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 見上げた先、海面ぎりぎりのところで、二本の尾びれがひらひらと太陽光を裂いていた。光は刃になって水を刻み、散った泡が細かな鱗のように舞い上がる。
 「あの子だ」 と、ジェイドが呟く。それを聞いたフロイドは嬉しくてたまらなくなった。今すぐにでもこの岩場から飛び出して、話しかけに行きたい!
 でも、そうする前に尾びれが二本の人魚は真っ直ぐ自分たちのところに向かってきていた。

「来た、来た!」
「ああ、どうしましょう。なんてご挨拶しましょうか」

 狭い岩棚の影で身を寄せ合っていたジェイドとフロイドは、互いの肩先が触れるほど近くで、くすくす笑い合いながらその子が近づくのを待った。岩肌は冷たく、海藻が擦れてささやくたび、期待で心臓が余計に早くなる。

「きっとここにいるのが分かったから、会いに来てくれたんだ」
「彼も僕たちと友達になりたいと思ってくれていたんですよ」

 どきどきする。この心臓の鼓動で水が変に揺れてしまわないか心配だった。だって二人分だ、小魚ならショックで気絶するくらいの水流が出来るかもしれない。
 でも、目が合った瞬間にその子はたくさん泡を吐いて海面に向かってしまった。慌てて追いかけながら話しかける。

「ねえ、名前なんていうの」
「仲良くしましょう。僕たち、あなたと友達になりたいんです」

 小柄な人魚だ。アズールよりも小さい。それなのにつよい! こたえてくれないけど追い払ってはこないから、喋ることが苦手な子なんだろう。
 名前を教えてもらえないのは悲しいけど、ないのかもしれない。ジェイドもフロイドも、もう少し小さい頃は『こどもたち』とまとめて呼ばれていた。兄弟が減って分かりやすくなったから名前がついただけだ。

 フロイドが名前のない友達の前に回りこみ「はい!」とモリを渡そうとした。

「これ返す! あのねえ、拾ってね、使わなかった! 狩りする時使ってるでしょ、だから俺これ返すの。よいこだろ」

「………」

 びっくりした顔。ほんの一瞬、海が静まる。それから彼はフロイドの手をそっと押し戻し、モリを指さし、ついで自分を指さした。
 順序だてて、ゆっくり伝えるみたいに。

「……くれんの?」

 ジェイドとフロイドの名前のない友達は静かに頷いた。

「ジェイド、貰った……!」
「良かったですね、フロイド!」
「うれしい! うれしい! やったあ!」

 フロイドがくるくると回る。起きた渦をするりと避けて泳ぐ背中をジェイドが追い、少し遅れてフロイドが両手でギュッとモリを抱え直す。冷たい鉄なのに、抱けば温かい。守られたような気がするから。

 きっと彼は、あの時もう気付いていたのだ。サメをここまで引き寄せていたのが、フロイドの血だってことに。
 彼ほどの強さを持つ人魚なら、潮の味でそれくらい分かるはずだ。
 襲われるしかなかった弱い人魚を庇うために、彼は戦ってくれた。今、フロイドにモリを渡してくれたことが証明している。
 使い慣れた武器を誰かに託すのは、守護の誓いだ。言葉を持たぬ彼が、何より雄弁に「護ってやる」と言ってくれたのだ。

 フロイドは噛み締めるように、なんども「うれしい」を繰り返した。
 武器は大切だ。とくにモリみたいな鉄は、人間のところへ行かなければ手に入らない。難破船の腹から拾った錆の棒が、かつて剣だったことを、海は知っている。
 このモリは錆びてはいるけれど、綺麗だ。誰かが手をかけ、長く一緒に潜ってきた跡がある。
 彼には今、別のモリがある。だから「いらない」わけじゃない。あの場でいちばん弱かったフロイドに向けて、彼は道具ごと庇護を差し出したのだ。
 フロイドは舐められるのは嫌いだが、優しくされるのは大好きだ。強者の庇護ほど甘美なものはない。だって、海の者は好きでもない相手を護ったりしないのだから。

 フロイドがうっとりしているあいだ、ジェイドは名前のない友達が魚を狩っているのを見ていた。
 モリで一突きにして腰に付けた網に入れていく。一人で食べる分には多すぎる量だ、きっと沢山食べるからあれほどの強さを手に入れられたんだろう。
 何回か海面に顔を出すのは、きっと風の向きを見ているに違いない。
 ジェイドはまだ分からないが、風というものが海の奥まで影響を与えるらしい。同い年くらいなのに、もう『風』がわかるなんて、アズールと同じくらい頭が良いのかもしれない。
 そしてちょっと不良。だって本当ならミドルスクールで習うことだし、危ないから、子供だけでは海面に出てはいけないと強く言われている。

「危ないですよ、人魚攫いがいるかもしれませんよ」
「………」

 ジェイドが話しかけても答えてはくれない。でも真っ直ぐに自分を見て動きを止めているから、聞いていない訳では無いらしい。

「あなたほど強かったら怖くないかもしれませんが、人間は何をするか分からないので気をつけてくださいね」

 次々と魚を狩る背中を追いかけて、彼が打ち逃した魚が横を通ったので捕まえた。

「差し上げます」

 渡そうとしたが、受け取ってくれない。どうしてだろうか、フロイドにはモリすらくれたのに、もしかしたらジェイドとは友達になりたくないのだろうか。
 少しずつ悲しくなってきたが、ふと思った。借りを作るのが嫌なのかもしれない。アズールだってそうだ。平等じゃないと受け取りにくいのかもしれない。

「半分こです! あの……受け取ってくださいますか?」

 バリッと一口で魚の頭を噛みちぎると、周囲が真っ赤に染まった。それもすぐに元に戻る。
 彼は頷いて受け取って、一口食べてくれた。よかった、正解だった。全部は食べなかったけど、きっと家に持ちかえるんだろう。そろそろ陸が近い。

「ジェイドぉ、そろそろ帰んなきゃ怒られる……」と、フロイドの声がしたので、尾びれを止める。新しい友達も尾びれを止めてくれた。

「また明日遊ぼうねえ、アズールもつれてくるよ。たこちゃん、頭が良いんだよ」
「名残惜しいですがお先に失礼します。僕たちは先に帰りますが、あなたもどうか気をつけて」

 手を振る。彼も振り返してくれた。胸の奥で、同じ形の波が起きる。うれしい、うれしい。よかった、よかった。
 ジェイドとフロイドは二人で手を繋ぎ、家まで急いだ。藻場の影が伸び、潮目がやわらかく変わる。

 明日学校でアズールに自慢しよう。いっぱい仲良くなったんだよ、つよくてえらいのにやさしいんだよ。だからアズールのことぜったい虐めないから、安心して一緒に遊ぼうね。