ディベート後の殴り合い大喧嘩まで見て決めた

 一緒に大鍋を掻き回していた友人が、途中でピタリと杓子を止めた。

 さっきまで粘つく紫色の液体をぐるぐる混ぜていたくせに、大鍋ではなく俺の肩越しを見たまま、ひどく困惑した顔をしている。俺の方が困惑だ。サボるなお前、今止めたら底が焦げるってクルーウェル先生に言われただろうが。次の素材としてお前を大鍋に放り込むぞ。
 鼻を刺す薬草と焦げた何かの匂いが立ちこめる錬金術室で、一人で大鍋を掻き回しながら肘で友人の脇腹を小突いた。

「おい」

 声をかけると、友人はようやく顔だけ俺へ向けた。視線は相変わらず背後に据えたまま、妙に緊張した様子で身を寄せてくる。人殺したから一緒に埋めてくれない? くらいのノリで、そっと耳打ちされた。

「リーチがこっち見て笑ってるぞ」

「リーチだってマジペンが転がっただけで愉快な日もあるだろうよ。どっち? 自ら海に引きずり込みそうな方? 椅子に縛り付けて崖側から蹴り落として来そうな方?」

「わかんねえよどっちもやりそうだよ。ジェイドの方」

 それはそう。状況次第では臨機応変にどちらもやりそうだもんな、あの兄弟。
 しぶしぶ振り返ると、湯気と煙の向こうにジェイド・リーチがいた。大鍋何個分か離れているのに、長身のせいで人の頭越しでもよく見える。
 手元の作業はとうに済ませたらしく、大きな掌で口元を覆うようにしながら、黙ってこちらを見てにこにこと笑っていた。目が合っても逸らさない。ただ静かに笑っている。まあおしとやかな笑い方だこと。何企んでんだ怖すぎだな。

 とりあえず敵意はありませんよ、の意味で軽く会釈してみると、ジェイドもすぐに会釈を返した。はい終了。これで終わりだ。
 俺は大鍋へ向き直り、底から薬液を掬うように混ぜ直す。隣では友人がまだ青い顔をしていたが、そこまで怯えることもないだろう。オクタヴィネルの連中なんて、借りを作らず、よくわからない契約書へサインせず、モストロ・ラウンジで身の丈に合わないツケを作らなければ、それほど危険じゃない。
 少なくともフロイドの方のリーチよりは、その時々のご機嫌で対応が変わらないぶん話しやすいと思う。ジェイドはジェイドで何を考えているのかわからないが、自分に利があれば割と融通は利かせてくれるし、話も通じる。知らんけど。

 同級生とはいえ同じクラスになっただけで、まともに喋った回数なんて片手で足りる。友達でも山仲間でもなければ、モストロ・ラウンジの常連でもない。
 つまり俺はジェイド・リーチについて、人づての評判と校内で見かけた姿くらいしか知らないので、結局のところ何もわからんけども。

 

 と、思っていた訳だが、今にして思えば、あれはホラー映画におけるフラグと呼ばれるものだったのかもしれない。登場人物が「まあ大丈夫だろ」と言った直後、画面の隅を何かが横切るやつ。

 あの日から、妙にジェイド・リーチを見かけるようになった。
 授業中に近くにいるのは同じクラスなんだから当然だし、廊下ですれ違うのだって同学年なら珍しくない。映画研究会の活動中に顔を出した時は、次の撮影で入る予定の山について、親切にも地形や植生、足場の悪い場所まで書き込んだ地図を持ってきてくれた。山を愛する会の会長として看過できなかったらしい。実際にめちゃくちゃ役に立ったし、ヴィル先輩も「使えるものは使いなさい」と普通に受け取ったので、追い返す必要も無かった。

 サバナクロー寮まで来た時は、さすがに何しに来たんだと思ったが、これはもっと明確だった。取り立てだ。
 談話室の隅で、件の友人が絨毯へ転がされて首根っこを押さえ込まれていた。
 ジェイドはいつもの穏やかな笑顔のまま、暴れるそいつを床へ落ちた荷物でも片付けるみたいに制圧している。あーあもう、だからオクタヴィネルに借りを作んなって言っただろうが。そこでようやく、錬金術の授業中にこいつがジェイドを見て青ざめていた理由まで繋がった。なんだ、お前、既にやらかしてたのかよ。バカ野郎がよ。

 だったらあの日ジェイドが見ていたのも俺じゃなくて友人の方だったんだな、と納得して終わりにしたかった。
 ところが、取り立てでしょっぴかれ、そのままモストロ・ラウンジで強制労働の刑に処された友人が隣から消えても、ジェイドは変わらず俺を見つけるたびにこにこと笑っていた。なんでだよ。

「どうです、マクムートさんも彼と一緒に働きませんか? 僕からの紹介ということで、給金は少し高めに設定できますが」

「バイトは家から禁止されてるので大丈夫です」

「おや。しかし、ご自身で自由に使えるお金は多い方が良いのでは? モストロ・ラウンジでの職業体験は、きっと将来の糧になりますよ」

「父に確認しますね」

マクムートさんは、お父様がお好きなのですね」

「逆らったら殺されるので」

 嘘である。
 バイトなんぞしている暇があるなら必要な金はいくらでも送るから、その時間で勉学に勤しめ、と言われているだけだ。
 成績にはそこそこ厳しいが、息子を殺すどころか風邪を引いた連絡を入れたら外部から医者を寄越そうとする父親である。
 だが今だけは悪鬼羅刹になってもらう。可愛い我が子のためだ。父上、息子は今あなたの名を盾として最大限有効活用しております。親孝行はまた今度します。

 ぼく、ぱぱにきかなきゃわかんにゃいの……。自分では何ひとつ決められない幼子ですので……。帰ってくれ、頼む。

 ジェイドは「それは残念です」と言いながら、ちっとも残念そうではなかった。むしろ少し愉快そうに目を細めている。俺をラウンジで働かせたいのか何なのか知らないが、友人なら今頃そっちで借金返済のため皿でも磨いている。そっち見て笑え。

 

 ある日は食堂で昼飯を食っていると、何の前触れもなく目の前の椅子が引かれた。顔を上げれば、トレーひとつ持っていないジェイドが当然のように向かいへ座っている。飯を食いに来た奴の装備ではない。

「どうでしょう、兼部というのは」

「ちょっとカメラ回すのに忙しくて無理ですね」

「山や草木をカメラで撮るのも楽しいですよ」

「山や草木よりヴィル先輩の方が美しいので無理ですね」

「僕もなかなか美しい容貌だと思いますが」

「ははっ」

「傷つきます」

 思わず鼻で笑ったら、ジェイドは胸元へ片手を添え、もう片方で目元を覆って、わざとらしくヨヨヨと泣き真似を始めた。でかい男が食堂のど真ん中で何をしているんだ。しかも指の隙間から普通にこっち見てるし。
 無視して昼飯を食い続けていたら、そのうち何事もなかったように立ち上がり、「では、また」と会釈して去っていった。何しに来たんだ。

 

 ある日は廊下の向こうから、ジェイドが何かを引きずって歩いてきた。何か、ではない。よく見れば見慣れた制服の色をしている。床に半分転がされ、襟首を掴まれ、髪は乱れ、全身から生気という生気を搾り取られたみたいになっているゴミカス(債務者)だった。
 少し前までは友人と呼べる姿をしていたはずなのに、モストロ・ラウンジを経由した結果、すっかり資産価値のない漂着物みたいになっている。ジェイドはそいつを俺の前まで運んでくると、商品の見本でも提示するように床へ置いた。

マクムートさんがモストロ・ラウンジに来てくださったら、友人紹介制度が適用されて彼の支払いの2%が軽減されますが、いかがでしょうか」

「俺に迷惑をかけるくらいならこいつは死を選ぶ。その意思を尊重し、モストロ・ラウンジには行かない」

「なんて美しい友情なんでしょう。感動しました、遅延で10%上乗せさせておきます」

 床のゴミカス(債務者)が、この世の終わりみたいな汚い悲鳴を上げた。元気そうで良かったよ。ジェイドは満足そうに笑い、襟首を掴み直すと、そのままずるずる引きずって帰っていった。廊下の角を曲がるまで、床を擦る音ときったねえ悲鳴だけが残った。何しに来たんだ。

 

 話しかけてこない時は少し離れたところからにこにこ笑っていて、話しかけてきたなと思えば、俺をモストロ・ラウンジか山を愛する会へ入れようとしてくる。
 選択肢が海底か山頂しかない。もっと普通に挨拶するとか、一緒に昼飯を食うとか、そういう中間地点はないのか。断れば素直に引き下がるくせに、しばらくするとまた別の口実を携えて現れるので、こちらも怒るに怒れなかった。

 

 その日も授業が終わり、生徒たちが教科書やマジカルペンを鞄へ放り込みながら教室を出ていく中、ふと顔を上げるとジェイドと目が合った。いつものように口元へ掌を添えて、にこ、と笑う。はいはい今日もいるな。もうここまで来ると怪異じゃなくて日課だ。

「お前さ」

「はい」

 声をかけると、ジェイドはすぐこちらへ寄ってきた。長い脚で数歩歩いただけなのに、一気に距離が縮まる。目の前まで来られると改めてでかい。話すために少し顎を上げなきゃならないのが腹立つ。

「仲良くなりたいなら、友達になろうとか言えば良くない? そういう回りくどいの、俺、嫌いなんだけど」

 お前が俺のことを嫌いじゃないのはもう充分わかった。だったらいちいち策略だの謀略だの取引だの勧誘だのを挟まなくていいだろうが。普通に来い。普通に喋れ。

 そういう意味で睨み上げていると、ジェイドの表情が崩れた。口元にはまだ笑みの名残があるのに、目だけが落ち着かなく左右へ揺れる。
 いつものわざとらしい困り顔じゃない。たぶんホンモノだ。予想外のことを言われて、どう返せばいいのかわからないらしい。なんだその顔。そんな顔できたのかお前。

「あの、僕、はじめてで」

「おう」

「不快にさせてしまったのなら、申し訳ありませんでした」

「不快って訳ではなかったから平気」

「あの」

「うん」

 ジェイドは一度口を開きかけて、閉じた。それから両掌を重ねるように口元へ当てる。大きな手の向こうへ顔の下半分を隠して、ほんの少し視線を伏せた。

「友達からでいいので、僕を意識してください……」

 あ、こいつ俺のことをそういう意味で好きだったんだ。

 そこでようやく腑に落ちた。視界の端から見ていたのも、何度断ってもラウンジや部活へ誘ってきたのも、全部これだったらしい。回りくどすぎるだろ。

「意識は充分にしてるから、付き合う?」

 そう言った瞬間、ジェイドの目が見開かれた。数秒固まったあと、口元を覆っていた両手をばっと下ろす。

「五分お待ちください!」

 言うが早いか、ジェイド・リーチは教室を飛び出していった。走るんだ。ジェイドってあんな全力で走るんだ。長い脚がものすごい勢いで廊下の向こうへ消えていくのを呆然と見送り、待つこときっちり五分。戻ってきたジェイドの手には、妙に上質な紙を数枚まとめた書類が握られていた。

 一番上には、やたらと立派な字体で【交際関係契約書】。その下には既にジェイド・リーチの署名があり、確認者の欄にはオクタヴィネル寮長、アズール・アーシェングロットのサインまで入っている。五分で何してきたんだお前。というかアズールもなんで五分で署名したんだ。

 オクタヴィネルとは関わり合いにならない方が良かったかな、と一瞬だけ本気で後悔した。だがジェイドは俺へペンを渡すどころか、書類を胸元へ抱え直して真剣な顔になる。

「ご説明します。間違いがあってはなりませんので、これから小一時間ほどお時間を頂けますか? 書類をご確認いただく際、ジェイド・リーチを恋人にした場合のメリット及びデメリットについて、第三者を交えたディベート形式でディスカッションを行います。双方の意見をよくお聞きいただき、それでも僕との交際を希望されるか十分にご検討いただいた上で、最終的にこちらへサインを頂きたいと思います」

 なんだこのおもしれえ男……。

 付き合うと言っただけで契約書を持ってくる時点で面白いのに、さっさとサインを取るどころか、自分を恋人にした場合の欠点まで第三者に検証させるらしい。面倒くせえ。面倒くせえけど、そこで一気にちょっと好きになってしまった。言わないけど。

 そうして何故か場所をオクタヴィネル寮へ移し、本当に始まった公開討論会は、最初こそまともだった。
 ジェイドが家事能力や学業成績、身体能力などを淡々と長所として挙げ、メリット支持側のアズールが補足する。対するフロイドは椅子の背凭れへだらしなく身体を預けたまま、「でもジェイド、気に入ったもんずーっと観察してんじゃん。ふつーにキモイよ」とか「山行ったら帰ってこねぇし」とか、妙に具体的な証言を投げてくる。ジェイドが反論し、アズールが話を戻す。最初の十分くらいはちゃんとディベートだった。

 二十分を越えたあたりから雲行きが怪しくなり、三十分もするとメリット支持側だったはずのアズールまで頭を抱え始めた。最終的には机を叩いた。

「碌でもないですよこいつは!!」

 まさかの支持者離反である。そこからはもう駄目だった。フロイドがげらげら笑いながら否定側の論理を強め、フロイド・リーチ+アズール・アーシェングロットVSジェイド・リーチという、当初の企画趣旨を完全に見失った構図が完成した。幼馴染ときょうだい二人から左右同時に詰められたジェイドは、とうとう椅子から立ち上がって両手を机についた。

「僕は一途だしマクムートさんの可愛いつがいになれる尽くすタイプの人魚です!!」

 あのジェイド・リーチが声を張り上げた瞬間、俺は横で腹が痛くなるほど笑った。アズールは額を押さえ、フロイドは机へ突っ伏して笑っていた。本人だけが必死だった。あれ、録音しておけばよかったな。また聞きてえもん。

 

 

 そんなこんなで紆余曲折を経て、妙に細かい条項の並んだ交際関係契約書にも無事サインをした今。ジェイドは相変わらず、大きな掌を口元へ添えておしとやかに笑っている。
 変わったのは場所くらいだ。以前は教室の向こうや廊下の端からこちらを見ていたのが、今では俺の真横、それも肩へ身体を預けるみたいにぺたりとくっついている。

 近い。重い。でかい。

 身長差も体格差も無視して上半身をのしかけてくるので、俺はさっきから壁側へじわじわ傾いている。本人はそんな俺を見て楽しそうにしているだけだ。恋人になった途端これだよ。

 こういう関係になったからには、俺もジェイドについてちゃんと知っておきたい。人魚の生態。ウツボの生態。陸で暮らしている時の癖と、海では当たり前でも地上ではそうでもないこと。
 本人へ訊けば大抵は楽しそうに教えてくれる。時々、どう考えても俺をからかうための嘘を混ぜるので、そこだけは要注意だ。

 そんな話をしながら、今日も肩へくっついたまま口元を隠して笑っているジェイドを見ていて、ふと思いついた。いつも隠してるよな、そこ。添えられていた大きな手の甲へ指をかけ、そのまま軽く下へ引いた。

「えい」

「あ」

 抵抗されるかと思ったが、手は案外すんなり下りた。その向こうから出てきたのは、笑みを浮かべた口元ではなく、ぱかっと丸く開いた口だった。

 いつもの隙のない顔から口だけぽかんと開いているものだから、ちょっと間抜けだ。俺がまじまじ見ていると、ジェイドは一拍遅れて我に返り、すぐまた掌で隠してしまった。

「求愛なんです。本能が抜けなくて……陸では、はしたないですよね」

 恥ずかしそうに視線を伏せる。どうやら笑う時に口を隠していたんじゃなくて、俺を見ているうちに口が開くから隠していた時もあったらしい。
 錬金術の授業でこっちを見ていた時も、廊下の向こうから笑っていた時も、もしかするとずっとそうだったのか。急に可愛い話になったな。

「……笑わないでください」

「可愛いなって思ってんだよ」

 そう言って、俺も歯が見えるくらい大きく口を開けてみせる。人間がやったところで同じ意味になるのかは知らない。でもジェイドには通じたらしい。目を丸くしたまま固まり、それから俺の顔と口元を何度か見比べた。
 やがて口を隠していた掌がゆっくり下がる。完全に退ける前に一度止まり、少し躊躇してから、ようやく俺にだけ見せるみたいに手を外した。ぱか、とまた口が開いた。

 お前、ほんと回りくどいんだよな。モストロ・ラウンジに誘ったり、山へ誘ったり、債務者を引きずってきたり、契約書を作ったり、その挙げ句、好きな相手に向かって口を開けるのすら隠す。最初から好きって言ってたなら、こんなの隠さなくてよかったのに。

 

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