ひとのかたちをした倉庫

 ドクターがすごく説明してくれるんだが、何を言っているのか本当に分からない。

 分からなすぎて、こちらの脳が理解を諦め、「今日もこの狂老は元気だなあ」と微笑ましいものを見る方向へ処理を切り替えそうになる。正常性バイアスなのでいずれこれで死ぬ危険性が高い。なにひとつ微笑ましくない。ドクター、まるっとしているからちょっとマスコットっぽく見えちゃうんだよな……。

 俺は比較的、自分は頭の回転が早い方だと思っている。
 少なくとも、前世から引き継いだ経験値があるぶん、経験から物事を理解する速度は今世の年齢相応よりも上だろう。
 見たことがあるもの、触れたことがあるもの、失敗したことがあるものについては、それなりに飲み込みも早い。

 それでも、ドクターの話を聞いていると、毎秒「なんだァ……? カスジジイ……それって悪口か……?」となる。

 理解が追いつかない、というより、そもそもこちらに理解させるための道が敷かれていないみたいだ。

 ドクターは“説明する気”がない。

 オーバーホールもそうだったが、頭の良い人間には、こういう種類の自分勝手さがある。
 自分の中では理屈が通っているから、他人の頭の中にも同じ速度、同じ順序、同じ密度で情報が展開されているものだとでも思っているのだろう。
 
 一応、ドクターは俺の味方、という立ち位置ではある。少なくとも現時点では敵ではない。なので一応、説明らしきものはしてくれる。尋ねれば答えるし、必要だと思えば、機嫌よく口も回す。
 だが、他人が理解できるように順序立てる気も、噛み砕く気も、間違えた時に戻って説明し直す気もない。説明責任を果たすつもりなど、あの邪悪な老人にはさらさらない。
 ただ、自分の見ている世界の破片を、こちらの前にばらばら落としているだけ。
 それを拾い集めて、人間が読める形に組み直す作業は、なぜか俺の仕事になっている。
 おかしいな。俺は後継者候補として残されたのであって、狂老語の通訳として雇われた覚えはないのだが。

 とりあえず、ドクターの説明を理解する必要がある。膝の上には、すっかり懐いたジョンちゃんが収まっていた。重みと、ひんやりとした体温を感じながら、与えられたタブレットを開いて情報を整理することにした。もうね、俺が理解できてないのに勝手に進んでいくんです。荼毘くんもしっかり働いてるし、弔くん達はボロボロになりながらも進んでる。俺だけ物理的に安全なところにいるのはいいとして、何もわかんないままでいることは許されないだろう。俺が許さんよこんなん。

 

 1、俺の個性には、本来、焦凍と同程度の“可能性”があった。炎と氷という相反する性質を安定して扱うための土台、とでも言えばいいだろうか。

 2、ただし、出力口に奇形があるため、外へ出せるのは極小の炎だけに限られている。

 3、無理に出力口から炎を出そうとすると、内側で出力が暴発し、人体発火を起こして死ぬ。個性訓練を行う場合は、常に冷却した血液を循環させる必要があるらしいが、その状態を維持しようとすると、今度は凍死する体温になる。
母さん側の遺伝子は見た目からみても少なそうだし、父さん側の遺伝子を強く引き継いでいるのかもしれない。父さんが母さんの氷系個性で身体の熱を中和しようとした作戦が、俺にはほとんど効果がなかったのかも。

 

 まず、これが前提だ。

 俺って、基礎スペックだけは高かったんだな。まあ、焦凍の双子だから可能性としては、有り得た話なんだろう。

 燈矢くんと似ているようで、根本的には別物みたいだ。燈矢くんの場合、出力口そのものには問題がなかった。
 ただ、体内の冷却機能が炎の出力に負けていた。だから炎を出せば出すほど、自分の身体がその熱に耐えきれず、自壊するように燃えていく。

 父さんにも、似たようなデバフはあるらしい。けれど、父さんは自壊まではいかない。あの火力を扱いながら、戦闘に耐え、長年ヒーローとして動き続けてきた身体だ。
 基礎スペックの高さだけではなく、その上に積み重ねた鍛錬によって、どうにか成り立たせているのかもしれない。

 それに対して、俺は個性訓練によって出力口を広げることができない“奇形”。
 けれど、身体の成長に合わせて、炎の体積だけは勝手に増えていく。器の中身は増え続けるのに、外へ流すための出口はほとんど広がらない。増える速度と、排出できる量が、まるで釣り合っていない。

 だから、普通に生きているだけでも、いずれ限界が来る。

 外へ溢れることのできなかった炎が、体内で行き場を失い、内側へ裏返る。逃げ場をなくした熱が、俺自身を燃料にして燃え上がる。

 人体発火。

 つまり俺は、何もしなくても、そのうち死ぬ状態だった。

 次に、俺の個性“灯火”についてだ。

 ドクターは「ゴマシジミの幼虫を知っておるか! そう、それじゃよ。あまぁ~い蜜を出してアリに自分の世話をさせる! おまえの個性はそれじゃ!」と、当然のように知らない例えを出してきた。知らないものを知らないもので説明するな。昆虫図鑑なんてものを久しぶりに開くことになった。

 調べたところ、ゴマシジミの幼虫には蜜腺機関というものがあり、そこから甘露のようなものを出してアリを引き寄せ、自分を守らせたり、世話を焼いてもらったりするらしい。
 割と自覚的にそういう使い方をしていた部分があるので、悪態もつきにくい。くそが。

 俺はシジミチョウ科の幼虫……。あとフンコロガシは星や天の川を目印にして進むことがあるらしい。昔の船乗りみたいでロマンチックだ。久しぶりに見ると面白いな、昆虫図鑑……。

 話がズレた。改めてまとめよう。俺の個性“灯火”について。

 

 1、俺の“灯火”は、授与のふりをした委託であり、「良いもの」であることを前提に拡散しやすい形をしている。
本来なら火力、つまり攻撃力になるはずだったものが、俺という出力不全の器に合わせて変質し、小さく安全で害意のない形にして人に受け取られやすいものへ進化した。
灯りとして預ける。攻撃ではなく恩恵として渡す。
受け取った側が「これは良いものだ」と判断しやすい形に整えられているから、拒絶されにくく、保管されやすく、善意によって拡散されやすい。皿が溢れて割れるなら、小皿に分ければいいじゃない! という解決策が取られた。

 2、拡散された炎は、委託した灯火から分散されているわけではない。
それぞれ独立して燃料を消費しているのではなく、必要な分は自動的に俺本体から回収されているらしい。つまり、渡したように見えて、実際には俺から完全に切り離されていない。預け先が増えるほど、俺の炎は外へ散っていく。けれど、その維持には常に俺という本体が関わっている。
つまり俺はクラウドサーバーみたいな……そんな感じ……?

 3、拡散された“灯火”はすべて、俺の外部容量として扱える。
意識せず、24時間365日、無限拡散状態で、安全な個性訓練を続けていた状態だった。
俺の中に溜まりすぎるはずだった炎を外部へ逃がし、なおかつ“扱える炎”の総量を増やし続ける訓練。出力口を広げることはできなかったが、出口そのものを世界中に増やしていた、ということらしい。

 

 ひとつひとつは、ビー玉程度の炎だ。指で摘めるくらいの、小さな灯りでしかない。けれど、俺が認識している限り、それは世界中に飛び散って、180万規模になっている。ひとつではただの灯りでも、180万の炎がひとつに集まったら、それはもう、プロミネンスバーンって……かんじ……?

 いや、分からない。あまりにも自覚がないから、実感が追いつかない。

 最初のひとつは本当に善意だったはずなんだよな……。便利な個性として利用はしていたけど、手渡すというのは友人のために差し出したひとつだった。

 まあ確かに、拡散力だけはおかしいと思っていた。

 俺が忘れていても灯火は残る。俺が命令しなくても人から人へ渡る。
 良いものとして扱われ、善意として保管され、お守りみたいに抱えられ、誰かの手元で燃え続ける。最終的に俺の知らないところで宗教にまで至った。なあにこれ、怖い。

 とりあえず、俺の外部容量が“灯火”によって底知らずに巨大化した、というところまでは分かった。分かったことにした。少なくとも、俺の中に収まりきらない炎が、世界中に散った小さな灯火たちを通じて外部保存され、結果として本来あり得ない規模の容量を得ている、という理屈そのものはなんとなく飲み込めた。

 ここからが、分からないことだ。

 ドクターの言っていた「改造手術なしに複数個性を載せられる」とは、一体なんなのか。

 ギガントマキアと同じと言われたが、そもそもギガントマキアの個性は、あれでひとつではないのか。
 巨体、持久力、耐久性、戦闘継続能力、そのすべてが単一の個性として成立しているわけではなく、複数の個性を後から載せた結果だということか?

 焦凍の炎熱と凍結みたいに、最初から二種類の性質を持って生まれ、それでひとつの個性として成立しているものとは違う。
 まったく別の個性を、別の器に移植する。別系統の機能を、ひとつの身体に後付けで積み込む。……それって脳無では? 生きてる状態で、脳無にされるってことか? わかんない……あの狂老、俺に何をする気なんだ……。

 量産型脳無と、ジョンちゃんたちハイエンドと、ギガントマキアは、全く違う。

 まず、量産型脳無はドクターの命令を聞く。だが基本的に自立した行動はできない。ゼンマイを巻いてまっすぐ進むブリキ人形みたいなものだ。命令されたことを実行するための肉体であり、そこに本人の意思や好悪が介在しているようには見えない。いちばん分かりやすく“道具”に近い。

 ジョンちゃんたちは、完全に脳無ではある。脳無ではあるが、ある程度の自由意志が残っている。少なくとも、好みや執着、快不快のようなものはある。だから、ドクターのベッドよりも俺の寝床を選んで、一緒に寝たがったりする。
 命令されたわけでもないのに膝に乗ってきたり、撫でられる位置を自分で調整したり、こちらに懐いているような素振りを見せる。これをただの命令反応と呼ぶには、少し生き物すぎる。

 そしてギガントマキアは、また別だ。

 あれは、ドクターの言葉には従わない。正確には、従う理由がない相手の命令には従わない。
 誰に従うかを自分の意思で決めていて、そのうえで自分の頭で考えて動いている。サイズ感がバグっているせいで、どうしてもこちらの認識まで麻痺しそうになるが、あれは巨大な怪物というより、単に『意固地な中年男性』なのだと思う。

 己が主と認めた相手に忠義を尽くす。命令ではなく、誓いで動く。
 オール・フォー・ワンに忠誠を誓っている戦士。ギガントマキア自身の認識としては、たぶんそれが一番近い。

 ギガマキくんは、自由意志のある人間だ。だから彼と同じと言われた俺も「死ね! これでお前も容量無限脳無素材!!」というオチにはならない……かな……?ならないでほしい。分からん。

 邪悪の専門家が俺の特異性に目をつけている、ということだけは分かる。ドクターは俺という人格の上から、スペック表を透かして見ている。

 後継者という言葉をあの邪悪な老人がどの程度、人間の言葉として使っているのかは分からないが、素材や検体として使い潰すつもりなら、わざわざそんな言い方はしないはずだ。
 自分の仕事にプライドを持っている人間は、自分の後釜に置こうとしている存在のこともある程度尊重する。
 これだけ凄い自分の成果を継がせるには、相応に“凄い”存在でなければ価値が下がると思うからだ。何を持ってどうやって後継者にするというのかは分からないが、俺の自由意志はそのまま保持できるはず。

 俺がタブレットを前に考えを煮詰めていると、気を引くように、膝の上のジョンちゃんがぶるぶると震えた。

「なあに、お腹空いた?」

 スライムをかき混ぜるような湿った音と、異臭のする泥みたいなものを吐きながら、それでもジョンちゃんはどこか嬉しそうにしている。ふふ。本当にグロいな……キツいな……。

 俺は夜な夜な鍋でクタクタに茹で、潰してはタッパーに保存しているほうれん草を取り出し、スプーンで一口ずつ食べさせた。

 口の中にある歯の部分は、成人のものを移植しているのだろう。小さな身体に不釣り合いなほど立派な臼歯が並んでいて、ジョンちゃんはそれを使い、ほうれん草のペーストを丁寧に、律儀に、ぐちぐちと粉砕しながら飲み込んでいく。ふふ。可愛くないなあ……。おなかいっぱいお食べ……。
 

「なんじゃ、また無駄なことしとるのか!」

 いらんいらん! ハイエンドに食事なんてもんは要らん! と、元気いっぱいに登場したドクターは、ドタバタと妙にコミカルな足音を響かせながら、俺の横を通り過ぎていった。

「ジョンちゃんだって喜んでるからいいじゃないですか。腹を壊すわけでもなし」

 嗜好品みたいなものだろ、いいじゃんねえ。そう声をかけると、ジョンちゃんは同意するように、膝の上でぷるぷると震える。

「喜ぶ。喜ぶ、か。うむ、そうじゃの。陽火、おまえはワシとは違う視点でものを見る。素晴らしいことじゃ」

 ドクターは、実に慈悲深い顔をして天を仰いだ。ここに来てから何度も見た顔だ。ろくなことを言わない時のドクターの顔。いやすぎる。

陽火。人の“心”とは、どこに宿ると思う? 脳か、肉体か」

「思考に影響を与えるなら脳じゃ……」

「そう! 肉体じゃ! 移植されたパーツの“元”の人格が影響を与えてくるというオカルトがあるじゃろう。馬鹿馬鹿しい、実に馬鹿馬鹿しい。
じゃが、肉体こそが“心”の入れ物じゃった! ワシはそれを、おまえとジョンちゃんの触れ合いで気付くことが出来た……この年で、新たに! “知らない”を“知れた”!」

 脳みそじゃないッスか、“心”って。知らんけど。

「脳が“心”なら、嗜好が引きずられる時に、分厚いステーキやら酒やら煙草やらになるじゃろ! だが、そうではなかった。ジョンちゃんは、ほうれん草のペーストを好む。“ボディ”部分の嗜好を引き継いでいる!」

「なるほど、最悪だ……」

 ほうれん草をクタクタに煮て、潰したものを食べる。
 つまり、ほうれん草のペーストを好物として食べていた年齢の身体、ということだ。
 離乳食。あるいは、それに近いもの。
 俺はスプーンを持ったまま、膝の上で嬉しそうに震えているジョンちゃんを見下ろした。成人のものらしい臼歯で、赤ん坊の食事を丁寧に潰して食べる小さな脳無。音も臭いも存在も、何もかもが最悪なのに、その好みだけが、やけに生々しく幼い。
 
 ドクターは発見に酔っている。新たな知見を得た学者の顔で、奇跡でも見たように笑っている。俺はその横で、ただ、スプーンの上の緑色のペーストを見つめていた。

 なるほど。心が肉体に宿るのだとしたら。ジョンちゃんが喜んでいるこれは、誰かの身体に残っていた、最後の“好き”なのかもしれなかった。

 こんなん気が狂うて。

 毎日こんなんだぞ! ハイエンドの管理とか、これは生前これこれこういう人物で~からが説明に入るからな! 事故死とか病死じゃなくて、普通に「血液検査で合致した素晴らしい素体」とか言ってるからな。死があまりにも近すぎる。
 うんざりしながら、俺はスプーンをタッパーの縁に引っかけた。

「それで、これから一体何をするんですか」

 俺の問いに、さっきまでウキウキで踊っていたドクターは、ぴたりと動きを止める。古い玩具のゼンマイが急に切れたみたいな止まり方だった。

「おお、そうじゃそうじゃ。忘れるところじゃった。ジョンちゃん、ワシのところにおいで」

 ドクターが手を叩くと、膝の上にいたジョンちゃんがぷるりと震える。それから、アンバランスな身体を器用に動かし、俺の膝からずるりと降りる。

 骨格と肉の釣り合いが取れていないのに、不思議と転ばない。あの小さな身体の中に、どれだけの調整と、どれだけの無理が詰め込まれているのかを考えかけて、やめた。考えたところで、どうせ気分が悪くなるだけだ。

 ジョンちゃんは、ドクターの足元まで行くと、そこで嬉しそうに震えた。次にドクターは、どこかから大量に集めてきた“あかり”を取り出して乱雑に積み上げる。

陽火

「はい」

「ほい」

 軽い掛け声と一緒に、なにかが顔にかかった。

 反射的に目を閉じるより早く、左頬からこめかみにかけて、熱いものがべったりと貼りつく。液体、だと思った。瓶のようなものをドクターが手にしていたから、脳が勝手に、以前受けたアシッドアタックの記憶を引きずり出す。

 皮膚の上を滑ったものが、じゅ、と嫌な熱を持って沈み込んでくる。溶ける。焼ける。溶けているのか、焼けているのか、分からない。ただ、顔面の左側だけが急に別の生き物になったみたいに熱かった。
 
 痛い。
 痛い、痛い、痛い。

 悲鳴が喉まで上がった。けれど、出なかった。前世からの癖だ。痛みで声を上げるより先に、まず飲み込む。騒いだら追撃が来る。助けが来るまで黙って隠れて、助け、くるか? 前はマグネが来てくれたけど、マグネはもう居ない。殺された。

 俺は喉の奥で息を詰まらせ、タブレットを取り落としながら、その場にしゃがみ込んだ。
 片手で顔を押さえそうになって、寸前で止める。触るな。触ったら悪化するかもしれない。酸なのか、薬品なのか、分からないものには触るな。水で流していいのかも分からない。冷やしていいのかも分からない。

 なぜ。
 頭の中が、それだけで埋まった。
 なぜ。

 今? ここで? 何のために? タイミングがおかしくないか? 

陽火!! “あかり”を消せ!!」

 ドクターの声に、咄嗟に従った。意味は分からない。状況も分からない。左頬は焼けるように熱いし、皮膚の下を火傷そのものが這っているみたいで、呼吸ひとつするだけで痛みが神経に引っかかる。それでも、命令の内容だけは理解できた。消せ。机の上に積まれた“あかり”を、消せ。

 意識を向けた瞬間、机の上の“あかり”が次々と色を失っていった。小さな炎が、ひとつ、またひとつと硝子の内側から消えていく。
 揺れていた光が死に、熱の気配が引き、ただの透明なガラス玉へ戻っていく。がらくたみたいに積み上げられた俺の一部が、俺の意思ひとつで、ただの物体になる。

 最後のひとつが輝きを失った時、ドクターは両手を広げて叫んだ。

「やはり! こういう事じゃった!!」

 なんだァ……? このカスジジイ……いてぇが……。

 痛みで視界が白む中、俺は床に膝をついたまま、じわじわと怒りが湧いてくるのを感じていた。恐怖よりも先に怒りが来た。混乱よりも先に、こいつ今なにしやがった、という気持ちが顔の熱と一緒に込み上げてくる。

「なにするんですか! めっちゃ痛かった!!」

「すまんすまん、反省しとる、陳謝陳謝」

「カスジジイ」

「率直な罵倒が出たのお。よいよい、元気な証拠じゃ。じゃが、もう痛くはないだろう」

 言われて、そこでようやく気づいた。

 痛みがない。

 あれほど顔面の左側を焼いていた熱が、すっと引いていた。皮膚の下を這っていた火傷の感覚も、瞼を動かすだけで剥がれるようだった痛みも、どこにもない。さっきまで確かにあったはずの激痛が、最初から存在しなかったみたいに消えている。

 ドクターが差し出してきた鏡を、警戒しながら受け取る。

 そこに映っていた俺は、めちゃくちゃ不機嫌ということ以外、何も変わっていなかった。

 左頬は焼けていない。皮膚は溶けていない。赤くもなっていないし、腫れてもいない。目も無事だ。髪にも焦げた跡はなく、服の襟元に飛んだらしい液体の痕跡すら、ろくに見当たらない。

 確かに皮膚が焼けて溶ける感覚はした。

 痛かった。ものすごく痛かった。アシッドアタックの記憶を引っ張り出されるくらいには、あれは現実の痛みだった。

 なのに、何も変わっていない。

 鏡の中の俺は、ただ眉間に皺を寄せて、殺意と困惑と不信感を全部混ぜたような顔で、こちらを睨んでいた。

「おまえは、以前にも同じことがあったじゃろう」

「……ドクターの薬で治療されましたね」

「あれな、ワセリンじゃよ。白色ワセリン」

「は?」

「アシッドアタックに効くわけないじゃろ、あんなもん。せいぜい保湿にしかならんわい! ワシが寝る前にお顔につけているものを、ちょいと分けてやっただけじゃ」

「なんだァ……このカスジジイ……!」

 え、普通に犯罪の話してる? あの時、俺、結構な大金払ったよ? ああ本当にすごい薬だったんだなと思っていたのに。俺は見捨てられた患者だったの……?

「あの時から既に、オール・フォー・ワンはおまえの個性の特異性に気づいておった」

 ドクターは悪びれもせずに言った。慈悲深い顔でも、反省した顔でもない。新しい器具の動作を確認する技術者の顔だった。

「試したのじゃよ。おまえの“あかり”が、おまえの“拡散された容量”が、どのような効果を見せるのかをな」

「試した……」

「結果は、“小さな容量のものから順に、肉体の修復へ還元される”というものじゃった」

 机の上に積まれたガラス玉を見る。さっきまで淡く燃えていたそれらは、今はただの透明な玉になっている。
 俺の命令で消えた。いや、消えたのではない。戻った。俺の中に。俺の傷を埋めるために、俺の肉体を元の形へ戻すために、外へ預けられていたものが回収された。

「今回も同じじゃ。ここにある多くのものは、子供たちのおまじないで拡散されたもの。つまり、“容量の小さいもの”じゃ」

 ドクターが指先で、色を失ったガラス玉の山をつつく。ころ、と軽い音が鳴った。誰かの枕元にあったもの。誰かの鞄に入っていたもの。泣き止まない夜に握られたもの。学校に行く前、ポケットに忍ばされたもの。友達と分け合ったもの。俺が知らない誰かの小さな安心が、ここに乱雑に積まれている。

「最後まで残っていたこれは」

 ドクターは、その中からひとつを摘まみ上げた。

 ただのガラス玉になったはずなのに、俺はなぜか、それだけを見た瞬間に喉が詰まった。さっき、最後まで火を失わなかったもの。俺が意識して消す直前まで、執念のように光っていたもの。

「火事の中、これを守るために家の中へ戻り、抱きしめながら死んだ女のものじゃ」

 息が、止まった。

「つまり、“容量が大きい”。預けた想いの分で、“あかり”の容量は大きくなる。単純な熱量ではない。単純な出力でもない。どれほど強く握られたか。どれほど縋られたか。どれほど、それを“良いもの”として信じたか。おまえの灯火は、受け取った側の想いによって質量を増す」

 ドクターの声は弾んでいた。新しい知見を得た科学者の声。人の死も、祈りも、恐怖も、愛着も、すべて研究結果として同じ列に並べられる人間の声だった。

「あの時、おまえは無意識に周囲の“あかり”を自分に還元して、傷の修復をしていたのじゃよ。個性の受け皿にもなり、修復機能にもなる! 素晴らしいものじゃ、惚れ惚れする」

「あの、ドクター」

「なんじゃ?」

「とりあえず、もう一回ちゃんと謝って貰えます? 痛かったんで。俺が『嫌がらせしてやるぞ』モードに入る前に……」

「必要な実験だったとはいえ、大変申し訳なかった。ごめんね」

「いいよ……」

 よくはない。マジでよくはない。痛かったし、意味は分からなかったし、俺の中ではまだ普通に未解決事件として処理されている。
 でもほら、一旦関係をフラットにしておかないと遺恨が残るから……。俺、結構執念深いところあるから己の中で区切りをつけておかないと、隙あらばドクターを裏切りそうだからさ……。

 ええと。つまり、俺の“あかり”は、外付けハードディスクであると同時に、モバイルバッテリーみたいな機能も持っている、ということらしい。
 預けた相手がそこにどれだけ想いを込めるかによって、1人が蓄えられる容量が変わる。

 単なる小さな炎ではなく、祈りや安心や執着のぶんだけ、器が大きくなる。そして俺が“あかり”を消すことで、そこに入れられていたものを徴収できる。回収された“あかり”は、俺の肉体の破損を修復するために使われた。そういうこと、なのだと思う。たぶん。分かったような気もするし、何ひとつ分かっていない気もする。

 少なくとも、俺の個性がだいぶおかしいことと、ドクターが俺によく効く軟膏ですよという顔で白色ワセリンを売りつけた詐欺ジジイだということだけは、はっきり分かった。

 とりあえず、あの時支払った38万円を返してほしい。

 一週間分のワセリンの値段としては狂っているだろ。高級保湿にも限度がある。金箔が入っているんですよと言われても高すぎる。ふざけんなよ。返せ。返して弔くんたちの方へ送金しろ。