奈落の底は黒い

 審神者になど、なりたくはなかった。
 この世の大多数と同じように、平凡に生き、そこそこの幸せに浸り、ほどほどの後悔とともに死ぬ──そんな、どこにでも転がっている人生でよかったのだ。
 非日常なんて望んでいなかった。むしろ避けていた。都市伝説めいた黒スーツの連中よりは、まだ実在感があると揶揄される“審神者”なんて、どこのヤクザの冗談かと思っていた。まさか自分がそこに巻き込まれるとは、夢にも思わず。

 だが、選択肢はひとつ残らず消えた。
 内定が決まっていたはずの職場は、ある朝突然「なかったこと」になり、
 隣で笑っていた恋人の存在すら、跡形もなく世界から掻き消えていた。

 歴史修正主義者というものに、審神者適正のデータが漏れているようだ。自分の周囲を切り取っていくように、友人や家族や未来が欠け落ち、あとは審神者の能力を“無理やり起こされる”だけだった。適正持ちは希少で、世界から切り取られた俺は、最も使い勝手のいい兵器になった。
 能力が目覚めた途端、見えないはずの歪みが、いやでも視界の隅に見えてしまう。地獄だ。
 抵抗すれば“修正”される。
 政府が裏でどこまで繋がっているのかも分からない。誰が味方かなんて、自分に連なる全てを失った俺にはわからないんだ。

 結局のところ、抵抗する気すら出ず国の都合の良いように動くだけの駒に成り下がり、己は与えられた仕事をこなしている。

 最初に選ばされた刀は加州清光と名乗った。
 沖田総司の愛刀だと言うが、新撰組に詳しいわけでもない。授業で触れた程度。教科書の10ページを消費する平成の大臣より、ずっと枠が少ない扱いだった気がする。
 二百年前の日本はきっと、教科書の行間で何かが起きていたのだろう。研究者が噂する「書けない戦争」があったのかもしれない。そんな余談を考える余裕がまだあった頃の話だ。

 加州清光を最初の刀に選んだ事は正解だったように思える。
少しばかり気分屋で、甘ったるい態度を崩さない刀だが、主には従順だった。二人っきり、だだっ広い本丸の中ではじまったレベル1の刀とレベル1の審神者の手探り作業はなんとか今も続き、加州清光はいまだレベル1のまま、俺の近侍を勤めている。

 二番目に手に入れたのは短刀の秋田藤四郎だった。
 人間でいえば中学生か、下手したら小学校高学年くらいの見た目をしている。ちょこまかと走り回っては一生懸命に仕えてくれる姿は荒んだ気持ちを幾分か穏やかにさせてくれた。
  しかし彼は、あまりに早く“破壊”された。
 あれは俺の采配が悪かった。救いようのない落ち度であり、審神者を辞めることすら覚悟するほど落ち込んだ。“幼い子供を自分の不手際で殺した”という事実に耐えられなかった。
 逃げれば、俺はもう世界のどこにも存在できない。それは理解していたが​───────理屈よりも、絶望のほうが早く胸を満たしてしまった。生来、悲観的で臆病な癖に善良な生き物なのだ。俺というクズは。

 ごめんよごめんよと布団の中で手を合わせ、ぐずぐず泣きながら荷物をまとめていると、加州の「新しいお仲間が来たよー」と軽い声が聞こえた。なんて呑気な奴だと、相変わらずぐずぐず泣きながら鍛刀室に向かう。作りっぱなしで放置するほうが、初日に審神者退場よりよほど残酷だ。

「主様!申し訳ありませんでしたっ!」

 秋田が、青ざめた顔でそこにいた。
 練度が下がってしまったと必死に謝りながら。
 その隣で清光が「無理すんなって言ったのに」と苦笑する。

「俺らしかいないんだから無理すんなって言ったじゃん。ね、主。俺がちゃんと言い聞かせておくから怒らないでやってよ。こうやって帰ってきたあたり反省の色有りって事で」

 ああそうだった。こいつらは人間ではなかった。

 死んだ人間は戻らないが、人間ではないこいつらは戻ってくるのだ。

 初めてそれを目の当たりにした時、胸の奥に張り付いていた“愛着”や“親愛”が、ばさりと剥がれ落ちた。油断していたところに自覚を突きつけられて、恐怖を覚えた。秋田のことも、ただの化け物にしか見えなくなってしまった。ここには化け物しかいないじゃないか。

 しかし逃げる事は出来ない。逃げる場所がなくなってしまったからだ。不幸には不幸しか重ならない。

 歴史修正主義者の影響により、現代の『俺』が存在しなくなった。

 淡々と報告を入れるこんのすけの言葉に、足元すら崩壊していった。恐ろしいことに、俺は存在しない人間に成り果てたのだという。
この本丸は歴史修正の影響を受けない特別な空間に存在している。そのため、ここにいる間は俺は俺で在りつづられるが、一歩外に出たら歴史の歪みが俺を消し去ってしまうというのだ。

 笑えない冗談だと言えば、こんのすけは情もクソもない声で「冗談ではありません」と俺が存在していない証拠をつらつらと並べ立てた。

 一体俺が何をしたというのだろうか。全て仕組まれたことのような気がする。政府の望みのままに、歴史修正主義者を倒していく。

 秋田が破壊されて戻ってきた日から、清光を戦場には出さないようにした。
 新たな刀剣男士を鍛刀し、戦場で拾ってきた刀に神を降ろす。何度も繰り返し、本丸は次第に賑やかになっていった。
 みんなが俺を慕い、主と呼ぶ。しかし俺はただの人間だ。ただの悲観的で臆病で善良だけが取り柄の人間だ。
 付喪神なんていう化け物に、心を許せるわけなどないだろう。

「ねえ主、どうして俺を戦場に出さないの?」

 俺、使い難いけど頑張るよ? と口を尖らせる清光の顔に指を添える。
 柔らかな皮膚の下に、決して変わらない“何か”を感じてしまう指先が怖い。

「お前には一番大事な仕事をしてもらっているんだよ」

「書類?そりゃあ、大事だけどさ」

「違う、そんなもんじゃない」

 何度も折れて何度でも帰ってくる刀剣男士の中で、この清光だけは変わらない。変わっていない。初めて会った時と変わらない赤い眼を見つめて頬を撫でる。猫のように擦りついてくる姿がいとおしい。

「あれ? この前あげた耳飾りはしていないのか。気に入らなかった?」

「う…ごめん。ずっと付けてたんだけど、うっかり一緒に溶かされちゃった…」

「は?」

「あ”っ」

 清光は隠していたテスト用紙でも見つけられた子供のような顔でうろたえていた。
 溶かされた?
 一緒に?
 なんのことだ。

 理解してはいけないことが、理解できてしまっている気がした。核心を聞いてはいけないと何かが警報を鳴らす。

「主は俺の練度、あげないだろ」

 拗ねたような、甘えたような、いつも通りの甘えた声。
 しかし、続けられた言葉が​─────俺の世界の色を根こそぎ奪った。

「鍛刀とかで来てさ、溶かされていく俺が可哀想だから、順番で主に愛されるんだ」

 ばれちゃったと笑う顔は、一番最初の清光と同じだったのに。

「ぉえっぇえ…っ」
「主!? どうしたの、具合悪い? 気持ち悪いの? 大丈夫!?」

 胃がせり上がり、吐瀉物が板張りの床に落ちて弾けた。
 清光の姿が、愛おしさの面影が、なにも見えなくなる。
 顕現しなくても、意識があったというのか? 蔵に積まれた数多の刀たちは、刀解の時にも自我を持っているのか? 俺は生きたままのモノを火にくべて溶かし、殺していた? 最初の清光は、俺の、最初の刀は、

 ​───────俺が殺した?

 化け物だ。
 ここは化け物のすみかだ。
 助けて、誰か、たすけて。怖い、怖い、怖い。

「大丈夫だよ主、俺がずっとついてるからね!」

 ​───────たすけて。
 声にできないその願いだけが、喉の奥で凍りついたまま震えていた。