かみさまは灯火のかたちをしていた

 男に生まれてよかった!

 殴られても蹴られても、丈夫だった。泣かなくてえらい、黙っててえらい、耐えてえらい。男だから。そういうもんだって思えば楽だった。骨が折れても黙ってた。心は見えないから、無傷ってことにできた。そうしてきた。そうやって、生きてきた。

 気づかれなければ、なかったことになる。身体を丸めて黙っていれば、そのうち傷は消える。誰も心配なんてしないし、しなくて済むように見せるのがうまくなった。そう見せるしかなかった。

 だから、男でよかった。壊れにくくて、鈍くて、黙っていても許された。  
 そういうふうにできていたから、ここまでこれた。ここまで、これてしまった。

 ──────じゃあ、二人は女だからえらくないのか?

 荒れ果てた部屋の隅で、娘を抱きしめて震える妻が、悪いのか。
 怯えた目で、俺を見る娘が。俺のことを、怖いと思ってしまったあの子が。  女だから、俺みたいに丈夫じゃないから、悪いのか?

 ……違う。そんなはずはない。けど、そう思おうとした。そう思えば、ほんの少しだけ、楽になる気がした。

 酒を飲んでいた。今日も、また。
 飲まなきゃやっていられない。声が大きくなるのも、壁に手をぶつけるのも、乱暴な音を立ててしまうのも、全部、酒のせい。酒さえなければと、思っていた。そういうことに、していた。

 俺は親父と違う。
 あいつみたいに、怒鳴り散らして手を上げたりなんか──……違わない。

 あの頃の自分が見上げた「親父」の姿が、そこにある。拳を握りしめる音、皿が砕ける音、唇を噛んで耐える母の横顔。今、目の前にあるものと、変わらない。

 俺は、あいつの背中に、もう追いついている。  知らないうちに、そっくりになっていた。

 どうして、こうなったんだ。愛してるから結婚した。
 愛してるから幸せにすると誓った。親父みたいにならないと、心から思ってた。あんな大人には、絶対にならないと願ってた。

 でも今、妻は俺の怒鳴り声に肩をすくめる。娘は俺を、恐れている。

 俺は、もう、なにかを壊してしまっている。

 どうして逃げきれなかったんだ。逃げたはずだったのに。逃げきれたはずだったのに。気づけば同じ場所に立っていた。

 親父がいたあの地獄の真ん中に、自分がいる。化け物がいる。

 酒が抜けて全身が震える。頭が痛い。視界がぼやけて、現実に吐き気がする。今のうちだ。今しかない。這いずるように部屋を出た。

 汚い家だ。俺が暴れたせいで。床には割れたガラス片と、足跡のついたままのぬいぐるみが落ちていた。

 妻が気に入っていた薔薇のアーチが、庭で枯れていた。
 いつだったか俺が壊したトールペイントのウェルカムボードが、捨てられずに隠すように置かれている。
 あれはこの家を買った時に、妻と娘が一緒に作ったものだった。

 ああ、上手に出来ているな。色の選び方が上手い。売れるレベルだ。
 その記憶を思い出せるだけの理性は、まだあった。

 吐き気がする。おぞましい。この俺が、今の俺だけが、まともなんだ。
 化け物が来る前に、化け物を退治しなくてはいけない。

 大切な家族を守る為に、俺が化け物を殺さなければ──!!!

「パパ? どこいくの。あのね、いいものもらってきたの。学校で流行っててね、パパにあげようと思ってね」

 いつの間に立っていたのか。小さな足音も、泣き声も立てずに、そこにいた。
 ラベンダー色のランドセルを足元に置いて駆け寄る娘の手の中にあったのは、小さな試験管。

 内側から、優しい光が漏れていた。

 澄んだ緋色の炎が、何かを照らすように脈打っている。まるで呼吸しているみたいに見えた。  あかりだった。たしかに、そこに灯っていた。

「これね、『あかり』なんだって。これを大事にしてたら、怒らなくてよくなるんだって。みんなとなかよくできるおまじないなんだって」

 たどたどしく説明する娘は、こんなに大きくなっていたのだろうか。

 ああ、俺はいつから可笑しくなっていたんだ?

 肩車が出来ていたような、小さな子供じゃなくなっていた。
 俺はいつから、この子をちゃんと見ていなかったんだ?

 『あかり』の中で、意識がまともに塗り変わっていく。

 透きとおった光が、ゆっくりと胸の奥に染み込んで、腐った肉を柔らかくほぐしていくようだった。

 意味のない焦燥感も、今はもうどこにもいない親父の影も、遠くに消えていく気がした。

「これ、あげるからぁ、なかなおりしようよお……

 泣き出した娘に手を伸ばすと、ビクリと身体を震わせて怯えた目で俺を見る。

 心の中に鋭い杭が打ち込まれたような感覚。こんな目を、誰に向けていた?  何度も見てきた。何度も浴びてきた。良いはずがなかった。許していいはずがなかった。

 幸せにするために命を望んだ子だったのに!

「ごめんなあ、ごめん、お父さんが悪かった……!」

「な、なかなおり、なかなおりできる? また、パパとママと、仲良くできる……?」

「ああ、できる。できるよ。全部パパが悪かったんだ。ごめんよ、ママにも謝る。ごめん、ごめんなあ……!」

 差し出された『あかり』を受け取って泣き崩れる俺を、娘は優しく抱きしめて一緒に泣いてくれた。

 ああ、ああ、かみさま! かみさまがいるなら、この試験管の中にいるんだろう!

 俺のおかしな化け物が、一瞬で頭の中から消えたんだ。ずっと狂っていた頭が、落ち着いて、まともなことだけ考えられるようになった。

 自分がいままで、どれだけおかしかったかが、クリアにわかるんだ。

 まともになる。まともになれた。一生だ。誓うよ。本当に。

 涙で歪んだ視界の中で、小さな『あかり』だけが、はっきりと輝き続けていた。