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街の灯りがひとつ、またひとつと消えてゆく。今日もまた、ニューヨークに夜が来た。 「……お前がついたのは、三回目の嘘だ。もう十分だろう」 その声に、銃を構えたヴィランが凍りつく! なぜなら、この男に“狙われた”という事実が、既に敗北を意味しているから! そう、霧は嘘を許さない!! 闇の中からやってきて、闇の中へと消えていく───────今日もまた、真実だけを残して! それが彼だ、我らがヒーロー、グレイ・クロウ!!! |
男は原色と蛍光色が混じり合う雑誌を眺めて、机に投げ置いた。
| 『皆さんこんばんは、今夜のヒーロー特集は我らが故郷、イリノイ州ガリーナが生んだ誇り! そう、いま全米の注目を集めている“探偵ヒーロー”、グレイ・クロウについてご紹介します! この静かな鉱山の町から、どうしてあんなクールな男が生まれたのかは、地元の誰にもわかりませんが、物静かで幼い頃から本を読むのが大好きな子だったって話ですよ! さて彼はその後、FBI個性分析課を経て正式にヒーロー登録し、個性《ミステリーフォグ》を駆使して数々の難事件を解決してきました! なかでも有名なのは、“ヴィレッジ・コールドケース”13年間未解決だった殺人事件を、彼はたった48時間で真相に辿り着き、当時の保安官に『まるで被害者のゴーストが真犯人を連れてきたようだった』とまで言わせました! また、“シルバースクール毒ガス事件”では、わずかな空気の変化を読み取って児童92名を無事避難誘導! 彼の静かな判断力と、誰よりも早く動く行動力は、今や都市部の警察やヒーローたちにも信頼され、ニューヨークからロサンゼルスまで、依頼が殺到しているんです! 私たちはいつまでも応援しています──グレイ・クロウ、どうか体に気をつけて、これからも“真実の羽音”を聞かせてくださいね!』 |
ノイズが走る画面を眺めて、デッキから取り出したビデオテープをゴミ箱に捨てた。その足で、壁一面に収納されたビデオをひとつ抜き取る。
埃がついていないか、テープは伸びていないか、丁寧に確認してから、慎重にデッキの中へいれてリモコンを押した。
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【10/03/1981 Unbirthday Liam】 『リアム! パパのところに来れるかい?……よし、そうそう、そのまま……ナイスステップ!』 |
ホームビデオの映像は、数十年前の粗い粒子をまとったまま、永遠に同じ季節を巡り続けている。繋ぎ合わせた日々の断片が滑らかに流れ、画面の中では妻が変わらぬ美しさで笑い、幼い息子がよちよちと成長してゆく。
そのどの瞬間にも、グレイ・クロウ……本名はイーライ・クロフォード。彼の姿は映っていない。彼はいつもカメラのこちら側……家族の喜びを記録する“観測者”だった。レンズの向こうで向けられる笑顔は、すべて彼に向けられたものだというのに。
妻のサマンサと出会ったのは、まだ何者でもないハイスクールの頃だ。
明るくて人当たりがよく、誰に対しても偏りなく笑いかける少女。その自然体のやさしさが、他人と話すことすらぎこちなかったシャイな少年イーライにも、分け隔てなく降り注いだ。
話す内容は最初こそ“未来”についてだった。二人とも同じFBI個性分析課を目指していたから、訓練の話、勉強の話、将来の夢─────そんなまっすぐな会話を、放課後の廊下や電話越しに交わした。
けれど時間が経つにつれ、話題はゆっくりと変わっていった。
好きな本のこと、行ってみたい場所のこと、子どものように胸が弾むような他愛もない話ばかりに。
そして通話の最後、彼女はいつも柔らかく囁いた。
「私の夢を見てね」
その言葉に、当初のイーライは真っ赤になって言葉を失ったが、やがてどもりながらも返せるようになった。
「……き、きみも……僕の夢を見て」
その頃にはもう、誰の目にも二人は恋人同士だった。
卒業プロムの日、サマンサをエスコートする役目がイーライに回ってきたのは、むしろ当然の流れだったのだろう。
結婚したのは、二人が二十二歳になった年だった。
優秀な二人は飛び級とスカウトを経て、望みどおりFBI個性分析課へと配属された。机の上に広がる資料と、絶え間なく鳴る電話と、会議室の熱気。そんな日々を積み重ねるうちに、イーライは次第に、ひとつの考えにたどり着いた。
自分はデスクを前に書類に囲まれるより、現場で動き、人を助ける方が向いているのではないか。
ただ、それをあっさり認めてしまっていいのかどうか……その迷いが胸の内に残り、言葉は小さな淀みとなって胸に溜まった。
ある晩、雑誌を閉じたイーライはサマンサに打ち明ける。言葉を選びながら、ゆっくり、慎重に。
「……デスクで分析するより、現場に出る方が肌に合ってる気がするんだ。でも、今さら夢を変えるなんて……ずっと個性分析官を目指してきたのに、そんな簡単に方向転換していいのか、わからない」
サマンサは、迷いに沈む夫を見つめて、ふっと笑った。まるで夜の空気を照らす灯りみたいに、明るく。
「いいじゃない。やりたいことをやった方がずっといいわよ。選択肢が増えただけで、別に“夢を捨てる”わけじゃないんだから」
それでもイーライはためらいを捨てきれなかった。苦笑いのまま言葉がこぼれる。
「でも……まるで君と仲良くなるためについてた“嘘”みたいに思われないかな。僕たちが話すようになったきっかけって、同じ夢を持ってたからだし……」
その瞬間、サマンサは声を立てて笑った。
そしてイーライの言葉を遮るように、一歩近寄って言った。
「はじめからあなたがヒーローを目指していても、変わらないわよ。だって私──あなたと話す前から、ずっとあなたのことが気になっていたんだもの」
そう言って、ためらいもなく背伸びをし、彼の唇に軽くキスを落とす。まるで“あなたはあなたでいていい”と伝えるように、迷いごとあたたかく包み込むように。
サマンサはイーライの頬に触れたまま、くすくすと笑った。その笑いは、ただの照れ隠しでも、からかいでもない。嬉しさを抱えきれずに零れてしまう光そのものみたいだった。
「……ちょっとね、タイミングを逃しちゃったかも」
「タイミング?」
問い返したイーライに、サマンサはいたずらっぽく片眉を上げてみせる。その仕草が妙に可愛くて、イーライは一瞬で胸の力が抜けてしまう。
「ねえ、イーライ。オーブンを開けてちょうだい」
「オーブン? え、今かい?」
「そう、“今”」
サマンサの声は、どこか含みを持っていた。イーライは不思議に思いながらも従い、キッチンのオーブンの前に立つ。取っ手に触れる指が、なぜか少しだけ汗ばんだ。
扉を開くと、中にはぽつんと小さなパンがひとつ。
「……サム? これは……」
振り返った瞬間、彼女は胸の前で指を組み、いたずらっぽく微笑んだ。
「We’ve got a bun in the oven.」
その言葉を聞いたとき、イーライは一瞬だけ意味を飲み込めずに瞬きをした。
けれどサマンサがそっとお腹に手を添えるのを見た瞬間、英語の慣用句が胸の奥で静かに形を持つ。
“オーブンにパンがある”
それは『赤ちゃんができた』という、古くからの婉曲表現だ。
理解が追いついた時、イーライの喉がかすかに震えた。
「……僕たち……?」
「そうよ」
サマンサは嬉しさに頬を染め、そっと囁いた。
「あなたと私の間に、小さな命があるの」
キッチンの灯りがふたりを包み、オーブンの中の小さなパンがこれから続く長い日々の“始まり”のように見えた。
「ありがとう……サム……ありがとう……」
サマンサは彼の胸に顔をうずめながら、小さく笑う。
「だからね、どんな道を選んでもいいのよ。あなたがヒーローになるって言うなら……この子も、きっとあなたを誇りに思うわ」
その言葉は、イーライの心に深く刻まれた。未来の扉が音もなく開き、どこまでも広がっていくようだった。
……いつの間にか、眠っていたらしい。
暗く沈んだ部屋の中、古いブラウン管テレビだけがぼんやりと光を放ち、画面には手を振る幼い息子の静止画が映ったまま固まっていた。寝返りの拍子にリモコンを押して、偶然一時停止に触れたのだろう。
サマンサが亡くなったのは、リアムが三歳になったばかりの年だった。
ヴィランの凶行でも、重い病でもない。
死は、こちらの準備などお構いなしに、あまりにも無造作に、そして不条理に彼女を奪っていった。
交通事故だった。ほんの数秒の、避けられない偶然の連なりで……世界の光がひとつ、音もなく消えた。
葬儀の日、白い花に囲まれた棺の前で、イーライは崩れ落ちるように膝をついた。
何度名前を呼んでも返事はなく、触れた指先は冷たく、彼の胸のどこかが、静かに、取り返しのつかない音を立ててひび割れた。
その横で、小さな足音がとことこと近づいてきた。リアムだ。
ベビーシッターに連れられて家にいたため、事故を知らない。そして……まだ「死」が何かを理解できない。
それでも、父の泣き方だけはわかったのだろう。ぐしゃぐしゃの顔で、泣きそうになりながら、小さな手がそっとイーライの頬に触れた。
「パパ……いーこ、いーこ!」
まるで大切な玩具を壊さないように。幼い指で、必死に、父の涙を拭う。
イーライはその瞬間、胸の奥を掴まれるような痛みに息を呑んだ。
彼の世界に残された光は、この子だけだった。
たったひとり。
この小さな手だけが、闇の底から引き戻してくれる。
イーライは震える腕でリアムを抱き寄せ、壊れ物のように大事に、大事にしがみついた。
「……君は……絶対に……守る。どんなことがあっても」
誓いという言葉では足りなかった。それは祈りであり、懺悔であり、未来の全てを差し出す契約のようでもあった。
サマンサの声も、笑顔も、ぬくもりももう戻らない。
だが彼女が遺したものは、いま小さな腕で彼の首にしがみつき、「パパ」と呼んでくれる……この温かさ。
その日から、イーライはもう迷わなくなった。
嘘を許さず、人を救い、真実を追うヒーローとして生きる理由が、ひとつではなく、はっきりと胸に刻まれたのだ。
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パパ、おたん生日おめでとう! だからね、気にしないでいいんだよ。 パパはぼくのほこりだよ。 それに…… でもね、パパ。 大すきなパパへ。 |
テレビから落ちる淡い光だけが、暗い部屋の中で唯一の明かりだった。
イーライは胸ポケットから折りたたんだ紙片を取り出し、その光にかざしてゆっくりと目を通す。
もちろん、これはコピーだ。原本は……たとえこの家が火に飲まれ、イーライ自身が灰になったとしても決して失われないように……地下の金庫に厳重にしまい込んである。
鍵を三つも重ね、暗証番号を二重にし、それでも足りずに“隠し場所を記した紙を別の金庫に入れる”ほどの徹底ぶりで守っている。
彼が世界でいちばん大切にしている言葉。
最愛の息子が、小さな手で書いた、たった一枚の手紙。
読み返すたびに、胸の奥が静かに痛む。
声も涙も出ない種類の痛みだった。
しばらく紙を見つめたまま動かなかったイーライは、やがてそっと指先で折れ目をなぞってから、胸ポケットへ戻した。テレビの光がまばたくたび、彼の横顔を青白く照らす。
そして……静かに瞼を閉じた。眠ったのか、涙をこぼすかわりに目を休めたのか、自分でもわからない。
ただひとつだけ確かなのは。
リアムがこの手紙をくれたのは、その数ヶ月後に彼が“死んだ”年だった。カレンダーを少し進めた程度の、ほんの短い未来。その時間の向こう側に、彼の息子はもういない。
イーライの胸の奥で、柔らかい灯りのように輝いていたものが、
あの日を境にすべて霧へ変わった。
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【速報】“グレイ・クロウの悲劇” 先日発生した“探偵ヒーロー”グレイ・クロウの実子誘拐事件は、本日、その全容が明らかになった。最悪の形で発見された8歳の少年リアム君は、計22か所へ分割され遺棄されていたことが捜査関係者への取材により判明した。TRACE-0を含む大規模な合同捜索の最中、犯人はその短い犯行時間のあいだに遺体の一部を各地点へ運び、各所に“詩篇22編”を模した謎を残していた。 詩篇22編は、冒頭に「我が神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という嘆きの言葉で始まる、絶望を象徴する聖句である。 しかし、その異様さはその内容以上だった。 また、最も残忍な事実が判明したのは、この壁の部屋、“最後のリアム”の口の中から見つかった一枚の紙片だ。 そこには犯人の筆跡で、こう記されていた。 「リアムはさいごに『パパがたすけにきてくれる』といっていたよ」 筆跡は震えておらず、このメッセージが犯人にとって“作品の締め”のように扱われていたことがうかがえる。 犯人は事件の最後、リアム君が見つかったその部屋で自殺していた。 なお、犯行の動機については引き続き調査中だが、現段階では「グレイ・クロウ個人を狙った犯行ではなく、“著名なヒーローの子なら誰でもよかった”」との見方が強い。 ベビーシッターは現在も意識不明の重体で、当局は「少年を守ろうと必死に抵抗した形跡がある」として、回復を祈る声が広がっている。 グレイ・クロウは依然として公の場に姿を見せず、関係者によれば「言葉を発することさえ困難な状態」だという。 「どうしてわたしをお見捨てになったのですか」 |
……
…………
………………
金属の擦れるような、かすかな音がした。
はっと目を開けると、薄闇の向こうで何かが身じろぎする影がある。つけたままだった老眼鏡を外し、目頭押さえてから付け直す。
ぼんやりと焦点を合わせた先で、拘束具に締め上げられたハロルド・ブリッジ博士が、椅子ごと微かに揺れながらこちらを睨んでいた。逃げようとしたのだろう、床には引きずった跡が残り、口を塞がれた彼は言葉にならない唸りを漏らして身を捩っている。
「……ああ、申し訳ない。年寄りはすぐ眠くなって困るな」
自分でも苦笑してしまうほどの間延びした声が、静寂に溶けてゆく。
「忘れた訳では無いよ。少し昔のことを思い出していたんだ」
博士の方へ歩み寄るにつれ、拘束具が軋む音と、彼の荒い呼吸がはっきりと聞こえ始める。まるで怯えた獣のように肩を震わせ、こちらへ必死に顔を背けようとしていた。
灯りに浮かぶ博士の額には汗がにじみ、その目だけが真っ赤に血走っている。
イーライはゆっくりと彼の前にしゃがみ込み、穏やかに、まるで旧友に語りかけるように微笑んだ。
「やあ博士、つくづく思うよ。僕は歳をとったし、時が経つのは実に早い。特にね、50を超えたらあっという間だ。
気がつけば季節が勝手に移ろって、時計の針は急ぎ足で、どうしたことか昔よりも世界のほうが焦っているみたいなんだ。僕のほうは逆で、むしろ少し呑気になってしまった感も否めない。
ああ、君が逃げ出そうとしていたのはわかっているよ、床のこの擦れ跡がそう言ってる。
でも気にしなくていい、僕は怒ってなんていない。DIYは得意なんだ、こんな跡すぐ消せるさ」
博士が呻く。何かを言おうとしても口枷がそれを叩き潰す。
「君は知らないだろうが、子を失うということはとても辛いんだ。
とても耐えられない。耐えられるわけがない。僕はね、耐えられなかった。
だから、もうこの世にはグレイ・クロウはいないんだ。
いや……どうかな、まだいるのかもしれない。
正直わからないよ。ただね、“居る”と言い張る人がいる。それだけだ。
人の言葉の中だけで、物語の端っこだけで、グレイ・クロウという男はまだ生きているらしい。
僕自身はもうまったく実感がないけれどね」
淡々と、淡々と。博士の怯えた呼吸を踏みつけていくような平静。
「TRACE-0は代替わりした。
だけど彼らの正義は変わらないだろう。僕は感謝しているんだよ、本当に。誰一人悪くない。間に合わなかった? そうだ、そうなんだ。
でもね博士、間に合わなかったのは彼らだけじゃない。僕だって間に合っていなかった。誰も間に合わなかった。ただそれだけなんだ。
だからね、僕の中では誰も非難されない。責めたって意味がない。
……ああ、それに彼らはまだ若いしね。若い彼らに全部背負わせるなんてナンセンスだ。
老人が後始末してあげるというのも、なかなかクールな役回りじゃないか、と思ったりもするんだよ」
博士が椅子を蹴るように揺さぶる。皮肉にもその暴れ方は弱く、恐怖の表現にしか見えない。
「どさくさに紛れてボスを逃がすなんて、本当はあってはならないことだ。
倫理的にも、法律的にも、ヒーローとしてもね。
でも優先すべきは子どもたちの救出だ。
悪人を倒すだけがヒーローじゃない。
力で殴り倒せば解決するってわけでもない。
君たちがセラフ計画なんてものを始めたとき、僕は久しぶりにヒーロースーツを着たよ。サイズが変わらなくて安心した、少しばかり緩くなっていたが……。腹がつかえて着れない、なんてことになるよりマシだと思うんだ。
僕がグレイ・クロウの皮を被りなおして、君が今ここにいる。僕はもうヒーローではない。免許の更新も20年以上していないからね。
君を招待したのは、僕の感情論だ。僕が、僕自身のために。老人のわがままだ。……ふふ、君にはわからないかもしれないが」
イーライは博士の前に立ったまま、ひとつも表情を変えない。
「子どもを救いたいと願うのは、本当に当たり前なんだ、当たり前のことなんだよ博士。
君たちがそれを知らなかった、それだけなんだ。
だからね……ただいまを言えなかった子どもたちのために、おかえりを言えなかった家族のために、僕は君を“殺すために”ここへ招待したんだよ。
僕はヒーローじゃない、君を警察へ渡して司法に任せる義務なんて……いや? あるのかな国民としては。
まあ、いいか。歳をとるとね、難しいことを考えるのが本当に億劫でさ、どうでもよくなる。
もしバレたら、その時にその時の僕がどうにかするだろう、今の僕はもう考えたくないんだ。
ああ博士、数年前から君のまわりで人が減ったの、覚えてるかい。
信頼していた仲間がね、ぽつぽつと、少しずつ少しずついなくなっていったねえ……。
大丈夫、君も彼らと同じところに行くだけだし、同じことを“されている”だけにすぎない。
いや、可笑しいよね、彼らは最後の最後にいつも“博士のせいだ”と言っていたのにさ……。
本当はね、信頼する仲間って、もっと慎重に選んだ方がよかったんだよ。
こうして年寄りが裏でコソコソしている間に、TRACE-0の若者たちは正攻法で勝利を取ってきた。偉いよねぇ、あの子たちは。立派だよ。未来は本来、ああいう若い子たちのものなんだ。我々みたいな老害は、そろそろ早めに世界から退場した方がいい。
ああ、そんな顔をしないで。なあに、僕も寿命が来たらそっちへ行くさ。何事にもタイミングというものがある。
……では、さようなら。博士」
サイレンサー越しの鈍い破裂音が、密室に短く沈んだ。博士の頭部がぐらりと傾き、椅子ごと沈黙する。
引き金を絞った瞬間の反動が、老いた指に思いのほか強く響いた。銃が手をすり抜け、がしゃりと机の上へ落ちる。
「……いてて」
手首に残る鈍痛に眉をしかめながら、小さく笑いさえこぼれた。
その銃が、リモコンにぶつかり、乾いた音がした。
───────再生。
画像の時間が動き、光の明滅が変わる。部屋の中の空気が動くように、明るい声が響く。
『パパ、だいすき!』
背中を押されるように振り返りそうになった。振り返っても、何もないのに。スピーカーから、愛おしい声が次々と重なっていく。
『ほら、こたえてよ、私たちのヒーロー。恥ずかしがらないで』
『パパ、だっこして』
『パパはカメラを持ってるでしょう? ママでいいじゃない』
『いーやっ! パパがいいのっ! パパ、パーパってばあ!』
「……『パパもリアムが大好きだよ』」
言葉に触れようとするように、ゆっくり手を広げる。おいで、抱っこしてあげよう。そんなふうに、自然に。
だが、その腕が抱きしめたのは……虚空だけだった。あの日からずっとそうだったように、奇跡は起こってはくれない。
テープが終わる。静寂が戻る。あたたかいはずの小さな重みは、どこにもない。それでも腕はそのまま、しばらく動けなかった。
《セラフ計画》はこうして──ただの一人暮らしの老人の自宅で、静かに壊滅した。
