遠雷の続き

 上鳴電気が恋人を欲しがるのは、今に始まったことではない。
 俺と上鳴は小学校の六年間を同じ学校で過ごしたが、その頃から上鳴は、将来ほしいものを思いつくたび、すでに手に入ることが決まったような顔で俺へ報告しに来た。

 新しい携帯ゲーム、庭で飼える大型犬、自分専用の部屋、中学校へ上がれば急に増える予定の友達百人。恋人について言い出したのがいつだったかは覚えていない。少なくとも、小学生の上鳴が想像していた中学校生活には、放課後に一緒に帰る恋人と、毎日遊びに来る俺と、なぜか上鳴の家の庭で飼われているゴールデンレトリバーが同時に存在していた。

 俺は中学進学と同時に引っ越し、学区の違う私立へ進むことが決まっていたので、卒業の少し前には上鳴へその話をしていた。帰り道で二回、俺の家でゲームをしている時に一回、念のため卒業式の前日にも一回言った。
 上鳴はそのたび、うん、分かった、と返事をしたあと、中学では部活を何にするか、制服のまま寄り道をしたら大人っぽく見えるか、俺達のどちらが先に恋人を作るかという話を始めた。

 冗談だと思ったのか、聞いてはいるけど意味は理解できていなかったのかわからない。小学生の頃の上鳴は、持って生まれた個性をちょくちょく使っては軽くアホになっていた。

 派手で格好良い個性なので使いたくなるのは仕方ないだろう。意味もなくビリビリさせては「うぇい」とアホを晒していたので、格好いいと格好わるいで分けると圧倒的に格好わるい方に転がっていた。
 今思い出すと、あの時の返事も「うん」じゃなくて「うぇい」だった気もする。うぇい、わかった。何も分かっていないことは分かっていたが、四回言ったのだから、そこから先まで俺の責任ではないと諦めた。そして卒業式の日、校門の前で俺の進学先をようやく現実として理解した上鳴は、胸につけた花を握り潰しながら泣いた。

「裏切り者おお!」

 式を終えた児童も保護者もまだ周囲に大勢いたため、六年間の思い出に耐えきれなくなったのだと勘違いされた。担任は目頭を押さえ、上鳴の母親は、電気も卒業が寂しいのね、と嬉しそうに背中を撫でていた。
 上鳴は涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにしながら、理人だけ別の中学へ行くの、なんで、聞いてない、ずっと一緒だと思っていた、と訴えたが、周囲には友達との別れを惜しむ美しい言葉として処理された。
 ごめんごめんとハグして背中を叩きながら、「俺は四回言いました」と伝えると「理解してなければ伝えることに意味はあるのか!?」と妙に賢そうな発言をしたが、理解出来なかったのは上鳴側の問題なので悔い改めて欲しい。

 俺は当時まだスマートフォンを与えられておらず、上鳴も連絡先というものを自分で管理できるほど賢くなかった。
 俺の家は引っ越しの準備で慌ただしく、親同士が特別親しいわけでもない。まあ、これで永遠の別れになるのかもしれないと思った。

 上鳴は校門の前で、絶対に探し出す、忘れたら許さない、と泣きながら宣言したが、翌日には卒業祝いに買ってもらうゲームのことで頭がいっぱいになるだろうと思っていたので、俺も深くは考えなかった。

 それから三年、実際に一度も会わなかったが、まさか雄英高校の入学初日に再会するとは思わなかった。校舎へ向かう途中、背後から腰を拘束され、聞き覚えのない声で名前を叫ばれた。小学生の頃より身長も体重も増え、声変わりまで済ませた人間を、背中への衝撃と声だけで判別できるはずがない。俺は普通に悲鳴を上げた。

「うわあっ、誰だお前!」

「ひどくない!? 俺だよ、電気だよ! 三年ぶりの感動の再会じゃん!」

 振り返って顔を見ても、すぐには分からなかった。髪型だけは昔と大して変わっていなかったが、顔つきは大人びて、声は記憶より一段どころか二段ほど低くなっている。
 それでも、久しぶりに会った友人を背後から拘束して驚かせた挙げ句、相手が自分を即座に判別しなかったことへ傷つく身勝手さには覚えがあった。
 俺が名前を呼ぶと、上鳴は本当に嬉しそうに笑った。その日の放課後には俺の連絡先を登録し、ちょこちょこと遊びに誘ってきて、寮生活になった途端サポート科の寮へ来るようになった。
 三年間の空白については互いにいくつか話したが、取り戻そうとした覚えはない。上鳴が俺の部屋で菓子を食べ、俺が上鳴の話を半分だけ聞いているうちに、空いていた時間はいつの間にか見えなくなった。

「恋人が欲しい!」

 上鳴は本日四度目となる要求を天井へ向かって叫んだ。人の寮室に突撃してきた分際で、特にやることもなくゴロゴロとしている。可哀想に、顔はいいのになあと思いながら、コントローラーを握ったまま山賊の背後へ回り込んだ。推奨レベルを三つ下回った状態で根城へ侵入したせいで、敵の攻撃は二発受ければ瀕死、一発でも当たり方が悪ければ斜面を転がり落ちて死ぬ。
 いま必要なのは背後で枕を抱えている恋愛難民への配慮ではなく、残り二個しかない回復薬をここで使うか、毒沼を抜けるまで温存するかという冷静な判断だった。

「うるせえ。俺に言われても出せねえよ。恋人製造機はまだ開発してない」

「サポート科だろ! 頑張れよ!」

「開発に成功しても、お前に渡す前に倫理委員会へ没収されるわ」

 ベッドの上で、上鳴は俺の枕を抱えたまま右へ転がり、壁へ肩をぶつける前に左へ戻った。
 部屋へ来てから一時間ほど経つが、こいつは持参した菓子を食べ、俺の冷蔵庫から炭酸飲料を取り出し、俺がゲームをする画面を眺めているだけである。
 遊びに来たというより、人の部屋を無料の休憩所として利用しているに近い。袋菓子はとうに空になっているのに、空袋だけは腹の横へ置いていた。ゴミ箱まで二歩なのだから捨てればいいと思うが、あとで持ち帰るつもりなのかもしれない。上鳴の行動は最後まで見なければ、怠惰なのか妙な律儀さなのか判断できないことが多かった。

「見てるだけで楽しいか?」

「楽しい。俺、人がゲームしてんの見るの好き」

 声だけなら、操作している俺よりずっと楽しそうだった。上鳴は自分にもやらせろとは言わない。俺が罠へ引っかかれば腹を抱えて笑い、宝箱から使い道のない素材が出れば、レアっぽいじゃん、と根拠なく励まし、敵の増援が現れると頼んでもいない実況を始める。
 攻略方法を調べて横から教えることもなく、コントローラーを奪おうともしない。ただ俺の斜め後ろから画面を見て、俺がやめれば続きを気にすることもなく別の話を始めた。

「じゃあ黙って見てろ。右から来てるのは見えてる」

「まだ何も言ってねえじゃん」

「言いそうな雰囲気してたから」

「勘で怒るのやめろよ!」

 上鳴はけらけら笑い、枕へ顎を載せた。こういう時のこいつは、子供っぽいという言葉では少し足りない。警戒心をどこかへ置き忘れ、手足を投げ出し、他人の部屋なのに自分の巣みたいな顔をする。
 ヒーロー科の訓練中には、もう少しましな顔をしていた。俺は上鳴の戦闘訓練を何度か見たことがある。
 放電範囲へ味方が入らないよう位置を変え、避難経路を塞がない程度に出力を抑え、周囲を見ながら自分が引き受けられる量を測っていた。小学生の頃の、意味もなく必殺技を連発してはアホになっていた姿とは全く違う、普段の軽薄さからは想像しにくいほど慎重で、有能な男に見えた。ヒーロー科というものは凄いんだな、と、当たり前のことを再確認してしまった。
 本当に、ちゃんとしてたらいちいち騒がなくてもモテそうなもんなのにな。顔も性格もいいのに、なんでこんなに残念なんだ。

 画面の中で長い戦闘が終わり、主人公は救出した領主の娘と町へ戻った。会話選択肢をいくつか選んでいるうちに音楽が変わり、教会へ場面が切り替わる。少し前の依頼で渡した指輪が条件を満たしていたらしい。
 白い衣装を着た主人公と娘が祭壇の前へ並び、画面の端から花びらが舞い落ちた。俺は戦闘用の装備を外した主人公に違和感を覚えたが、上鳴は素直に身を起こした。

「うわ、結婚イベントじゃん。いいなあ。俺もこういう幸せなイベント起こしてえ。恋人が欲しい!」

 上鳴は人の枕を抱えたまま足をばたつかせた。踵がベッドへ落ちるたび、振動が床を通って椅子の脚まで届く。
 画面の中では神父が厳かな文言を読み上げ、現実では恋人のいない高校生が、配偶者を求めて獣のように喚いている。両方を同時に聞いていると、結婚という制度が急に信用できないものへ思えてきた。

「相手もいねえのに結婚式まで進めるな。段階を踏め」

「だから相手が欲しいって言ってんじゃん。理人、誰か紹介してよ。サポート科って女子多いだろ」

「紹介したあとの保守点検まで俺へ回ってきそうだから嫌だ」

「故障前提で話すなよ!」

「正常動作を見たことがない」

 また始まった。放っておけば、しばらく騒ぎ続ける。真面目に話を聞けば、好みだの出会いがないだの、ヒーロー科は課題が多すぎるだのと長くなった。
 以前、二時間近く相談へ付き合わされたことがある。どんな相手がいいのか聞けば、手先が器用で、優しくて、一緒にいて楽しくて、俺のことが好きな人、と条件になっているようで何も絞れていない答えが返ってきた。手先が器用なら確かにサポート科の方が多そうだ。ひとつずつ意味を確かめようとしたところで、上鳴は購買の新作パンの話へ移り、そのまま恋人について忘れた。相談を受けた俺だけが、途中まで聞いた好みを覚えていた。多分今聞いたら、条件が変わっていそうな気がしなくもない。

「うるせ~~。分かった、分かった。三十超えても電気が一人だったら、俺がお嫁さんにしてやるから」

 ゲーム画面では、新郎新婦が口づけを交わしていた。背後が静かになった。上鳴が黙ったことの方が、画面の中で結婚式が始まったことより珍しかった。不審に思うより先に、ベッドのスプリングが鳴った。

「ほんと?」
「ほんとほんと」

 大暴れが突然止まるから、妙に部屋の中が静かになったような気がする。俺の返事に、上鳴は少しだけ黙ったあといつものように楽しげに声を上げた。

「おう、言ったな。お前、三十までに幸せな家庭築いてても、俺を娶るために家庭破壊しろよ!」

「やっば。ヒーロー科の発言とは思えん」

「将来の夢へ向けて日々邁進しております!」

 画面の中で結婚イベントは終わり、主人公の家には配偶者が住み着いていた。朝になると弁当を持たせてくれるらしい。冒険へ出るたび回復効果のある料理を渡してくれるなら便利だと思い、次のクエストを選ぶ。
 後ろでは上鳴が、三十かあと呟いていた。まあ、それまでにはお前も恋人が出来てるよ。というかお前の方が先に結婚してそう。

 

 翌日の放課後、俺は開発工房で一年生用戦闘服の腕部パーツを分解していた。ヒーロー科の生徒が壁へ突っ込んだ時に壊したらしく、外装は割れ、衝撃吸収材はひしゃげ、固定用のボルトが一本消えている。
 報告書の事故原因欄には「勢い余って」と書かれていた。勢いは余るものではなく制御するものだと、ヒーロー科の連中にはいつか教えた方がいい。ただし爆豪勝己へ言う役だけは引き受けたくなかった。
 ぶちぶちと文句を言いながら修理と改良を考えていると、机の端へ置いていた端末が震えた。送信者は上鳴電気。この時間、上鳴は戦闘訓練中のはずだった。緊急連絡かと思って手袋を外し、画面を見る。

『さんじゅねん なっげーえのえ いまからでいくね ?、? ねっ』

 しばらく文字列を眺めた。画面を閉じ、もう一度開いた。表示は変わらない。誤字という範囲ではなかった。文章を作ろうとした意志だけを残して崩壊している。途中へ混ざった疑問符と読点には、おそらく本人なりの感情が込められているのだろうが、解読する側へ伝える気はまったく感じられなかった。個性を使いすぎた上鳴から届く文章は、たいてい前半で力尽き後半で分解する。今回は最初から最後まで平等に駄目だった。

『ヒーロー科大変そうだな。何言ってるか分かんねえから、賢くなってからワンモア』

 送信して十秒もしないうちに既読がついた。

『あぴーる へへへ かち かちます いひひひ 理人はどんかん バカ』

「悪口言われてることだけは分かるな」

 隣の作業台で溶接していた同級生が遮光面を上げた。

「何かあった?」

「何らかのアピールをして、勝った気でいる奴から謎解きが届いた」

「ヒーロー科?」

「ヒーロー科」

「ああ」

 それだけで納得されるあたり、日頃の行いというものは侮れない。俺は端末へ視線を戻した。『あぴーる』とは何だろう。戦闘訓練で目立つ動きをしたという報告か。『かちます』は勝ちます。誰に勝つつもりなのか。最後の鈍感バカだけは明確に俺へ向けられている。俺が何かを察していないせいで、上鳴は勝手に勝利を宣言しているらしい。
 一瞬だけ、遠回しな救助要請ではないかと考えた。ヴィランに拘束され、まともな文章を送れない状況で、意味の通らない文面へ位置情報や暗号を混ぜている可能性もある。実際に実習で危ない目にあったことも知っている。だがまあ、さっき飯田が装備の相談に来たし、あいつが平和に過ごしているということは危険に巻き込まれている訳では無いのだろう。放課後に自主練をすると言っていたから、単純に個性の使いすぎ。つまり、状況ではなく本人の方が謎になっているだけだった。

『水飲め。先生の言うこと聞け。人に噛みつくなよ』

『かまない 理人はかむ』

「怖えよ」

 俺は端末を伏せ、作業へ戻った。あとで正常に戻った本人へ聞けばいい。上鳴がアホになっている時の発言を深く考えるのは、落雷の形に人生の啓示を見いだそうとするのと同じくらい無駄だった。落雷ならまだ神性を感じられるが、上鳴のはただアホになっているだけなので。
 以降、連絡は来なかったのでそのまま寝たか自分でも「なにこれ」と何も分からなくなっているのだろう。まあ、たまにあるバグだ。

 

 

 翌朝、目覚ましより早く端末が震えた。枕元を探り、片目だけ開けて通知を確認する。午前六時十二分。送信者は電気。昨日の怪文書について謝罪するにしては早すぎる。上鳴が自力で起きたなら、なおさら何かがおかしかった。

『三十歳まで待つのは長すぎるので、今から僕とお付き合いしていただけませんか。理人の前で恋人が欲しいと言っていたのはアピールのつもりでした。理人が鈍感バカなのは特に謝る予定はないです。事実だから』

 眠気が消えた。上半身を起こし、文章を二度読んだ。丁寧な言葉を使っているが、内容はまったく丁寧ではない。交際を申し込みながら相手を罵倒し、しかもその点について謝罪する意思がないと宣言している。個性の後遺症は抜けたらしいが、頭がよくなったとは限らなかった。昨日の怪文書も読み返した。

『さんじゅねん なっげーえのえ いまからでいくね』

 三十まで長えので、今からでいいよね。

『あぴーる へへへ かち かちます』

 アピール。勝ち。勝ちます。

 そこまで解読したところで、俺は通話ボタンを押した。三秒で切られた。画面へ【通話キャンセル】と表示され、その直後に短いメッセージが届いた。

 電気:いや
 理人:電話出ろ
 電気:いじめないで
 理人:告白文送りつけてから心の準備を始めるな
 電気:だって昨日の俺が勝手に
 理人:昨日もお前だろ
 電気:アホの俺と賢い俺は別人みたいなものなので
 理人:責任逃れが政治家みてえだな
 電気:お願いだから今日一日考えて落ち着いて
 理人:もう考えたし落ち着いてる

 そこで止まった。しばらく待ったが、返事は来ない。もう一度電話をかけると、今度は呼び出し音が鳴る前に切断された。告白した本人が、返事だけは受け取ろうとしない。なんだァ……こいつ……人を一時間も早く叩き起した分際でお前……。一晩寝て知能を取り戻した途端、布団の奥へ潜り込んでやがる……。

 理人:放課後そっち行く
 電気:来ないで
 理人:行く
 電気:部屋片付いてない
 理人:お前の部屋基本片付いてるだろ
 電気:心が散らかってる
 理人:知らね
 電気:こわい
 理人:俺も朝から腹立ってる
 電気:やっぱり振られるやつじゃん!

 俺は端末を握ったまま、深く息を吐いた。そこまで読んで、ようやく分かった。
 こいつ、言いたいこと言ったあとはもう自分の中で勝手にこたえを出してる。それなのに、個性で判断力が吹き飛んでいる最中に送った怪文書を、正常に戻ってから取り消すこともできたはずなのに、意味の通る文章へ直してもう一度送った。逃げながら、なかったことにはしなかった。

「面倒くせえな」

 誰に聞かせるでもなく呟き、俺はベッドを出た。床へ足を下ろしてから、返事を文章で送らなかったことに気づいた。送ろうと思えば、いくらでも短く書けた。それをせずに電話をかけた理由を、朝から考える気にはならなかったし、二度寝は出来なかった。

 

 放課後、ヒーロー科の寮へ着くと、談話室にいた切島が俺の顔を見るなり「あっ」と声を上げた。上鳴から何か聞いた顔ではない。何も聞いていないからこそ、朝からの挙動で余計なことを察している顔だった。

「あいつなら部屋にいるぜ。朝からずっと変だったから、あんまり怒んないでやってくれ」

「優しいやつだな君は」

「そうでもないって。でもほら、泣きそうだったからさ」

「泣きそうだったのかあ……」

 最後の一言だけは声を落として伝えてくれたあたり、切島は本当に優しいやつらしい。上鳴は良いクラスメイトを持ったことを感謝した方がいい。こういう時、囃し立てるやつの方が俺たちの年代では普通なんだからな。
 棟が違うから非常に入りにくいが、別に生徒間での行き来は制限されていない。記憶をたどって階段を上がり、上鳴の部屋の前で三度ノックした。返事はない。名前を呼ぶと、室内で何かが倒れた。重い音ではなかったため、本人ではなく物だろう。

「上鳴くん、あっそびましょ」

「いない」

「返事した時点でいるんだよ。ドア壊されたくなかったら開けろ」

「いじめないで……」

「いじめに来ました」

 しばらくして鍵が外れた。扉が十センチほど開き、隙間から上鳴の片目だけが覗いた。風呂へ入ったあとなのか、下ろした前髪が額へ張りついている。いつもの髪型では顔の輪郭から外へ散っている分まで、いまは全部内側へ落ちていた。普段より小さく見える理由は、たぶんそれだけではなかった。

「怒ってる?」

「怒ってる。入れろ」

「俺、昨日アホだったし。責任能力とか、そういうのを考慮してもらえませんか」

「今朝もう一度送っただろ」

 上鳴の目が泳いだ。俺は扉の縁へ手をかけ、抵抗される前に押し開ける。上鳴は二歩ほど後ずさり、ベッドの端へ座った。
 人の部屋では勝手に寝転がり、自由奔放に振舞っている男が、自分の部屋では借りてきた猫みたいに背中を丸めている。
 室内はやっぱりいつも通りに片づいていた。流行りものと格好いいものを詰め込んだ軽薄な雰囲気の部屋。本人は女子受けを狙っているのかもしれないが、実際に喜びそうなのは男子の方だった。
 ベッドの掛け布団には、さっきまで誰かが潜っていた形だけが残っている。片づいていないのは、本人の申告どおり別の部分らしかった。俺は家主を逃がさない為に扉を閉めた。鍵も閉めると、上鳴は「ひぇ……」と小さく鳴いた。

「何で電話に出ねえんだよ」

「怖かったからです。俺だって本当は、もう少しいい感じにアピールして、理人も俺のこと好きかもってなってから告白する予定だったんだよ。それが全部ダメになりました電気はもうおしまいです」

「アピールって、俺の部屋で恋人欲しいって騒ぐことか」

理人の前でしか言ってないじゃん。他の奴に言ったって意味ないし。理人に、俺が恋人を欲しがってるって知ってほしかったんだよ。少しくらい意識するかと思って」

「俺側の推理力に頼りすぎでは? そもそも紹介を頼みながらそれは意識もクソもないのでは」

「だから鈍感バカなんだよ」

「お前の作戦がバカなんだろ」

 上鳴は唇を尖らせたが、それ以上は言い返さなかった。膝の上で両手を組み、親指の爪を何度も擦っている。昨日の訓練でついたのか、手の甲に薄い擦り傷があった。俺が見ていることには気づいていない。視線は床へ落ちたまま、上がってこなかった。

「……嫌だった?」

 ようやく出た声は、普段よりずっと小さかった。部屋の外では誰かが廊下を走り、遠くで扉が閉まった。その音が消えてからも、上鳴は顔を上げない。

「何が」

「俺に、そういう意味で見られてたの」

「別に嫌じゃねえ」

「じゃあ、困った?」

「朝から電話を切られ続けたのは困った。俺は話そうとしてんのに、お前が勝手に振られる準備して逃げるから腹が立ちましたね」

 上鳴が顔を上げた。何かを期待するにはまだ早いと思っている顔だった。聞きたいくせに、聞いたあとのことまで悪い方向にばかり転がして先に全てを怖がっている。

「お前、三十まで俺が独身だったら嫁になるんだろ」

「なるけど、その間に理人が結婚してたらほんとに家庭崩壊してもらうけど」

「三十歳までは長いから、今から付き合いたいんだろ」

「……付き合いたいけど」

「だったら電話に出ろよ。分かった、付き合おうって言わせろよ」

 返事が来ない。言葉の意味が届くまでに時間がかかっているのか、届いたものを信じるまでに時間が必要なのかは分からなかった。

 上鳴の顔が一気に赤くなった。耳まで染まり、口を開けたまま何も言わない。個性を使いすぎた時とは違うが、これはこれでまともな思考が残っているようには見えなかった。名前を呼ぶと、上鳴は両手で顔を覆い、指の隙間から息を吐いた。

「待って。いま脳が無理」

「放電してないのにアホになってんの。可哀想に」

「好きな奴に付き合おうって言われたら、誰だってアホになるだろ。理人は心臓にボルトでも使ってんの?」

「サポート科でも人体にボルトは使わんよ」

 上鳴は顔を覆ったまま笑った。途中で声が震え、笑ったことを誤魔化すように鼻を擦る。俺は見なかったことにした。上鳴も、見られていないつもりで手を下ろした。

「本当に俺でいいの? かわいそうだからとか、三十歳の予約を前倒ししただけじゃなくて?」

「かわいそうだからって付き合うくらいなら、普通に電話で断る派」

「好き?」

 上鳴は、こういうところだけ遠慮がない。さっきまで返事を聞くのが怖いと布団へ潜り込んでいたくせに、一度助かる可能性が見えれば、欲しいものを全部確かめようとする。昔からそうだった。新しいゲームを買ってもらえると分かれば、いつ、どこで、最初に俺と遊べるかまで一息に聞いた。

「好きじゃなきゃ付き合わないですね」

「そういう理屈じゃなくて、ちゃんと言ってほしいんですけど」

「好きだよ」

 せっかく正直に言ったのに、上鳴は何も言わなかった。ただ、目だけを何度か瞬かせ、確かめるように俺を見ている。

「いつから?」

 それは教えたくなかった。

 中学へ進んで、最初の一週間くらいは静かで楽だった。授業中に消しゴムの欠片を飛ばしてくる奴はいないし、帰り道で急に競争を始める奴もいない。ゲームをしている横で勝手な実況をする声もなく、俺の菓子を半分以上食べておきながら自分が分けてやったような顔をする奴もいなかった。楽だけど、ずっと楽しくなかった。
 新しい友達ができても、面白いことがあれば一番に上鳴へ話したくなった。道で大型犬を見れば、あいつが飼いたがっていた犬種だと思い、制服で寄り道をする生徒を見れば、これを見たら大人っぽいと騒ぐんだろうなと思った。いない人間の反応ばかり先に浮かんだ。

 会えなくなってから、ようやく気づいた。俺は上鳴と一緒にいるのが好きだったのではなく、上鳴が好きだった。友情の延長と呼ぶには、いなくなった場所に穴が開きすぎた。

 そんなことを今ここで言えば、間違いなく調子に乗る。三年間ずっと好きだったと知られるのは、普通に恥ずかしい。俺は一番無難な嘘をついた。

「雄英で再会したあたり」

「俺の方がずっと先に好きになってた」

「いつだよ」

理人が特別だって思ったのは一年生。これが恋愛の好きなんだって分かったのは、もっとあと」

「雄英の?」

「小学校の」

 思っていたより古かった。

 上鳴は膝の上で指を組み直した。さっきまでとは違う理由で視線を落とし、言葉を探している。本人の中にはずっとあったものなのだろうが、人へ説明するために並べたことはないらしい。

「ほら、俺、一年の時に個性の使い方失敗したじゃん。教室でびりってなって、みんな髪の毛立ったやつ」

「あったな」

「個性勝手に使うのって本当はダメだし、先生にも怒られたし、電気くん危ないって、しばらくみんな近づいてこなかっただろ」

 覚えている。上鳴は泣かなかった。泣かなかったというより、何が起きたのか分からない顔で、自分の両手を見ていた。危ないと言われたことより、格好いいと思っていたものが他人を怖がらせたことの方に驚いていた。

「その時、理人だけ来てくれてさ。格好いいよって言ったんだよ。使い方ちゃんと勉強したら、すっごい格好いいヒーローになれるって、大丈夫だよって言ってくれた」

「チビの時の俺、良い奴だな」

「そこ自分で褒める?」

 上鳴は笑ったが、すぐに口元を引き結んだ。

「あと、手、繋いでくれた。まだちょっとびりびりしてたのに。先生が危ないから離れなさいって言っても、俺が落ち着くまでずっと」

 そこまでは、よく覚えていなかった。たぶん俺にとっては、目の前で困っている友達のそばへ行っただけだった。上鳴の手が小刻みに震えていたことも、繋いだ指先が時々ちくりとしたことも、言われれば薄く思い出せる。

 上鳴の中には、それがずっと残っていたらしい。

「あれ、ほんとに嬉しかったんだよ。いまもまだ嬉しい。思い出すと、理人のこと、好きだなあってなる」

 声が少し掠れた。上鳴は誤魔化すように鼻を擦り、続けた。

「中学別なの、俺ほんとに知らなくて。いや、言われてたのは今なら分かるけど、ずっと一緒だと思ってたから、急にいなくなったみたいでさ。思い出すたび結構泣いた。ゲームしてても、これ理人とやりたかったなとか、帰り道に変な格好の犬がいても、見せたかったなとか。だから俺、ヒーローになって有名になって、全国あちこち行けば絶対いつか見つけられると思ってた」

 上鳴らしい、途方もなく大きくて、細部の何も決まっていない計画だった。

「そしたら入学式でいたから。もう、運命だって思っちゃったんだよ。俺がこれからヒーローになって探すつもりだったのに、入学したらもういたから」

「俺はお前を探して雄英へ来たわけじゃねえぞ」

「分かってる。でも、俺にはそう見えたの」

 勝手な解釈だった。けれど上鳴は、昔から自分に起きた幸福を大げさに受け取る。ゲームを一本買ってもらえば今年一番の幸運だと言い、俺が遊びに行けば最高の日だと騒いだ。大したことではないものまで両手で拾い上げ、宝物みたいに喜ぶ。

「だから、嬉しい」

 最後まで言ったところで、上鳴の目から涙がひとつボロっと落ちた。

 本人も泣くつもりはなかったらしい。頬を伝ったものへ遅れて気づき、驚いた顔で手の甲を当てる。もう一度瞬きをすると、今度は続けて落ちた。

「え、待って。違う、これは別に、悲しくて泣いてるんじゃなくて」

「分かってる」

「ちょっと感情が余っただけで」

 俺は上鳴の前へ立ち、膝の上にあった手を取った。反射的に握り返してから、上鳴は濡れた目で俺を見上げる。

「静電気くるかも」

「知ってる」

「危ないよ」

「それも一年の時に聞いた」

 繋いだ手のひらは温かかった。微かに指先が震えている。電気ではなく、たぶん緊張のせいだった。

「ちゃんと勉強したら、すっごい格好いいヒーローになるんだろ」

 上鳴は泣いたまま笑った。次の瞬間、指の間で小さく電気が弾けた。痛いというほどではない。ちくりとした刺激だけが皮膚に残る。

「なった?」

 期待と不安を同じだけ滲ませた顔で聞くので、俺は繋いだ手へ少し力を込めた。格好いいと思う時もあれば、残念すぎて頭を抱える時もある。どちらか片方だけなら、たぶんこんなに長く好きではいられなかった。

「まだ途中。でも、それでも好きだよ」

 上鳴は一度だけ息を止め、それから勢いよく抱きついてきた。頬が肩へぶつかり、指先から漏れた電気で部屋の照明が一瞬だけ明滅する。

「俺いま人生で一番幸せかも」

 昔からこいつは幸福を大げさに受け取る。けれど、腕の中で泣きながら笑う声を聞いていると、今日くらいは訂正しなくてもいい気がした。

「じゃあ一生更新してけよ」

 そう言うと、上鳴はまた小さくびりりと痺れた。

 

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