いつ羊水から海水に変わったのか気付く前に、海の中にいた。人魚というわけではない、漁村生まれだからだ。
村全体がどこかで血が繋がってるような小さな世界。二本足で歩く前から泳ぐようになったし、潜水が出来るやつが良い男良い女。強靭な肺と血と筋肉を持つ者の遺伝子が優先的に残されて、人としては長く海の中で行動ができる者で村が出来ていた。俺は時間にして8分程度潜水が出来る、村の中では短い方だ。親父は12分潜れる。この数分の差が大きい。
貧しくもないが豊かでもない村なので、男たちは物心ついた時から海の中でスピアフィッシングをする。俺も例にたがわず従っていた。
自分の身丈よりもでかい、お下がりのモリを持って泳ぎ回り、突いては回収突いては回収と黙々と仕事をしていた。この村は子供だって立派な働き手だ、俺はよく働く良い男という自認を持っていたので、誰よりも長く海の中にいた気がする。
いつもと同じ日だったはずなのに、その日は可笑しかった。妙に海の中が静かで、小さい魚が隠れている。まるで分厚い幕が張っているような、違和感。
海の中では“いつもと違う”という感覚は見過ごしてはいけない。俺は親父たちの忠告を思い出して、ここから立ち去ろうとした。
その瞬間、頭上に影がかかる。背中を貫くような強烈な違和感と同時に、左腕に激痛が走った。─────サメだった。
運良く骨に歯が当たったおかげで食いちぎられてはいない。それを理解する前に、俺はサメの鼻っ柱を殴打していた。
当然、子供の力ではビクともしない。左手に持っていたモリはいつの間にか落ちていた。左腕ごと身体が振り回される。視界が俺の血で真っ赤になり、ごぼごぼと泡と砂で何も見えない。死ぬのか、と思った。
───────瞬間、絶対に負けないという気持ちでいっぱいになった。俺を殺すやつは絶対殺してやる。許さない。
腰に差していた貝殻用の小刀を右手で掴み、深く刺し込む。刃が滑り、血とぬめりが掌を冷たくする感触すら覚えていない。
サメはさらに暴れたが、刺し続ける。刺して、捻って、また刺す。自分の身体のどこにそんな力が残っていたのか分からなかったが、怒りと恐怖が筋肉を震わせ、腕の痛みを押しのける。
サメの皮膚はざらついて鱗のように硬い。ナイフが滑るたび、海水が血と混じり合って暗紅の糸を引く。俺は刃をエラに叩き込み、内部にある柔らかい組織を狙った。エラは呼吸器官だ。そこを破れば動きが弱まるはずだ。
息継ぎのたびに海中に泡が弾け、サメの喘ぎがどこか不気味に聞こえる。ごぼごぼと音を立て、海は俺の血と舞い上がる砂で濁っていく。
サメが口を離した瞬間、左腕は解放されたが血は流れ続ける。脈の動きに合わせて、血が海に吸われていくのがわかった。疼く痛みが神経を走る。ちぎれていないのを確かめ、俺は再び刃を突き立てた。濁った水流の中でサメの目が激しくチラついて狙いが定まらなかったが、連打すればどれか刺さるだろうと何度も振りかざし続けた。奥まで届く柔らかい感触がナイフの柄から響く。繰り返した攻撃のどれかが眼窩に刺さったとき、サメはビクッと大きく暴れ、体を捻って逃れようとした。その反動で俺は足を取られ、砂底で身体が回転する。逃げる気か。だが逃がさない。誰が死ぬか、お前が俺を殺そうとしたんだ、お前は俺に殺されるべきだろう。
ナイフをさらに深く刺し込み、頭と胴の間を引き裂く。また視界が赤に染まる。
サメの血が俺の血よりも先に流れ出し始めたあたりで、動きは確実に鈍くなった。尾を掴み、砂利を蹴って海面へ向かう。酸素不足で視界が濁り、肺が空気を求めて叫んでいるのが分かる。泳ぐ度に胸が裂けそうだが、手にした尾は重く、まだ生きて抵抗する。
ようやく水面に顔を出すと、空気が身体に突き刺さるように甘く感じられた。
親父の船の影が遠くに揺れている。尾を引きずりながら必死に泳ぎ、腕の傷からはずっと温かい血が滴っていた。
勝った。
俺は勝った!
「息子が血まみれでサメ持ってきた時の父親の気持ち、分かるか」
「俺は勝った」
「えらい」
魔法士になって帰ってきた近所の兄ちゃんから回復薬を譲ってもらい、全治二週間。
陸に上げてからわかったことだが、海では巨大に見えたそのサメは、地面の上では俺より少し大きい程度だった。だが普通のサメとは違い、魔物に近い生き物なのだそうだ。よく見ると目が8つあるな、無駄に。
残虐で、食べる訳でもないのに好んで人や人魚を襲い、接近時に獲物の認識を阻害する魔法をかけるという。小癪なやつだ。たいして美味くもないというのに。
これが出ると村の精鋭がチームを組んで狩りにいくが、俺の年でこいつを倒せるなんて……! とちょっとした祭りになった。将来有望。この村では強いやつが偉い。
皆に褒められて、親父は誇らしげに肩を叩き、母は口では心配するが頬は緩んでいる。美味い物が出て、五人に求愛された。強い、偉い、すごい。
ありがとう魔物サメ、俺に殺されてくれて。二度と出てくるなよ。またぶっ殺してやるからな。
