「しょーとくんのて、いたいからやだ! おててつなぎたくない!」
そう言ったのは、お昼寝の時間になると園にいる日だけはいつも俺の隣に転がってきて、ねぼけた声で意味のない歌をうたっていたおんなの子だった。幼稚園は、親父のせいでしょっちゅう抜けていた。だから「仲良し」と言えるほどじゃないけど、それでも顔と声がちゃんと記憶に残るくらいには、一緒に遊んだ子。
その子は、わるぎとか、わるぐちを言うつもりとか、たぶん一ミリもなかったと思う。ただ正直なだけだったんだろう。
でもそれで、俺は理解した。そうか、俺の手って、いたくて、つなぎたくないものなんだ。
胸の奥で、納得がすとんと落ちた。センセイは慌てて「そんなこと言わないの」と笑って取り繕ってくれたけど、あの子の言っていることは間違っちゃいない。俺の手は、あちこち小さな傷が走っていて、爪の横もひび割れて、ガサガサで、ふつうより硬い。みんなみたいな、ふわっとした柔らかさがない。砂紙みたいな手。たしかに、これ、やだよな。つなぐと、痛いって言われても仕方ない。
だから小学生になったときも、まったく同じことが頭の中で繰り返された。
入学式のあと、初めての整列。新品の床はワックスの匂いがして、上靴がきゅっきゅっと鳴る。先生が明るい声で言った。
「まずはお隣の子と手を繋ぎましょう! これから六年間一緒に過ごす最初のお友達です」
右隣に並んでいた兎丸が、迷いなく手を差し出してきた。ためらいがない。そういう子だった。空気を読むより先に、体が動く。良いとも悪いとも決めつけられない、まっすぐさ。
俺の脳が言葉を選ぶより早く、反射で手が動いた。咄嗟に振り払ってしまった。
ぱし、と乾いた音がして、俺の手が空に残ったみたいに軽くなった。しまった、と遅れて心臓が跳ねる。兎丸は目をまんまるにした。次に、その丸い目のまま眉をきゅっと寄せて、ほんの少しだけムッとした顔をした。
怒らせた。
そう思った瞬間、もう終わったと思った。俺はこういうのばっかりだ。触れられるのが怖い、嫌われるのが怖い、嫌われたくない。怖いのに、先に自分から振り払う。自分から壊しておけば、壊された痛みを見なくて済むみたいに。自分の弱いところを、他人に押し付けてばっかりだ。
だけど兎丸は、怒って終わりにしなかった。
むっとした顔のまま、今度はさっきより強く、ぎゅっと俺の手を握った。逃がさない、みたいな力で。
「せんせえのいうこときけよ!」
叱ってるのに、声は明るい。しかもその直後、ニカッと笑って、顔全体がぱっとひらいた。
「なかよくしようなあ!」
……意味がわからない。俺の手は痛いし、繋ぎたくない手なのに。
拒否されたら、ふつうは引っ込めるだろ。傷つく前に、やめるだろ。なのにこの子は、わざわざもう一回、握ってくる。
手をユラユラと揺らしながら「へんじ!」と急かしてくる。周りの子の小さな手と手が、ぱたぱたと繋がっていく音がする。その中で俺だけが、固まっている。視線が集まっている気がして、目を伏せた。顔が熱い。手のひらが急に汗ばんで、余計に気持ち悪くなった。
「……おれの手、汚いからはなせよ」
言い訳のつもりだった。汚いって言えば、相手は離れる。離れてくれたら、また誰も傷つかない。俺も、兎丸も。
兎丸は一拍おいて、きょとんとした顔をした。
「トイレのあと手え洗ってない?」
「洗ってる」
「じゃあ何が汚いんだよ」
そう言われて、詰まる。口の中が乾く。ちゃんと説明しようとすると、余計に恥ずかしくなる。
「手……かちかちで、変だから」
言った瞬間、続きの言葉が出せなくて口が閉じた。かたまったまま、ずっと変な手だ。変だって思ってるのは俺だけじゃないって、幼稚園で証明された。だから俺は、もう知ってる。これを見られるのは嫌だ。
兎丸は「えー?」と声を上げて、繋いだ手をいったんはなした。ああ、やっぱり、と思いかけたところで、兎丸は逃げるためにはなしたんじゃなかった。確認するためにはなしたんだ。
兎丸は俺の手をひっくり返して、まじまじと見る。指の腹、手のひらの固いところ、擦れて白くなってる部分。小さな切り傷。爪の横のささくれ。ボロボロの手。
恥ずかしくてしょうがなくて、また手のひらに汗が滲むのがわかった。汗って、こういう時に限って正直だ。やめろ、見ないでくれ、って思ってるのがバレるみたいに。
兎丸はしばらく黙って、俺の手のひらを指でなぞった。痛くないように、でも適当にじゃなく。ちゃんと、すべらせるように。
「これは頑張り屋の手だよ」
声が急に、少しだけ“大人のまね”みたいになった。
「恥ずかしくないって、ばあちゃんが言ってた。一生懸命頑張った人の手はこうなるんだ」
そう言って、よしよし、と俺の手のひらを撫でた。撫で方が、妙に慣れている。たぶん、犬とか猫とか、何か小さいものを撫でたことがある手つきだ。慰める、じゃなくて、肯定する撫で方。
そのまま、もう一度ぎゅっと握る。今度はさっきみたいな「先生の言うこと聞けよ」の強さじゃなくて、当たり前みたいな、自然な力で。
「なかよくしようなあ」
兎丸の言葉が、怖かった。嬉しいって感情に慣れていないから、嬉しいの形がわからない。泣きそうになるのも、笑いそうになるのも、どっちも同じくらい恥ずかしい。だから返事は、絞り出すみたいに小さくなった。
「……うん」
握られた手は、痛くなかった。むしろ、痛くないことのほうが、少しだけ痛かった。痛いって言われて終わるはずだったのに、この子は「頑張り屋の手」って名前をつけてしまったから。俺の手のひらに、俺が知らない意味を勝手に置いていったから。
先生が言っていた“最初の友達”が兎丸で良かった。たぶん、兎丸じゃなかったら俺は最初からつまずいてた。兎丸だけでいい、って思った。最初で最後の友達は兎丸でいい。だって、それくらい嬉しかった。
でも兎丸は、良い奴だから。良い奴のまま、すぐに人気者になった。
気づいたら、いつも周りに人がいる。男友達がたくさんいて、休み時間は誰かに肩を組まれて笑っている。放課後も「帰ろう」「遊ぼうぜ」って声が飛んでくる。兎丸は、その輪の中から俺にも手を伸ばしてくれる。「焦凍も来いよ」って、呼ぶのが当たり前みたいに。
誘われるたび、胸のどこかがじわっと温かくなるのに、口から出るのは結局「今日は無理」だった。
俺には学校が終わったらすぐ、鍛錬とか、やらなきゃいけないことが山ほどある。家の事情、ってやつだ。言葉にすると簡単だけど、簡単な言葉ほど逃げ道になる。ほんとは説明なんてしたくない。したら、兎丸の顔が曇るかもしれない。可哀想って目で見られるかもしれない。それが嫌で仕方なかった。兎丸の前で、俺は“可哀想”になりたくない。
校門を抜ける。外の空気は少しだけ自由で、同時に、帰る方向を間違えられない重さがある。歩きながら、反射みたいに立ち止まってしまった。
フェンス越しに校庭を見る。教室の中でも廊下でも、いつも誰かが兎丸の名前を呼んでる。笑い声が集まる場所の中心に自然といて、そこにいることが“普通”みたいな顔をしてる。
夕方の光が、砂埃を金色にしている。サッカーのボールが跳ねて、笑い声が弾けて、体育着が風に揺れている。そこに兎丸がいる。走って、叫んで、ゴールを決めた奴に抱きついて、また走る。
サッカーがしたいわけじゃない。
兎丸と一緒にいたかっただけだ。
鍛錬は手段だ。俺は親父の思う通りに生きる気はねえ。けど、力は必要だから鍛錬を辞める気もない。……そうやって自分に言い聞かせるのは簡単だ。正しい。たぶん正しい。正しいのに、兎丸と一緒にいられないのは、普通に寂しかった。
フェンスを掴む。金網の冷たさが掌に食い込んで、爪の先が痛い。その痛みで、今自分がここにいるってわかる。俺は校庭の中じゃなくて外側で、ボールを追う輪の中じゃなくて、外側。外側に立つのが癖になってる。
兎丸を見ていた。
呼んでもないのに、兎丸が気づいた。
不思議だ。俺は声も出してないのに、目線だけで見つかった。まるで最初から「そこにいる」って分かってたみたいに、パッと俺の方を向く。汗で髪が張り付いてるのに、笑顔はいつもと同じ軽さで、いつもと同じ明るさで。
「焦凍! また明日な!!」
教室を出る前にも言ってくれたのに。靴箱のところでも言ってくれたのに。もう一回、言ってくれた。まるで、今日で終わりじゃないことを、俺が忘れないように。
また明日も兎丸に会える。会っていいんだ。
許可が降りた。誰からの許可かなんて分からない。たぶん、俺の中の、ずっと厳しい顔をしている何かが「それは望んでもいい」と言った気がしただけ。でもそれだけで十分だった。
「またな」
返事は小さくなった。届かないだろう声だった。届かないのに、言わずにはいられなかった。口にした瞬間、少しだけ胸が楽になる。
俺はそのまま家に帰った。フェンスから手を離すと、掌に金網の跡が残っていた。消えていく跡を見ながら、明日って言葉を頭の中で何回も転がした。明日。明日。明日。薄い光みたいに、それだけが、帰り道に落ちていた。
