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 「あのね、手ぇ繋いで」ともじもじしながら垂れ目な方の人魚……フロイドがそう言って、ひんやりとした手のひらが遠慮がちに伸びてくる。
 俺の手に触れるか触れないかの位置で戸惑うように止まったので、こちらから手を繋いだ。海の中では元気いっぱいだったけど、成長したら少しシャイになったみたいだ。
 ほんの数年だけど、成長期の数年は重い。俺の知らない時間の中で、彼にも色々あったのかもしれない。

 オクタヴィネル寮は以前俺が来た時と比べ、だいぶ雰囲気が変わっていた。
 あちらこちらで工事中なのか、壁紙の張替えや家具の組み立てが行われているし、前は壁だったところが大きなガラス張りになって、寮内から海が見えるようになっている。

「綺麗だな」
「アズールがデザインしたんだよ。みて、前の寮長が外で掃除してんの」
「決闘に負けてもくさらず協力的なんて、立派な人だ」
「良い人だよねえ」

 ガラス1枚向こうで俺を指さしてなにやら叫んでいるが、フロイドがガラスを蹴って「これすっげえ分厚いから全然壊れねえの」と笑っているうちに、どこかへ行ってしまった。
 地鳴りかと思うような衝撃だったのに、本当に傷一つついていない。水圧にも負けない厚さというとどれくらいになるんだろうか。なんらかの魔法的な加工もされているだろうし、オクタヴィネルの技術は凄いな。

「アズール! ナマエが来たよ! おら雑魚共道開けろ、退け。ごめんねえ、まだここ絨毯敷けてないからちょっと歩き心地悪いかも……」

 ラギーから「にぶい」「アンタほんとに目が2つちゃんとついてるんスか?」「ぼんやりおバカさん」と気軽に罵倒されてる俺でも分かった。 
 あ、フロイドは俺にだけシャイなんだな? じゃなかったら寮生が悲鳴をあげて左右に道を開けたりしないよな。

 その開かれた道の先で、かつての美貌の名残をとどめたまま、ガリガリの痩せっぽちになってしまった男が、目をキラキラさせて俺を見ていた。

ナマエ!!」

 二足歩行に慣れていないせいか、ぱたぱたと足音を立てて駆けてくる。こんなに薄くなっちゃって……。

「待っていましたよ、どうしてすぐに来てくれなかったんですか? 僕はずっと待っていたのに!」
「ごめん……ほんと……こんなに痩せて……」
「驚いたでしょう? 何か言うことはありませんか?」
「頑張ったんだな……手伝えなくて、ごめんな……」

 アレがコレになるまで、いったいどんな酷いことがあったんだろう。何も出来なくても、せめて側にいてあげられたら……。いや、人生はなるようにしかならないし、戻ることも出来ない。

 俺の字が汚すぎたことが発端となって誤解が重なり、決別したが、それは必要な事だったんだろう。俺もミドルスクールでデュースと出会えたから、人間として成長できたと思うし……。いや、でも、助けたかったな~~~!!

 本人だってショックだろう、あの海の魔女みたいな美貌からこの痩せっぽちは振れ幅が大きすぎる。
 毎日ラギーに「脳みそ通さず物言って運良く正解引いてきた人生でしょ、それもう終わりッスから。考えて物言って」と脛を蹴られているから、さすがに学んでる。余計なことは何も言えない……! うっかり傷つけたくない……!

「……はい、僕、がんばりました。ナマエにまた会えると信じてたので、頑張ったんですよ。僕を褒めなさい」
「ああ、お疲れ様。お前は本当に偉いやつだよ」
「『お前』じゃないです」
「アズール」
「……はい」

 さっきまでのキラキラした笑みとは違う、はにかむような、いたいけな笑い方。
 ああ、この笑い方は変わってないんだな。

 ダメだ。落ち着け。
 久しぶりに会えた友人、それも自分のせいで誤解を与えて喧嘩別れみたいになってしまった友人の外見が変わっていて、それだけで心の中でわーわー言うのは、我ながらクズが過ぎる。

 俺だって太りたくても太れなかったし、大事なのは心だ。
 コミュニケーション能力が壊滅的な俺相手に、「ずっと待っていた」とまで言ってくれる貴重な友人に向かって、何を上から目線で訳の分からない文句を並べ立てていたんだ……?
 冷静に考えると本当に醜悪だ。俺はミーハーで、面食いが過ぎる。ルッキズムのモンスターだ。ここまで来ると病的だ、反省せねば。

ナマエ、魚を狩るんだって! オレも泳ぐから、これどうにかして」
「解除薬なら在庫があるから勝手に飲みなさい。お前は休憩時間内だけですよ」
「ええ~~けち~~」
「文句を言うならその二本足で沈んでなさい。ねえナマエ、出来ればこのガラスの向こうで狩りをしてくれませんか? 僕も貴方の泳ぎを見たいんです。貴方の尾びれ、とても綺麗ですから」
「ああ、分かった」

 人魚は足のことを尾びれと呼ぶ癖があるのだろうか。いや、『二本足で沈んでなさい』という言葉が出るくらいだから、足と尾びれの違いは分かってるとは思うんだが……。

 「いこー。階段こっち」とフロイドに手を引かれて、staff onlyと書かれた扉の向こうへ誘われる。休憩中だったらしい寮生が悲鳴をあげて「もう働けません」「たすけてください」と叫んでいるんだが、彼らは何らかの罪を犯したんだろうか。それを一切気にせず無視しながら歩いているフロイドも気になる。慣れてるなこいつ。

「はいナマエの」
「これは?」
「解除薬。ちょっとまじいから飲むのやなんだけどね」

 そう言いながら小瓶の中身を一息で飲んで「うええ」と舌を出す。その仕草が完全に薬を飲まされた子供のようで、ギャップがすごい。

「どんな味なんだ?」
「ちょっと悪くなったマグロの汁。腹減ってたら食えるけど、あんま食べたいもんじゃないよねえ。あ、やば」
「効果が早いな!」

 制服を脱ぐ前に飲んでしまったせいで、人魚化のスピードに脱衣が間に合っていない。買ったばかりの制服が弾け飛ぶ寸前に、目の前にあったズボンを下着ごとずり下ろした。上着は助けられなかった。危ない、あと一歩遅かったらベルトの部分で尾びれの一部が欠損してたかもしれない……。

 本当に危険な状態だったのに、当のフロイドはぬるりと海に入って「オレ、ナマエに脱がされちゃったあ♡」と笑っている。笑うな。気をつけろ。こういう人工物が身体に絡まって死ぬ生き物は海でも多いだろうが。

「飲まねえの?」
「いや、俺はこれがなくても大丈夫」
「へえ、不思議な一族だね」

 ズボンと上着を脱いで、下着は常に水陸両用のものを付けているのでこのまま。フロイドに続いて海に潜る。海の中でみたフロイドは、ほんの数年前から4倍以上に尾びれが成長していた。

 俺の背中を見て驚いているけど、これはミドルスクールの時にいれた刺青なので見覚えがないからだろう。死んだかな? ってくらいには痛かった。範囲が広くて一気に彫った分、膝の内側に入れた時の次くらいには痛かったな……。

 新寮長は、ガラス越しに海を見上げていた。
 並んで泳ぐ二人を、薄く微笑んで見つめる。その表情があまりにも無垢で、ここ数日の暴挙ですっかり彼の横暴さを理解した寮生たちは、ぞっとした寒気を覚える。

 こそこそとささやきあう声がする。
「へえ、綺麗な人魚だ」
「何言ってんだ? あれは人間だろ」
「そっちこそ何言ってんだよ、どう見たって人魚じゃないか」

 獣人や人間の生徒たちが困惑する中、オクタヴィネル寮の大多数を占める人魚は、口を揃えて彼を「人魚だ」と言った。

 人魚たちは、海を見上げ、その尾びれを見た。
 魅入られたように、薄く口をあけて、じっと。じっと。

 柱の影の闇、マントの中に我が子を隠した妖精が音もなく立ち去る。見た、確認した、確かにアレは本物だった。

「親父殿、これは……」
「しぃー。あれはの、『約束』じゃ。妖精が取りなした、人間と人魚の『約束』。もはや意味が無いものだと思っておったが、まだ生きていたんじゃのう。マレウスにも知らせておくか」
「それは、悪い約束ですか?」
「なんじゃ心配か? 友達思いじゃの~~~。大丈夫、あれは良いものだ。祝福を与えてやっても良いくらいにな!」

 闇から闇へ、鏡から鏡へ、過去から未来へ。
 親から子へ、伝わるものがある。

 瞬きの間に儚くなる人の子は、既に意味を見失っているだろう。
 だが、その証が約束をつなぎ止めている。
 あの日交わした小指の交わりは、途絶えることなく続いていた。もはや永遠と言っても良いくらいに。

「マレウス! 永遠はここにあったぞ!」
「どうしたんだ、リリア。元気だな」

 妖精の笑い声が、海と学園の境目をくすぐるように揺らしていった。