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「ジェイド! 向こう隠れるよ!!」
「はい!!」

 潮の流れに逆らいながら、二人は白い泡を掻き分けて進んだ。海流は荒く、身体にまとわりつく塩気が痛いほどだった。

 フロイドが叫んだ先には、岩がいくつも重なってできた狭い裂け目がある。体長はあるが細身の二人なら、ぎりぎり入り込める隙間だった。勢いのまま突っ込む。長い尾びれが岩肌に擦れ、薄く血が滲む。

 ​───────ドン、ドン。

 何か巨大なものがぶつかる音が続き、岩が震え、砂と泡が舞い上がる。重なり合った岩はきしみながら欠片をこぼし、ゆっくりとズレていく。

「アズールを連れてこなくて良かったですね」

 下手くそな引きつった笑みを浮かべたジェイドが、フロイドの脇腹に尾びれをそっと巻き付けた。手に触れる海水が生ぬるい。漏れ出るように、少なくない量の血が零れて赤が薄まり消えていく。本当はすぐにでも治療しなくてはいけないものだ。

「アズール、足おっそいもんねえ。あ、でもスミ吐いてなんとかなったかも? 狭いとこに入るのも得意だし。頭いいから、なんとか、して……」
「フロイド、フロイド、大丈夫ですよ。すぐにここから出て治療して貰いましょう」
「うん、うん、」

 岩場が、また振動した。
 もともとこの場所を遊び場にしようと提案したのはジェイドだった。陸地が近く、珍しい生き物がよく見られる。少し温かい潮の流れが心地よく、これまで一度も危険な目に遭ったことはない​─────はずだった。

「じぇいどぉ……」
「フロイド、大丈夫ですから、大丈夫ですから」
「おなか、いたい……」
「だいじょうぶだから、すぐ、だれか、きて、たすけてくれる、から」

 普通のサメではなかった。あれは魔物だ。本来サメは、臆病な生き物である。獲物と間違えない限り襲って来ることは無い。
 それが、迷うことなく襲ってきた。先に異変に気付いたのはフロイドだった。隣にいるジェイドを突き飛ばし、​─────海中が赤く染まった。

 運が良かったのだ。噛みつかれたまま振り回されていたら、腹が千切れていた。だがサメは一度だけフロイドを放した。その隙に、ジェイドは全身で彼を抱きかかえ、逃げた。
 気絶していたフロイドもすぐに目を覚まし、血を引きながら必死に泳ぐ。だがサメは執拗に追ってくる。陸に近づくにつれ、岩場は減り、隠れる場所がなくなった。そこから先は、大人たちが「行ってはいけない」と言う領域。陸の者たちの世界。

 息が切れ、ジェイドは岩に身を預けた。血の匂いが潮の中に溶けていく。ふと、岩にぶつかる衝撃音が途絶えた。

「……?」
 静寂。逃げられるかもしれない。ジェイドは崩れかけの岩の隙間から外を覗いた。いた。まだ、いる。

「フロイド、狙いが変わりました!」
「ん……」
「こっそり行きましょう、大丈夫です。他のやつを食べてるうちにいけばバレませんよ。血が沢山出てます。彼を食べたらきっとおなかがいっぱいになって、見逃してくれますよ。ね、大丈夫です。僕が引っ張っていきますから。大丈夫ですから、ねっ」

 サメが噛み付いていたのは、ここら辺の海でたまに見かける尾びれがふたつある人魚だった。複雑な模様の鱗が血で濁った砂の中でキラキラしている。
 近くにモリが落ちていた。きっと彼の物だろう。ありがたく受け取ってフロイドに持たせる。手が上手く動かなくなって、腕で抱きしめるようにしか持てなかった。

「有効活用しましょう。もしもの時はこれで応戦すればいいんです。任せましたよ」
「じぇいど」
「そう、目を開けて、寝ないで。僕がちゃんと連れていきますから、絶対に寝ないで」
「じぇいど」
「絶対、助かりますから……」

ジェイドの声は、もうほとんど祈りのようだった。
その時​───────。

「ジェイド、見て。あいつサメ殺した」

 かすれた声に顔を上げる。
 血と砂で濁った海が、潮に流されて澄んでいく。そこに差し込むいつもより近い太陽の光が、きらきらと反射した。黒い鱗を持つ二本の尾びれがゆらゆらと動き、海面へと昇っていく。動かないサメの体を引きずりながら、その人魚は視界から消えた。

「すっげえ~~!! めっちゃくちゃ強い人魚がいる!!」
「フロイド、お腹は」
「死ぬほどいてえ!! 早く帰ろ!で、アズールにも教えよ!! 楽しかった、連れてきてくれてありがと!」
「………」
「泣くなよお~~~。一緒にかえろ、全部いてえから抱っこしてって」

 顔色は悪くても、フロイドの声は生きていた。
 ジェイドは何も言わず、彼をしっかりと抱きかかえた。傷ついた尾びれを引きずりながら、遠くの光を目指して泳ぐ。泡が軌跡のように後ろへ流れていく。

 なんとか大人たちのところまでたどり着き、関係各位にこっぴどく叱られた二人の人魚。彼らの謹慎がとけるのは、二週間後だった。