても消さずに新しく書いてるところが良い。どこを間違えたかあとで見ても分かるからな」とか「どこが分からないところが分かるのが偉い。本当に頭が悪いと何が分からないか分からないからな」とひとつひとつ拾って褒めることにしている。
こいつ、褒めれば褒めるほど成長するから楽しくて……。それか? それがいけなかったのか? その結果俺は陸で危険運転集団のトップに? たすけて。うみにかえして。
俺が人生について呆然と考え込んでいるうちに、ゴールに辿り着いた。俺の後を付いてこれたのは、後輩と、かつて俺のマジカルホイールに釘で落書きした二人。この三人が俺の腹心らしい。そうなの……。
確かに、話せるやつが欲しいとは思った。でもこういうのとは違う。
帰って海入って寝たいから解散!! と、麓まで戻るついでにリタイアした野郎どもの回収をする。本当は、“そこまでが勝負”だから捨てておいていいらしい。峠の途中で転けたやつは、そこで雑魚扱いになるんだと後輩が得意げに語っていた。
知るか。事件事故に巻き込まれたら俺の責任になるだろうが……。
全員五体満足に生きて帰るのが義務だ。わかったな、さよならおやすみ。
解散解散! 次回開催は来週の土曜日だ安全運転で帰れ!
順次帰路につく野郎どもを見送って、最後に俺たちが走る。ヘッドライトが一本ずつ消えていき、峠の闇が元の濃さを取り戻す。
海に近い町外れに向かうのは、俺と後輩だけだ。後輩のライトが、少し後ろから俺の影を伸ばしてくる。
後輩は最近家出中らしく、家に帰れと言っても「大丈夫です! 公園で寝られるし、水も浴びられますから!」と殊勝に言っていたが、それは“生存”であって“生活”ではない。家庭の事情がいろいろあるんだろうな。わかるよ。お前ちょっとグレてるもんな。
しかしお前の担任からお前の母さんの連絡先を教えられたので、うちに泊めている事は伝わっています。全部母親の手のひらの上だ。ざまあないな柴犬。
俺を慕ってくれるという欲目を抜きにしても、小柄な上に可愛い顔をしているので、公園で寝泊まりするのは本当にだめだ。
陸ではこういうツラが“美形扱い”だというくらいは、俺でも分かる。目が大きくて、睫毛が長くて、笑うと犬っぽくて、黙っていればそれなりに端正だ。そういうのは、変な大人に目を付けられる。
なので、もうかれこれ一ヶ月はうちに居候させて、ぜーんぶ俺からこいつの母親に情報を流している。
最初の方は「弟が出来たらこんな感じかな」と思っていたけど、最近はもう「こいつ俺の子供だったかな」と思うようになってきた。
「海寄ってくから、お前は先に帰って寝てろよ」
「はい! 風呂の用意しておきますね」
「ん、ありがとう」
はじめは海について来たがっていたが、俺がなかなか海から上がらないと大騒ぎして突っ込んでいき、見事に溺れかけてから大人しく言うことを聞くようになった。
俺が気付いたから良かったけど、陸地の人間は呼吸を止めるのが下手なんだから無理はするな。ちゃんとお土産持って帰ってやるから……大きめの貝とか……。
自分で食べる用の魚と売りに出す用の魚をとって帰ると、寝てろといったのに起きて待っていた後輩が玄関まで走ってくる。風呂の用意をしました、ちゃんと宿題をしました、先輩の夜食をつくってみました。そのひとつひとつを拾って、助かる良い子ありがとうと頭をガシガシと撫でる。
くふくふと不器用な含み笑いをする後輩をみて、こいつの母親が「あの子は父親がいないから、余計あなたに甘えてしまうのかも」と言っていたことを思い出した。いや、うん。俺もこいつのこと「俺の子供かな?」と錯覚しかけるけど、ひとつしか年齢が違わないんだよな。こいつが子供なら俺も子供なんだがそれは…………。いや、いいんだけど……。
卵焼きと言い張るスクランブルエッグを食べながら、俺からの「美味い」待ちの後輩に望み通りの「美味い」を伝える。たぶん塩と砂糖の比率が逆だけど、まあ海より塩辛くないから美味いよ。食える。
「お前は家に帰る気がないのか?」
「……俺、邪魔ですか?」
「いや、居たいならいつまでも居たらいいよ。ただ、お前昼間普通にお母さんに会ってるだろ? 何が嫌で家に帰りたくないんだ?」
はじめは、母子の折り合いが悪いのかと思っていた。怒鳴り合いとか、冷戦とか、そういうやつ。
けど、どうみてもそんな感じはしない。こいつの母親は、毎日俺と長めの情報交換をしつつ、自主性を尊重して見守ってくれる、俺から見ても“良いお母さん”だ。
こいつもグレて不良ぶってはいるが、さっき言った通り、昼間には普通にお母さんに会いに行って、仲良く話しているらしい。
ぜーんぶ、こいつの母親から俺に情報が回ってくる。「うちの息子は可愛い良い子でしょ」ってな。
じゃあ、一体何が問題なんだ。俺の頭でも分かるように説明して欲しい。
「俺んち、母子家庭なんですけど」
「うん」
言い難いのか、いつもは真っ直ぐこっちを見て話してくるのに、今日は視線を机の上に落とした。
タイマンだと言われて呼び出された高架下。そこで俺に倒されて、頭を庇われた時と同じような、途方に暮れた顔をしている。何かを諦める前の顔だ。
「母さんが職場で、ちょっと良い関係の人が出来たみたいなんです。でも、俺みたいなデカい子供がいると、邪魔かなって」
俺、頭悪いし。素行も良くないし。恥ずかしいかなって。
へにゃりと力なく笑って、笑顔を支えきれなくなって黙り込んだ。
「それは無い」
反射的に否定していた。考えるより先に口が動いていた。
いやいやいや、ないないない。お前のお母さん、俺とのトークルーム『卍我息子最愛最強卍』ってタイトルにしてるんだぞ。
ラインのアイコン忘れたのか? お前とのツーショットだぞ、あれ。どこをどう見たら「邪魔かな」になるんだ。
万が一、億が一、そんな相手が出来たとしても、最愛の息子を邪険にされたら、その男は即日マジカルホイールの後ろに縛り付けられて峠を駆け抜けるだろうし、俺はそれの見張りをさせられる。
そこまで想像してから、後輩が不思議そうな顔をしていることに気付いた。
あ、そうだ。こいつは俺が母親と連絡を取り合っていることを知らないんだった。うっかり内情を知り尽くしたやつの言い方をしてしまった。
「……自分の母親を信じろよ、俺は信じられるぞ。どんなに不良ぶっても、お前は真面目で、人の話をよく聞いて、他人を思いやれる奴だ。母さんが一人で、お前をそんな人間に育ててくれたんだろ。お前がこういう人間になってること自体が、愛された証明だろうが」
「…………」
「なあ。大切に育てた子供を邪険にするような男に、お前の母さんが惚れるわけないだろ。もっと見る目がある人間だろう?」
「……はい”」
ズッと鼻をすする音が聞こえたので、そっとティッシュを差し出す。「時間は沢山あるんだから、よく考えてみろ」とだけ言って席を立った。
トイレに行くふりをしてスマホを取り出し、ラインを開く。
お母さん! 後輩のお母さん! たぶんなんか親子間の誤解があるので、そこらへん話し合ってください!! 送信。既読。スタンプ。返信早いな。
なんで俺、他人の家庭事情に密に介入してるんだろうな……。
