海の30日と1日

 ジェイドは多くの兄弟の中で、一番臆病だった。
 だからこそ他の兄弟がしなかった『協力』という選択を自ら考え、フロイドを相棒に今まで生き抜いてきたのだ。海の中は危険で、きっと陸より命は軽い。

 兄弟たちが【子供たち】と呼ばれ個別の名を与えられる前に数を減らしていったのも、エレメンタリースクールで同じクラスにいた子がいつの間にか居なくなったのも、フロイドの腹にサメが食らいついたのも、アズールが網を被されて攫われかけたのも、ナマエが両手を血まみれにして動かなくなったのも、ジェイドは見ていた。
 見て、理解して、そして何ひとつ出来なかった。その“何も出来なかった自分”だけが、心臓の中で重く沈んだまま揺れている。

「ジェイド、少し寝ようよ。俺ここにいるから」
「寝てますよ」
「嘘つくなよ、元気ねえじゃん。飯も全然食べねーし」
「ふふ、心配性ですね。平気ですよ、ダイエットです」
「アズールみたいなこと言う! ガリガリじゃん、泳ぐの下手になってるし!」

 フロイドに肩を揺さぶられて、抵抗もせずにふらふらと身体が揺れる。その力のなさを見て、フロイドは眉尻をしゅんと下げた。

ナマエが帰ってきたとき、ジェイドがガリガリだったら泣くかもよ。助けた意味なかったって、すっげぇ怒るかもよ」
「そうだといいですね」
「なんでぇ」
「泣いても怒っても、ナマエが生きてるじゃないですか」

 きっと無理です、と小さく呟く。海の中が真っ赤になるくらい血が出ていた。サメに襲われた時とは比べ物にならない。人間が人魚を捕らえるためにかけた呪い。人魚を弱らせるための呪い。それに触れて、無事でいるわけが無い。ただ網の中に囚われたアズールでさえ、数日は体が痺れて上手く動けなくなっていた。

 それに触れて、自ら肉を裂きながら引きちぎろうとしたナマエが、無事でいられるはずがない。呪いは体内にまで到達しただろう。イルカの人魚が「大丈夫」と言っていたのは優しさだ。優しさは、ときに慰めであり、ときに嘘と同じ効能を持つ。ジェイドは賢いので、大人はすぐそういう嘘をつくことを知っていた。見上げた水面は真っ赤に染まっていた。あの量の血を流した生き物は、大抵、もう戻らない。

「なんでそんなこと言うの、ナマエ、つええじゃん。俺の事、守ってくれるって言ったし」
「ええ、守ってくれました」
「これからもだし」
「…………」
「これからも、おれの、こと、まもってくれ”る、も”ん~~~!」

 うわあああん!

 最近よく泣くようになったフロイドの泣き声につられて、ジェイドもボロボロと涙が零れる。海の中は水分だけは豊富だ。いくら泣いても尽きることがない。涙と海水が混ざって、どちらがどちらか分からなくなる。

「お前ら!! なにべそべそ泣いてるんですか!」

「ア”ズール”ぅう! ジェイドが ひどいこと、言う、!」

「事実、です」

ナマエが来ましたよ! まったく!!」

 タコの足で腕を掴まれてぐんぐんと景色が通り過ぎる。あまりに強く掴まれて、ジェイドとフロイドは抵抗ができなかった。

 目を白黒させながら太陽の方をみあげる。2本の尾びれが暫くひらひらと揺れて、覚悟を決めたように近付いてきた。
 少し大きくなった気がする。少し髪が伸びた気がする。手のひらにはたくさんの傷跡が残っている。消えなかったんだ。でも、治ったんだ!

ナマエ!!」

 食事も睡眠も足りず、身体が上手く動かない。「しょうがないやつですね」とアズールが腕をはなし、「だから言ったじゃん!!」とフロイドが肩を貸す。
 ジェイドの前に、ナマエがいた。困ったような、悲しいような、嬉しいような顔をしている。

「あなたの名前を聞きました。ナマエと言うんですね、本当はあなたの口から聞きたかった」

 傷跡だらけの手のひらを触る。ざらりとして、少し硬い、刻まれた跡が白く線を引いている。これだけの傷だ、海が赤く染まるのも仕方ないだろう。

ナマエナマエ……」

 名を呼ぶたびに胸の奥がじんじんと痺れる。この衝動をどうしていいのか分からず、ジェイドはナマエの手のひらに何度も唇を寄せた。なんでだろうか、お腹がすいた。食べてしまいたいのかもしれない。
 指が五本、水かきがほとんどない。この手でどうやって泳いでいたのだろうか。どうやって自分たちを守ったのだろう。

「こら! 齧るな!」
「だからご飯食べろって言ったじゃん!! ナマエが困ってるからやめろ!!」
「ああ……っ」

 無理やり引き剥がされて、入れ替わるようにフロイドとアズールがナマエに抱きついている姿を見た。会話ができないナマエに謝辞を伝えるにはこれが一番だろう。でも、だけど、なんでだろうか。

「ずるいです」

 そんなはずないのに。誰も悪くないのに。そんな言葉が、どうしようもなくこぼれてしまった。