行ってらっしゃいって言うつもりだった。たったそれだけのことなのに、何度も何度も後悔ばかりしている。焦凍はまた、頭の中でそれを繰り返していた。
夕焼けに染まった放課後の道を、ゆっくりと歩いていた。地面の影が伸びる。蝉の声はもう少し静かになっていたけど、夏の残り香はまだ空気の中に漂っている。
双子の兄、陽火がいなくなって半年が経った。自分の中では、ずっと何も終わっていないのに時間だけが過ぎていく。前に進めている気がしない。進まないまま、ずっとその場に取り残されていた。
陽火が悪いところなんて一つもなかった。ちゃんと分かってる。
悪いのは親父で、陽火はいつだって俺を見つけて手を振ってくれた。それが嬉しくなかった日は一度もないのに、どうして俺はあんなふうにしてしまったんだろう。分かっていたのに、止められなかった。八つ当たりしかできなかった。
いちばん古い記憶を問われたら、俺は、半分の片割れの腕を噛んでいたことだと答えると思う。腹が減っていたわけじゃない。ただ、柔らかくて気持ちよかったから、目の前にあったものに無邪気に噛みついていた。
あとから母さんに聞いた話だと、それはまだ一歳になる前のことだったらしい。
珍しく穏やかな眼をした母さんは「焦凍は陽火のことがだいすきで、すこしでもはなれると大泣したのよ」と笑っていた。無垢で、無知で、ただ「ここにある」から触れていた時期。そんな時期が、確かにあった。
けれど、その後俺たちは同じ家の中で、別々の場所に隔てられて育てられることになった。理不尽の中で、自然とそうなっていた。
それから先の記憶は、もうちゃんと物心ついてからのものになる。目を閉じても、はっきりと思い出せるくらいには鮮明だ。
俺の半分、陽火はいつの間にかいちばん遠い場所にいた。
燈矢兄に隠されて、家族の誰よりも遠い。
俺以外のきょうだいが揃って遊ぶのを、どういう気持ちで見ていたのか思い出せない。でも、いつも陽火は俺を見つけて手を振ってくれた。それが見えるとすぐに隠されて、また見えなくなった。
いいなと思ったんだろうな。羨ましかったんだと思う。燈矢兄は俺を嫌っていたけど、陽火のことは誰よりも可愛がっていた。だから、「あれが本当の兄弟だ」って思っていたのかもしれない。
陽火は俺じゃない。でも、陽火を俺の代わりに見ていた。
楽しそうにしてる陽火が、本当の俺。今ここで、毎日が最悪だと感じてる俺は偽物。自分を半分に分けて、現実から逃げて。小さい頃の俺は、そうやって辛うじて生きていた。
陽火がいた頃は、まだちゃんと記憶があったはずだった。
でも今は、思い出せないことのほうが多くなってきた。嫌なことを半分に分けて逃げても、逃げているだけじゃ意味がなかった。避け続けたぶん、耐えられないことのほうが増えていった。
燈矢兄がいなくなって、母さんも病院に行って、俺の顔も焼けて。背が伸びるたびに、陽火との似てるところが少しずつ減っていく。俺は、それがたまらなく嫌だったから八つ当たりをした。
ずっと同じ顔なら、陽火を自分の半分だと思い込んでいられたのに。辛いことを押し付けて、自分を守れていたのに。
でも当たり前に陽火は陽火で俺じゃない。はじめっから違う人間だということを、突きつけられるのが辛かった。
酷いよな。同じ日に、同じ人から生まれたのに。どうして俺だけこんなにひどくて、陽火だけは何もせずに笑っていられるんだ。
今思えば、本当に八つ当たりが過ぎる。でも当時は、それが正当だと思っていた。だから言ってしまった。だから嫌われた。
陽火は「だよなあ」とだけ言った。やっぱそうだよなって、静かに。そのとき、俺は人が人を見限る瞬間を初めて見た。同じ腹の中で一緒に生まれた兄弟が、俺を見限った瞬間だった。
一瞬前まで確かにあった情が、消えていった。そのことが、はっきり分かってしまった。
それから、陽火に俺の言葉は届かなくなった。目が合っても、もう手を振ってくれなかった。学校でも、兄弟だとは言ってくれなかった。「いとこ」とか「親戚」とか。つかなくていい嘘を選んでいた。
陽火と一緒に学校に行きたかった。陽火は俺より早く家を出て、友達と一緒に行っていた。
混ざりたかったわけじゃない。俺と行ってほしかった。手をつないでほしかった。
いつもより早起きした日、陽火は俺を見て何も言わず家を飛び出した。
「今日も一緒に行けなかったな」
「明日は行けるかな」
そんなことを考えて、「行ってらっしゃい」って言えばよかったと後悔して、明日こそはって思った。
でも、そんな日はもう来なかった。
陽火はその日から、帰ってこない。
行ってきますを言わなかったから、ただいまが言えなくなったのか。俺がいたから、行ってきますを言えなかったのか。
そんなに俺のこと、嫌いになってしまったのか。半分の片割れだったのに、なんで陽火は俺から離れていったんだ。
さびしくて、つらかった。訓練だって、陽火がいればこんなに苦しくなかった。どうして一緒に生まれたのに、ふたりでひとつだったのに、引き離したんだ。
陽火が本当にいなくなってから、ようやく気づいた。
俺が何に怒っていたのか、何がつらかったのか。
もし今、陽火が俺を見ても、もう手を振ってはくれないだろう。それでも─────俺は、振り返ると思う。会いたかった。会いたい。ずっとずっと、そればっかりの後悔をしている。
仏壇に写真は置かれてない。けれど、下世話なニュース番組が、思い出したようにNo.2の息子の誘拐事件を取り上げては陽火を何度も殺す。
誘拐された子供の生存率。危険なヴィラン。身元不明の子供の亡骸。俺の半分が、テレビの中で何度も死んでいく。
「会いたいな」
謝りたい。許してくれなくていい。
八つ当たりして、ごめんって、ただそれだけを伝えたい。
帽子を一度深く被り直して、憂鬱な気持ちで家の門を目指す。
ちょうど帰ってきていた夏兄が、自転車を止めていた。
俺の姿に気づいた夏兄が、はっとしたように目を見開いて、駆け寄ってくる。自転車は倒されて、カゴに入っていたチラシが地面にぶちまけられる。
「陽火!」
髪、帽子で見えなかったから。小さい頃は、そっくりだったから。だから。
声を上げた瞬間に、間違いに気づいた夏兄が、俺の帽子をそっと取った。頭を撫でながら、「わ、わるい。焦凍、おかえり……」と、泣きそうな顔で笑う。人って絶望した瞬間、こういう顔をするんだなとぼんやり思った。嬉しくて、喜んで、笑って、違うと気付いてぐしゃぐしゃになる。
「ごめん、夏兄」
「お前は悪くない、間違えた俺が悪い」
「ごめん」
「謝んな。……謝るなよ、なんにも悪くねえんだからさ」
門までのほんの数メートルを、夏兄は俺の手が痛くなるくらい、強く握っていた。
二卵生じゃなきゃよかったな。一卵性の双子で、ずっと同じような顔をしていたら、こんなチラシなんて貼って回らなくても、「俺と同じ顔です」って言って回れば済んだのに。
雨に濡れて破れて、ゴミ箱に突っ込まれて、落書きと一緒にぐちゃぐちゃにされて、変な電話しか来ない行方不明者のチラシ。
家から出てきた姉さんがそれを拾い集めながら、「おかえり」と、いつもと同じ声で俺を迎えてくれた。
陽火がいなくても、別に何も変わらないんだ。今日も明日も時計が止まるわけでもなく進んでいく。やっぱりそれが、すごく嫌で、苦しかった。
