握り締めた紙幣の感触だけに意識を寄せて、ぎゅっと目を閉じる。掌の中でくしゃりと歪んだ紙が、汗を吸って少しずつ柔らかくなっていくのがわかった。
大切な1000マドルだ。こんなふうに握り潰して湿らせるくらいなら、さっさと財布へしまった方がいい。濡れて破れでもしたら洒落になんないし、あとで皺を伸ばすのだって面倒だ。それでも離せなかった。今のオレがオレの意思を真っ当に保っておくためには、掌の中にこいつがないと駄目だった。
これは対価。アメアが払った1000マドル。だからオレは耳を触らせてる。それだけ。それ以外の余計な意味なんかひとつもない。
そうやって紙幣の角が指へ食い込む感触を数えていないと、頭がふわふわして、うっかり馬鹿なことを言っちまいそうだった。
意識をそこへ集中させたらおしまいだ。だから、腹減ったなぁとか、今日の購買に残ってる一番安いパンなんだったかなとか、レオナさんを機嫌よく起こす方法がこの世のどっかに落ちてないかなぁとか、どうでもいいことを必死に考える。
肉。パン。マドル。昼寝。レオナさん。草原。マドル。よし。ぜんぜん駄目ッスねこれ。耳の先へ触れる指の感触ひとつで、せっかく並べた思考が片っ端から吹っ飛んでいく。
「なんだよその顔」
笑いを噛んだアメアの声が真上から降ってきて、咄嗟に目を開けた。
視界いっぱいに見慣れた顔がある。この角度だと鼻の下までよく見えるし、今日も顎のところに薄く剃り残しがある。だから見るなって。そういうの見つけると、昔みたいに指で触りたくなるだろ。
「ヴヴ~~」
「嫌ならやめるけど」
「いや、じゃ、ないっスけど……」
「そ?」
「ん、ぅ、ヴぅぅぅ~~」
「唸るじゃん」
「……本能、ッス」
「凶暴~~」
ケラケラ笑うアメアの顔が近い。ぜんぜん怖がってない。こっちは牙まである獣人が喉の奥で唸ってるっていうのに、野良猫が変な声を出したくらいにしか思ってない顔だ。
耳の付け根を撫でていた手が、そのまま毛並みに沿って先端まで滑っていく。
他人の体温が薄い毛越しに伝わるたび、耳から背中までぞわぞわと細い震えが走った。
獣人の耳は飾りじゃない。音を拾うし、動くし、当然ちゃんと感覚もある。だから指先で毛を梳かれて、薄い耳殻を親指と人差し指で挟まれて、くに、と揉むように撫でられるたびに身体が勝手に反応する。
慣れた手つきなのが余計に腹立つ。最初の頃は壊れ物でも触るみたいに恐る恐るだったくせに、今じゃどこまで引っ張れば痛くなくて、どこを揉めばオレが変な声を出しそうになるかまで知ってやがる。
耳先をくにくに折り曲げられ、ぴんと立てられ、悪戯に横へ引っ張られるたび、喉の奥から別の声が漏れそうになって、奥歯を噛んで押し殺す。
その代わりに低い唸り声が勝手に出た。ゔゔ~~。尻尾まで変な動きしそうになって、慌てて脚へ絡める。勘弁してほしい。サバナクローの寮生にこんなところ見られたら、しばらく食堂歩けないッスよ。いや、そもそも。
なんでこんなことになってんスか……。
一年の頃、アメアにいきなり「耳触っていい?」と聞かれて、「5分500マドル」とこたえた。
たま~にあるやつだ。オレたち獣人の耳って、人間からすれば動物のそれとほとんど同じに見えるらしくて、見るやつによっては実に魅力的らしい。ふわふわしてるとか、触り心地よさそうとか、そういうの。
まあ、ちょっとした人種差別ってやつッスよね。獣人相手なら耳だの尻尾だの気軽に触っていいと思ってる人間はたまにいるし、それで昔は面倒なことになったこともある。
ただ、目の前のアメアについては、こいつの場合たぶん本当に何も考えてない。珍しいもの見つけたから触ってみたい、それだけ。悪気もなけりゃ変な下心もなさそうだし、友達だし、オレも別に腹が立ったわけじゃない。だったらまあ、貰えるもん貰えた方が得じゃないッスか。触られるだけで500マドル。五分じっとしてれば今日の昼飯どころか、選び方次第じゃ明日の朝飯まで浮く。こんな割のいい仕事、スラムじゃまず転がってない。
おら500マドル出しな、と掌を上にして突き出したら、アメアはなんとも言えない渋い顔をして財布を漁り、なぜか1000マドル札を一枚乗せてきた。
「お前、自分の身体のことだぞ。安売りすんなよ。変なやつに買われたらどーすんだ」
「シシシ、毎度あり! アメアは変なやつなんスか~?」
「俺はいいんだよ。ラギーのことそういう風に見てないから」
10分間も他人の耳を触るために1000マドル払う時点で充分変なやつだと思うけど、金を受け取った以上は客だ。そこはきっちりする。
じゃあどうぞ、と正面から頭を下げて耳を差し出したら、「違う、後ろ向いて寝て」と肩を掴まれ、そのまま身体ごとひょいと抱え直された。
いや待って。ほんとにオレのこと動物かなんかだと思ってません?
サバナクローにはもっとでかくて立派な耳した獣人が山ほどいるんだから、そっちでやってみればいい。たぶん次の瞬間には腕の一本くらい外されてるッスよ。
アメアはこういうところで妙に無防備というか、距離感がおかしいというか、相手がオレだから許されてるだけなのをたぶん分かってない。
悪気だけはないから許してるけど、オレ以外の獣人に同じノリで近づいたら、そのうち本気でぶん殴られると思う。
「なぁんで男のまたぐらを枕にしなきゃなんないんっスか。姿勢最悪すぎるでしょ、これ」
「消費者がやりやすいように提供しろ。あったかいんだなあ」
「血ぃ巡ってますからね」
「意外と分厚い」
「そっスか? まあ、人間のと比べたらね」
「動かせる?」
「そりゃあね」
人間は動かせなくて不便そうッスねえ、と軽口を叩きながら、注文どおり耳をぺたりと伏せてみせ、それからぴんと立てる。右だけ動かして、次は左。ついでに両方をアメアの方へ向けてやったら、頭の上で「おお」と感心した声がした。
1000マドル分のサービスはちゃんとしますよ。こういうところで手を抜いたら信用商売にならない。もっとも、耳を動かして見せるだけで感心してくれるならずいぶん楽な客だけど。
膝を枕にして仰向けに寝かされているせいで、上からこちらを覗き込むアメアの顔がやけに近かった。普段は横か正面からしか見ない顔を、真下から眺める。鼻ってこの角度だとこんな形なんスね。顎の線も思ってたより丸い。へえ、とぼんやり観察していると、口元から顎にかけて黒いものがぽつぽつ残っているのに気がついた。
「ヒゲ剃り残してるっスよ」
「え、まじ?」
「不器用~~」
「ラギーは生えないから良いよなあ」
「体質なんでしょーね」
面白半分に手を伸ばして、顎の端にまばらに残ったヒゲを指先で撫でた。ちく、ちく、と短い毛が軽く引っかかる。耳とはぜんぜん違う感触だ。アメアが顎を少し引いたせいで指先が追いかける形になって、もう一度ざらついたところを触る。
「俺も金とるぞ」
「一銭も払わねえッス」
「強い意志を感じる」
払うわけないでしょ。こっちは商売、そっちは勝手に剃り残しただけなんだから条件が違う。そんな適当な理屈を返しながら、また顎を指で撫でる。
アメアも別に嫌がらないし、オレもそこに何か意味があるなんて考えもしなかった。見たことのない角度から見る友達の顔がちょっと面白くて、触ったことのないヒゲの感触が珍しかっただけ。
野郎のまたぐらを枕にさせられてる最悪さも、それでほんの少しだけ薄れた。耳を弄られながら、たまに顔を見て、剃り残しを笑って、くだらないことを喋って。変なやつ。変な趣味。金払いだけは悪くない客。───それだけだったのに。
進級して二年になった今も、たまにこうやって耳を触られる。最初の頃は壊れ物に触るみたいに遠慮がちだったアメアも、一年も経てばすっかり慣れたもので、今じゃどのくらい引っ張れば痛くないか、どこを指で挟めばオレが嫌がるか、そのぎりぎりまで見極められるようになっていた。
そんなもん慣れんな。しかも困ったことに、アメアが慣れたぶんだけオレの方がおかしくなった。
前なら耳を揉まれたって、ちょっとくすぐったいな、変な趣味してんな、1000マドルうまいな、で終わってたのに。こいつのことを妙に意識し始めてから、同じ指なのに触られ方まで違って感じる。
耳の付け根へ指先が沈んだ瞬間、そこから背中へ細いものが走って、肩が勝手に強張る。先端を指で挟まれれば、来る、と触られるより先に身体の方が構えてしまう。それで本当に撫でられると、ぞわ、とする。くすぐったい。そう、くすぐったいだけだ。絶対に。それ以上でも以下でもない。だから掌の1000マドルをもっと強く握る。紙の角が皮膚へ食い込む感触に意識を押しつけて、耳の方へ集中しない。これは商売。1000マドル貰って、耳を触らせてる。それだけ。身体が次の指先を待つみたいに耳をぴくっと動かしたのも反射。獣人特有の反射。そうでしかない。絶対。
「ゔゔゔゔ」
「なんですぐ唸るんだよ。怒ってんのか」
「そういう年頃だからッスよ」
「獣人特性?」
「そーそー。獣人特性」
適当言うな、と自分でも思う。そんな獣人特性聞いたことない。けどアメアは「へえ」と素直に納得して、また耳の根元へ親指を押し込んできた。そこ。そこは駄目。駄目っていうのは痛いとかそういう意味じゃなくて、くすぐったいから。ものすごくくすぐったいから。
反射的に耳が後ろへ倒れて逃げると、アメアの指がそれを追いかける。その動きに身体まで先回りして反応しそうになるのを、握った札の感触で無理やり押さえつけた。
ゔゔ。ゔゔゔゔ。うーー。ぐるるるる。声を出してれば他の音は出ない。唸ってれば、アメアだって「ああ、獣人だからなんかあるんだな」で済ませる。たぶん。そうであってくれ。
ケラケラ笑うアメアの顎が見える。相変わらず不器用に残されたヒゲ。前なら何も考えず手を伸ばして、ちくちくしてる、と笑えた場所。今だって届く。腕を伸ばせばすぐだ。触りたい。でも、握り締めた1000マドルから手を離したらおしまいな気がした。これはアメアが払った金で、オレはそれを受け取って、その代わりに触らせている。
アメアは興味本位でオレの耳を触ってるだけ。オレはマドルを貰ったから許してるだけ。だから、耳へ指が来る前から勝手に身構えたり、触られた瞬間に背筋がぞわっとしたり、もう一回同じところへ指が戻ってくるのをどっかで待ってしまったりしてるのも、全部、全部ただくすぐったいだけだ。
ああ。こうやって並べるとほんとに最悪だ。最初にアメアが言った「安売りすんな」は正しかった。安く売ってしまったから、こうなってしまった。触られることそのものには値段をつけられた。でも、誰に触られるかでこんなに違うなんて、一年のオレは知らなかった。
触りたい。届くのに。昔みたいに、何の意味もなくヒゲの剃り残しを指でなぞりたい。
ちくちくしてるっスね、と笑って、アメアに「俺も金とるぞ」と言わせて、「一銭も払わねえッス」と返したい。それだけなら昔と同じなのに、今やったら絶対に同じじゃない。
掌の中で1000マドルが汗で湿っていく。大事な金だ。今だって1000マドルあれば何食分になるか瞬時に計算できる。でも今だけは、紙としての価値の上から別の値段が勝手に書き込まれていく。
5分1000マドルでいいよ。オレ、今持ってるッスもん。だから5分だけ触らせて。耳じゃなくて、そっち。オレが払うから、オレが触るの、おねがい。
そんな馬鹿なことを考えてしまった瞬間、アメアの指が耳先をくに、と曲げた。身体がびくっと反応する。慌てて札を握り直す。くすぐったい。くすぐったいだけ。絶対。
「なんだよぉ、そんなに見んなよ」
「ゔーー」
「おお怖」
牙まで見せて唸ったのに、アメアはちっとも怯えない。むしろ面白そうに笑いながら、また耳を撫でてくる。オレが本気で噛まないと知っているからだ。
オレがアメアを傷付けないと信じきっている。だからこんな近くで平気な顔をして、くすぐったくなる場所へ何度も指を置く。こっちはそのたびに身体が勝手に反応して、それを悟られないよう1000マドルを握り潰してるっていうのに。信頼されてるから、何もできない。噛めない。逃げられない。昔みたいに気軽に手を伸ばすこともできない。
だってアメア、オレのこと【そういう風に】見てないから、唸るしかない。ゔゔゔゔ。

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