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 崖から海面までの高さは数mだ、即死はしていないはず。落ちるまでに気絶していたなら、水もそれほど飲んでないかもしれない。背中から落ちたから、椅子がクッションになって衝撃を分散してくれているだろう。後輩が生きている可能性だけを、一個一個、必死に拾い集めるみたいに頭の中で肯定しながら、水を掻き分けて進むが、椅子が落ちるスピードが速すぎる!
 潮だ。崖に当たった波が複雑な流れを作って、俺の泳ぐ速度なんかあっさり追い越していく。このままだと、まともな人間の肺じゃ届かない深さまで、一気に引きずり込まれてしまう。人魚か、それに近い身体じゃないと追いつけない領域に落ちていく。

 反射的に、口を開けて声を出した。当然、海水が口の中に満ちて、声は泡に変わって砕けていく。

お前の肚から我らは産まれ お前の糧で我らは生きた 我らの望むままに来たれ
親愛なるおかあさまオーバープロテクション!

 呪文の詠唱と同時に、身体中にブロットの溜まる痛みに似た疲労が走る。吐き出した酸素と流れ込んだ海水でバランスが崩れ、頭を殴られたような強い目眩。
 真っ直ぐに落ちていた後輩は、俺の発動した魔法と一緒に海底に落ちる前に上がってきた。椅子の端が手に触れる。強い水の流れが、俺と後輩を海面へと持ち上げていく。

 少量の魔力で海水を生み出したり、流れをねじ曲げたりするだけの、海で生きる連中以外にはほとんど必要とされないユニーク魔法。俺の役にしかたたないと思っていたが、活用出来る日が来るなんて。

 椅子の背を掴んで、海流に逆らわずに身体の向きを変え、腰につけていたナイフで手足を縛っている縄を断ち切る。椅子はもういらない。ご丁寧に重りまで付けられていた椅子は、魔法の流れから外れた途端、真っ直ぐに暗い方へと落ちていった。

「っぶは、……おい! おい!!」

 海面を割って顔を出し、後輩を抱えたままなんとか浜辺まで引きずり上げたが、後輩はぴくりとも動かない。顔色が、砂より白い。息をしていない。

 胸に耳を押し当てる。かすかに、かすかに、心臓だけは動いているのがわかった。

「おい!! 起きろ!!」

 両手を重ねて胸骨圧迫を開始する。1分間に100回だったか? 多ければ多いほど良いだろ。身体が薄くて壊してしまいそうだ。もっと食わせて20キロくらい太らせておけば良かった!!

「起きろ!!」

 押し込むたびに、こぽこぽと海水が口から溢れる。顎を軽く上げて気道を確保し、鼻をつまんで息を吹き込む。肺がふくらむのを確認して、すぐさま胸骨圧迫に戻る。海水はそこそこ吐かせた。人工呼吸もきちんと入る。心臓は、まだ止まってない。大丈夫だ、間に合う、大丈夫。そう自分に言い聞かせつつ、ブロットのせいでどんどん鉛みたいに重くなっていく身体を、殴りつけるように動かし続ける。腕がまともに動かない。ああもう、もっと本気で鍛えておけばよかった!

「返事をしろ! デュース!!!」

「ごほっ、がふ、ぐ、!」

 4回目の人工呼吸をした直後、後輩が大きく咳き込みながらうっすら目を開けた。「ミョウジせんぱい」と掠れた声をあげる。良かった、意識が戻った。そう思った瞬間、後輩は俺の頭に両手を回した。口の中に冷えてしょっぱい何かが入ってくる。

「ん、ふっ……ぅ」
「????」
「へへ、おれ、ミョウジせんぱいと、ちゅうしちゃった」

 さっきまでほぼ死体だったとは思えない腕力で、頭を固定されている。頭に酸素がまわってないせいで判定能力が死んでるのか、脳が一瞬バグったのか。甘えるみたいに唇を食んで、ためらいもなく舌までねじ込んでくる。こいつ……脳が……!?

 お前……お前……脳大丈夫か!?!

「病院行くぞ!!」

 俺だって全身疲労とブロットで普通に危険域なんだけど、優先順位として明らかにこいつの方がヤバい。

 火事場の馬鹿力ってこういう時に発動するんだろう。自分でも驚くくらいスムーズに、俺は後輩の腕を無理やり剥がし、そのまま抱き上げて病院の方角へ走り出した。

 脱力している人間は、想像していたよりずっと重い。呼吸はもう安定しているけれど、後輩の肌は血の気が引いたみたいに真っ白で、瞳の焦点も少しあやしい。それなのに、口元だけはかすかに笑っているから余計に怖い。

「せんぱい」
「喋るな、大丈夫だから」
ミョウジせんぱいは……」
「すぐ病院に連れて行ってやるからな」

 いつもならそんなに遠く感じないはずの病院が、今日は地平線の向こうにあるみたいに遠い。足が重い。海水でベタついた肌が不快だ。塩が乾いていく感覚すら鬱陶しく、安心感が招いた疲労がじわじわと集中力を削っていく。

「せんぱい、おれがたすけてっていったら、たすけにきてくれましたね」

「お前が俺の届く範囲にいてくれたからな」

「おれ、いいこでしたか」

「世界で一番、デュースは良い子だ」

「へへ……」

 うれしい、おれよいこだ。なんにでもなれる。うれしい。そんな事を肩口でポソポソ呟いているので、俺もうんうんと頷きながら足を引きずるようにして病院へ辿り着いた。

 後輩、全治3日
 俺、全治7日

 魔法石もないのにユニーク魔法をぶっぱなしたことで、ブロット汚染の数値がまあまあ洒落にならないレベルを叩き出していた。本来なら少量の魔力だけでいい魔法を、焦りに任せて限界ギリギリまで魔力を注ぎ込んだ結果がこれだ。
 そこからの人を担いで遠泳。からの救命処置。陸に上がった時点で「なんで気絶してなかったの?」と医者に言われた。なんでだろうな。たぶん気合いだと思う。

 謹慎期間が終わったと思ったら、今度は入院で学校に通えなくなった。俺も親父と同じ轍を踏むんだろうか……と、点滴を眺めながらぼんやり考える。学年がひとつ下がって、後輩たちと同級生になる未来も一瞬よぎったが、どうやら学校から出された課題をちゃんとこなしていればそんな悲惨なことにはならないらしい。

 つまり、親父は謹慎期間中、課題に一切手をつけていなかったということが、ここにきて発覚した。親父……。

 後輩が何に巻き込まれて、そこからどうなったのかは、結局詳しくは知らされなかった。あの警官が病室に来て、「全て終わりました。もう大丈夫ですよ」とだけ言って帰っていった。

 本当は、詳しく知りたかった。誰が、どういう理由で、あいつを狙ったのか。

 でも、「こういうのは大人が対応するから、君はもう何も心配しなくていいんだよ。よく頑張ったね」と、珍しくはっきりと「子供」として扱われた言葉を投げられて、その瞬間、何も言えなくなった。

 そうだよな。俺も、まだ子供だ。
 最近ちょっと、自分のことを大人みたいに扱いすぎていた気がするけど、俺はまだ、守られる側でもある。

 俺も、よく頑張った。
 だから、ちょっとくらい休んでも、バチは当たらないだろう。

 そう思って、目を閉じて眠ろうとした時、病室の外の廊下からやたらと騒がしい足音と声が響いてきた。

「バカお前鉢植えは不吉だぞ!!」「マジ?おけ分かった引きちぎるわ、スペードお前ナイフ持ってねえ!?」「銃刀法違反になるから持ってるわけないだろ、でもミョウジ先輩は持ってる。それで俺の縄をズパっとやって助けてくれたらしい。ここ最高に格好よくないか?」「パネェよ……映画じゃん……」「ヒーローじゃん……」「特等席とっちゃって悪いな」「殺されかけた分際で……」「お前マジ二度とひとり歩きすんなよ……」

ミョウジ先輩! 俺です! あとこいつら!」

「うん、入れ」

 なんの説明にもなっていない挨拶を、元気いっぱいの声量で叫びながら入ってきた後輩たちを見て、ああ、休んでる暇もそんなにないかもしれないなあと苦笑する。
 でもまあ、陸も陸で、なかなか楽しい。

 引きちぎられた痕が生々しい、茎がよれた花束を受け取って、「ありがとな」と笑った。