「逃げずに来たようだな」
仁王立ちをしている少年(後輩だった)にギッと睨まれ、だって来いって書いてただろ……と言おうかなと思ってやめた。
気合いの入った改造制服に逆立てた金髪。手入れの行き届いたマジカルホイール。ああ、たまに同じ駐輪場にあるやつだ。もしかして俺、彼と間違えられて交通手段破損の憂き目にあったんじゃないかな。
絵に書いたような不良少年に「タイマン張ろうぜ」と高架下まで呼ばれた訳だが、ここに来る途中でタイマンとは喧嘩を意味する言葉だと知った。
「ひとつ聞きたいんだが、なんで俺はお前と喧嘩をしなくちゃいけないんだ」
「ふん、『お前』か。俺の事なんざ眼中にもねえってか! そうやって見下せるのも今のうちだ! あんたの番長の座、俺が貰ってやる!!」
「待って、対話してくれ」
「行くぜ!」
叫びと共に後輩が地面を蹴る─────その瞬間、高架下の湿った空気が震え、コンクリートの粉塵がぱっと舞い上がって、そこから一気に世界が“喧嘩の速度”へ切り替わる。拳と手のひらを打ち合わせた時の乾いた音がまだ耳に残っているのに、彼の身体はもう真正面から真っ直ぐに飛び込んできていて、膝も足首も迷いなく前へ押し出され、荒れた地面を靴底で削りながら一直線に迫ってきた。待って。番長ってなんだ。ちょっと本当に待ってくれ。俺はいまどういう立ち位置にいるんだ。お願いだからおはなしをしてくれ。
「オラアアァア!!」
愚直なストレートに“見せかけて”ほんの一瞬だけ拳の軌道がぶれる。
反射神経がわずかに遅れたら頬を抉られていたかもしれない。理屈で考えた拳ではなく、喧嘩慣れした一撃だった。足元には尖った石が散らばり、アスファルトの欠片や錆びた鉄片が混ざり、踏み込むたびに異音が鳴るような不安定な地形なのに、後輩の動きはまるでそういう足場を“日常”としてきたような迷いのなさがある。
ただ、俺も喧嘩に“巻き込まれ続けている”だけなら二年分のキャリアがある。
一瞬引っかかりかけた視線を強引に引き戻し、後ろへ跳びながら上体をひねる。
空気が背中に張りつき、着地した踵の下では細かい石が派手に砕け、ガリッと嫌な音を立てた。
顔の横を、後輩の腕が風を切って過ぎる。その気配を肌で感じながら、すれ違いざまにその腕を掴む。
細い。
だが、動きは鋭い。
掴んだ勢いに逆らわせないよう、足を引いて重心を横にずらし、荒れた地面に滑り込ませるように体を倒していく。
高架下の影は濃く、夕日の赤が届かず、足元の凹凸も石の尖りもはっきり見えないのに、それでも感覚的に“ここは危ない”と脳が警告を出すほど、地面には大小の岩や割れたコンクリ片が散乱している。あ、やばい。思った時には、片手を後輩の頭の下に差し込んでいた。
次の瞬間、頭の重さが手の甲にずしりと乗り、そのまま尖った岩が手の甲に突き刺さるようにめり込み、皮膚が裂ける生々しい感覚が走り、呼吸が一瞬止まり、喉の奥から悲鳴がこみ上げた。
けれど、声は出さなかった。
意地というより、海で何度も波に押されて岩に指を挟まれた時と同じ“諦めの境地”で、ただ静かに痛みを飲み込む。耐えられない痛みではない。自分がやらかした痛みで騒ぐのは、恥ずかしい。
「あんた、なんで……」
「……怪我はしてないか」
喧嘩するならもっとこう……芝生の上とかで俺以外の奴とやって欲しい。ずっと人を睨んでいた眼が視線を左右に迷わせて、つり上がっていた眉が下がっていく。
「なんで、俺を助けたんだ。…………2回も……」
2回? 少し考えて、この前のことかと気付く。いや、でもあれは本人が言っていた通り助けてくれなんて言われてないし、今だって自分が回避の流れでうっかり叩き落とす選択肢を選んでしまったから責任を取って軌道修正しただけだし、誰も助けてない。
あーもう、めちゃくちゃ血が出てるから帰りたいな……。ちゃんとハンカチを持っていて良かった。止血の為に手に巻き付けながら、「さあな」と答えを返した。知らん。俺だって知りたい。俺は何に巻き込まれてるんだ……?
「借りなんて要らねえんだよ! てめっ、はなせ!!」
尖った石が散乱する地面に暴れられたら、さすがに洒落にならない。
俺は痛む手を庇いながら、無事な右手を使って彼の両手首を思い切り押さえ込み、腹の上に乗りかかるようにして固定した。近くで見ると、やっぱり腹は薄いし腕も細い。全部俺の半分くらいしかない。暴れ方だけは威勢がいいが、力任せに突っ張った手首も簡単に押さえ込める程度で、牙を剥き出しにして暴れる犬みたいだ。とは言っても、どう見ても子犬だが。
「暴れんな。貸し借りも何も、俺の方が強いんだからお前に借りなんてもんは初めからないだろうが」
「強いやつが弱いやつを庇うのは当たり前だろうが」ぼやくように続けて、これは言葉選びを間違えたかなと言った傍から後悔する。
こういうタイプはどっちが上か下か決まるまで戦い続けたがるって聞いた気がする。嫌だなあ……。
自分の顔が嫌いな餌を出された犬のようになっている自覚がある。
大暴れされるかと待っていたが、後輩は動かなかった。強ばっていた身体から力が抜けている。
「ははっ」
すぐ下から笑い声が聞こえたので視線をやると、傷んだ金髪が笑い声と一緒に揺れている。こう見ると、本当に幼い子供のような顔をしていた。元から童顔なのだろう。
「それが、あんたの漢気ってやつか」
「ええ……」
何言ってるの……。
「完敗だ。負けた! 俺はあんたについてく!」
「えええ………」
何言ってるの……。
晴れやかな笑みを彩る夕日の赤を、一枚向こうの他人事みたいな世界に感じた。ちょっと目の前にいる後輩が何言ってるのかわからない。
「あんた……いや、ミョウジ先輩こそ、皆が認める番長だ……!」
「ちょっとその話から詰めていきたいんだが、番長ってなに……?」
待って、俺の学園生活初の普通に話せる相手ってこいつになるのか? やだ……助けて………。
