【あかりを継いで】

 夕暮れの光が会議室の窓に斜めに射し込み、机の端に淡い橙色の影を落としていた。
 灰色のスーツに身を包んだ若手職員が、机の上に置かれた小さなキーホルダーを見つめていた。透明な球体の中に封じられたような淡い光───────《あかり》。
 それは、彼が街頭で出会った一人の少女から受け取ったものだった。
 あの日の記憶は、霧の向こうに浮かぶ幻のように忘れられずに残っている。調査目的という名目で、《あかり》を持つ教団関係者に接触しようとしていた。雑踏の喧騒が響く街角で、少女はまだ十代に見えるほど若く、制服のような装いで募金箱を抱えていた。
 彼は軽く声をかける。会話を続けて《あかり》を分けてもらうか、もしくは他の信者への繋ぎを作るつもりだった。
 
「……あなたに必要そうだから」
 少女は彼の最初の一言を遮るように、まっすぐ目を見て微笑んだ。なぜかその笑みに強く怯んでしまった。自分は何も悪いことなどしていないのに、後暗いことなど何も無いはずなのに、少女の目を見返すことが出来ず、咄嗟に逸らす。

「この《あかり》が、あなたや、あなたの大切な人の心にも、優しく光を灯しますように」

 そう言って差し出された小さな《あかり》は、ほのかに温かかった。指先ではなく、胸の奥のほうがじんとするような感覚だった。まるで、凍てついた心の端に、春の陽だまりが差し込んだかのようだった。

 その《あかり》は後日、分析のために提出された。公安の記録として、正式に。
 そして今、会議室の机の上で、透明なケースに収められている。ケースの表面には、蛍光灯の冷たい光が反射し、《あかり》の柔らかな輝きをどこか無機質に閉じ込めていた。

「外見はただのキーホルダーだが、被験者の脳波に変化あり。恒常的な鎮静効果が見られる」

 ファイルをめくりながら、職員の一人がそう報告する。声は事務的で、まるで機械が読み上げるような平板さだった。

「依存性も含め、十分に警戒すべき対象だな」

 別の中年男性が言う。彼の声には、長年の職務で磨かれた猜疑心が滲んでいた。

「たしかに、与えている今は問題がない。だが構造としては、薬物依存と変わらん」

 そこで若手が、ふと顔を上げた。胸の内で何かがざわめき、言葉にならない感情が喉元までせり上がってくるのを感じた。自分が見たあのあたたかな《あかり》が、あの時の感情が、偽物だったとはどうしても思えないのだ。

「……でも、それでも」

 会議室に静かな空気が流れる。彼は戸惑いながらも言葉を継ぐ。

「救われてる人がいるのは、確かではないですか。火継に《あかり》をもらって、家庭が変わったとか、自分が変われたって話……俺、現場で何度も聞きました。泣いて喜んでた人だっていた。火継が、悪意のある存在には見えなくて……」

 彼の声は尻すぼみになり、机の資料を見つめる。そこには、数字とデータが冷たく並んでいるだけだった。だが、彼の頭には、街角で見たあの少女の微笑みや、涙を浮かべて《あかり》を握りしめる人々の顔が浮かんでいた。
その隣で、椅子にもたれていたベテラン職員が静かに口を開いた。

「───────今はな」
 その声は静かで穏やかだったが、どこか突き放すような冷たさを孕んでいた。彼は腕を組んだまま、資料の束に指を滑らせる。指先が紙の端を叩く音が、静寂の中で小さく響いた。

「今のところ、火継は“与えている”だけだ。《あかり》を、人を、安らぎを、希望を。それを見て、人は『良いものだ』と信じたがる。……だがな」

 分厚いファイルには、信者たちの証言、分布、年齢、生活状況……そのすべてが詰め込まれている。まるで、火継という存在が網の目のように社会に広がり、静かに根を張っていく様子を記録した地図のようだった。

「誰が、それがずっと続くと“確証できる”んだ?」
 その問いは、誰に向けられるでもなく空に放たれた。会議室の空気は、まるで一瞬にして冷え込んだかのように錯覚した。言葉は続く、「火継が何者か、俺たちはまだ分かっちゃいない。ただの善意の人間かもしれないし、意図的な支配者かもしれない。……いや、それ以前に、本当に“人間”なのかすら分かっていない」

 彼は何も言い返せなかった。ただ、頭の中で少女の言葉が繰り返される。
『あなたに必要そうだから。』
『あなたや、大切な人の心にも、優しく光を灯しますように。』
 その声は、まるで今も耳元で囁いているかのように鮮明だった。

「逆を考えろ」
 俯いた頭の上を、硬い声が通り過ぎる。自分よりも多くのものを見てきたベテラン職員の言葉は、重い。

「信じることが希望になるのは、それがそこにあり続けると“疑わない”からだ。だが、希望を信じた心は、希望がなくなった瞬間、絶望という名の落とし穴に真っ逆さまだ。火継が与えてきたもの─────それを、ある日突然『奪う』と決めたらどうなる? 彼にとって、それがどれほど容易いか、分かってるか?」

 視界に入る《あかり》が、突然小さな爆弾のように思えてきた。その光は、柔らかく揺らめきながらも、どこか不気味な重みを帯びているように見えた。

「容易く与えられたものは、容易く奪う手段がある。180万人が、光を失う。灯された心に、ぽっかりと穴があくんだよ。その大穴に、ひとは耐えられると思うか?」

 支えられた分だけ、失ったときに崩れる脆さ。優しさゆえの依存。

「……っ」

 彼は言葉を飲み込み、一段と深く視線を落とした。
火継が“優しいから”問題がないのではない。ただ、“まだそうしなかっただけ”─────それだけなのかもしれない。心のどこかで、そう呟く別の自分がいた。

「教徒の数は、火継が“救った”人間の数じゃない。─────“壊せる”人間の数だ」

 その一言が、夕暮れの薄闇にゆっくりと沈んでいった。
窓の外では、街の明かりがぽつぽつと灯り始めていた。だがその光さえも、スイッチひとつで奪われるものかもしれない。そんな考えが、会議室に冷たく流れていた。
 会議室の時計の秒針が、規則正しく刻む音だけが、静寂を埋めていた。

 そしてその夜。
 彼は自宅のリビングに一人、静かに佇んでいた。カーテンの隙間から漏れる街灯の光が、部屋の輪郭をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 彼は、提出しなかったもうひとつの《あかり》を、誰にも見られないようにポケットから取り出し、リビングのテーブルにそっと置いた。生まれたときと同じ重さの、2451gのテディベアを抱き上げて────娘の代わりに、《あかり》を見せる。

「きれいだね」

 テディベアのガラス玉の目は、ただ無垢に《あかり》を映していた。誰の声もしない静かな部屋で、思い浮かぶのは妻と娘の笑顔だ。かつて、彼女たちが心から笑っていたあの日の記憶。『お父さん』と呼ばれていた、あの短くも幸福な日々の思い出たち。

 《あかり》の淡い光が、テディベアの毛並みを柔らかく照らす。少女に《あかり》を手渡された瞬間、もう二度と聞くことのできない娘の笑い声を、久しぶりに思い出すことができた。
 それだけで、どれほど幸福なのか、どれほど自分が救われたのか、彼らはわからないのだ。《あかり》の本当の価値は、それが必要なものにしかわからない。わかるわけがない。​───────お前たちに、わかってたまるか。救われる必要なんて無いくせに。

 ……それが規則違反であることも、組織人として失格な行為であることも、理解している。
 言い訳できることではない。でも、それでも。

 彼はただ、妻に───────もう一度、笑ってほしかった。どうしても。