燈矢が帰宅した当日、本来なら警察や病院へ連絡して身元確認や保護の手続きを進めるのが筋だった。が、我が家はその「当たり前」に手を伸ばす余裕はない。
燈矢がそこにいる、息をしている、触ると体温がある。それだけで全員の神経が限界まで張りつめていて、やらなきゃいけない事を考えるより先に、今この瞬間を逃したくない気持ちが身体を支配していた。もうね、これは理屈じゃないんですよ。もしかしたら全部夢で、目が覚めたらやっぱり燈矢はいないかもしれない。そんな漠然とした不安感がまだある。集団幻覚かもしれないって不安。もうちょっと現実かどうか確かめるまで、安心して目を離せない。
母さんは燈矢のそばから一歩も離れず、手を伸ばせば触れられる距離で見守り続けているし、冬美も夏雄も同じだった。焦凍は間近でみる『燈矢にい』が珍しいのか、ジッとみたあと「おそろい!」と自分の火傷跡と燈矢の火傷を交互に指さしている。
ちびっ子よおやめなさい。お前は全く気にしてなくても、加害者の母さんは一生背負うものがあるので、間接的に大好きな母さんを刺してますよ。
父さんは自分が破壊した塀と庭の修復を業者に頼んだあとは、何かが燈矢を奪いに来るとでも思っているのか、我が家って戦国時代の城か? レベルの籠城戦のような警戒でピリピリしていた。あのおじさんもしっかりとメンタル崩れてるからね、訳わかんないことしても仕方ないね。
燈矢が「おとうさん」と呼び鳴きする度に「知らないやつが燈矢を取ってかないように家の周りぐるぐるしてるとこ」と説明してやる。言わないで誤解させたら燈矢がまた不安になるだろうが……報連相して行動しろ……!
布団に寝かしつけられて、みんなに囲まれた燈矢がぽつぽつと零す言葉を、落とさないように拾い集めていく。
「変なとこで目が覚めた」「三年寝てたって、本当? みんなおっきくなってるし、俺も変になっちゃった」「電車に乗ってきた。お金なかったから、無賃乗車。あとで謝りに行くの、一緒に来て。俺、お金払わないと」
一つひとつは短くて、順番も前後していて、本人の中でも整理がついていないのが分かる。それでも、その断片の端っこには、確かに「いた場所」の匂いがついている。
本人が正確な地名や施設名を言えないのは当然だ。混乱しているし、記憶もまだ途切れ途切れだろう。でも、電車で来たというなら、こちらで追跡できる。駅の防犯カメラ、車内のカメラ、時間帯。焦らず一つずつ辿れば、燈矢がどこから乗ってきたのかは見えてくるはずだ。
「子どもが沢山いた」という情報も重要で、孤児院か、子ども向けの病棟か、あるいはそれに似せた場所かもしれない。
まずは、燈矢がこれ以上混乱しない範囲で話を聞きつつ、こちらは裏でやるべき手順を組み立てる。父さん! 貴方のコネも必要なんですよ!? 見えない敵を威嚇するように冬眠前の熊みたいな勢いで外をうろついてるデッカおじさん。もういいからそろそろ戻ってきて欲しい。情報収集を俺に任せるな、あんたも聞くんだよ。いや、ここにいても不器用発動して“心配”が“威圧”にしか見えないバグを出すだけかもな……。
そんなふうに思考を重ねている最中、燈矢はふと視線を落として、ぼそりと呟いた。
「個性が弱くなったって。だから前みたいにできない。俺もう、ほんとにヒーローになれないんだ」
声は小さくて、泣くより先に諦めが出てしまったみたいな響きだった。そこだけは、曖昧に頷くわけにはいかない。俺は迷わず首を振る。
「いや。それはない」言い切ってから、燈矢の顔が強張る前に続ける。
「燈矢の個性は、使うと自分を焼くっていうデメリットがあっただろ。そこを補助できる器具を作ってる会社に、俺はもう金も人も入れてる。まだ準備段階で試作を回してるところだけど、方向性は決まってる。
お前の個性が弱くなってても関係ない。身体に合わせたデバイスで戦えるようにする。必要なら、お前専用を作れるんだ」
言葉を選びながら、できるだけ簡単に、いま必要な部分だけを伝える。
会社の方針として、最終的にはヒーローに憧れる“無個性”の子供も、“個性”持ちの子供と同じようにヒーローを目指せる社会を作ります。法的にも、“個性”を特権だと思ってる奴らの心情的にもすぐ上手くはいかないだろうけど、そこら辺はこう……NO.2ヒーローとのコネを使わせていただきますので。使えるものは親でも使えと言うが、ちょうど親がNo.2だったんですよ。便利~~。
「お前がヒーローになりたいなら、なれる。俺が全力で支援する。燈矢は体調を戻すことだけ考えればいい。それ以外は、心配しなくていい」
燈矢はしばらく黙って俺の口元を見ていたが、やがて困ったように眉を寄せた。
「陽火くんが何言ってんのかわかんない」
「つまり、お前のお兄ちゃんは、お前がいつ帰ってきても、どんな状態でも、ちゃんと迎えられるように準備してたって言ってます」
言い終えてから、燈矢が怖がらない距離で、視線を合わせる。
「謝りに行くのも一緒に行く。金も払う。場所も探す。身体も治す。ヒーローも諦めなくていい。全部、俺がなんとかしてやる」
燈矢はしばらく黙ったあと、小さく「……ありがと」と言って目を閉じた。それから燈矢は数時間寝て、その間も俺たちは部屋から出られなかった。燈矢が起きたあとには三年間何も食べてないなら重湯からだろうと全員同じものを食べて「不味すぎる」と文句を言う。そこらへんでようやく、明日は病院に行こうと話が出た。半日以上かけて、やっと俺たちはこれが夢では無いと確信できたという話だ。
行くかどうかはさておき、明日も学校があるので順番で風呂に入る。うちにはポケモンでいうところのドドゲザンとほぼスタイルが一緒の実父がいるので、風呂は一般家庭よりも大きい。露天風呂もある。
八歳になった焦凍でも溺れたら死ぬな、くらいの深さと大きさがあるので、普段は俺が一緒に入っているが今日は時間節約のために男性陣女性陣で順番にまとめて入ることになった。
俺はその間も燈矢の傍で座椅子代わりにされる係です。父さんと風呂に入ることになった夏雄と焦凍は、本当に嫌そうな顔をしていた。
父さん、背中洗ってくれるんだけど背中の皮膚全部持ってくくらい痛いんだよな。あと風呂の温度が釜茹でくらい熱い。夏雄と焦凍は母さん由来の個性が使えるから自分で冷やせていいけど、俺は無限に足し水をして抵抗するしかないから基本父さんNGです。
「俺もお風呂入る、陽火くん一緒に入って」
「大丈夫か? 無理して入んなくてもいいよ」
「ずっと入ってないし、この服やだ。俺の服ない?」
「あるけど、背が伸びたからなあ。俺の服じゃ余るから、夏雄の服借りるか」
「……夏くんは弟だから、陽火くんのがいい。陽火くんは俺のお兄ちゃんなんだから、俺に服くれたっていいだろ。夏くんだと逆じゃん。それは変だからダメ」
「謎理屈」
「謎じゃないし。陽火くんはお兄ちゃんだから、俺におさがりくれるのはおかしくないだろ」
我が家は金持ちなのでサイズアウトしたものでも弟妹に譲る、という文化は無かったが、甘えたい気持ちの燈矢は“おさがり”が欲しいと俺が断らないこと前提でぬるく駄々を捏ねている。
はいはい、いいよ。なんでもあげような。頭を撫でるとグンと体重が重くなり、全身の力を抜いたことがわかる。
火傷痕のでこぼこした皮膚は触覚が鈍くなるらしい。ってことは、汗腺が生きてるかどうかも怪しい。熱がこもりやすいなら、それだけで日常の負担が跳ね上がる。明日、ちゃんと診てもらう必要があるな。
燈矢の「全部焼けちゃった」という言い方から察するに、治療の優先順位は“生き残るための場所”だったんだろう。
頭部の保護。脳みそ周りを守るように処置して、その流れで鼻から上は無事な部分が比較的大きい。瞼のあたりは皮膚が薄くて、本来なら一番持っていかれそうなのに、上瞼は「残ってる」というより「作り直した」みたいに見える。縫い合わせた線の継ぎ目というより、やけに整いすぎた薄さがある。
髪が無事なのも同じ理由だろう。頭皮の血流が死んでたらまず髪から終わるはずだし、毛が生きてるということは、少なくともそこまでの“土台”は守られている。逆に言うと、守るためにどこかを捨てた可能性もある。服で隠れてる身体がどうなっているかは、まだ見えていない。こっちは風呂に入る時に確認すればいい。触りながら確認していると「くすぐったい」とくすくす笑ってぐりぐりと頭を寄せてくる。甘える時の仕草が十三歳の時と変わらなくて、懐かしいやら切ないやらだ。
廊下の向こうから父さんの「入るなら入れ」という声が飛んでくる。「ちゃんと身体を拭け! 逃げるな!」と廊下を走る音も聞こえるので、弟たちはびしょびしょのまま耐えきれずに逃げ出したらしい。廊下はあとで自分で拭くだろうから気にしなくていいか。なんだかんだ躾の良い子たちなので、こうなるきっかけを作った父さんが悪いだろう。たぶん。
一旦燈矢の背から抜けるように立ち上がった。燈矢も立てるかと声をかけようとして、言葉を出す前に止まる。燈矢が両手を伸ばして、あからさまに“抱っこ”の要求姿勢になっていたからだ。はいはい、失った三年分は甘えっ子を許容しましょうね。
抱き上げると、腕の中の体重がちゃんとある。最初に抱き上げた時は感じなかった重みだ。あの時の俺は興奮していたんだろうなあ。きっと今手を離しても、落ちないくらいにしっかりと抱きついている。懐かしい。
「でっかくなったなあ」
「陽火くんの方がでかいじゃん」
「個人差ですねえ」
そんな会話をしながら脱衣所に入る。いつ見ても温泉っぽいなここ。床の石の感じといい、木の匂いといい、湯気のこもり方といい、家のはずなのに旅館みたいな顔をしている。SNSにのせたら旅館だと騙せそう。いや、実際そうなのかも。温泉が引ける場所を狙って家を建てた可能性が急に現実味を帯びてきたな……父さん風呂好きだし……。
生まれた時からこれが当たり前だったせいで何も意識してなかったけど、よく考えたらけっこう特殊だ。
俺はさっさと服を脱ぎながら、燈矢が自分で脱げるか、腕はどこまで上がるか、皮膚が引き攣れて痛まないかを確認するつもりで振り返った。
「見て」
嫌な予感がした。なぜかニタニタと、子どもが悪さを見せびらかすみたいな顔で笑っている。
燈矢が指さした位置は下腹部だった。俺の脳が理解するより先に視界が情報を拾って、背筋が氷水を浴びたみたいに固まって、次の瞬間には声だけが勝手に飛び出していた。
「父さん父さん父さん!!!!!! 来て!!!!!! 燈矢が!!!!!!」
返事より早く、破壊音がした。脱衣所のドアが、というかドアだけじゃなく壁ごといった。「どうした!!?!」と駆け込んできた父さんが、状況の整理もせずに俺の肩越しに燈矢を見て、俺も半裸のまま二回目の悲鳴を上げる。
「燈矢が!!」
そこで燈矢本人はというと、面白そうにケラケラ笑っていた。ふざけんな。笑ってる場合じゃない。俺は指さす先を見た父さんより先に答えを言ってしまう。
「燈矢のちんちん無くなってる!!!!!!」
「うわあああぁあぁああ!!!?!!?」
ヒーローとしてあらゆる現場を見てきた父さんでも、実子のちんちんが無くなっていたらこのような悲鳴をあげます。
燈矢は肩を揺らして「起きたらなかったんだよ。笑うしかねえだろ」と言いながら、真っ白な皮膚で覆われた“何もない”下半身を、あっけらかんと見せてきた。こっちは見せられる側の覚悟ができてないんだが。視界が理解を拒否して一瞬ピントが迷子になる。燈矢はそのまま指で適当に示し、「たぶん焼けて落ちちゃった」と説明してくれた。痛い! 怖い! 笑い事じゃないです!!
さすがにこれはもう明日を待たずに今病院だよ!! ということで、寝巻きとして持ってきた服を急遽着せて父さんが病院まで走っていった。救急車より確実に早いからな。若干空も飛んでた気がする。
あとから聞いた話、燈矢は父さんに抱えられながらも「陽火くんとお風呂入りたかった」とぐずっていたらしい。いつでも入ってやるから……! どんな爆弾抱えてるのか全部明らかにしてきてくれ……! お前の笑いのツボ、凄惨な方向でズレてるからあとから開示されても困るんだ……! 笑えないから、ちんちんがなくなったのは、マジで、本当に、笑えないから……!!
