「君を友と見込んで頼む。俺の何がいけなかったか教えてくれ」
「どうしたんだ急に、落ち着いて。ほら、お茶を飲んでくれ」
友じゃないが……なんだ、急に。
真剣な面持ちで縋りつかれても、こちらとしては反応に困る。唐突に胸ぐらを掴みに来る勢いで哀願されては、無礼にもほどがあるとさえ思う。僕は内心で肩を竦め、せめて茶をこぼされないようにカップを横へ移動させた。
突然の訪問……しかも事前連絡すらなく、取り次ぎも強引に突破して屋敷へ入り込んだというのだから、まず常識が欠けている。
押しかけてきたのは、かつてのクラスメイトだった男だ。同じ教室に座っていたという、それだけの関係。在学中に一度も話さなかった、というわけではないが、『友人』のカテゴリに分類されるほどの交流は一切なかった。
放課後に他愛もない世間話をして、夕焼けに染まる廊下を歩きながら時間を持て余したこともない。
規則に反して学生立ち入り禁止の喫茶店へ忍び込み、店主から護衛に引き渡され怒れる教師に頭を下げる──そんな“庶民の真似事”の悪ふざけすら、僕たちの間には存在しなかった。
学園では、爵位の差を超えて友誼を結ぶことが“将来の政治的安定”のための教育方針として推奨されている。
公爵令息が子爵家の子どもと親しく話したり、男爵家の娘が王家の子弟とカードゲームに興じたり。そこには“相手を知りたい”という感情の歩み寄りしか存在しない。そうした健全で上品な交流が“青春”として美しく尊ばれる。
たまには護衛に隠れて城下へ抜け出し、庶民の屋台で揚げ菓子をつまみ食いし、見つかって全員まとめて叱られる……そんな身分違いの連帯と秘密の共有が、学園生活の醍醐味だ。
だが、彼と僕の間にはそれすらない。
カードゲームで負けた罰に恥ずかしい武勇伝を披露して笑い合ったこともなければ、寮の談話室で夜更けまで他愛のない悩みを打ち明け合ったこともない。
彼の人生に寄り添った記憶もなければ、僕の人生に彼が入り込んだ痕跡もない。
同じ教室にいただけの、ただの知人。
名前を知っているから会釈くらいはするが、それ以上でも以下でもなかった。
青春を共にしたと言うには、あまりにも薄く、あまりにも遠い。
─────それなのに、彼はなぜ僕を“友”と呼んだのだろう。僕はその厚顔無恥に、ただ呆れ返るばかりだった。
要するに、ただ同じ空気を吸っただけの元クラスメイトだ。それ以上でも、それ以下でもない。
しかし、目の前の男はそれを“友情”だと勘違いしているらしく、焦りで血走った瞳をまっすぐこちらへ向けていた。
切羽詰まった犬のように息を荒げ、人生の縁から転げ落ちる寸前の者が、最後の枝にしがみつくみたいな目だ。正直、滑稽だった。……いや、さすがにそこまで言うのは気の毒かとも思ったが、やっぱり無理だ。僕は同情すべき点をひとつも見出せない。
僕は彼が在学中に何をして──そして、何を“してこなかった”のかを知っている。
たいして親しくもない僕ですら知っているくらいだ。むしろその距離感のせいで、彼の怠慢や傲慢がかえって目立ったと言ってもいい。
もしかすると、彼は他の同級生にも助けを求めたのかもしれない。だが誰にも相手をされず、最後に残った“なんとなく話しかけやすい顔”を目指して、僕の屋敷へと転がり込んできたのだろう。
……残念ながら、僕は救命浮輪でも友人でもない。ただの知人以下の“同じ教室に居合わせたことのある人間”だ。
彼の今の取り乱しようは、かつて見せた“傲慢そのもの”の態度からは考えられないほど惨めで、情けなかった。
頬骨は不自然に浮き出て、肌の色は悪ろしく青白い。目元はやつれ、焦燥で瞳孔までもが開ききっている。
こんなにも目に見えるほど追い詰められるまで、彼は誰にも縋れなかったのだろうか──いや、それが当然か。思い当たる限り、誰も彼の味方にはならない。
彼の声を聞きながら、僕は手元のカップを静かに傾け、お茶の香りを胸いっぱいに吸い込んだ。温かい茶葉の香りは、混乱した他者の気配をすっと遠ざけ、僕の内部にだけ静寂を取り戻してくれる。
落ち着きのない人間の前でこそ、自分だけは凛とした静けさを保ちたい─────それは僕なりの矜持だ。
数ヶ月前……学園在学中の彼は、傲慢さを隠そうともせず、いつも鼻で笑うような表情で廊下を歩いていた。
まるで自分以外の生徒全員が背景か何かであるかのように、誰を見ても興味を示さず、ただ“貴族の長子としてそこにいるだけ”という態度だった。それでも周囲は彼の機嫌を損ねないよう細心の注意を払っていたから、彼自身は自分がどれほど無礼で、どれほど疎まれていたのか気づくことすらなかったのだろう。
そういえば……冷遇し続けた婚約者から婚約破棄を告げられた、と噂で聞いた。今思えば、今日こうして突然僕の屋敷に押しかけてきたのも、それが原因なのかもしれない。
だが、卒業の節目に婚約が白紙に戻る例は珍しくない。むしろ、貴族社会の構造を考えれば自然なことだ。
学園は、当人同士の“最終相性判断場所”とさえ言われている。ここでさえうまくやっていけないのであれば、婚姻後などなおさら破綻する。
貴族の婚姻とは、家と家の結びつきだ。個人の恋愛感情など、あくまで添え物でしかない(僕は婚約者殿と相思相愛だが……)。
その“添え物”すら整えられない関係は、将来の破綻が約束されているようなものだ。
嫁として、婿として、どちらかが相手の家に入った後……心のすれ違った夫婦と、実家への深い恨みを抱いた元娘・元息子。
無理に婚姻を結ばせれば、夫婦仲の不和という小さな問題では済まない。やがて家庭は荒れ、恨みは増幅し、双方の家へと報復の矛先が向く。
だからこそこの国では、“無理な婚姻は致命的な不利益をもたらす”という共通認識がある。
なので、相性が悪ければ婚約破棄はむしろ健全だ。まして、彼のように誰の目にも分かるほど婚約者への扱いが劣悪であれば、当然白紙を提案される。
“破棄”という形式に至ったのは、彼の瑕疵があまりに多すぎて、もう取り消しようがなかったのだろう。
贈り物をしない。
共に歩かない。
会話をしない。
手紙を送らない。
笑顔を向けない。
そして───────他人に惚気を語ることすらしない。
もはや列挙するだけで胸焼けがしそうだ。
この国では、たとえ心が伴わなくとも、せめて外向きには「婚約者を愛している」というポーズを取るのが最低限のマナーである。
それは“愛している”と大声で叫べという意味ではない。ただ、周囲に向かって婚約者を褒めること。あるいは、ささやかな心遣いを示すこと。それだけで、家と家の面子は保たれる。
要するに、公衆の面前で下半身を露出しない─────それと同程度の、社会の常識なのだ。
ところが彼は、その“最低限以下のマナー”すら五年間、一度たりとも守らなかったらしい。
僕の友人間では、彼は“下半身露出相当のインモラルヤバ男”として有名である。嫌だろう、インモラルヤバ男から友人認定を受けるなんて。僕がその気になればちゃんとした罪状をつけられるくらいの侮辱だ。
「君も知ってるだろう。……婚約破棄をされてしまった、理由が分からない」
「りゆうがわからない」
理由が、分からない!?
その言葉は鋭い刃物のように脳に突き刺さり、僕の思考を一瞬で停止させた。
いや、停止というより拒絶だ。脳が“理解したくないもの”に触れたときに起こる、あの拒否反応。身体のどこかがひやりと冷え、同時にこめかみだけが熱を帯びる。
……まさか、本気で言っているのか、この男。
僕はそっと指先を動かし、控えていた侍従に目配せを送った。すぐに理解した侍従が、滑らかに姿勢を変えて通信機で兵を配置する。
不審者が暴れ出した時のためだ。
いや、本当に危ない可能性がある。
こういう“自分が悪かったという事実を認識できない人間”は、突然奇声をあげて刺してくるタイプだ。
武装メイドも瞬時に気配を変え、茶器を持ちながらも僕と彼の間に割り込める位置へと滑り込んだ。飽くまで自然に……しかし確実に、こちらを守る布陣が整う。
出来れば戦闘に入らず、この気狂いを安全に屋敷から追い出したい。絨毯を変えたばかりなんだ、婚約者殿の好みに仕立てたものを、なんで彼女へお披露目する前にこいつの血で汚さねばならない。帰ってくれ。本当に。
「君は彼女に対して、一度も婚約者らしいことをしていなかったじゃないか。お互い嫌い合っているなら破棄は妥当だろう」
穏やかに告げただけなのに、彼はまるで胸を刺されたように顔を歪めた。なんだそのトラジディの俳優みたいなわざとらしい態度は。舞台なら映えるだろうが、テーブルひとつ挟んだ距離でやられると胸焼けしてしまいそうだ。勝手に僕を悪役にしないで欲しい。事実陳列罪、とでも言う気なのだろうか。
「俺は彼女を愛している!」
「あいしている」
くそ。完全に狂人だ。屋敷に入れたのは判断ミスだった。
友人でもないのに突然押し掛け、理由不明の被害者ヅラをして、挙げ句の果てに“自分は悪くない”と言い張る。
これを狂気と言わずして何と言うのか。彼は頭を抱え、何かしら断末魔のような声で喚いている。
……こわいよ〜〜。
僕の屋敷の中でそんな声を出さないでほしい。場の空気が汚れる。
「君は彼女に贈り物をした?」
「……何を贈ったらいいか、俺のセンスが悪いんじゃないか不安で、贈ることは出来なかった」
やっぱりしていなかったか。
ほぼ確信していた答えに、僕は思わず目を伏せ、軽く息を吐いた。肩の力が抜けるというより、諦めのあまり背骨がひとつ分短くなるような気さえした。
最悪な男だ。
婚約者への贈り物なんて、男にとっては祝福されたボーナスタイムのはずだろうに。
相手の好みを考えるのが楽しい。
自分の色を少しだけ混ぜて、彼女の美しさをより引き立てるようなものを探す時間は、人生の中でもっとも胸がときめく瞬間だ。
そして……それを実際に使用してくれた時の喜びときたら!
彼には理解できないらしい。その幸福の形を“悩み”と呼ぶあたり、恋愛とは本当に人によって異なる生き物なのだなと、どこか遠い場所から観察しているような気持ちになった。自信がなければ一緒に選びにいけばいいだけだろうが。それもまた素敵な時間だろう、違うのか? わからないのか? 何だこの男は。
「共に歩いてお話をした?」
「……彼女が近くにいると緊張して早歩きになってしまって、置いていってしまった」
共に歩くことすら出来ない恋とは、いったいどれほど奇妙な形なのだろう。
僕たち貴族にとって“並んで歩く”という行為は、ほとんど婚約者同士の象徴だ。誰かと歩幅を合わせるということは、その人と未来を共に歩む意志を示す第一歩なのだから。
それを“緊張したから”という理由で放棄する恋愛形態とは……学術研究の分野をひとつ新しく作れそうだ。
いや、本当に論文にしたら面白いのではないだろうか。
『極度の緊張により婚約者を置き去りにする習性を持つ一部貴族男性の心理構造』──なんて、研究者たちが喜んで飛びつきそうな題目だ。
そもそも、置き去りにされた側がどう思うか考えたことはあるのだろうか。
「嫌われているのかもしれない」
「不快なのではないか」
「恥をかかされたのでは」
そう受け取られるのが普通だ。
彼は、それを当然のように放置してきた。
奇妙だ。奇妙すぎる。
恋と呼ぶにはあまりに形が崩れている。
まるで、肥大化した羞恥心の化け物だ。自分本位でしか物事を考えられないのに、よくも今まで家の名を背負って生きてこられたものだ。
「会話をした?」
「……何を話せばいいか分からず、彼女の言葉に相槌を打つので精一杯だった」
最低限の会話すら成立しない婚約者……。
僕は胸の奥に冷たいものが流れ込むのを自覚した。会話をせずにどうやって相手の好みや嗜好を知るのだろう。どうやって自分の想いを伝えるつもりだったのだろう。
僕と婚約者殿は、天の星の数、浜辺の砂の数ほどの言葉を交わして初めて、視線ひとつだけで愛が通じ合うようになった。
言葉という“過程”を尽くし、積み上げ、研ぎ澄ませてこそ、沈黙すら宝石のように美しくなる。それが愛の成熟した形だ。
しかし彼は、その過程を丸ごと放棄しておきながら、結果だけ欲しがる。愛は努力も段階もなく、ただ勝手に実ると信じているらしい。
もし本当に子供ならば可愛げもあっただろうが、目の前で震えている彼は完全な成人男性である。……怖すぎる。涙が出そうだ。
「手紙を送った?」
「……書いたものを翌日読み返して、恥ずかしくて破り捨ててしまった」
破り捨てるな。送れバカが。
心の底で、普段使わない言葉が自然に出てしまった。
恥ずかしさも迷いも震えも、恋の副作用のようなものだ。それごと抱えて差し出して初めて、誰かの胸を打つ“贈り物”になるのに。
破り捨てることを正しい判断だと信じて疑わないあたり、もはや本人に恋愛の素養が存在するのかどうか怪しくなる。
「笑顔を向けた?」
「……恥ずかしくて、彼女の顔を見ることすら出来なかった」
顔を見ることすら出来ないのに、愛していると言い張る。
しかもそれを“出来ていない事実”として認識していない。
この時点で精神医学の教本に載るべきケースだ。
学園に医療棟があれば、連れて行ってあげた方が良かったのかもしれない。医療棟はないし、そこまで心を配るほど親しくないので結局……という話だが。
恋愛とは、目を背けて成立するものではない。
愛する人の顔を見られず、手を伸ばせず、声もかけられず、
それでなお「愛している」と胸を張るのは、もはや愛ではなく執着という名の幻覚だ。
「『彼女のことがすごく好きだけど恥ずかしくって上手く愛情を伝えられないんだ』と他の人に言った?」
「そんな恥ずかしいこと、言えるわけが無いだろう!!」
……もう帰ってほしい。本当に。
僕の家の床が“認知の歪み”に汚染される気がする。使用人たちの顔色も悪い。彼らに申し訳ない、必ず特別手当を与えよう。
彼らの心をすり減らしたのは、目の前の異常者そのものではなく、“彼の言動があまりに中途半端で、品位も悪意も理性も全部貴族としてのバランスを保っていない”という、最も扱いづらいタイプだったからだ。
貴族の悪は洗練されていてほしいし、庶民の悪は理解できる範囲であってほしい。
だが彼はどちらにも属さない。
分類不能で、責任とプライドの境界だけを歪ませて生きてきた“何か”だ。こういう存在は、僕たちの世界では一番“精神衛生に悪い”。
使用人たちは訓練された者たちだ。毎日礼儀作法と魔力操作をこなし、僕たち貴族のわがままにも完璧に応じられるよう育てられている。
だが、理屈の通じない愚かさだけは鍛えても鍛えても耐性がつかない。
僕は彼らに申し訳なさで胸が痛んだ。この場に立ち会わせてしまった責任が、僕にはある。
僕が招いた客ではないが、僕の屋敷に足を踏み入れた以上、この屋敷の空気の乱れは、僕の監督不行き届きだ。
だから、必ず特別手当を弾もう。
金貨で渡すべきだろうか。それとも宝石のほうが慰労になるか? 休暇も数日取らせよう。ただの休日では足りない。美しいものを見て、香りのよいものを嗅いで、舌に幸福を乗せて、心の疲れを洗い流す……彼という“毒”の治療にはそういった“回復”が必要だ。
しかし、ここまで来ると、もはやお気の毒というより奇妙な恐怖しか無い。
これでどうして、“理由は分からないけど婚約破棄されちゃったよ”などと言えたのか。
未知の精神構造でも搭載しているのだろうか。彼の認知の異常性は、もはや一周回って芸術の域である。僕の死後500年後くらいに評価されるかもしれない。
──そして、その瞬間だった。
「ホールドアップ!! ですわ!!」
「ぐおお!?」
ドアが弾けるように開いた途端、可憐な声と電撃銃の乾いた発砲音が、まるで舞踏会のオーケストラの第一音のように重なり、静かだった室内の空気が一気に華やぎ……そして即座に混沌へと転じた。
白い光が閃き、不審者の身体が跳ねる。その光景に、僕は一瞬だけ目を瞬かせた。
─────ああ、来てくれたのか。僕の世界の春、その中心が。
「ご無事ですか! もうっ、ウエディングドレスの試着中に貴方が危ないと知ったわたくしの気持ち、分かりますの!? 心配かけないでくださいまし! あなたの為の純白のドレスですのよ!」
勢いよく駆け寄ってくる彼女の頬は、試着室から直接飛び出してきたのだと分かるほど僅かに上気していて、瞳には強い怒りと、同じくらい強い心配が宿っていた。「もうっ! 」とポカポカ叩いてくる小さな手で、僕を守るために戦ってくれたのだ。
「ああ愛しの婚約者殿!! 僕のために着飾る君に、不安を与えた愚かな僕を許して下さい。でもホールドアップと言いながら撃つのはちょっと面白かったね」
「うふふ、サプライーズ。ですわ」
婚約者殿は銃を軽く振り、電撃銃の安全装置を確かめながら微笑む。その笑顔の下に少しだけ残っている怒気を見逃す僕ではない。愛されているという事実が、皮膚の内側で熱を帯びて広がる。
電撃を浴びて痙攣している不審者……もとい、元クラスメイトは兵によって無造作に引き摺られていった。
彼は婚約破棄と同時に実家から絶縁され、早々に平民へと落ちたらしい。なのにこの家に来たときは堂々と家名を名乗っていた。
……身分詐称は死罪だけれど、まあ、僕の問題ではない。知らないけど。
「そういえば君は、彼の元婚約者と仲が良かったね。何か彼に伝えてあげられる言葉はあるかな。執着が取れないらしくてね」
僕が尋ねると、婚約者殿はぴたりと足を止め、白磁のような横顔にわずかに皺を寄せた。鼻先がほんの少しだけ歪む。上品さを失わないぎりぎりの“嫌悪”の表情だ。心底不快、という感情がこれでもかと伝わってくる。
……なんて可愛らしいんだろう。
確かこういう犬がいた。ちょっと嫌がって鼻をくしゅっとさせる、あれ。うん、すごく似ている。可愛い。やっぱり可愛い。
「彼のその、自分のちんけなプライドを護る為に他人を踏みつけにする傲慢なところ。本当に気持ちが悪かったって言ってましたわよ」
「だってさ」
僕が護衛越しに言うと、まだ電撃で痺れたまま床でぴくつく元クラスメイトは、唇を震わせて何かを言おうとしていた。が、声帯はもうまともに働いていないのか、喉奥から漏れてきたのは言葉と呼ぶには程遠い、不器用な音だけだった。断末魔のようでもあり、ただの痙攣の呻きに過ぎないようでもある。
使用人が静かに扉を閉める。
その音が“彼という存在の終わり”を告げる鐘のように、軽く響いた。
僕は心の中でそっと手を振る。
“もう二度と来ないでね”と。
─────いや、来ないか。来れないか。
だって処刑されて死ぬもんな、彼。
平民は、死んだところで“見せしめの道”に飾られることはない。
公共の美術になる資格すらないということだ。ふと、彼の名前がなんだったか思い返そうとしたが、驚くほど何も浮かばなかった。
家名で呼んでいたせいで、籍から外されたいまとなっては本当に誰だったのか分からない。
まあ、覚えておく必要もないか。人生とは、時にこういうふうに静かに他者を忘れていくものだ。
僕は気を取り直して婚約者殿へ向き直り、自然と腕を差し出した。
エスコートする動作一つで、心の乱れが整っていく。
彼女も何事もなかったかのように僕の腕に手を添え、優美な歩調で並んで進む。
心配をかけたこと、慌てさせてしまったこと……本当ならちゃんと詫びねばならない。
彼女が望むものは何でも贈る。どんな宝石も、どんなドレスも、どんな馬車も。
思えば、それは“お詫び”ではなく、僕自身が与えたいだけの“ご褒美”にすぎない気もする。
その思考の甘い罠に気づいた瞬間、彼女は僕の腕にそっと身体を寄せ、小さく、けれど世界すべてを照らすような微笑みで囁いた。
「貴方と一緒なら、わたくし幸せですのよ」
胸が一瞬で焼けるように熱くなる。
僕が何を考えていたか、伝わったのだろう。
何千、何万という言葉を交わし、星の数ほどの想いをすり合わせてきたからこその、特別な魔法。
彼女との間にだけ通じる、静かな奇跡。
まったく、幸せすぎて怖い。婚約者殿を我が妻と呼べる日が、楽しみだ。
