眠り姫とは似ても似つかず気付かれず

 教令院へ出入りするようになってから、放浪者には気持ち悪いほど世話を焼いてくる先輩が一人いた。名前はナフシール。生論派に籍を置いているものの、研究対象がころころ変わるせいで、同じ学派の学生からも「あいつは結局何を専門にしたいんだ」と呆れられている男だった。本人はまるで気にしておらず、気になるものを見つけると調べずにはいられないらしい。

 

 図書館で放浪者と顔を合わせるようになったのも、たまたま二人が同じ棚を使っていたことが始まりだった。
 目当ての本はかなり高い位置にあり、放浪者なら少し浮けば簡単に取れる。わざわざ脚立を使う必要など本来はないのだが、教令院の図書館では館内での飛行は禁止されていた。以前、上段の本を取ろうとした学生が棚へぶつかり、数十冊まとめて降らせたことがあるらしい。それ以降、脚立を使って丁寧に、という子供向けのような規則が出来た。規則そのものには言いたいこともあったが、こんなことで司書に目をつけられるのも馬鹿らしい。
 珍しくおとなしく脚立を使ったところ、通りかかったナフシールが何の断りもなく下を押さえた。

 

「別に支えなくても落ちないけど」

「知ってるよ。でも揺れるだろ。取るまで押さえてるから気にしないで」

「……好きにすれば」

 

 その時は、それだけで終わるはずだった。規則へ従ったせいで縁ができてしまったのなら、不運な話だと思う。少なくとも本人はそう思っている。

 それから雨の日に濡れた帽子を拭く布を寄越し、食堂で向かいに座れば甘い菓子だけ自分の皿へ引き取るようになり、講義が遅く終わった日には「まだ何も食べてないだろ」と勝手に軽食まで持ってきた。

 頼んだ覚えなど一度もない。鬱陶しいと言えば鬱陶しいのだが、追い払うほど害があるわけでもなく、放浪者もいつしか好きにさせるようになっていた。

 

 もっとも、ナフシールが自分だけに親切なわけではなく、その辺の他人にも同じように手を差し伸べる男だったから、放浪者も今までは好きにさせていた部分が大きい。

 

 研究室で後輩が資料を散らかせば一緒になって拾い、教授から論文を突き返された学生がいれば茶まで淹れる。筋金入りのお人好しである。放浪者はそんなナフシールに、心底呆れていた。

 とりわけ腹が立つのは、研究成果を横から持っていかれたり、資料集めで都合よく使い走りにされている場面を見た時だった。
 本人が気づいていないわけでもない。少し考えれば相手の魂胆くらい見抜ける頭はあるくせに、「困ってるみたいだったから」と引き受けてしまう。そこが余計に癪に障る。何も考えず搾取されるだけの愚か者なら、勝手に便利な駒として使い潰されればいい。けれどナフシールは、自分で考えて動けばきちんと成果を出せる。
 放浪者がそう評価してやる程度には、まだ使い道のある頭をしている。それなのに自分からくだらない立ち位置へ収まっているのだから、本当に腹立たしい。

 なので、放浪者がナフシールを庇護下へ入れてやることにした。
 周囲の連中に適当に使い潰されるくらいなら、僕が能力に見合った使い方をしてやる方がよほど親切だ、というのが本人の弁である。

 実際、それ以降ナフシールへ雑用を押しつけようとする学生がいれば先に話を聞き、成果の取り分が妙なら勝手に口を挟み、教授相手でも遠慮なく条件を詰めた。ナフシール本人は「最近ずいぶん平和になったなあ」と呑気に喜んでいるので、やはり一度くらい頭を叩いた方がいいのかもしれない。

 その話を草神へしたところ、彼女はしばらく楽しそうに聞いたあと、「お友達が大切なのね」と微笑んだ。放浪者は即座に否定したが、クラクサナリデビはますます嬉しそうな顔になった。彼女とは、どうにもまともな会話が成立しそうにない。

 

 誰にでも親切で優しい、反吐が出るような性格のナフシールだが、放浪者への態度だけは異常に甘い。ある日とうとう気味が悪くなって、「君さ、僕に何か企んでるのかい? 恩を売って後から面倒事でも押しつけるつもりなら、もう少し手際よくやった方がいいよ」と問い詰めたところ、ナフシールはしばらく考え込んだ挙げ句、「いや、そういうのはないよ。なんて説明したらいいのかな。笠っちを見てると、可愛いなあって気持ちになるんだ。飯を食ってなかったら食わせたくなるし、困ってたら手を貸したくなる」と至極真面目な顔で返してきた。

 なるほど、本当に気持ちの悪い男である。放浪者は丁寧にオエッと吐く真似をしたあと、ナフシールに向き合った。

 

「……よく本人を目の前にしてそんな気色の悪いことが言えるね」

「気色悪かったか。ごめん。でも嘘をついても仕方ないだろ」

「謝りながら撤回しない辺りがいちばん腹立つんだけど」

「嫌ならやめるよ。可愛いと思うところまでは止められそうにないけど」

 

 悪びれた様子すらない。放浪者は盛大に舌打ちした。

 しかしナフシールは、少なくとも性的な意味で放浪者を見てはいなかった。その点だけは早々に察している。自分の造形が整っているという自覚くらい、放浪者にもある。なにしろ、最初からそういう形に造られた。多少幼く見える顔立ちではあるが、それを好む人間がいることも長い旅の中で嫌というほど知っている。だからこそ、ナフシールの視線にその類の欲が欠片も混じらないことも分かった。人としては至極まともで、むしろ好ましい感覚なのだろう。そこまでは理解できる。理解できるのだが、なぜか腹が立つ。

 こちらを見て「可愛い」とまで言っておきながら、その先へ一切繋がっていないのが妙に癪に障った。別に好かれたいわけでも、欲情されたいわけでもない。ただ、最初からそういう対象の外側へ置かれているような扱いを受けると、それはそれで面白くない。

 ましてナフシールは、本人なりに節度を守っているつもりなのか、肩に触れる程度のことすら非常に慎重だった。そこまで健全でいられると、今度は自分の何がそこまで対象外なのかと聞きたくなる。

 もちろん、実際に尋ねる気など毛頭ない。そんな質問をした時点で負けた気がする。だから放浪者は、ナフシールがまともな人間であることを理解するたび、理由のはっきりしない苛立ちをひとつ増やしていた。

 

 一緒にいる期間が長くなっても距離を詰めようとはせず、触れるとしても帽子へついた葉を取る程度。
 むしろ教令院の廊下で他学派の学生が放浪者を眺めながら下品な話をした時には、本人より先にナフシールが怒った。

「お前、こんな幼い子を見て何考えてるんだ! 冗談でも気持ち悪いぞ。自分でも止められないならちゃんと治療を受けろよ、教令院にはそういう研究をしてる人間もいるんだから」

 珍しく声を荒らげたせいで、その場にいた学生たちまで黙り込む。言われた本人は何か言い返そうとしたものの、周囲の視線に耐えられず逃げるように立ち去った。放浪者はしばらくその背中を見送り、それから隣を向いた。

「……念のため聞いておくけど、今の幼い子って誰のことかな」

「笠っちだけど。あんな目で見られて気持ち悪かっただろ」

「次に僕を子供扱いしたら、その口を縫い合わせるよ」

「分かった。気をつける」

 どうやら本気で反省しているらしい。それを見ているうち、放浪者の方が怒るのを面倒に感じ始めた。年の離れた弟か甥にでも似ているのだろう、と適当に結論づけ、その後は尋ねることもしなかった。

 

 付き合いが長くなるにつれ、どうでもいい出来事ばかり増えていった。研究室へ夜まで残れば向かいの席で互いに別の資料を読み、どちらかが席を立ったついでに茶を淹れる。
 ナフシールは放浪者が甘い飲み物を好まないことを知っているくせに、考え事をしていると無意識に砂糖壺へ手を伸ばすので、三度目からは放浪者が先に砂糖を遠くへ押しやるようになった。

 一度、ナフシールがザイトゥン桃を机の引き出しへ入れ、そのまま完全に忘れたこともある。数日後、研究室中に甘ったるい匂いが漂い始めたというのに本人まで犯人探しへ参加して、「誰だよ、食べ物を放置したの」と真顔で首を傾げていた。
 放浪者が黙って引き出しを開けると、中では桃が見るも無残な姿になっている。ナフシールはしばらく固まったあと、何事もなかったように引き出しを閉めようとした。

「閉めたところで消えないよ」

「……明日の俺に任せようと思って」

「今日の君が腐らせたんだけど」

「じゃあ今日の俺が片付けるよ。そんな楽しそうに笑わなくてもいいだろ」

 その日ばかりは放浪者も機嫌よく研究室を出た。そんな時間がいつの間にか積み重なっていた。意味の無い時間だが、不快ではない時間でもあった。

 

 

 

 ある夕方、スメールシティをひどい風雨が襲った。
 教令院の窓へ雨粒が叩きつけられ、外を歩いていた者まで次々と建物へ逃げ込んでくる。

 放浪者には雨で体調を崩す心配などないので、そのまま寮へ戻るつもりで帽子をかぶったのだが、ナフシールに呼び止められた。

 

「帰るのか? 今夜はかなり荒れるらしいぞ。俺の家がすぐ近くだから、泊まっていきなよ」

「この程度の天気で僕がどうにかなると思ってるなら、君はずいぶん僕を甘く見てるね」

「笠っちが丈夫なのは分かってるよ。でも濡れながら歩く必要もないだろ。客用の寝具もあるし、朝になれば止んでるかもしれない」

「……まあ、わざわざ濡れる理由もないか。今回だけ世話になってあげるよ」

 

 そうして初めて訪れたナフシールの家は、教令院から坂を一本下ったところにあった。一人で暮らすには広すぎる古い屋敷で、祖父母から相続したものらしい。

 両親は仕事の都合でモンドへ移っており、売却する話も出たものの、祖父が庭へ植えた木を祖母が気に入っていたため、そのまま残すことにしたという。
 玄関脇にはなぜか片方だけの靴下が落ち、廊下の棚には読みかけの本と空になった菓子袋が並んでいる。人を泊めるなら少しは片付けろと言うと、「今日来ると思ってなかったんだから仕方ないだろ」と笑っていた。

 リビングへ入ったところで、放浪者は足を止めた。片方の壁は天井近くまで本棚が埋めており、専門書の間へ料理本や旅行記が突っ込まれている。そこまでは予想の範囲内だった。問題は反対側である。

 棚いっぱいに人形が並んでいた。スメール風の衣装を着た布人形もあれば、璃月で作られたらしい陶製のものもあり、稲妻から渡ってきたと思しき木製の品まで混ざっている。その脇に置かれた椅子には、ひときわ大きな関節球体人形が腰掛けていた。子供と変わらないほどの大きさで、両手を膝に置き、目を閉じて静かに座っている。

 

 

「うわ……」

 

 

 放浪者の口から素直な声が漏れた。

 

「ああ、これ? 祖母の趣味なんだよ。旅先で気に入った人形を買い集めててさ。家を譲る条件が捨てずに管理することだった。この大きい子は特に気に入ってたみたいで、時々関節を確認してやらないといけないんだけど結構面倒なんだ」

 

 そう話しながら、ナフシールが人形の頭を撫でる。放浪者の表情が消えた。額、頬、鼻筋、口元。どれも見覚えがある。正確には、見覚えがあるという言葉で済ませるようなものではなかった。

 

 自分自身の顔と同じ設計から作られている。

 

 雷神が人形を作る過程で生まれ、使われずに残った部品。その一部が何らかの経緯で人間の手へ渡り、欠けた箇所へ別の部品を組み合わせられ、一体の人形として形を与えられている。閉じた瞼まで開けば、おそらくもっと似て見えるだろう。

 放浪者は人形を見る。次にナフシールを見る。それから、もう一度人形へ視線を戻した。

 今まで意味の分からなかったものが、嫌になるほど簡単に繋がっていく。可愛いと言われたこと。妙に世話を焼かれたこと。幼い子扱いされたこと。あの男が自分を見るたびに抱いていた既視感の正体を、本人だけが理解していなかったらしい。

 放浪者は静かに息を吐き、そのまま玄関へ向かった。

 

「え、どこ行くんだ? 客室はそっちじゃないぞ」

「帰る」

「今から? 外まだ酷いぞ。何か気に障ったなら謝るけど、せめて理由くらい教えてくれないか」

「君は今、何も喋らない方が身のためだよ。これ以上その間抜けな顔を見ていたら、君を窓の外へ放り出しそうだからね」

 

 当然ながらナフシールには何のことか分からない。玄関まで追いかけ、せめて傘だけでも持っていけと押しつけてくる。その無自覚さがさらに腹立たしく、放浪者は傘を奪いながら「自分で考えなよ。それでも分からなかったら、一生そのままでいるといい」と吐き捨てた。

 扉が閉まったあと、ナフシールはしばらく玄関に立ち尽くしていた。何がまずかったのか考えても答えが出ない。濡れた床を適当に拭いてからリビングへ戻ると、例の人形がいつもの椅子へ座っている。

 

「……人形が嫌いだったのかな」

 

 独り言をこぼし、癖でその頭へ手を伸ばす。指が髪へ触れる寸前、ふと止まった。さっきまで向かいに立っていた放浪者の顔を思い出す。目の前の人形を見る。もう一度、放浪者の顔を頭の中へ浮かべる。ナフシールはゆっくり手を引っ込めた。

 

「…………あ」

 

 

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 翌日、教令院の廊下で顔を合わせた時には、ナフシールの顔色が見事なほど悪くなっていた。遠くから放浪者を見つけた途端、足まで止まる。何か言いたげに口を開きかけたので、放浪者は笑顔のまま人差し指をナフシールの唇へ当てた。

 今さら謝罪だの弁明だのを聞いてやる気はない。それでも、昨日までとは視線の向け方がわずかに変わっていることには気づいた。
 何を理解したのか、放浪者にも正確なところは分からない。あの人形と自分の関係まで察したのかもしれないし、ただ似ていることにようやく思い至っただけかもしれない。

 ただ、ナフシールの目から、これまでずっと一枚挟まっていたものが消えていた。自分を見ながら、どこかで別の何かを重ねていた気配がない。
 可愛がっていた人形に似た誰かとして眺めるのをやめて、ようやく放浪者そのものへ焦点が合ったらしい。そのことが思いのほか悪くなかった。むしろ少しだけ、胸の奥がくすぐったい。そんな感覚を認めるつもりはもちろんないので、放浪者は何事もなかったようにナフシールの横を通り過ぎた。
 すれ違う寸前、向こうの視線がいつもより長く自分を追ったことにも気づいていたが、振り返ってやるほど親切ではない。昨日の苛立ちは、いつの間にかかなり薄れていた。

 

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