【窓を叩く風の音、おばけの悲鳴、お前たちには届かない。】

 窓をぬるい風が叩く音が、人気のない民家にぽつぽつと響いていた。軋んだサッシがわずかに揺れ、風の通らないはずの空間に、ざらついた音が舞い込む。
 けれどもその家にはもう、気配がなかった。誰もカーテンを押さえに来ず、電気もつかず、時計の針だけが律儀に秒を刻んでいた。
 家人不在の家では、その音に気づく者もいない。ぬるくて重たい、季節外れの強い風は、ただ、誰にも届かなかった。
 それが、子供の悲鳴であることに、誰も気づかなかった。助けを求める声は誰の耳にも届かず、ましてやヒーローになど届くはずもなかった。

 それだけの、どこにでもある話だ。ほんの少しだけ、不運が積み重なっただけの、よくある話だった。

 その子供が5歳の頃は、幸せだった。明るく元気で、友達想いのおとこのこ。将来の夢はヒーローで、好きな食べ物はオムライス。
 朝には「いってらっしゃい」のキスをもらい、夜には絵本を読んでもらいながら眠った。

 両親の愛情を、頭のてっぺんから足の爪の先まで、たっぷりと浴びて育てられた、可愛い可愛い幸せな子供だった。5歳で個性が出現するまでは。彼はずっと、当たり前のように幸せだったのだ。

 ある日、彼の身体が透け始めた。最初はほんの少し、足の先がぼやける程度。すぐに元に戻ったから誰も深くは気に留めなかった。「きっと凄い『個性』だ」なんて、両親は笑っていたので、彼もこれからきっと『すごくいいこと』があるのだと無邪気に信じていた。
 しかし日を追うごとに身体は消えていった。指、手首、腕、顔。まるで体がこの世からフェードアウトしていくように見えなくなり、身体には白いシーツのようなものが巻き付くように出現した。

 当初は「透明化」だと考えられていたそれがそうではないと気づいたのは、父親の様子が変わってからだ。
 優しくて子煩悩だったはずの父親が、彼をまじまじと見つめ、顔をしかめ、吐き捨てた。

 「……化け物」

 それが、最初だった。そして次の日から、殴られるようになった。

 撫でられることしか知らなかった子供は、突然の暴力に声をあげて泣き叫んだ。「やめて」「こわい」「パパ、どうして」そう叫んだはずの言葉は、もう人間の声ではなかった。

 それは、酷く歪んでいた。音階の外れた、ひゅうひゅうと鳴る不吉な風の音。まるでどこかの山奥で迷った末に亡くなった亡霊が、助けを求めるようにうわごとを繰り返すような、そんな音だった。

 個性【ゴースト】

 少しずつ人の形を失っていく肉体。壁をすり抜けるようになる奇怪な現象。精神が不安定な者に与える、耐えがたい嫌悪感と恐怖。そして、興奮すると出てしまう呪われた声─────それらは無自覚に、誰かを深く傷つける。

 まだ幼かった彼にとって、自分の身体が「知っているかたち」と違っていくことは、それだけで得体の知れない恐怖だったが、父親はそんな彼のそばに寄り添ってはくれなかった。
 ただ、日に日に目を背け、吐き捨て、暴力に訴えるようになっていった。父の持つ優しさは、弱さが元となっているものだったのだろう。【ゴースト】の個性を正面から浴びて、父親の精神は歪んで壊れた。なんとかして彼を守ろうとする母親と、嫌悪して遠ざけようとする父親の関係は一気に冷え切り、険悪さは家の隅々までにじんでいた。これが自分のせいなのだと、泣きじゃくることしかできない子供でも理解できてしまっていた。

 彼が8歳になる頃には、何年もの別居の末に離婚が成立した。気丈な母は彼に何も言わず、育てにくい個性の子供を献身的に支えてくれた。育った土地も悪くなかった。田舎では異形型への差別が強いが、ここではそれほどでもない。それでも、意地悪な子供というものはどこにでも存在している。ヒーローごっこといわれてヴィランだと追い立てられ、見えないからと引っ張られて叩かれる。シーツおばけのような身体では、怪我をして気付かれない。泣き声で人の精神に悪い影響を与えると教わった彼は、だから優しかったお父さんがおかしくなってしまったのだと正しく理解してしまった。か細い声で伝える「やめて」は笑い声にのまれて誰にも届かず、ある日決壊した。

「やめてよ!」叫んだ声が風の抜ける音となって教室の中を走る。あ、と短く声が漏れた。やってしまったと思った時には既に遅かった。

 近くにいた女の子が耳を押さえて机に伏せ「なにかが入ってきた」と泣きながら自分の頭を机に打ちつけ始める。別の子が立ち上がって、口の中を押さえる。「中に入った! いる! やだやだやだやだ!」自分の舌を引きちぎるかのように、必死で口の中を掻いていた。

「こっち見た! 見た! わたし、見られた!」

 誰も見ていないのに、全員が「見られた」と感じていた。
見られたら呪われる。見られたら狂う。見られたら、死ぬ。
 恐怖が、意思もなく伝染した。呼吸は浅く、視野が狭まり、世界が捻じれる。教室というはずの空間は、いつのまにか安全圏ではない場所にすり替わっていた。

 教室の時計の針が、秒を飛ばしながら動いていた。ぐにゃ、と黒板が歪み、掲示物が勝手に剥がれ、カタカタと震える。3階の音楽室から聞こえてくるはずのないピアノの音が、かすかに耳鳴りのように混ざっていた。

 駆け込んできた担任の「落ち着け! 全員落ち着いて――!」という声、けれどその声すら風にかき消される。先生の表情もどこか曖昧に揺れていて、誰ひとりとして“現実”を掴めない。

「おばけがいる、こわい」

 ふと、ぽつりと呟いた子が、次の瞬間、白目を剥いて倒れた。それを見た隣の子が、正気を失ったように叫ぶ。

 彼は動けなかった。なにもしていない。ただ、やめて欲しかっただけだ。意地悪しないで、なかよくして。それだけを言いたいだけだったのに。

 静かだった教室が、地獄になった。
悲鳴。奇声。笑い声。すすり泣き。椅子の軋み。骨がぶつかる音。あらゆる音が混ざりあって、世界は音と匂いと寒気でぐちゃぐちゃに混ざる。

 それが、彼の最後の登校日だった。

 朝、パンの焼ける匂いで目が覚める。トースターの軽い破裂音、バターを塗るざらついたナイフの音、控えめな食器の重なる音。朝ごはんを食べて学校へ行く、そういう当たり前のことが出来るような気がして、起きた瞬間だけは毎日嬉しかった。しばらくすると「ばかみたい」と現実を思い出すから、一生起きてるか一生眠ってるかしていたいなと思う。

 のろのろとキッチンに向かうと、自分のせいで働いてばかりの母が疲れた様子もなく「おはよう。今日は、ちょっと早起きね」と言った。いつもと同じだった。変わらずに笑ってくれた。けれど、その笑顔がどうしようもなく遠く感じた。世界が、自分ひとりを取り残していく。声も、顔も、体も、何もかもがうまく伝わらない。そんな感覚がずっとある。

 テーブルの端には一枚の紙が置かれていた。フリースクールの案内だった。母は、あまり押しつけがましくない口調で言った。「いろんな子がいるって。あなたみたいな子も、いるかもしれないって」優しい声だった。変わらない調子で、ただ信じるように話してくれた。
 それが、たまらなく苦しかった。どうして自分だけ、こんなふうになったのか。どうしてこんなおかしな姿になってしまったのか。ヒーローになれなくても、普通でいたかった。どうして、どうして、どうして、どうしてこんなに辛いんだ。どうして、自分なんかを産んだのか。心の底に溜めていた言葉が、口を通して溢れた。

「なんで……なんでこんな化け物、産んだんだよ! ママのせいだろ! 俺だって普通に、みんなと同じ学校が良かった! ふつうがよかった!」

 叫ぶ言葉は後半から不気味な風の音に変わっただろう、息を殺して、ひっくり返してしまったサラダになにもかもが悲しくなる。ママの作ってくれたご飯をめちゃくちゃにしてしまった。ママにひどいことを言ってしまった。

 母はしばらく黙っていた。そして静かに目を伏せて、小さく「……ごめんね」と言う。その言葉が、胸の奥に突き刺さった。違う、そんなつもりじゃなかった。言葉を探しても出てこなくて、何も言えないまま椅子を離れ、自室へ戻った。閉じた扉の向こうから、もう何の音もしなかった。

 時間だけが進んでいった。昼を過ぎても、声はかからなかった。「お昼にしようか」も「おやつ食べる?」もなかった。
 何時間も何も聞こえなかった。夕暮れ、空気が紫に染まり始めた頃、ようやく体を起こした。謝らなきゃ。怒らせてしまっただけだ。ちゃんと謝って、フリースクールに行くって言えば、また笑ってくれる。こんな個性を持ってしまったのは、俺のせいでもないしママのせいでもない。もちろんパパだって無罪だ。俺がほんのちょっぴり運が悪かっただけ! そう思ってドアを開けた。廊下を歩きながら、足が重たくて、でも止まれなくて、食卓に向かった。薄暗いキッチンで先に目に入ったのはテーブルの上に置かれた紙切れだった。《産んでしまってごめんね》、その一文だけが、母の字で残されていた。

 視線を引っ張られるように上を見た。天井の梁にロープ。そこに、母の身体が吊られていた。無言で揺れていた。思考が止まり、現実感が削れ、目の奥が焼けるように痛くなった。脚立を倒しながら駆け寄り、届かないロープに向かって何度も飛び跳ねてから脚立を使えばいいと思い返した。母の身体がぶら下がったロープは重くて外すことが出来なくて、脚立から転がりおりて包丁を持ってきた。何度も何度もロープに引き当てて、母の身体が大きな音を立てて床に落ちる。「ママ!!」 駆け寄った身体は重くて冷たくて、もう何も言わなかった。

「やだ、ママ、ちがう、ごめんね、ごめんってば……!」

 震える手で抱きしめながら、何度も何度も謝った。けれど母は、何も返さなかった。助けを呼ばなければ、誰かに、ヒーローに――そう思って、玄関を開けた。夜の街に踏み出した。裸足の足がアスファルトを叩く。白く変質した身体に、生ぬるい風が擦れた。母を背負いながら、肩を震わせながら、声を上げた。

「たすけて……ヒーロー、たすけてください……」

 けれど、その声はもう、人間の声ではなかった。個性【ゴースト】が、声を風の音に変えていた。濡れた布が風に煽られるような、耳の奥でささやくような、不吉な音にしか聞こえなかった。誰も彼を見なかった。見ているはずなのに、見ようとしなかった。パトロール中のヒーローすら、目の前を通り過ぎた。風の音が聞こえただけだった。

「たすけて……たすけてよ……」

 声にならない声が、街を彷徨った。誰も来てくれなかった。誰の耳にも届かなかった。死体を背負った子供の声は、ただ夜の風の中に溶けていった。ヒーローなんて、どこにもいなかった。

「うわ何またホラーはじまった?」

 声をかけてくれたのはたった一人だった。小さな灯火が明るい闇の中で揺れる。スッと心が軽くなったような気がして「たすけて」と震える口で繰り返した言葉に、目の前の人は「とりあえず……聞くだけ聞くけど……」と困ったようにこたえてくれた。

 彼だけが、誰にも届かなかった『たすけて』にこたえたのだ。