これは小居底乃と名乗る男の話だ。
おい、そこの。そう呼ばれ続け、それとしか呼ばれなかったので、なんとか覚えた漢字を当て嵌めて名前のかたちをとっただけのものを後生大事に抱え込んでいる。
名前とは本来、呼ばれるたびに少しずつ輪郭を得ていくものらしいが、底乃にとっては逆だった。輪郭のない音だけが先にあり、あとから無理矢理、意味と形を貼りつけた。小さく居る、底に居る。覚えた字の中から、いちばん自分に近いものを拾っただけだ。それを捨てたら、本当に何も残らない気がしたから。
底乃は考えることが嫌いだった。だって、ろくな事を考えられない。
一度思考を動かせば「なんで自分だけ」という言葉ばかりが頭の中を巡っていく。
どうして腹が減るのか、どうして殴られるのか、どうして奪われる側なのか。その答えを探すと、必ず同じところに行き着く。自分が弱いからだ。
小さく、痩せて、逃げ足も遅く、群れることも出来ない。人と関わろうとすれば、搾取される形でしか成立しない。何かを与える側になったことがない。与えられる前に、必ず条件が付く。条件の内容はいつも同じで、痛みか恐怖か、その両方だった。
物心ついたとき、底乃はすでに路地裏にいた。寝床は段ボールで、雨の日は天井から水が落ちてきた。腹は常に鳴っていて、その音を止める方法を探すことが一日の大半だった。
盗みは悪いことだと、頭では理解していた。でも、善いことをした記憶が一つもない子供にとって、善悪は空腹の前では薄い概念だった。
普通に盗んで捕まり、怒鳴られ、殴られた。次は捕まらないようにと個性を使って盗み、それでも捕まった。
追い詰められ、殴られそうになった瞬間、反射で個性を使った。コンビニの店長が倒れる音と、暴れるように蠢く個性産の布切れ。バキョ、ボキ、という包まれた布の中で肉と骨が砕ける音。逃げた。戻れる場所は路地裏しかなかった。
路地裏に戻ると、迎えが来た。どうして知られたのかは分からない。悪い大人は底乃を拾い、「使える」と言った。便利に使われた。
だが、待遇は悪かった。腹は満たされず、眠りも浅く、恐怖だけが増えていった。彼らは賢くなかった。底乃の個性は痩せて貧相な身体だと限界が早い。太らせ清潔にすれば目立たなくなることも、彼らは理解しなかった。
ただ、包め、運べ、隠せ、と命じるだけだった。だから底乃は育たなかった。怯えは栄養を食い、恐怖は筋肉を奪う。よろよろと立つ身体のまま、歪なかたちで大人になってしまった。
路地裏の暗がりから、街角の巨大広告はよく見えた。
ネオンに照らされた、快活な笑顔の美しい女性ヒーロー。清潔で、強くて、誰かを守る存在。
あの光の中には、痛みも飢えも無いように見えた。その頃の底乃は、ヒーローというものを理解していなかった。ただ、助けてくれそうな顔だ、と思った。それだけだった。
腹が減って、殴られて、震えている夜に、汚水を踏んで進むしかない闇の中でも、あの笑顔は遠い星のように輝いていた。
ヒーローを理解したのは、もっと後だ。
仕事の途中で、ニュースを見せられた。彼女は悪を裁く側で、正義の象徴だった。
その瞬間、底乃の中に、遅れて希望が芽生えた。
いつか、きっと、あの人が助けに来てくれる。路地裏にも、暗がりにも、手を伸ばしてくれる。そう信じた。信じるという行為は、底乃にとって贅沢だったが、広告は毎日そこにあったから、何度も何度も見てしまった。
だが、考えることを再開してしまったのが、失敗だった。ヒーローは誰を助け、誰を捕まえるのか。自分はどちら側なのか。答えは、あまりにも明白だった。
底乃がやってきたことは、助けられる行為ではない。裁かれる行為だ。彼女は、助けに来てはくれない。だが、罰しには来てくれるかもしれない。正義は、底にいる者の事情を汲まない。その事実は、底乃の中に残っていた最後の希望を、いとも簡単に打ち砕いた。
それでも生きるしかなかった。考えるのをやめ、腹を空かせ、よろよろと歩く。唐草模様の風呂敷に世界を包み、三キロ程の重さにして運ぶ。生き物は包まない。包めば壊れることを、もう知っている。
小さく居る。底に居る。そう呼ばれてきたから、そう名乗る。小居底乃は今日も路地裏を歩く。ヒーローの看板を見上げないようにしながら。
底乃は大人になっていたが、底乃を使っていた人達は死んだ。死んだ、という言葉が正しいのかどうかは分からない。
数は、底乃が子供だった頃よりもずっと減っていた。仲間割れをして、捕まって、消えていって、最後に残った連中も、ついに「解散する」という話をしていた矢先だった。ただ、解散する前に、全員いなくなった。それだけが事実だった。
彼らの根城になっていたのは、売り物を保管するための廃団地だった。
空き部屋だらけで、夜になると風の音がやたら響く場所。底乃はそこに入る許可をもらっていなかった。便利屋は道具であって、仲間ではない。だから底乃に渡されていたのは、何かあったときに呼び出すためだけの通信機だった。鳴れば行く。鳴らなければ、ひたすら待つ。それが役割だった。
その日、通信機から聞こえてきたのは、声だった。怒鳴り声と、潰れたような悲鳴。底乃は布団の中で身体を丸め、耳を塞ぎたかったが、通信機は容赦なく音を吐き続けた。
来い、という言葉はなかった。それでも底乃は怯えた。呼ばれていないのに聞かされる声は、殴られる前触れよりも怖かった。
役に立たないことは、向こうだって分かっているはずなのに、それでも通信機を切らないのは、彼らが本当に追い詰められているからだろう、と底乃は思った。考えないようにしても、考えは勝手に浮かぶ。
暴れる音がした。何かが壊れる音。風のような音が走り抜けたあと、知らない男の声がした。「燃えて死ねよ」。短い絶叫が響いて、それで終わった。
恐ろしさに震え上がっていた底乃は、反射的に通信機をガムテープでぐるぐる巻きにした。
音が漏れないように、声が入らないように。巻いて、巻いて、黒い塊にして、部屋の隅へ放り投げた。自分も反対の隅へ逃げ込み、膝を抱えた。
殴りに来る。連絡がつかないと分かれば、必ず誰かが来る。
その想像だけで胃が縮んだ。だが、何日待っても足音はしなかった。ドアは叩かれず、怒鳴り声も聞こえない。数日後、底乃は恐る恐る通信機のテープを剥がした。電源を入れても、うんともすんとも言わない。壊れていた。壊れたものは殴られない。底乃はしばらく、その事実を反芻した。
それから、もっと恐ろしいことを確かめに行った。廃団地だ。近づくにつれて、記憶と違う景色が目に入った。
鬱蒼と茂っていた街路樹は、すべてさっぱりと剪定され、光が地面まで届いている。外壁には足場が組まれ、作業着の人間が行き交っていた。壊れた窓も、剥がれた塗装も、そこにはなかった。代わりに、整えられた色と、規則正しい音があった。底乃は立ち尽くした。暗がりだった廃墟が、知らない場所に変わっている。
そこへ、見知らぬ老女が近づいてきた。警戒する間もなく、柔らかな笑顔が向けられる。「古い団地をリノベーションするんです。良かったら見学に来てね」。そう言って、紙を差し出された。チラシには、明るい色の文字で名前が書かれていた。すみれ平団地。聞いたことのない名前だった。底乃は紙を受け取る手が震えるのを感じながら、何も言えずに頷いた。怒鳴られない。殴られない。用があるからではなく、ただ勧められただけ。
立ち去る老女の背中を見送りながら、底乃は考えないようにしていた思考が、じわじわと動き出すのを感じていた。ここはもう、彼らの場所ではない。殴られる理由も、呼び出される理由も、ここにはない。
胸の奥に、空腹とは違う、重さのない感覚が広がる。自由だ、という言葉を当て嵌めるには、まだ怖すぎた。だから底乃は、チラシを丁寧に折り畳み、ポケットにしまった。いくら丁寧を心がけても、端と端がずれて歪な四角にしかならない。それでも、構わなかった。どこか誇らしさすら感じた。理屈は、わからない。
小さく居る。底に居る。その癖は、まだ抜けない。それでも、帰り道の足取りは、ほんの少しだけ、昨日より軽かった。
無生物を自分の体表面積ぶん包み込み、小さな唐草模様の包みに変換する個性。変換後の重さは中身に関係なく約3kg程度で固定され、解除すれば形状・構造・強度を保ったまま元に戻る。包める量は体格に依存し、身体的成長で性能が安定向上する。個性を鍛えることにより包みを複数生成することが可能。生き物は対象外。建材・機材・物資運搬に特化した補助型で、災害救助や後方支援で活躍できる。
