崖から突き落とされたような最低な気分だった。
目を開けていても景色は色褪せ、心に入ってくるものすべてが苦い。体温があるのが不思議なほど、胸の奥は冷えきっていた。
心臓の奥を鋭く刺されるような痛みが走るのに、泣けなければ『可哀想』が伝わらなくて俺の『悲しい』は届かない。そんな理不尽な無力感だけが、胸の内でぐずぐずとくすぶっている。
ずり落ちないように支えてくれる弟に全体重をかけて寄りかかりながら、他に言葉を知らないかのように「ひどい、ひどい」と恨み言を吐き続けるしか無かった。陽火くんはひどい。いじわるの度合いが桁外れだ。俺に言っちゃダメだろ、あんなひどいこと。俺には陽火くんだけなのに!
情けなく縋る自分をどこかで笑いたくなるけど、それすら余裕がなくて、ただただ泣きたかった。
この最愛の弟は、自分がどれほど俺の心を救ったのかなんて理解していないんだ。死体を引っ張りあげて生者に戻す奇跡を起こした自覚が足りない。
本当なら、生きたまま死んでたはずだった。みんなが自分を死人にして、諦めて、忘れて、捨てた。捨てられたんだ。ゴミのように! 使えないから! 役にたたないから! 期待はずれだったから! 代わりがあって、もう要らないから!
口にすれば涙が出そうになるほどの、惨めな記憶の列挙。思い出したくなくても、思い出してしまう。
─────でも陽火くんだけは俺のことを信じてくれた。探してくれた。
諦めないで、誰も代わりにもならないって俺だけを待っててくれた。めちゃくちゃになってしまった身体でも、変わってしまった声でも、すぐに『燈矢』だと気付いてくれた。俺は本当に嬉しかったのに。本当に、本当に本当に、泣き叫びたいくらい嬉しかったのに。
だから、あんなことを言われたら、悲しくてしょうがない。
『とやくんが最高傑作だったら、俺たち生まれなくて良かったってことじゃない?』なんて、どうしてそんな酷いことが言えるんだ。言っていいことと悪いことがあるだろ。言葉だって人を殺せるんだぞ、やめろよ。悪い子になっちまった。いじめっ子だ。あんなに優しい良い子だったのに。
声だけで泣き続けてると「泣きすぎでは?」と不思議そうに言われる。なんで他人事なんだ、俺は陽火くんに酷いことをされたんだから、せめてもう少しくらいはごめんねという態度を見せて欲しい。
ぶん殴られた方がずっとマシだ。怪我をして血が出てアザができて、そうしたら俺は一目見て『可哀想』になれる。陽火くんは優しいから、俺がちゃんと可哀想なら謝って許してくれるはずだ。見えないのが全部悪い。焼けた身体がいっこだけ治るなら、涙腺が治ればいい。声だけじゃなくてちゃんと泣けるように戻りたかった。そっちの方が今よりずっと『可哀想』で良い。
俺が使っていた布団は死体を上に置かれて最悪になったから、使ってない部屋の隅に置いて捨てた。
だから陽火くんの使っていた布団で二人で寝てるけど、身体を拭かれないまま連れてこられたから俺はびしょ濡れだ。陽火くんも服ごとびしゃびしゃだから、今日の夜は寒い思いをしそう。俺はあったかいから俺にくっついて寝ればいいけど、陽火くんは今日いじわるだったからくっつかせてあげない。寂しいけど、しかたない。悪いことをしたから、罰だ。
罰なんて、意味があるのかないのか分からない。ただ、せめてもの抵抗だった。
壁によりかかるように座らせられて、悲しいしだるいしで動く気がないまま「陽火くんが悪い、あやまれ」と唸ることしか出来ない。
陽火くんは頑固だから全然謝ってくれないけど、俺の口に次々と氷を放り込みはじめた。これがごめんなさいの代わりなんだろうと、不器用な弟の謝罪を受け入れる。喉乾いてたし、一瞬だけ冷たくて気持ちいいし。でもそれがずっと続いて、なんだか不安になってきた。
ひとつが口の中で溶けたらまたひとついれられる。それが何分も続いている。陽火くんはでっかいボウルの中に入れられた氷を「手ぇつめたいなあ」とボヤきながらせっせと俺の口にいれてくる。なんかおかしいな、いつもと違う。いつもこうやって氷をたべさせてくれるけど、ちょっと様子がおかしい。腹の中で溶けた氷が水になってちゃぽちゃぽいってる気がする。
冷たさより、満たされすぎた胃の重みの方が勝ってきた。
「……多い」
「うん」
「陽火くん、俺もう氷要らない」
「へえ」
「待って、これ仲直りじゃないのか? これもいじわるなの……?」
「そうだよ」
「なんで?」
怒ってんの? なんだ? 俺、最近なにか悪いことしたか? 覚えが全くない。散々悪いことはしているけど、陽火くんが嫌だということは1個もしてない。俺は優しい良いお兄ちゃんだったのに。
訳が分からないのに、どこかで納得しそうになるのがまた悔しかった。
「なんでぇ……」
自分からベソベソした情けない声が出るが、陽火くんはお構い無しに俺の口に氷を突っ込んでくる。もう腹いっぱいで苦しいし、食べたくない。でも差し出されたら口を開けてしまう癖が出来てしまっていた。俺がこんなに悲しいのに、陽火くんはけろっとした顔をしている。
「どうせ怒られてるならまとめて怒られようと」
「陽火くん、人間の心ってそういう風にできてない」
「そう?」
どういういじわるなんだこれは。身体がだるくて動けないし、胃の中が溶けた氷でいっぱいになっている。なんだか陽火くんはずっと酷いしで辛い。俺が辛いのに、陽火くんはさっさと立ち上がって部屋の隅から何かを持ってきて布団の上に何枚も敷いていた。
「よし、とやくんここでおしっこして」
「なんで?」
なんで???
ぼんやりしてたから俺が話を聞いてたなかったのかなと思ったけど、たぶん違う。たぶん、陽火くんは突然これを言ってる。わけがわからなくてなんでなんでと繰り返してると、説明してくれた。
「俺はずっとちんちん無くなったとやくんがまともに排尿出来るのか、尿毒症にならないのか心配でしかたないんだよ。一応アレに聞いて大丈夫っぽいことは分かったけど、どこかのタイミングで確認しないとずっとどこかで『大丈夫かな……』って不安が付きまとうから、1回確認して安心したい。だからここで出して。出るまで水飲んで」
説明してくれたけどわかんない。ペットシーツ敷いたから安心してどうぞ! と元気に言われたけど、俺ペットじゃないからやだよ。え、ほんとなんで。何?
