今世の父の計らいにより、俺が恋の羽と書いてきゅんはにされる危険は、ひとまず遠ざけられた。かわりに与えられたのは、ゴミ箱から拾ってきた数日前の新聞に載っていた政治家の名前だ。陽火、というものらしい。
「汚職で捕まってんじゃねえか」
「俺が考えるよりマシだろ」
「頭いいやつの名前だからいいんじゃねえの。縁起とか」
「きゅんはより良いだろ」
そんな大雑把すぎる会議で決められたが、まあ悪くはない。汚職で捕まった政治家の名前でも、きゅんはよりは全然良い。
「陽火ー」と呼ばれたので、俺は両手を上げて「なー」と返事をした。
すいませんね、まだ人間の言葉が上手く発音できないもので。「あっぶ、まあーう」とかしか出ないんです。だが返事をする意思だけはあります。社会性のある赤子なので。
「何言ってるか分かんねえなあ」と笑いながら、今世の父が俺の唇に指を当て、ぷるぷると揺らしてくる。哀れ、無抵抗ベビの俺は「アププププ」となすがままにされるのであった。
今世の父には謎が多い。これだけ同じ顔が並んでいるのに、みんな一人称も二人称も「俺」なので、聞いているこっちは本当にわけが分からない。
別の人に話しかける時でさえ、「俺はどうする」「俺もやれよ」みたいな会話になるので、どうやら互いを完全な他人としては見ていないらしい。
誰か一人くらい、せめてリーダー格の名前を呼んでくれないだろうか。俺には分からないんだ。今世の父の名前すらも。
ただ、リーダー格とその他、という区別だけはなんとなくついている。
ベッドの上に転がされた時、同じ顔が複数人そこらにいても、たぶんこの人だな……と思う男が近づいてきて、俺を抱き上げる。なので、俺なりに見分けられてはいるのだと思う。理屈は分からないのでなんとも言えないが、父子の縁とか、そういうスピリチュアルな判別機能が赤子に搭載されているのかもしれない。
そして、リーダー格以外の存在は、たぶんクローン的ななにかだ。しかもあまり強度は高くないらしい。前に、タンスの角に小指をぶつけたやつが「痛え!!」と叫び、次の瞬間ぐちゃっと潰れたかと思うと、そのまま消えていたことがある。怖すぎ……。泣いた……。
「俺が雑魚なせいで陽火が泣いちまったじゃねーか! 謝れよ俺!」「ごめんな、あとで俺から強く言い聞かせとくわ」「うわ顔真っ赤。だから赤ちゃんって赤ちゃんなのか?」と俺を囲むだけで、だれも“消えた”事は気にしていなかったので、特に珍しい現象ではないらしい。こちとら暫定父の残機がひとつ消えたような感覚なんですが、それほど気にしなくていい感じですか?
これとは逆に、やけに忙しそうな時には十人以上に増えていたこともある。部屋中に今世の父。これはこれでホラーだったので恐怖のオギャをかました。
今世の父は、なんらかの能力者なのかもしれない。この古アパートに隠れるように暮らしているのも、その能力を狙われて誰かに追われているからだったりするのだろうか。
今世の父がなんらかの能力者なのだとして、それなら少しだけ説明がつく気がした。俺の知っている世界と少し違うSF世界観。まともな移動ができない今の俺の“すべて”は、この古アパートの一室だけなので、この程度の認識だけでも問題ない。
日中の俺はだいたい二人くらいのクローン達に見守られていた。
ひとりはミルクを作り、ひとりは洗濯機を回し、たまに増えたり減ったりしながら、古アパートの一室でどうにか赤子の世話らしきものを成立させてくれている。
ミルクの温度は毎回違うし、おむつは前後逆の時があるし、寝かしつけはだいたい「そろそろ寝るもんじゃないか、おーい寝ろ」で押し切ろうとしてくるが、それでも俺を床に放置して忘れるようなことはなかった。
俺はそこで、なんとなく、今世の父たちは荒っぽいなりに俺を生かそうとしているのだと思っていた。日付の感覚はないが、そこそこ平和な日々が一ヶ月以上続いている気がする。
けれどある時期から、今世の父が帰ってくる時間になると、部屋の空気はゆっくり変わるようになった。短すぎない? 平和。
最初の頃は「陽火、ただいま」と俺の頬をふにふにしていた手が、だんだん床へ投げ出された鞄を蹴るようになり、閉めたドアに背中を預けたまましばらく動かなくなり、何も言わずに洗面所へ向かって、顔も洗わず戻ってくるようになった。
怪我も増えた。頬に擦り傷、口の端に切れた跡、腕に青黒い痣。服の下に何か隠している日もあって、そういう時はクローン達は妙に静かだった。「またかよ」と言いたそうな顔をして、でも言えないみたいに黙っている。
今世の父は俺に乱暴なことはしない。抱き上げる時は相変わらず慎重だし、俺の頭の後ろには必ず手を添えてくれる。
けれど、物へ当たることは増えた。空の缶を潰す音、壁に拳をぶつける鈍い音、テーブルの上のものを腕で払う音。赤子の俺はそのたびに驚いて反射で泣き、今世の父はそれに気づくと、はっとした顔でこちらを見て、「悪い」と掠れた声で言う。謝る相手が赤子しかいない部屋で、大人になりきれていない男が謝る。そのことが、なんだか妙に痛々しかった。
スマホに連絡がかかってくると、もっと分かりやすい。あれだけ口の悪い今世の父が、着信音ひとつでびくっと身体を跳ねさせる。
画面を見た瞬間に顔から血の気が引いて、出る前からもう謝る準備をしているみたいな顔になる。「はい」「すんません」「いや、でも」「分かってます」「すんません」と、同じ言葉ばかりを繰り返す。その間、電話口の向こうからは、俺の耳でも分かるくらい荒い声が漏れていた。何を言われているのかまでは分からない。けれど、今世の父が責められて、怒鳴られて、何かを約束させられていることだけは分かった。
しかもたぶん、相手は怒ることに気持ちよくなっている。加虐的な響きがある、抵抗できない相手を打ち負かすことが楽しいタイプの、俺の嫌いな人間の雰囲気があった。
電話が終わると、今世の父はしばらくスマホを握ったまま黙り込む。それから、深く、深く、肺の底に溜まったものを吐き出すみたいに溜め息をついた。
そんな少し殺伐とし始めた部屋で、俺だけはずっと“まとも”っぽく育てられている。
三食しっかりと与えられているが、メニューは毎回くたくたに煮たうどんだ。離乳食として正しいのかは分からないが、とにかく柔らかいし、喉には詰まらないし、俺は前世持ちベイビーなので多少の単調さには耐えられる。
問題は、今世の父も同じものを食べていることだった。赤子用に味のないうどんを煮るならまだ分かるけど、鍋に残った同じうどんをそのまま啜っている。
外で何か食べているような感じもしない。コンビニ袋も弁当の空き容器も増えない。発泡酒の空き缶とタバコの空箱だけは増えていく。
顔色は日に日に悪くなり、目の下は暗く、頬は少しこけて、怒鳴る声にも芯がなくなっていった。栄養が足りていない。たぶん、睡眠も足りていない。金も、時間も、助けてくれる大人も、まともな選択肢も、何もかも足りていない。
俺は赤ん坊だけど、あの、父も。今世の父も、この子も、まだ未成年だろ。
この子の両親はどこに行ったんですか。なんでこの子が、こんな古アパートで、よく分からない電話に怯えながら、くたくたに煮たうどんを啜って、拾ったみたいな赤子を抱いているんですか。
俺は今世の父が可哀想で、ベビの涙腺が勝手に緩んだ。膝の上でうつ伏せになり、父の服をちいさな手で握りながら「ほにゃーー」と泣くと、少しかさついた手が俺の背中をゆっくり撫でた。「ほにゃーだなあ」と、今世の父は薄く笑う。父よ、俺は悲しいよ。ほにゃ。
はじめて部屋に今世の父一人しかいなくなった日、古アパートは妙に静かだった。いつもならどこかで同じ顔のクローン達がうるさくしているのに、その日は洗濯機の音も、テレビの音も、雑な口喧嘩もなかった。
俺は今世の父の膝の上に転がされ、仰向けのまま天井と父の顔を交互に見ている。所々破れた薄いカーテン越しの光で、部屋全体が古い水槽の中みたいにくすんでいる。
今世の父は俺の顎の下を、たぷ、たぷ、と指先で揺らしていた。赤子の肉が珍しいのか、単に手持ち無沙汰なのか、前なら「二重顎じゃねえか」とか「もちもちしてんな」とか何かしら言って笑ったはずなのに、表情が薄い。怒っているのとも違う。疲れているのとも少し違う。感情の置き場所が分からなくなって、顔から何もかも剥がれ落ちたみたいな顔だった。
「もっかい、まともにやってみようと思ったんだけどさあ」
ぽつりと落ちた声は、俺に聞かせるというより、どこにも行けなくなった言葉がたまたま口からこぼれたみたいだった。
俺は瞬きも忘れて、父の顔を見上げる。続きは掠れて、うまく言葉にならなかった。喉の奥で潰れて、息に混じって、消えかける。
それでも、俺にはかろうじて聞こえた。「……俺にはできねえや」顎をたぷたぷしていた指が止まる。今世の父は俺を見ていた。けれど、その目は俺を見ているようで、もっと遠いところを見ているみたいだった。
俺は赤子なので、励ます言葉も、まともな提案も持っていない。できることといえば、父の膝の上で小さな手をぐっぱぐっぱと動かすことくらいだ。可愛い俺を見て元気を出してくれ……。
日に日に、今世の父のメンタルが崩れていくのを感じる。
最初は、俺が泣けば慌てて抱き上げ、ミルクをこぼしながら「待て待て待て」と騒いでいたのに、最近は妙に静かな時間が増えた。
深夜、ふと気配を感じて目を覚ますと、俺の寝床である粗大ゴミ置き場からかっぱらってきたベビーベッドの横でじっっ……と俺を見下ろしている。
自分の不安に呑まれて、そこから目が離せなくなっている人間の顔をしていらっしゃる……。
本人も無意識なのだろう。唇だけが小さく動いて、「赤ん坊って夜泣きするはずだろ」「しないってことは、こいつどっか具合悪くて弱ってんじゃねえのか」「泣く元気もねえとか、そういうことじゃねえよな」と、いまは一人なのに複数いるみたいにぶつぶつ呟いている。
俺が愛想と前世の理性で夜泣きを控えていたせいで、まさかの方向に心配されている。強迫観念の自家中毒みたいだった。不安を消すために俺を確認しているはずなのに、見れば見るほど新しい不安を見つけてしまう。
俺は赤子なので「違います、夜泣きしない親孝行ベビなだけです」と説明することもできず、ただタオルケットの中で、なるべく健康そうに瞬きをするしか無かった。
どうにかして、今世の父を元気づけたい。そう思う。思うのだが、俺にできることは本当に何もない。
背中を叩いて「どしたん? 話聞くよ」と言ってやることも、温かい飯を作ってやることも、電話口の誰かに「うちの父に何してくれてんだ一族郎党生きにくい環境にしてやろうか」と怒鳴り返すこともできない。
俺に許されている武器は、あぶーばぶーと言いながらニコニコすることくらいだ。赤子ゆえ、無力。
だが最近は、「あぱ」と“ぱ”の音を出せるようになってきた。なので、なるべく早めに“ぱぱ”を習得したい。
マジで今世の父、俺に向かって「お父さんですよ~」とか「パパですよ~」とか、そういう基本の声掛けを一度もしてこない。
この家にはテレビもないので、言葉の習得があまりにも高難易度だ。赤子の語彙は周囲からの入力で育つんですよ。俺はいつまで父のことを“今世の父”などという長ったらしい呼び方で処理すればいいんだ。そろそろパパって言ってもいいか?
誰にも教えられていない、無から湧いてきた“パパ”ではあるが、そこはどうにか赤子の奇跡として受け止めてほしい。
たまたま唇の形と空気の抜け方がそうなった、くらいの感じで上手く誤魔化されてくれ。あと、できればNHKとか教育番組を見せてください……。俺も赤ん坊の成長スピードが分からないので、ボロが出ないように同年齢帯の平均が知りたいんです……。
しかし子の成長というものは、問答無用で親を喜ばせるものだろう。発語の習得と並行して、タッチからの初歩行を目指し、目下こそこそ訓練中である。
こそこそと言っても、赤子の身体でできる隠密行動には限界があるので、実際にはベビーベッドの柵や、低いテーブルの脚につかまりながら、ぷるぷる震える太ももで必死に立ち上がっているだけだ。つかまり立ちはできる。できるようになった。これはもう、赤子界ではかなりの進歩と言っていいはずだ。だが、そこから一歩を踏み出すのがとても難しい。
子供の構造、頭が重すぎる。前世では何の気なしに二足歩行していたが、今の俺は頭部という巨大な荷物を首の上に乗せている状態なので、少し気を抜くとすぐ後ろへごろんと転がりそうになる。
ああ~~かわいい俺がすっ転んじゃったよ~~ふにゃーん。びっくりすると自動で泣くんですよ、赤子というものは。
そんな俺の自主訓練を見て、今世の父も「これ、やべえんじゃねえか」とようやく危険に気づいたらしい。気づいてくれたこと自体は大変ありがたいが、そこからの対策が少々過剰だった。床という床に、どこから持ってきたのか分からない絨毯やらクッションやら座布団やら、たぶん洗濯済みではなさそうな毛布やらを敷き詰めはじめた。
おかげで転んでも痛くはないが、足元がふわふわしすぎて、余計に歩行訓練が困難になっている。あと父も歩きにくそう。誰も幸せになれていないんじゃないですか?
でも、俺がタッチを成功させると、今世の父は「すげぇなぁ、もうすぐ歩けるな」と、本当に嬉しそうに笑う。
なら、俺の考えは間違っていないのだろう。俺が元気に立つ。俺が歩く。すると父は嬉しい。これはもう、頑張るしかない。俺は父のメンタル回復計画として、毎日せっせと自主訓練を重ねた。柵につかまり、ローテーブルにつかまり、クッションの沼に足を取られ、何度も尻から沈みながら、それでも少しずつ、赤子の身体に歩行という文明を叩き込んでいく。
そしてついに、その時が来た。
ベビーベッドの柵から手を離し、俺はぷるぷる震える足で床を踏みしめる。
一歩。転ばない。
二歩。まだいける。
三歩。頭が重い。
四歩。世界が揺れる。
五歩。俺、すごいのでは?
六歩。これはもう人類史。
七歩。父、見てる?
八歩。ローテーブルに、届いた。
歩けた。歩けました!! ベビーベッドからローテーブルまでの距離を! なんと! この俺が! 自力で歩くことに成功しました!!
今世の父!! なんでこんな時に限って後ろ向いてるの!!?
くたくたおうどんよりかわいい俺を見なよ!! いま偉大なる第一歩が第八歩くらいまで進みましたよ! 父!? 父!!?
可及的速やかに気づいてもらわなければならない。今世の父がこちらを向いていないなら、俺の方から父の視界に入りに行けばいい。
そう考えた俺は、ローテーブルに添えていた手を離し、父の背中へ向かってよちよちと歩き出した。偉大なる第九歩。偉大なる第十歩。俺は今、父のために歩いています。父よ、どうか見てください。あなたの赤子が、あなたを喜ばせるために、短い足で世界を横断しています。
そういう感動的な場面になるはずだった。はずだったのに、次の瞬間、俺の手がローテーブルの端に当たり、そこに置かれていた灰皿ががしゃんと派手な音を立ててひっくり返った。
白と黒の灰、吸い殻、よく分からない細かいゴミが俺の頭からばさっと降ってくる。
え。なに。汚い。目に入る。口にも入った気がする。びっくりした俺は、反射で「オギャアアア!!」と泣いた。これは驚きのオギャ。
目が痛いようと泣いていると、「……タバコ、食った?」と絶望みたいな声がした。少しは口に入ったかもしれないけど、ちゃんとぺっぺしたので大丈夫です。
説明したいが、俺の口から出るのは「あば、あ、うぎゃー」くらいである。一度泣いたら止まらねえぜ。
「しぬ」
父はそう呟いた次の瞬間、完全に大パニックになった。「死ぬ!! こいつ死ぬ!!」叫びながら俺を担ぎ上げ、そのまま風呂場へ駆け込む。
蛇口がひねられ、冷たい水がばしゃっと俺の頭にかかった。灰を流そうとしてくれているのだろう。口の中を確認しようとしているのも分かる。分かるが、父の手は震えていた。震えた指が俺の口に入り、慌てて掻き出そうとした爪が、俺の内側のやわらかいところをひっかいた。痛い。びっくりした。苦しい。喉の奥が反射でひくつき、俺は水と灰と唾液と一緒に、吐いた。そこに赤い血が混じった。痛いよう。
「血も吐いた!!!」
ひっくり返った悲鳴が風呂場に跳ね返る。違うんです、口の中が切れただけです。俺は死にません。ただこのまま揺さぶられてると危ない気がする。揺さぶられ症候群ってやつがあった気がする……詳細は分からないけど、名称的に揺さぶられたらなるやつな気がする……。
しかし俺のベイビーボディは痛みと冷たさと本能的恐怖でぎゃんぎゃん泣くことしかできない。
シャワーの水音の向こうで、子供の泣き声が聞こえると思った。今世の父の絶叫じみた泣き声だった。
「だめだ。もうだめだ。何やってもだめだ。役たたず! 役たたず!ああもうおしまいだ!! 全然まともになれねえ。赤ん坊ひとりまともに見られねえ。死のう。もう死のう。こんな世界で生きてたって、こいつは幸せになれねえ。要領も悪けりゃ頭もわりぃ! なんで生きてんだ俺が! あああああ俺なんかのガキに生まれちゃったから!! 可哀想だ!! 終わりだ、おしまいだ! 俺のせいだ!!」
言葉がどんどん壊れていく。
俺を抱く腕は落とさないように必死なのに、視線はたぶん俺の方を見ていない。「もう死ぬ! 死んだ方がいいんだろ俺なんて!!」そう叫んだ瞬間、濡れた床を裸足で歩く足音が増えた。
父と同じ声が「そうか」とだけ言って、手を上げる。俺の視界には、風呂場の壁にうつる影が見えていた。振り上げた手は刃物を握り直すかたちをしている。
やめて。違う。そうじゃない。俺はそんなことのために歩いたんじゃない。俺は父に死んでほしくて歩いたんじゃない。
俺はただ、喜ばせたかっただけだ。泣きながら、濡れた手を必死に伸ばした。小さな指が父の袖を掴もうとして、空を切る。
「ぱ」声が出た。父はまだ気づかない。
「ぱ、ぱあ」喉が痛い。口の中も痛い。それでも俺は、必死に言葉を引きずり出す。
「ぱぱ。あーん、うえーん。ぱぱあ」
その音で、全員が止まった。刃物を持った影も、俺を抱いている父も、息をすることすら忘れたみたいに動かなくなる。シャワーの水だけが、ばしゃばしゃと俺たちを濡らしていた。
まだ育ちきっていない男の腕が、俺のずり落ちそうな身体を抱き直す。体の向きが変えられて、今世の父の顔が見えた。くちゃくちゃに泣いている。俺も泣きじゃくりながら一生懸命に手を伸ばした。「ぱぱあ」もう一度そう呼ぶと、俺を抱く腕が震える。
さっきまで落とさないように抱えているだけだった腕が、今度は俺を抱きしめる形に変わる。
強すぎない。痛くない。けれど、離したら自分までばらばらになってしまうみたいな抱き方だった。
「……俺?」掠れた声で言う。「俺のこと、呼んだのか」答えられない。そこまで器用に言葉が出ない。ただ、泣きながらしがみつこうとして、また「ぱぱ」と言った。
俺の声に引っ張られるように、さっきまで何か遠いところへ落ちていきそうだった目が合った。その瞬間、理屈はないけど安心した。
ああ、戻ってきた。そう思ったら、勝手に顔が笑う。泣いた直後なので、たぶんひどい顔だったと思う。けど、俺が笑うと父も笑う。そういうものだ。
俺を見つめる顔も、もっと歪む。泣いた直後でぐしゃぐしゃの顔のまま、まだ指先を震わせたまま、俺の頬をそっと撫でた。触れるか触れないかくらいの、ひどく弱い手つきだった。
「なんだお前……何笑ってんだ。俺のこと、好きなのかよ……」
そう言った声は、笑おうとして失敗したみたいに震えていて、次の瞬間、もう一度声を上げて泣いた。俺をしっかりと抱きしめたまま、落とさないためではなく、離さないための腕で包み込むようにぎゅうっとされる。真っ暗になった視界の中で、何度も引き攣った呼吸音がする。溺れかけた人が必死に息継ぎをするように息を吸った音だ。
シャワーの水はまだ降っていたけれど、風呂場の入口に立っていたクローン達は、いつの間にかいなくなっている。刃物も、足音も、もうどこにもない。残っているのは、冷たい水音と、泣きじゃくる俺のパパと、その腕の中でまだ「ぱぱ」と呼ぼうとしている俺だけだった。

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