いきてきたるif(それから)②

 燈矢の帰還から数ヶ月。国の支援と医療の介入が入って、燈矢はひとまず落ち着いている。三年という時間の経過がそうさせたのか、経験したものの大きさが思考の形を変えたのか。かつて俺に向けていた苛烈な八つ当たりみたいな棘は目に見えて減った。減ったが、ゼロにはならない。棘が抜けたぶん、別の形で埋め合わせが始まりました。今の燈矢は、子どもがえりみたいな甘ったれた「確認作業」を、無限にやる。
 ぺったりと抱きついて離れない。背中に張り付いてるのはまだ良いとして、座っている俺の膝に勝手に乗りあげてくる。猫かな……?
陽火くんはなんで俺のこと、生きてるって信じてたの? 俺のことが好きだから?」
陽火くんはなんで俺に優しいの? 俺のことが好きだから?」
 と、質問の形をしているのに選択肢は最初から抹消されている問を無限に投げかけてくる。YES以外の返事を丹念に殺してるやつだ。俺が沈黙したら不安になるのが分かるし、否定なんて論外だし、説明を始めたら途中で迷子になるのも目に見えている。
 ひとつひとつに「仰る通りでございます」と粛々と返事をすると、燈矢は満足そうにフフンと鼻を鳴らす。そしてまた次の問いを作る。確認して、飲み込んで、また確認する。まるで壊れた足場を一枚ずつ踏み固めて歩くみたいだ。こういう回復作業は必要な事ですからね、自分から最適な行動が取れてるのだから偉いものだ。
 そして、十分に満たされた頃合いになると、燈矢は急に気前のいい王様みたいに、こちらへ“褒美”をくれる。

「俺も陽火くん、好きだよ。ちっちゃい頃いじわるしてごめんな。甘えてたんだ」

 謝罪の形をしているのに、そこにもまた前提がある。「許される」ことが最初から確定している謝り方だ。なんて面倒くさいんだこいつは。可愛いな。
 俺の返答が遅れると「……怒ってる?」と弱々しくなるので、レスポンスの速さを求められ続ける日々。皆様いかがお過ごしですか。俺は割と元気です。  

 

 弟妹は学校とリハビリ、母さんは最近花屋のパートをはじめ、俺は学校と会社。父さんはヒーロー。そんな生活をまったりとつづけていたらオールマイトが遊びに来た。遊びに来ることあるんだ……?

 この日は俺だけ開校記念日の休みで、それに合わせて仕事の方も休みを入れている。家には俺と、父さんしかいなかった。ヒーローと言えども事務所のトップだからシフトか何かで休みの日もあるのだろう。なんか居るなあと思いつつ、別に噛まれやしないだろうとスルーしていた午前10時。完全に油断してたので、門の前でハキハキと「お邪魔します!!」と快活に挨拶をするオールマイトをみて悲鳴をあげたし、俺の悲鳴を聞きつけた父さんが「どうした!?」と廊下を駆け抜けてきて風圧に負けて転んだ。
 昔は『父さんに頼んでも何にもならんな』と初めから諦めてたから、何かあっても呼ばないし声もあげなかったが、最近歩み寄りをみせて“頼る”という選択肢を取り始めたら、意外にも積極的に助けてくれるということがわかった。
 そういえばこの人ってヒーローだったんだよな……と、当たり前すぎて忘れていたことを思い出す。
 助けてって言ったら助けてくれる側の人間なんだよな。いろいろ可笑しくなって子どもたちにとってみたら脅威側だったけど。まあ、そこそこまともになってきたんじゃないかなと思う。

 俺を庇うように玄関に出た父さんが「……本当に来たのか……」 と、来客に向けるべきではない言葉で出迎えた。言葉のままに、『うわ、ほんとに来た』みたいな顔してる。遊びに来るほど仲良くは無いらしい。仕事上の話かなにかだろうか。わざわざ自宅に来るということはプライベートの相談かもしれない。父さんも今日家にいたのはこの為だったのかも。

 オールマイトは特に気にせず「来ると言ったら来るさ、今日はよろしく!」と父さんの手を握って振り払われている。
 そこに立っているだけでチカチカするような圧倒的光だ。父さんも炎なだけあって光量激しいが、光の種類が違うな。
 俺にも「君が陽火くんだね!」と握手をしてくれた。ファンボーイだったら歓喜で飛び上がっていただろう。俺は別にそうでもないので、やあいらっしゃい……という気持ちだ。

 その時、オールマイトの背後にいた“もう一人”が、ようやく視界に入った。子ども。年齢は……焦凍より少し上か? 痩せていて発育が悪くて分かりにくい。似たような間違いをした前例があるから、もしかすると俺が思っているより何歳か上かもしれない。

 薄っぺらくて小さい子ども、それなのに雰囲気がただの子どもじゃなかった。
 世界に対して「全部許さない」と書いてある目だった。しかも両手にグローブみたいなものを嵌められてる。手袋じゃない。厚みがある。革とか金属とか、そういう“外せない”感じの重さがある。拘束具に見えるほど露骨じゃないのに、逆に、隠している分だけ生々しい。

 個性対策? 事故防止? それとも本人が自分を止めるためのもの? その子は、俺の顔を見た瞬間から、睨んでいた。挨拶もない。遠慮もない。憎しみだけがまっすぐ飛んでくる。
 これは訳ありが来たぞ! という確信が走る。仕事の関係上、こういう子どもは多く見てきた。本人、全然納得してませんよ!
外に連れ出していいのかこの子。オールマイトなら何かあっても止められるから、という理屈だろうが、それすらも彼本人のプライド傷つけてませんか?

  オールマイトが、その子の肩にそっと手を置いた。まだ距離感が測りきれていない触り方だ。優しく撫でてるのに、逃げないように押さえてるようにもみえる。

「紹介しよう。私の……養子だ。転弧という」

  その名前が玄関に落ちた瞬間、子どもが跳ねた。跳ねた、というより、内側で爆発した。

「その名前で呼ぶな!!」

 声が鋭い。細い喉で、怒りだけが太い。グローブを嵌めた両手が震える。拳が作れない震え方だ。握り潰せない苛立ちだけが、身体中から漏れている。

「俺は弔だ! 先生に死柄木弔って立派な名前を貰ったんだ!!」

  “貰った”。そこが、妙に引っかかった。自分で名乗ってるんじゃない。与えられたものに、必死にしがみついてる言い方。
 転弧くんはそのまま暴れようとして、でも暴れきれない。グローブが邪魔をする。邪魔をされているのに、それでも暴れる。矛盾してるのに、矛盾のまま全力だ。一生懸命手を開いては握る動作を繰り返しているので、“掴む”がトリガーになる個性なのかもしれない。ブチ切れの虎みたいなのに、かなしいかな、オールマイトは強すぎて転弧くんの全力の抵抗を片手でいなしている。これ、ずっと繰り返してきたんだろうな……。

 オールマイトは転弧くんを落ち着かせるように声をかけながら、何一つ言葉が伝わらないことに肩が落ちた。触角がしゅんと下がる。
 そういえばこの人、未婚のまま子持ちになったのか。だから子沢山の我が家に話を聞きに来たのかもしれない。人選を間違え過ぎている。オールマイトは転弧と呼びたいのだろう、自分の気持ちを飲み込んで「……弔」と、小さく呼んだ。呼んだ瞬間、目の前の怒れる小虎は少しだけ息を荒くして、目をきつく細めた。興奮で荒くなる呼吸が、俺のところまでフウフウと聞こえる。

  転弧。弔。どっちが本名で、どっちが“必要な名前”なのか、今の俺には判断がつかない。
 ただ、この世の全てが気に食わないという顔で癇癪を起こしてる子どもが、昔の燈矢みたいで放置する気になれなかった。
 内心でため息をついて、表情だけは崩さずに言う。「……こんにちは。えっと……」“どちら”で呼ぶべきか迷って、言葉が途切れる。その途切れを見逃さないとでも言うように、睨みがさらに深くなる。

「弔くん、でいい?」
「……」

 無言は肯定として受け取ろう。嫌ならさっきみたいに暴れるだろうし。

「おじさん達は大人の話があるらしいから、一緒に遊ぼうか」
 俺は弔くんにそう声をかけた。言った瞬間、オールマイトが「待ってくれ、陽火少年」と口を挟みかけたが、父さんがそれを言葉の途中で切り落とす。
 「好きにさせておけ。貴様の話に子どもを巻き込むな」オールマイトの肩がほんの少しだけ沈み、伸ばしかけた手が静かにおりる。父さんが、父さんとして“境界線”を引いている。すごい。ちゃんと父さんが父さんできてる!

 弔くんは無言だった。表情も読めない。けれど、オールマイトのそばに残るより、俺のほうに付くほうがまだマシだと判断したのだろう。足音もなく、部屋へ向かう俺の後ろについてきた。
 廊下を歩く間、背後の気配が一定の距離を保っていて、妙に律儀だなと思った。部屋のドアを閉めると、向こう側の大人の気配が少し遠のく。それでも完全には消えない。でっかいおじさんが二人も集まるとこうなるものなのか、気配だけは透けてくるもんなんだな。

 

 弔くんは部屋の中を一瞥してから、短く「お前だれ」と不機嫌そうに言った。そういえば自己紹介すらしてなかったな。
 「この家の長男の轟陽火と申します」と丁寧に名乗る。意味もなく敬語だ。弔くんは自分で聞いたくせに興味がなさそうに「ふうん」とだけ返す。間があって、「エンデヴァーの家の子か。親ガチャ当たりで良かったな」と続いた。

「いや、それはない。その認識だけは今すぐ訂正させて」
「必死すぎてキショい」

 オエッと吐くジェスチャーまでして言われたが、本当にこの誤解は解かねばなるまい。純粋に嫌すぎるから……。
 世間一般的には著名ヒーローの子どもって生まれた瞬間から当たり枠扱いなのかもしれない。知名度と金とコネがある家に生まれること自体が“強い”っていう、雑で、でも現実的な尺度。だがしかしそういうものじゃないんだよ世界って。

「冷静に考えてほしいんだけど、俺とあのおじさん、気が合いそうって思う?」

 弔くんは今さっき会ったばかりの、デッカおじさん(我が父)を頭の中で再生しているんだろう。少し沈黙が落ちた。そして分厚いグローブ越しに俺を指さして、「子ガチャ外れ」と暴言の追撃。その通りだが少し言葉を包んでくれ。俺が前世なしの普通の子どもだったら、この歳でもその口撃は効くぞ。

 口と態度は悪いが、攻撃性は俺に向いていない。というか、向ける先がほぼオールマイトに固定されている気がする。悪態を吐き終えたあと、弔くんは不機嫌そうに顎をしゃくって「なにすんだよ」と短く聞いてきた。

「遊ぶんだろ、なにすんの」
「とりあえず君の手のやつ、取ろ」
「は? 怒られるだろ」

 この“怒られる”は、たぶん『自分が怒られる』じゃない。俺が怒られる、って意味だ。そう思った瞬間、弔くんは両手をさっと背中に隠した。守るというより、隠す動作。反射みたいに速い。
 どういう経緯で養子になったのかは分からないが、歪な子だ。手のつけられない子ども、というより、途中からわざと歪められたみたいな匂いがする。歪みが、本人の性格の癖じゃなくて、外側から捻られた形のまま固まってる感じ。

「いいのいいの。隙を見せた向こうが悪い」

 軽く言って、工具箱を引っ張ってくる。弔くんの手を固定している金具は、ぱっと見はただの頑丈なグローブだが、留め方が“外されること”を想定していない。ネジも妙に特殊で、逃げ道があるようでない。……のに、対応できるドライバーが俺の工具箱に入っている。俺は技術者ではないけど、デバイスとかの試作品を見る時に一緒に送られてくるからだ。工具箱が変なビットだらけたが、まさか使える日が来るとはな。
 ヒーロー装備で使われることが多い規格。マイナーであれど世に流通しているものを使ったそっち側の不手際です。これはたぶん、緊急時に保護者……オールマイトが外せるようにしてるんだろうな。こんな変なドライバー、そこら辺のやつは持ってないだろうし。
 俺がネジを緩めている最中、弔くんは手元をじっと見ていた。逃げない。けど、力も抜けない。外れていくたびに、指先が小さく震えている。

「個性、“掴む”とか“握る”で発動するやつだろ?」

 弔くんは返事をしないまま、目だけで俺を刺した。警戒してるくせに、逃げる気はない模様。

「……崩壊。指全部使って掴むとボロボロんなる」
「なるほど、強くていいなあ。俺はほら、こんなのしか出ないんだよ。【灯火】ってやつ」

 指先に、ちいさな火をぽっと灯して見せる。暖かいだけの、戦闘には向かない光。

「ざっこ」

 吐き捨てるみたいに言ったのに、弔くんの口元が変に歪んだ。フヘヘ、と不器用な音が漏れる。笑うのが下手な子が、油断した拍子にこぼす笑い方だった。本人も自覚して慌てたのか、すぐに顔をしかめてそっぽを向く。だけど、さっきまでの“全部許さない目”が、ほんの一瞬だけ緩む。そしてグローブが完全に外れた瞬間、弔くんは自分の手をじっと見てから、にぎにぎと何度も確かめるように握った。
 指の動きに引っかかりがないか、感触が戻ってきているか、たぶんそういう確認だ。次に弔くんは、おもむろに俺の手を掴むフリをした。指を広げたままの手のひらに、わざと自分から腕を当てる。触れた途端に慌てて引っ込めて、俺が笑っているのを見てからじっとりした目で睨みつけた。

「はぁ……? 舐めてんじゃねえぞ」

 舌打ちまでセットだ。だが俺にはこの程度の試し行為なんぞ効きませんよ。うちの可愛い弟は「なんで陽火くんだけお父さんと同じ髪なの、俺こんなになっちゃったのになんで陽火くんだけ!」って深夜にハサミ持って強制断髪式を開催しようとしましたからね。あっちの方が理性蒸発していて危険だった。
 両手が自由になった弔くんをパソコンの前に呼び寄せて、「遊ぼう」と軽く言う。「ゲーム?」と返ってきた声が、さっきよりほんの少しだけ丸い。機嫌が上向いた時の、子どもっぽい響きだ。「ゲームかも」とわざと曖昧に返したら、「なんだよそれ」と言いながらも素直に寄ってくる。
 素直で良い子ですこと。椅子を引いてやりながら、頭の中で別の扉を開けた。この前ね、オールマイトの“個人資産”への抜け道を見つけたんですよ。ヒーローとしての資産じゃなくて、八木なんとかさんのほう。手を出すにはリスクがありすぎるから、当初は見なかったことにする予定だった。でも、弔くんには良い玩具になりそうなので使っちゃお。

「お兄さんと悪いことしよ」
「きっしょ」

 辛辣だが、表情は明るい。この数字が“何”であるかを教えたあと黒を灰に、灰を白に見せるやつの基本だけを伝授して、好きなようにパソコンを触らせることにした。もちろん、「失敗してもいいからね」と逃げ道を用意しておくが、そんな配慮を無視して次々と数字を動かしていく。迷いがない。良いぞ、才能がある……!

「そうそう、善意っぽい形にしといたら、あとで撤回できないからいいんだよ」
「保護猫ボランティアに一億入れといた」
「いいねえ、“善”だ」

 モニターの光に照らされて、口角がほんの少しだけ上がる。笑うのが下手な子の、ぎこちない勝利の顔だ。
 「センスあるなあ」と俺が言うと、「まあな」と満足そうな返事がかえってくる。共犯者というのは仲良しになる一番の近道だからな。だいぶ俺という存在に慣れてきてくれた感じがある。
 その時、少し開いたドアの向こうから、嬉しそうに潜めた声が聞こえた。「しっかり者の長男くんだね。あの子があんなに楽しそうにしてるのは初めて見たよ……」聞こえています。俺はモニターから目を離さず、心の中で丁寧にお辞儀をした。いま貴方の個人資産が一億、慈善団体への定期寄付設定の中に入れられました。早めに気づかないと取り返しが効かなくなるぞ。既に向こうに通知は行ってるからここで“取り返し”たら、善良な人々をぬか喜びさせることになるけど。
 それにしてもこの通帳、本当に入金以外は誤差程度しか動いていない。物欲とか無いのか? スポンサー契約とかでガンガン稼いでるんだから経済を動かして欲しい。ため込むだけの大金持ちは罪悪ですよ。ノブレス・オブリージュの精神が足りない。

 

 おじさん達の話し合いも終わったのか、俺たちのちょっとしたイタズラがバレたりしたが割愛する。一生懸命ばらまいた金も、真に善なる者であるオールマイトの前では「人のお金を勝手に使ってはダメだよ! でも良い使い方だね」と、力強い“メッッ”のポーズひとつで済まされてしまった。これには俺も弔くんもガッカリですよ。あまりにも空気が読めない。
 あと俺は普通に父さんに叱られたので、ずっと目を逸らしておいた。なんでこんなことが出来ると言われましても……なんででしょうかね……?
 それではおじゃましました、という段階で、一度取り外したグローブを断固拒否したままの弔くんが、俺の手を器用に“指で摘む”みたいに掴んだ。手を繋ぎたいんだなと理解したので、俺の方からちゃんと繋いでやる。弔くんが五本の指で掴まない限り、彼の個性は発動しないのだろう。俺から手を繋いだら問題無しです。手と手が合わさった瞬間、弔くんはびくっとして見上げてきた。驚いた顔を一秒だけ作って、すぐに何でもないふりをして、でも満足そうに小さく頷く。
 ……よしよし、だいぶ仲良くなったな。俺はほのぼのしながら、玄関を出る前で「じゃあ、またね」と言って手を放そうとした。

「なんで?」

 声が低い。小さいのに、刃物みたいに真っ直ぐだ。
 っあっぶねえぇえ! これ、はなしたら爆発するやつだ! 俺の手が離れかけたまま空中で止まる。体感、時間がゆっくりになった。
 弔くんは俺を見上げたまま、同じ音程で、もう一度だけ繰り返す。

「なんで」

 “なんで手をはなすの”じゃない。“なんでお前は来ないの”だ。
 オールマイトが慌てて間に入ろうとして、「弔、それは……」と言いかける。けど弔くんは聞いてない。視線も外さない。俺だけを見て、当たり前みたいに言う。

陽火も行くんだよ」

 俺の後ろで父さんが鼻で笑う気配がした。嫌な予感。
 弔くんはその気配を嗅いだ犬みたいに、視線だけ父さんへ移して、話題をすり替えるみたいに口を開く。

「この家は客に手土産も渡さねえのか」

 言葉は乱暴なのに、声の芯が揺れてる。出てくる理屈が、子どもが必死に組み立てた“次につなぐための口実”だと分かる。
 そして忖度しない父、発動。

「誰がやるか、さっさと帰れ」

 その拒絶が落ちた瞬間、弔くんの目が“狩り”の目に切り替わった。怒りじゃない、冷静な手順だ。距離、角度、踏み込み、狙点────首。
 最短で倒すために、喉を抉りにいく軌道で、両肩が沈んで、足音も立てずに一気に間合いを詰める。
 指を開いたまま“掴む”形。あれは処刑の動作だ、と理解した瞬間にはもう手が伸びていた。けれど父さんは、視線すら動かさない。腰も落とさない。呼吸も乱さない。ただ、手の甲をほんの数センチだけ返す。たったそれだけで、弔くんの腕の内側に当たり、軌道を“ずらす”というより“無かったことにする”みたいに逸らした。

 ぱち、と乾いた音がして、弔くんの身体だけが勢いのまま前へ行きかけ、首を取りにいったはずの手は空を切る。捕まえる前提で投げた全力が、受け止められたんじゃなく、最小限の接触で解体されて、半歩ぶんだけ床に滑って止まった。
 つよ……。父さん、そんなハエを払うみたいに……。

 俺が目視できないスピードで捕縛された弔くんは、もしもの時のために用意されていたのだろうグローブを付けられて、ギャンギャン怒鳴り散らしている。
 せっかくなあなあで外されたのに、執行猶予中に暴行沙汰を起こしたようなものだ。父さんは床に転がってる弔くんに視線を合わせるでもなく、フンと鼻を鳴らして「暴れたいなら相手をしてやる」と言い捨て、拾い上げるみたいに雑に持ち上げてそのままトレーニングルームへ運んだ。

 まあ、数年前は五歳の息子がゲロ吐くまでぶっ飛ばしてた男が、手の甲でぱちんと弾く程度の“最小限”を覚えてるんだから大丈夫だろう。
 弔くんは担がれたまま「陽火も来い!! 加勢しろ!!」と無茶を叫ぶので、「足手まといが増えるよ」と事実だけ返しておく。ギャオスとしか言いようのない怒鳴り声が響いて、隣では「私はどうしたら……」と少しばかり質量を減らしてしょんぼりしているオールマイトがいて、俺たちは弔くんが無限に叫ぶ罵声の尾を踏むみたいに廊下を追いかけた。