メヘルザンがアルハイゼンから告白されたのは、アルハイゼンが教令院へ入って二年目のことだった。
当時のアルハイゼンはまだ彼より少し背が低く、並んで歩けばこちらがわずかに見下ろす位置に頭がある。今となっては精悍な美青年という言葉がよく似合うが、その頃は頬にも少年らしい丸みが残っていた。表情が乏しいのは昔から変わらず、黙って本でも読んでいれば大人しい美少年にしか見えない。だからこそ、口を開いた瞬間の落差が凄まじかった。
年長者にも上級生にも遠慮せず、論に穴があればその場で指摘する。しかも言うことは概ね正しい。相手が腹を立てても「関係があることは理解しているが、相手の感情を守るために誤った主張を訂正しない理由にはならないだろう」と首を傾げ、そこからさらに主張の矛盾を拾っていくものだから、一度火がつけば火力は留まるところを知らない。
今もその傾向はあるものの、当時は見た目の幼さまで災いしていた。口を開く前の姿だけを見て勝手に侮った相手ほど、真正面から容赦なく論を切られた時の激昂が激しい。
そこに関してはアルハイゼンの落ち度とも言い切れないのだが、本人も衝突を避ける工夫をする気がほとんどなく、障害物を見つければ迂回せずそのまま突っ切ろうとする。
頭の回転はずば抜けているくせに、人間同士の会話となると、必要なことを必要な順番で並べれば成立すると考えている節があった。初めのうちは、なんて生きにくい性格の子なんだと本気で恐れおののいた記憶がある。
実際、口論の末に刃物を向けられたことさえ何度かあった。どうしてそこまで相手を怒らせるんだ。いや、刃物を出した方が悪いのは確定している。しているけれど、もっと……もっとこう、そこへ至る前に回避する方法があったはずだろ……! と、事情を聞くたび頭を抱えた。
そのうちメヘルザンは、アルハイゼンと周囲の間へ割って入るようになった。
講義中に容赦なく論を切り崩され、顔を真っ赤にして席を立った学生がいれば、あとから追いかけて「言い方はあれだけど、お前自身を馬鹿にしたいわけじゃないんだよ」と宥める。
その足で本人のところへ戻り、正しいことを言っていれば相手の感情を踏み越えていいわけじゃない、と今度はそちらへ説教した。アルハイゼンは一応最後まで聞くものの、「相手の理解力に合わせて遠回りする方が時間の浪費だろう」と悪びれもしない。
これでは駄目だと思った三日後には、案の定また別の相手を怒らせている。そうして何度も後始末をしているうちに、放っておいたらこいつは一体どうなるんだろう、と半ば本気で考えるようになっていた。そこまで思わせた時点で、振り返ればメヘルザンの方もうまく絡め取られていたのかもしれない。
もっとも、そんな心配をしていた期間は意外と短い。
アルハイゼンはほどなくして背が伸び、肩幅も増し、気がつけば高身長で筋肉質、黙って立っているだけでも近寄りがたい美青年へと育っていた。中身はさほど変わっていないのだが、幼い外見につられて侮る人間だけが綺麗に減り、そのぶん以前ほど無用な衝突も起きなくなった。
性格の方も年々ほんの少し、気持ち程度には丸くなっているような気がしなくもない。そもそもアルハイゼンは、人が思っているほど性格がきついわけではない。正面衝突を基本としたコミュニケーションはかえって不便だと理解した今では、他人の感情を理解した上で、自分が面倒を被らない程度に相手へ合わせる術も身につけている。
仕事を滞りなく終わらせるためなら愛想笑いだってできる。そんな姿を見るたび、すっかり大人になったな、と誰目線なのか自分でもよく分からない感慨にふけってしまう。
思えば、少年期のあのぶつかり稽古のような対人関係は、彼なりの反抗期だったのかもしれない。年齢を考えれば充分あり得る話だ。天才の反抗期とはあんなに危険なんだな、と過ぎ去った今だからこそ思える。あの頃は本当に洒落にならなかった。
今では理屈でも体格でも圧が強く、メヘルザンの目から見れば、あの頃の危なっかしさが嘘のような無敵の存在である。
だから当時、知恵の殿堂で服を掴まれた時も、最初はまた誰かと揉めたのかと思った。
夕方近く、返却期限の迫った本を抱えて立ち上がったところで、上着の裾が後ろへ引かれた。振り返ればアルハイゼンが座ったまま布を握っている。力は強くない。それでも、こちらが歩けば確実に気づく程度には指先へ力が入っていた。
何かあるなら口で言えばいいのにと待っていると、やがてアルハイゼンも席を立った。少し見上げる位置から向けられた視線には、学術発表の壇上でも見た覚えのない揺れが混じっている。
「俺は君が好きなんだが、交際してくれないか。返事を保留にするなら理由も聞きたい。何も分からないまま待つのは効率が悪いからな」
「うわびっくりした、そこまで一気に言われるとは思わなかったな……」
「何故だ? 俺は随分わかりやすく好意を示していたはずだが」
「そうかな……」
言われてみれば、アルハイゼンが自分に懐いている自覚はあった。そもそも彼が自分から近寄っていく相手など、今のところメヘルザンとカーヴェくらいしかいない。その二人に対する態度にも違いがあり、カーヴェには遠慮なく噛みついて好き勝手を言う一方、メヘルザンの隣には用もないのに座り、本を読むだけなら一人で出来るはずなのに帰る時間まで合わせてくる。
何かあれば先に報告されることも多かったし、触れられることも嫌がらなかった。懐き方の種類が違う、という程度の認識はあったのだ。ただ、それを恋愛感情として結びつけたことがなかった。
「君は俺が他人と同じように君を扱っていると思っていたのか? それなら観察が足りないな。俺は興味のない相手の予定を覚えたり、用もないのに同じ場所へ長時間いたりしない」
「……そこまで言われると、確かに俺だけ扱い違った気がしてきた」
「気づくのが遅い。だからこうして言葉にしたんだ。君は放っておけば、俺が何年好意を示しても『よく懐いてるな』で終わらせるだろう」
そこまで見抜かれていたことには反論しづらかった。たぶん実際、その通りになっていた。
「交際して確かめればいい。君が思っているより、俺は君を特別扱いしている」
言い切ってからも、アルハイゼンは服を離さなかった。理屈を並べている間だけはいつもの顔に戻っていたのに、返事を待つ段になると指先が僅かに強張る。
その様子が少し可愛く見えたせいもある。もともと嫌いなら、何度も面倒へ首を突っ込んでまで世話を焼いていない。食事を忘れて本を読んでいれば果物を押しつけ、夜遅くまで残っていれば途中まで一緒に帰った。恋人として続くかどうかは分からない。それでも、ほんの少し試してみるくらいなら悪くない。そう考えて頷いたのが始まりだった。
アルハイゼンがあれほど前振りなく突然告白した理由を、メヘルザンはずっと後になってカーヴェから聞かされた。酒の席で少し酔った結果、ポロリと零れた裏事情である。
当時からメヘルザンと親しかったカーヴェは、なぜか頻繁に他人から恋敵扱いされていたらしい。
講義終わりに食事へ行く。課題の相談をする。買い物へ付き合う。その程度のことで「君たちは付き合っているのか」と探りを入れられ、否定すれば今度は「じゃあメヘルザンは誰か好きな人がいるのか」と質問される。
一度や二度なら笑って済ませられたものの、相手が変わっても似たようなやり取りが続くうち、とうとうカーヴェの方が本人より恋愛事情へ詳しくなってしまった。
ある日も製図室の前で見知らぬ学生から問い詰められ、半ばうんざりしながら否定していたところへアルハイゼンが通りかかった。
「君もメヘルザンが好きなのか? だったら僕に確認を取りに来てる場合じゃないぞ。あいつは誰かの好意に気づく能力だけさっぱり欠けてるんだから、自分で言わなきゃ一生分からない可能性がある」
「『君も』と言ったな。俺以外にもいるのか」
「いるに決まってるだろ。僕が何回、恋人かと聞かれたと思うんだ! ラッツなんて先月から機会を窺ってるし、カンナもたぶんそうだな。ジェローナは僕に牽制までしてきたし、ミルウェは……」
「待て。まだ続くなら最初から数え直せ。把握している範囲だけでいいから全部聞く」
カーヴェが片手の指を使い切った辺りで、アルハイゼンは黙ったという。
もう片方の手へ移ったところでは、さすがに本を読むふりすらやめていたらしい。
メヘルザンは、顔立ちだけで人目を引くような華やかな男ではなく、本人も自分をその辺りの凡人だと思っていた。けれど、困っている人間がいれば自然に手を貸し、初対面でも妙に構えず話しかける。誰かが輪から弾かれそうになれば、本人に気を遣わせないまま会話へ引っ張り戻してしまう。
親しくなるまでの敷居が低いうえ、一度親しくなった相手への扱いも時間が過ぎたとてほとんど変わらない。そういうことを積み重ねた結果、いつの間にか好意を持たれていることが多かった。問題は、それを本人だけがろくに自覚していないことだ。せいぜい「良くしてくれる友人が多い」くらいに思っている。
きみを恋愛的に好きだから良くしてくれているんだよ! と、カーヴェは何度でも言い聞かせたくなった。しかし対象者が多すぎる。
ひとりずつ名前を挙げて説明していたら、それはそれで余計なことをしている気がして、結局その都度どうにかする方針に落ち着いていた。カーヴェだってメヘルザンのことは友人として好きなのだ。下手につついて痴情のもつれを発生させ、刺されたり呪われたり崖から突き落とされたりして死なせたくない。いや、普通に死にそうで怖い。
自分が言うのもなんだが、教令院には勉学へ力を注ぎすぎた結果、対人技能の育成が後回しになっている人間が少なくない。たとえば今、目の前にいる生意気な後輩がそうだ。もっともアルハイゼンは頭が切れるぶん理性も強く、感情だけで暴走することはまずないだろう。
問題は、他にもいることである。一方的な恋情をこじらせた低対人能力者に対して、メヘルザンがある日突然「この人は自分を好きなのか」と気づき、それまでと態度を変えたらどうなるか。良い方向へ転ぶ保証などどこにもない。むしろ、少し揺らしただけで爆ぜる雷酸銀みたいな連中が混ざっている可能性を考えると、恐ろしい結果しか浮かばなかった。
後年、いつものように酔っ払ったカーヴェが「あの時の君、本当に焦ってたよな」と笑ったところ、アルハイゼンは間髪入れず「状況を把握した結果、行動時期を前倒ししただけだ」と訂正したらしい。
そこまで早口で言い返す時点で答えは出ているし、案外可愛いところもあるじゃないか、とカーヴェはいまだに面白がっている。ただ、この件に関してだけは、恋敵の存在を教えた自分へ多少なり恩を感じているらしく、そう茶化してもアルハイゼンは露骨に嫌そうな顔をして重い舌打ちを落とす程度で済ませていた。
普段ならそこから即座に論破戦争へ持ち込まれるところなので、カーヴェとしてはかなり大きな譲歩と見ている。それだけメヘルザンが好きなのだろう。良いことだ。
交際が始まってからも、二人の関係が急に甘ったるくなることはなかった。待ち合わせが少し増え、食事へ行く頻度も上がったが、それぞれの勉強や研究を邪魔するほどではない。
アルハイゼンは会いたくない日にまで恋人と会うことを義務だと思わず、メヘルザンも同じだった。今日は一人で本を読みたいと言われれば「分かった、また今度」で終わり、逆にメヘルザンが友人と出かけるならアルハイゼンも予定を尋ねたりしない。その距離が彼には楽だったし、想像していたより遥かに長く続いた。
ただし、付き合う前には見えなかった面もある。
ある日、メヘルザンが後輩から資料を貸してほしいと頼まれ、その場で了承した。帰り道で話題に出すと、隣を歩いていたアルハイゼンが「彼は君に好意がある」と何でもないことのように告げてくる。
「またそれか? 資料を借りたいって言われただけで恋愛に結びつけるのは早すぎるだろ。俺だって人から本くらい借りるぞ」
「研究室に同じ資料が二冊ある。昨日はカーヴェへ君の帰宅時間を聞き、今日は君が食堂へ入るまで入口で待っていた。資料が目的なら必要のない行動が多い」
「……じ、事前調査が完璧すぎる……」
「観察すれば分かる範囲だ。それに、俺が何も言わなければ君は半年後にも『親切な後輩だな』で済ませるだろう。相手にとっては気の毒だが、俺には都合がいい」
その数日後、本当に告白された。丁重に断ってからアルハイゼンへ報告すると、彼は本から顔も上げず「予想通りだな」とだけ返した。悔しいので食べていたデーツを一つ奪ったところ、それについてはしっかり文句を言われた。
一年が過ぎ、二年目へ入り、いつしか学生時代より教令院で働く者として過ごした時間の方が長くなった。それでも二人は別々の家へ帰っている。
同居を考えなかったわけではない。単純に、双方とも物が多すぎた。アルハイゼンの家には壁を埋める勢いで本が増え続け、メヘルザンの部屋にも資料、趣味の品、仕事道具が積み上がっている。どちらかへ荷物をまとめれば、恋人との新生活より先に収納家具の追加が必要になる。しかもアルハイゼンの家にはカーヴェが住んでいた。
一度だけ、メヘルザンが居間を見渡して「ここ、片づければ俺の荷物も少しくらい置けそうだな」と口にしたことがある。その瞬間、向かいで設計図を広げていたカーヴェが勢いよく顔を上げた。
「やめてくれメヘルザン、君までここへ住む気なら僕は本気で引っ越すしかないんだ! ただでさえこいつと暮らしているだけで神経を使うのに、恋人まで増えたら家の中で僕だけ完全に余所者じゃないか!」
「いや、住むとは言ってないって。荷物を少しくらい置けるかなって考えただけだよ。それに俺の家にも物が多いし、全部こっちへ運ぶなんて無理だろ」
「そもそも引っ越すと言うなら、先に自分の家を借りられるだけのモラを用意したらどうだ。酒場へ行く回数を減らせば多少は早まる。俺としては、その方が助かるが」
アルハイゼンが本から目も上げずに言うと、カーヴェの眉間へ一気に皺が寄った。居候である以上、そこを突かれると弱い。
引っ越したい気持ちは本人にもあるのだろうが、建築家の仕事は一件当たれば動く金額こそ大きいものの、契約から完成まで長くかかり、報酬が手元へ入る頃には次の仕事のための出費も待っている。そこへ本人の気前の良さまで加わるので、まとまったモラが財布に居座る期間が驚くほど短かった。
「簡単に言うな! 建築の報酬は今日働いて明日入るようなものじゃないんだ。大きな案件ほど数か月、下手をすれば年単位で拘束されるし、その間だって生活費はかかる。酒だって毎晩浴びるほど飲んでるわけじゃない!」
「まあまあ。カーヴェの仕事って一回の額は大きいけど、入金まで時間がかかるし、仕事そのものも長いからな。次の依頼がいつ入るかも毎回同じじゃないし、家を借りるとなれば最初にまとまった金も必要だろ。酒だってストレス発散のために飲むくらいならいいんじゃないか? 全部我慢して仕事まで嫌になったら、その方が困るだろ」
メヘルザンが横からゆるく庇うと、カーヴェは一瞬きょとんとして、それから目に見えて表情を和らげた。対するアルハイゼンは本の頁を一枚めくっただけで、取り立てて反論する気配もない。メヘルザンがこういうところでカーヴェ側へ回るのは、もう何度も見ている。
「君は本当に話が分かるな、メヘルザン……。よし決めた。いつか君が屋敷を建てることになったら必ず僕に声を掛けてくれ。立地から動線、採光、庭の見え方まで全部僕が考える。世界一のものをデザインするからね……!」
「急に話がでかくなったな。俺、屋敷を建てる予定なんてないぞ」
「今なくても将来は分からないだろう? 僕は今、この理解ある友人へ建築家として最大限の恩を返したい気分なんだ!」
「その頃までに、まず自分の家賃を払えるようになっているといいな」
「アルハイゼン、君は今いい話になりかけていたのが分からないのか!?」
結局そこからいつもの言い争いが始まり、メヘルザンは笑いながら間へ入ることになった。自分が住み込む話など、いつの間にか完全にどこかへ消えていた。
そんな関係が何年も続いた頃、メヘルザンはアルハイゼンの家で唐突に自分の結婚式の日取りを知った。
休日の午後、カーヴェは仕事で外出しており、居間には二人きり。メヘルザンが持参した菓子を食べながら本をめくっている横で、アルハイゼンは紙へ予定を書き込んでいた。てっきり仕事関係だと思っていたため気にも留めなかったのだが、耳へ入ってきた言葉がおかしい。
「カーヴェのやつも一年以内にはと話がついている。間に合わなかったら納戸にでも詰めて置けばいい。この日ならクラクサナリデビ様も空いていると――」
「神様を呼ぶの!?」
「呼ぶだろう、上司だぞ」
思わず声を上げた勢いで、アルハイゼンの手元へ視線が落ちた。机の上には日付を書き込んだ紙と、その下に見慣れない書類が重ねられている。
なんだろうと目を凝らし、上部に記された文字を読んだところで、メヘルザンはようやく理解した。婚姻届だった。つまり、さっきからアルハイゼンが突然始めたこの話は、彼の中では最初から最後まで理路整然と、自分とメヘルザンの結婚についての相談だったらしい。
式の日取りを決め、出席者の予定を確認し、必要な書類まで用意したうえで話を始めている。そこまで準備しておきながら、肝心の「結婚しよう」という部分だけが抜け落ちていた。
普段のアルハイゼンなら、相手に誤解の余地を与えないよう前提から順番に説明する。必要なら、こちらがもう分かったと言っても補足を続けるくらい隙がない。それが今はこの有様である。
メヘルザンは婚姻届とアルハイゼンの横顔を見比べて、そこで腑に落ちた。ああ、こいつ、浮かれてるんだ。そう確信した途端、驚きより先に笑いそうになった。
「そっちも気になるけど、その前に結婚するって部分を俺は今初めて聞いたんだよ。いつの間に来年の予定として確定したんだ?」
「先週、君自身が来年なら仕事も落ち着くと言った。交際期間を考えれば、これ以上先延ばしにする理由も特にない。君が嫌なら別の日程を考えるが、結婚そのものへ反対しているようには見えないな」
言われて初めて、メヘルザンは手にしていた菓子を皿へ戻した。
学生の頃、自分はこの男と半年も続かないと思っていた。頭のいいアルハイゼンなら、そのうちもっと相応しい相手を見つける。今の好意は、世話を焼いてくれる人間への一時的なものにすぎない。
そんなふうに予想しながら始めた交際が、気づけば生活の一部になっている。会わない日が何日か続いても不安にはならないのに、久しぶりに顔を見ると嬉しい。相手の忙しい時期を知り、好みを覚え、片方が疲れていれば黙って食事だけして帰ることも増えた。未来の話を避けていたつもりもない。ただ、そこへ「結婚」という名前がついた途端、急に現実が近づいてきた。
そのせいだろう。口から滑り落ちたのは、十代の頃とほとんど同じ言葉だった。
俺なんかでいいのか。
アルハイゼンの手が止まった。
しばらくこちらを見たあと、書類を机へ置く。学生時代より背も伸び、もうメヘルザンが見下ろすことはなくなった。それでも、機嫌を損ねた時の目つきには昔から変わらない分かりやすさがある。
「俺は君が好きなんだが、何年経ってもそこだけは信用しないつもりか。交際を始めた時にも同じ話をしたはずだ。俺が誰と一緒にいたいかについて、君が俺より正しい判断を下せる根拠はない」
「信用してないわけじゃないよ。好かれてるのも分かってる。ただ結婚となったら急に、お前ならもっと色々選べたんじゃないかって考えちゃっただけ。昔からそこだけ自信がないんだよな」
「君は俺が思っているほど俺を好きではないのかもしれないな。俺が君を選んだという事実より、自分で作った『もっと相応しい誰か』を信用するなら、少なくとも俺の判断は軽く扱われている」
「そんな言い方するなって。好きだよ。愛してるし、今さら他の奴と結婚するなんて考えられない。お前を疑ったんじゃなくて、俺が勝手に怖くなっただけなんだ。不安にさせて悪かった」
アルハイゼンは数秒黙り込み、それから日程表へ視線を戻した。候補日の一つへ線を引き、別の箇所へ丸をつける。機嫌が直ったのか判断しかねていると、「なら、その点についてこれ以上議論する必要はない」と告げられた。どうやら許されたらしい。
その直後、玄関の扉が開いた。
帰宅したカーヴェは卓上の日程表へ目を落とし、二人を見比べ、そこに書かれた自分の名前を発見した。さらに横の「場合によっては納戸」という文字まで読んだらしく、眉が跳ね上がる。
「待てアルハイゼン、僕を納戸へ詰める案がどうして正式な検討事項みたいに書かれてるんだ! 君たちの結婚を祝う気はあるが、当日に家具と一緒に収納されるつもりはないからな! 」
「来客が多ければ動線の妨げになる可能性を考えただけだ。式へ出席するなら家に残る必要もないだろう。君が勝手に深刻な意味を足している」
「人を収納物扱いしておいて僕の解釈の問題にするな! それに僕は初期からこの交際へ間接的に貢献してるんだぞ。僕があの時、恋敵の人数を教えなかったら君はまだ本を読んで様子を見てたかもしれないじゃないか! 」
「その功績については認めるが、当時の君はただ愚痴を言っていただけだ。メヘルザン、笑っていないで彼を黙らせてくれ。話が進まない」
結局、学生時代と同じようにメヘルザンが二人の間へ入る羽目になった。カーヴェの肩を押さえ、アルハイゼンには余計な一言を足すなと釘を刺し、ついでに日程表から「納戸」の文字を消させる。何年経ってもこの役割だけは変わらないらしい。
違うところもある。昔、返事を待ちながら上着を握っていた少年は、今ではメヘルザンより背が高い。誰かに奪われるかもしれないと焦って告白した頃のように、不安をそのまま顔へ出すことも減った。それでも、ときどきこちらの返事を待つ間だけ視線が止まる。その癖を知っているのは、たぶん長く隣にいる自分くらいだろう。
ほんの少しの間なら付き合ってみてもいい。
あの日は、その程度に考えて頷いた。
どうやら少しという言葉の意味を、二人とも随分長く取り違えたままらしい。来年には家族になる予定が組まれ、式へ神を招く相談まで始まっているのだから、今さら訂正する必要もなかった。

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