ぎゃははははは!
耳障りな笑い声が、浅い眠りの底まで追いかけてきた。
うるさい……。眉間に皺を寄せたまま目を開けると、眩しい木漏れ日が視界に刺さり、その向こうを茶色と黄色の布地が横切った。サバナクローの寮服だ。
どうやらまた、歩いている途中に倒れるように眠ってしまったらしい。背中に硬い地面の感触。頬の横では細い草が風に揺れている。校舎裏の植え込みと石壁の隙間、ちょうど昼の日差しが遮られる場所だった。眠る場所を選んだ覚えはないが、今回はずいぶん運が良かったようだ。
少し離れたところから複数人の話し声がする。幸い、こちらにはまだ気付いていない。このまま黙って立ち去ればいいのだが、起き上がったところを見つかれば面倒なことになるだろうか。
サバナクローの寮生は血気盛んな者が多い。別に全員が理由もなく襲いかかってくるわけではないと分かってはいるが、寝起きのぼんやりした頭では手加減に自信がない。以前親父殿にも、寝惚けている時ほど体が勝手に動くから気を付けろと念を押されていた。
腰に手を伸ばし、護身用の警棒がいつもの位置にあることを確かめてから、音を立てないようゆっくり上体を起こす。
「ばっか、抜かず三発くらい余裕だろ~!」
「早漏なんじゃねー? そんなん3時間くらいかかるじゃん」
「お前が遅漏なんだろ、なんだよ3時間って! どんだけ腰振ってんだよ!」
「…………」
立ち上がりかけた姿勢のまま、固まる。
何の話をしているのか理解するまで、少しかかった。三発。三時間。腰を振る。頭の中で単語を順番に繋げていき、ようやく意味に辿り着く。なるほど。そういう話か。
別段、聞いてはいけない内容でもないだろう。
親父殿なら嬉々として混ざりそうだし、セベクなら顔を真っ赤にして雷のような声量で怒鳴るかもしれない。俺自身は興味のある話題ではなかったが、ひとつだけ気にかかることがあった。
草を払って立ち上がる。
「うおっ、てめえディアソムニアの……」
突然現れた俺を見て、三人の肩が揃って跳ねた。ひとりは反射的に半歩下がり、もうひとりは妙に気まずそうな顔で口を閉ざす。警棒を握ったままだったことに気付き、これでは威圧しているように見えるかと思って手を離した。
「一晩で5回、4時間強はお前たちから見ても多い方なのだろうか」
一瞬、風の音すら消えた。
何かおかしなことを言っただろうか。俺は単に比較対象が欲しかっただけなのだが、三人とも先ほどまでとは別人のような顔をしている。特に正面にいた獣人の寮生は、獲物を前にした時とは到底思えない、ひどく神妙な……どこか悲痛な顔になった。
「それは……やべえよ」
「可哀想だよ、やめてやれよ……」
なぜそんなに絶望的な目をするんだ。
ランディ本人から、そこまで深刻な訴えを受けた記憶はない。翌日に「疲れた」と言っていることはあるが、それなら俺も眠いし、筋肉痛になることもある。身体を使えば疲れるのは当然だと思っていた。
「やめない」
必要な回答は得たので、それだけ答えて踵を返す。背後で一拍遅れて息を呑む音がした。
「擦り切れちゃう!」
「虐待だぞそれは!」
悲鳴じみた叫びが追いかけてくる。
擦り切れる。
歩きながら少し考える。少なくとも今まで、そのような怪我をさせた記憶はない。ローションという文明の利器は非常に優秀だ。最初に使い方を覚えて以降、滑りが悪い時は追加するようにもしているし、血が出たこともなかったはずだ。前戯も含めているからずっと挿れているわけでもない。お互いに触れ合っているだけの時間の方が長い。
翌朝ランディが腰を押さえながら恨めしそうにこちらを見ることはあるが、受け止める側の俺は不調を来たしたことは一度もない。むしろ普段より元気なことの方が多い。
となると、彼らと俺たちでは肉体の作りが違う可能性もある。サバナクローには獣人が多いし、人間とは筋肉や骨格、体力の基準にも多少違いがあるのかもしれない。俺自身の基準も、日頃の鍛錬のせいで一般的な人間とは少しずれている可能性がある。
こういうことは推測で決めるべきではないだろう。
部外者の意見ではなく、当事者に直接確認するのが一番確実だ。
そう結論づけて、俺はランディを探しに向かった。
「……というわけで、このような意見を聞いたんだが、ランディはどう思う?」
俺が昼間の出来事を一通り説明して意見を求めると、向かいに座っていた恋人はしばらく何も言わなかった。正確には、途中から眉間に深い皺を刻んでいたのだが、話を最後まで聞き終えたところでとうとう両手を持ち上げ、そのままゆっくりと頭を抱えた。
ランディが本気で苦悩している時によくする、ひどく分かりやすい動きだ。俺としては判断材料を増やすために第三者の意見を聞いてきただけなので、なぜそこまで頭を抱える必要があるのか分からない。
「お前は……自分がかなりの性豪だという自覚が無かったのか……?」
ようやく顔を上げたランディが、信じられないものを見るような目で俺を見つめてくる。
そんなにじっと見ないでほしい。
敵意のある視線なら気にならない。訓練中に何人から睨まれても平気なのに、ランディにこうして真正面から見つめられると途端に落ち着かなくなる。胸の奥が妙に騒がしくなって、腹の底まで甘く細い熱が落ちていくような感覚がした。視線を逸らしたいのに、逸らしたらそれはそれで勿体ない気もする。
「……何か不都合があるのか?」
「俺が大変」
「嫌なのか……」
「嫌なわけないだろ」
「では不都合はないな」
「そうだね……」
やはり問題はなかったらしい。
少し安心する。昼間あれほど深刻な顔で「可哀想だ」と言われたので、俺の知らないところでランディが無理をしている可能性も考えていた。本人が嫌ではないと言うなら、少なくとも俺が勝手に嫌がることを強いていたわけではないのだろう。
俺はランディと過ごす時間が好きだ。
普段のランディはあまり言葉が多くない。俺も人のことを言えた義理ではないが、大切なことほど口に出さず、態度で済ませるところがある。
それでも二人きりになれば、普段なら飲み込んでしまうような言葉を時々聞かせてくれる。好きだとか、大切だとか、愛しているとか。そういう言葉を耳元で囁かれるたび、心の奥にある輪郭の曖昧な何かが、ようやく名前を与えられたような気持ちになる。
強く抱きしめられるのも好きだった。
ランディの身体は俺より大きく、身体を預けると驚くほど安定する。幼い頃から剣を握ることや、自分の足で立つことばかり教わってきたせいか、誰かに全体重を預ける感覚には未だに慣れない。それなのにランディにならできる。力を抜いても落とされないと知っているし、眠ってしまっても起きるまでそばにいてくれると知っている。
抱きしめられるたびに、俺はランディにとって特別な存在なのだと、言葉よりずっと確かに入ってくる。
それが嬉しい。
だから俺には、昼間の彼らがなぜあんなにも絶望的な顔をしたのか、やはりよく分からなかった。
ランディは大変らしいが嫌ではないらしい。俺は嬉しいし、幸せだ。
それなら、何が悪いんだろうか。
◇
気付けば時計の針が勝手にぐるぐる回って、使い古されたゴムの残骸が足元に転がっている。1、2、3、4、……俺の中に、5。
「きもちいい、うごけない」そう言ってランディに体重を預ければ、呆れたような顔をしながらも結局は甘やかしてくれる。何度か繰り返すうちに、俺はすっかりそれを覚えてしまった。
自分のことは自分でするのが当然だと思っていたはずなのに、今では疲れた時に手を伸ばせば抱き上げてもらえると知っているし、眠いと言えば髪を撫でてもらえると知っている。俺はたぶん、ランディにダメにされている。
身支度まで世話を焼かれ、額や頬へ気まぐれなキスを落とされる。「もう自分で動ける」と言っても聞かないので、途中から諦めた。身体の力をすっかり抜いてしまえば、四時間以上働き続けた筋肉がようやく休んでいいのだと理解したらしい。急に全身が重くなり、同時に睡魔が足元から這い上がってきた。
幸せだなあ、と思う。
「ねむい」
「俺も。よーちよち、ねんねしなあ」
「ランディ、うるさい」
「てっめ」
ふざけた声を無視して、ランディの脇腹へ額を押しつける。肩は少し高いし胸板は硬いので、ここが一番収まりがいい。何度か頭を動かして安定する場所を探していると、ランディの手が後頭部から首筋へ滑った。
やめてほしい。
撫でられるのは好きだが、今は身体のあちこちが過敏になっている。優しく触れられるだけでも、さっきまでようやく落ち着きかけていた熱がまた戻ってくる気がした。もう眠い。だから触らないでほしい。そう思ってランディの腕を掴んだが、眠気のせいでほとんど力が入らなかった。
「ベッド扱いじゃん。お前もしかして俺とこういうことすんの、効率的な全身運動とか筋トレとかだと思ってないか……?」
「…………」
その発想はなかった。
言われてみれば、確かに全身を使う。普段の鍛錬とは使う筋肉が違うが、長時間続ければ相応に疲労もする。心拍数も上がる。体力も使う。それなのに苦痛ばかりではなく気持ちがいいし、ランディは普段あまり言わないことまで言葉にしてくれる。
かなり効率がいいのではないだろうか。
俺ひとりでは思いつかなかった。さすがランディだ。
「そうか……なら、区切りよく10回はどうだ?」
「え、今『お前を殺す』って言った?」
「言ってない」
「要約するとそうなるんだよ。お前マジで人間? 八割くらい妖精混じってたりしない?」
「純人間だ」
少なくとも、俺が知る限りではそうだ。妖精族特有の特徴はない。親父殿に育ててもらったせいで感覚が普通の人間と少しズレている可能性は否定できないが、血筋まで変わるものではないだろう。
「いや~、10回は無理です。物理的に。5回以降は別の方法なら手伝えるけど」
手伝えるってなんだ。
眠気が少しだけ引いた。
さっきまで俺と同じように眠そうだったくせに、突然こちらを置いていくようなことを言われて悲しくなる。別の方法があるかどうかを聞いているんじゃない。俺はランディとだからこうしているのに。
腹が立ったので、一番近くにあった脇腹を軽く噛んだ。
「いてえがよ」
頭をぺし、と叩かれる。
ひどい。
お前が悪いのに。
「……俺はお前とだから、こういうことをしているんだ」
「うそ……なんで被害者ヅラしてるんだこいつ……」
ランディが信じられないものを見るような目で俺を見下ろした。
「お前レベルにここまで付き合ってんの、普通に俺の愛だからな……?」
擦り切れちゃう。 虐待だぞそれは。
昼間に聞いたサバナクローの寮生たちの声が、不意に頭の中で蘇った。
あの時は大袈裟だと思ったが、ランディ自身も俺のことをかなり極端だと言っていた。ならば、もしかすると本当に俺は普通より欲求が強いのかもしれない。これまで比較したことがなかったので分からなかっただけで、ランディは俺に合わせるために相当無理をしていたのだろうか。
それは困る。
疲れるだけなら休めばいいと思っていたが、毎回無理をさせて、そのうち嫌になられたらもっと困る。
本当は嫌だ。 かなり嫌だ。 できれば全部ランディがいい。
だが、俺は普段からずいぶんわがままを聞いてもらっている。眠れば運んでもらうこともあるし、食事を忘れれば注意されるし、こうして甘えることまで覚えてしまった。ランディが譲ってくれているなら、俺も少しくらいランディの希望を受け入れるべきなのだろう。そう考えると、不思議なくらい頭が冴えた。
「分かった」
「え、何が?」
「作るなら妥協したくない。ものづくりの妖精に頼めば、かなり精巧なものが作れるはずだ」
「待て待て待て。なんで急に職人の顔になった?」
「ランディに合わせて作るなら、寸法を取らないといけない。お前のモノそっくりの性玩具を作れば、俺自身をある程度納得させることもできる……と、おもう。やってみよう、実物が無いと見当をつけられない」
「強メンタルモンスターか? その計測器を置け」
「ランディが言ったんだろう……!」
「言ったけどさあ! なんでお前、五回付き合った後にそんな機敏に動けんだよ! ちょっ、捕まえるな! プロの捕縛術をこんなことに使うな! あーー!」
逃げようとするので反射的に手首を取り、重心を崩して動きを止める。訓練通りにやっただけなのだが、ランディはひどく不服そうだ。
「正確に測れないと困る」
「俺が困ってんだよ!」
「協力してくれ」
「今もうほぼ早朝だからな!? 俺の献身と愛を自覚して、良い子に寝てろ!」
失礼だ。俺はランディの献身も愛もしっかり自覚している。
疲れていても俺に付き合ってくれることも、眠ってしまえば必ず支えてくれることも、俺が何も言わなくても毛布を掛けてくれることも知っている。それどころか、さっき本人の口から「愛だからな」とまで聞いた。
だから俺は、その愛に応えるためにもランディの提案を真面目に検討している。
なのに、なぜ抵抗するんだ。
納得できないままもう一度説明しようとしたところで、急に視界がぼやけた。
眠れと言われたせいだろうか。一度意識してしまうと、睡魔は待ってくれない。さっきまで引いていたはずなのに、今度は頭の上から重い布でも被せられたように瞼が落ちてくる。
あと少しだけ起きていたい。
せめて必要なところまで確認してから眠りたいのに。
そう思って踏ん張ったつもりだったが、身体がぐらりと傾いた。
床へ倒れる前に、太い腕が腰を支える。
ランディだ。
それを認識した瞬間、踏ん張る理由がなくなった。俺を落とさないことは知っている。安心して身体の力を抜き、そのまま胸元へ額を預ける。
「おい。ほんと急に落ちるなあ、お前は……」
何か返そうと思ったが、もう口が動かなかった。
抱き直される感覚がする。背中に腕が回り、髪を一度だけ撫でられた。さっき「触るな」と思ったばかりなのに、眠る直前になると、その手が離れていく方が嫌だと思う。
「とんでもないやつだけど、好きなんだよなあ……」
頭の上から、ランディの困ったような声が降ってきた。
それなら、俺が起きている時に言ってくれればいいのに。
俺も好きだ、と応えたい。
そう思って口を開こうとしたはずなのに、声になるより先に意識が沈んだ。
ランディの腕の中なら、眠っても大丈夫だ。
続きは全部、夢の中へ消えていった。

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