黒霧の闇がふっとほどけ、重力に引きずられるように真っ先に転がり落ちてきたのは、マスタードくんを背負ったオバケくんだった。
背中の荷を必死に抱えたまま、足がもつれるように地面に膝をつき、次の瞬間、泣き声に似たか細い声で「あかりくんごめんんん!」と破れた風船みたいに謝罪が飛んできた。
な、なに? 謝られる点が特にない。開闢行動隊の動きは配置したドローンの映像と、ハッキングした監視カメラの映像でリアルタイムに把握していたが、全体としてはほぼ理想的な動きだった。各自の失敗も想定の範囲内を出ない程度の、取り返しのきくミス。
マスタードくんは独断専行してちょっと失敗してしまったけど、これだって致命的なものではない。それを補うようにオバケくんがきちんと回収役を務めて帰還しているし、むしろオバケくんの柔軟さと機転のおかげで被害は最小限に抑えられたといっていいだろう。
俺が依頼した『マスタードくんの世話』の他に、ガスの効果が薄れたあとに発生した“生徒たちの回復阻害”で雄英側の戦力足止めに貢献している。オバケくんの泣き声はマスタードくんのガスの効果範囲に重なって、二重で彼らの動きを封じた。ガスから回復した生徒が合流したらこちら側にも負担が増していたし、あの山に散らばって戦闘不能になっている生徒の救助が優先されるからどう転がってもヒーロー陣営は俺たちよりも1歩遅れる構造に持ち込めたかたちだ。
むしろ褒められる側だろうに、本人は全身から「おれはもうおしまいでした……」の念波を垂れ流しながらびえびえと泣き跳ねている。たぶん、自分の戦果に全く自覚がない。失敗したことにしか目がいってないんだ……。
「マスタードくんがボッコボコで! 俺、保護者頼まれたのに、なんにも守れなくて! それで、それで、一緒にお仕事するはずだったのに、俺、迷子になっちゃって! ガスもなくなっちゃってて! なんにもできなくて!」
シーツみたいな見た目のくせに、泣きながら飛び跳ねると影が妙に揺れて、不気味なのに可愛いという得体の知れないギャップがある。いや、“可愛い”と思うのはたぶん俺だけのバイアスだろう。友達なので……。俺は俺に好意的な人のこと、大好きなので……。
個性“ゴースト”のせいで、映像機器にも他人の視界にも本体を映さず、ただ“シーツのような形状”だけがそこにあるはずなのに、触れば確かに髪の毛も体温も感じる。個性の効果の中に“存在の層をずらす”という力があるのかもしれない。 視覚からは消えるが、触覚だけは同じ層に残る。だから見えないものを触れてしまうという矛盾が成立する。オバケくんという存在は、生理的にも論理的にも説明しづらい。
戦場に投入できたのが奇跡みたいな存在だ。ヒーロー側に拾われなかったの、世界にとっての損失すぎるだろと昔から思っていたが、今日またその実感が更新された。精神侵食、視界改変、不可視の身体、実体感だけは残る異常性。1番最初に見つけちゃったのが俺じゃなかったら、強敵として俺たちの前にいたかもしれない。セーフ、セーフ。
それにしても、泣きながら許しを乞うその姿がひどく弱々しくて、原因の大半を理解できるのが、また申し訳ない。
作戦開始前の映像でも、荼毘くんがオバケくんの肩を抱いて追い詰めて、何か耳打ちして泣かせていたのが映像からわかった。
あれは……絶対に意味のある“挑発”じゃないだろうな~~。
荼毘くんにとってオバケくんは、“陽火くんの友達”というだけで、なんかちょっとイヤな存在だ。
自分以外に俺の関心が移るものは、野の花であろうとも何かイヤという感性の持ち主だから仕方ない。その“何かイヤ”を上回る、“でも陽火くんがそれ好きならしょうがないね”という妥協で、野の花もオバケくんも見逃してくれていたが、俺が現場にいないことで嫌がらせチャンス到来と認識したんだろう。
荼毘くん的には、オバケくんがいなくても開闢行動隊の任務にはさして影響がないという判断だろうが、仕方ないんです。これは轟家の者特有の高慢で、目に見えて火力のある個性以外何となく下に見る傾向があるから……。ヒーロー教育を受け続けていたらサイドキックの重要性の理解から改善されただろう悪癖だけど、ヒーロー教育も半端で終わって以降ヴィランなんで……。
きっと本当に深い理由なんかない。軽い悪意と、本能的な縄張り意識。そして、たぶん、ほんの少しの嫉妬。「ここでコイツ、焦凍と対消滅して死んだら面白いのにな」くらいの、そんな気軽な悪意で揺さぶったのだろう。意味があった方がマシな理屈だ。なんだったら本人はもう、忘れてる。それくらいの悪意。
「そんでね、あのね……」
オバケくんがふらふらと宙に浮き、俺の耳もとに布が触れる。布のくせに、近づかれると体温があるように感じるから不思議だ。泣きすぎて声が割れていた。
「焦凍くんに『陽火くんに謝って』って、言っちゃった……」
短い一言なのに、この場面の中でだけやけに重く響いた。
名前を漏らした。しかも“陽火”という、本物の名前を。連合では“あかり”で通しているのに、よりによって焦凍の前で。
オバケくんは、しょぼん、と肩が落ちたように見える。泣き顔は見えないのに、泣いているのが丸わかりだ。影の揺れ方が子供みたいに弱くて可哀想になる。俺は彼の頭をそっと撫でた。
シーツを撫でているはずなのに、それが濡れた髪を分けながら指の間をすり抜ける感触になる。本当にこの個性は、触れるたびに“あり得なさ”が更新されていく。見えないだけであるんだなあ。この手の下には、ちゃんと成人男性の身体があるんだろう。俺も見えないけど本人も見えてないので、どういう顔かわからないけど。
「やっちゃったか、まあ別に問題ないから平気だよ」
……そう、本当に問題がなくなってしまったのだ。
つい先日、実兄と肉体関係を持ったせいで、ただでさえ健全とは言えなかった距離感が、さらに盛大にぶっ壊れた。弔くんが2回くらい「お前らキショすぎて涙出てきた」と、消えかけていた人間的感性を嫌悪で蘇らせる程度には近い。というか今では、普通に人前で俺とキスしてくるし、俺の膝の上に当たり前みたいな顔で座って甘えてくる。連合拠点で。公私混同が過ぎるが、今のところ『拠点でイチャつくのはやめよう』というルールはないので見逃されている。
比較的まともな感性を保ちつつ、「まあ最悪襲われても自力で逃げられる」という自負のあるミスターが、渾身の覚悟で「やったよな? ミクス……」と、三十代男性が知恵を絞ったギリギリセクハラ回避できるかどうかの濁し方で確認してきたので、「やりました。ミクス」としか答えようがなかった。
ちなみに“ミクス”とは、たまごっちの交配のことだ。トガちゃんが仕事中に拠点にいるメンバーへ持ち回りで世話を頼んでいたので、全員に通じる単語になっている。
そのたまごっちが、荼毘くん担当のときにうんちまみれで死んだ結果、トガちゃんから二度と世話を頼まれなくなった。留守番モードっていう便利な一時停止機能があるらしいね。俺たちに世話を任せてくれたのは、彼女なりの信頼の現れだったのにな……。
荼毘くんの連合内でのあだ名が、しばらく『みるくっち殺し』だったのは余談だ。
「ほんとう? 大丈夫? 俺、あかりくんのじゃましてない?」
「してないしてない。むしろ逆に助かったかも」
俺と荼毘くんが兄弟だと知っている連合メンバーでさえ、「こいつらセックスしたんだな!」と確信するレベルで距離感が狂っている。これを第三者が見て、恋人には見えても兄弟だとはまず思わないだろう。
そもそも俺がここで偽名を使っているのは、俺から遡って荼毘くん=燈矢くんとバレるルートを潰すためだ。でもここで“陽火”が俺だと露見したとしても、荼毘は〈陽火の恋人〉として認識されるだけで、“轟家の長男・燈矢”に結びつけられるとは思えない。
そして俺自身も、行方不明当時とは身長も顔つきもまるで違う。毎年更新されている、双子の弟である焦凍を基準に作られたモンタージュなんか、今の俺とは別人レベルで似ていないので意味がない。「連合に陽火がいる!」と情報が出回ったところで、俺という実物を目の前にしても、照合の土台がズレているから気づかれない。
だから、本当に問題はない。
ただ、その“問題のなさ”を、オバケくんは知らないから泣いているのだろう。よしよしと慰めを続けながら、とりあえずマスタードくんの搬送を頼んだ。これは少し入院が必要そうだから仕方ない。オバケくんにはマスタードくんのぶんのトンカツも食べてもらおう。割と食いしん坊だから食べれるはず。
「マスタードくんのぶんのトンカツも食べていいよ」と言うと、涙声のまま「えっ……いいの!?」と布の端が跳ね、影がぱあっと明るく揺れた。メンタルリセットである。ご飯の上に重ねてトンカツを2枚置き、20代男性専用わんぱくトンカツ弁当にして持たせると「やったー!」と跳ねた。未だ意識不明のマスタードくんが、オバケくんの背中でガクガク揺れている。なんらかの悪影響はありそう。
「行ってきます! 夜ご飯だ~!! たのしみ~!!」と鼻歌混じりに浮き上がり、ドクターがいる病院へ向かっていった。表向きじゃなくて悪い仕事用の病院なので、ここからそう遠くはない。オバケくんの個性なら誰にも見つからずに移動できるだろう。
その姿が完全に消えた、ほぼ同時。
「ただいまァ! おみやげ持ってきたぞ~ッ!!」
黒霧の別の渦から、テンション最高潮のトゥワイスが飛び出してきた。ドヤドヤと元気な仲間のご帰還である。主要メンバーが作戦成功引っさげて帰ってきたので、今まで自室で別の仕事をしていた弔くんも出てきた。
荼毘くんが鷲掴みにして拘束してるそこには──半分怒鳴りかけ、半分状況が掴めてない爆豪くんがぶら下がっていた。
「離せクソがッ──」
「はいはい。 口開けてね! “あ”だよ、“あ”!」
声を張り上げるより意味を理解されるより早く、俺は用意しておいた拘束具を滑らかに取り出し、爆豪くんの身体を座らせるように椅子に押しとどめた。
怒鳴ろうと開いたその口に、流れるような手つきでボールギャグを突っ込み、はい固定。 パチン、と締め具が軽い音を立てた。
「────?!」
「よし、これで静か」
道具としては文句なしの性能だ。爆豪くんは目をひん剥き、拘束された椅子ごと地団駄みたいに暴れ、トゥワイスが「うおッ!?」と足をもつれさせて転びかけている。混乱している今がチャンスなので、椅子型の拘束具─────俺が日曜大工でせっせと作りました……に、爆豪くんを固定する。
爆豪くんはボールギャグ越しに「────!! ─────ッ!!!!」と叫んでいるが、そのまま叫ばれるよりはだいぶ音が減ってマイルドになっている。ありがたい。全力で暴れまわられているが、椅子や拘束が壊れる様子もない。良い仕事したな……。
「うわあ、あかりくん。それ知ってます。えっちなやつ」
「ボールギャグだ! やばいトガちゃん目を逸らせ、SMプレイがはじまってしまう! ディレクター!? 1カメ回してます!!」
「言いがかりはおやめ下さい。爆豪くん絶対うるさくなるじゃん? 声は封じたいでしょ。でも普通の口枷だと呼吸が心配だろ。あれ、気道の角度がちょっと変わるだけでやばくなるんだよな。酸欠プレイならあっちの方がメジャーだし……。ボールギャグなら通気孔があるから呼吸を妨げないし、水飲ませられるし、最悪そのままストローで経口補水液もいける。水分補給しないと膀胱がうまく働かなくなって、脱水の方が先に問題になるんだよ。俺は敵にも味方にも飲んだ分出して欲しい……排尿困難が地雷です」
「お前の特殊性癖、身内以外にも向かうのか? 荼毘だけで我慢しておけよ」
「性癖じゃないです」
弔くんに言いがかりをつけられているなか、荼毘くんが懐いてる猫のように俺に擦り寄りつつ「家でな」と言ってきたけど、本当にこれ性癖じゃないです。性癖開示するなら、女の人のストッキングびりびりに破かせていただくのが好きです。もう今世では二度と楽しめないヘキになってしまったのだけれど。
「みんなご飯あるから手ぇ洗ってきてくださ~い。爆豪くんも食べる? トンカツ。ムーンフィッシュさんが脱落しちゃったから余ってるんだ……」
マスキュラーは良いとして、ムーンフィッシュさんの脱落は痛い。経歴書類は完璧、提出期限も守る、面接も好印象。募集要項を隅から隅まで読んでいたの、あの人だけだった。面接官として、だいすきな同僚だったのに……! 俺イチオシの新入りだったのに……!!
マスキュラーはあいつ、証明写真に女性とのプリクラ貼ってきたから何の期待もしてなかった。“わからない”じゃなくてふざけて来てるやつ、本当は落としたかったけど経歴は連合向けだったからなぁ……! でも脱落してるから俺がストレス感じただけかもしれない。なんだったんだよあいつ。ドローンも監視カメラも無いところで倒れてたからデータがなにも手に入らなかった。なんだったんだあいつは……!(2回目)
爆豪くんにトンカツの切れ端を近づけると「ン”ッ! ガァッ! ────ッ!! ンガァアァァッ!!」と獣みたいに吠えられた。
何を言ってるのかはさっぱり分からないが、“ぜったい殺す”だけは伝わる。そりゃあまあ、ボールギャグ越しには食べられないよな……と納得していると、見せびらかされた怒りがさらに加速したらしく「ンガッ!! ──ァァァッ!! ガルルルルッ!!」と犬みたいな威嚇を続けてくる。これだけで山の野犬より迫力ある。不思議だ。
どうやって食べさせるか考えていると、後頭部に乾いた音が響いた。弔くんが平手で俺の頭を叩いてきたのだ。
「オキャクサマなんだから拷問すんな」と言われ、「おもてなしの心だったんだけど」と返せば、「イカれてんのかこのアホ犬」とため息交じりに罵られた。そのくせ口元はうっすら笑んでいる。怒ってるふりをして楽しんでる顔だ。飼い主がご機嫌でペットとしては嬉しい限り。
弔くんは、そのまま爆豪くんの顎を指先で掴み、ボールギャグの金具を掴んだ。嫌な音もしない。ただ握った瞬間に金属だけが“存在しなくなった”みたいに崩れ、砂より細かい灰になって床へ落ちた。爆豪くんが目を見開き、「……っ、ちっ……」と舌打ちしながら口を閉じる。自由になった顎でまずやるのが舌打ちなの、凄いな。敵陣の中で一歩も引いてない。
弔くんは見下ろす角度で、まるで弱った虫でも観察するみたいな目をして嗤った。
「ごめんなぁ爆豪勝己くん、でも食っておいた方がいいぞ。元気が出なくなっちゃうからなあ」声だけ妙に優しいのが逆に怖い。
背後でマグネもトガちゃんもミスターも、揃いも揃って悪役の笑い方で静かに嗤っている。囲まれているというだけで圧があるのに、視線全部が獲物を見る目だ。爆豪くんはあからさまに歯ぎしりして、俺が差し出したトンカツを奪うように齧った。
食べ物に罪はないからか、あるいは抵抗より体力温存を優先したのか、ぎりぎりと噛み締めながらこちらを睨んでくる。目に火花が散っていそうなほどの敵意だ。
「これからよろしく、爆豪くん」
俺の親しげな挨拶は、やっぱり「死ね!」しか返ってこなかった。コミュニケーションに難アリ、採用担当面接官としてはちょっと難色示しちゃいますね……。
