シャワーブース脇のロッカールームで髪を乾かし終わり、温風を止めた瞬間、背後でぺたぺたと濡れた足音がするのに気づいた。
振り返ると、レイフ・ガーナーが上半身裸のまま、当然のような顔で歩き回っている。肩にも首筋にもまだ水滴が残っていて、濡れた髪の先から雫がぽたりと鎖骨のあたりへ落ちていた。床に水を垂らすな、と言うより先に、この前もそうやって風邪をひきかけたことを本気で忘れたんだろうかという疑問が来る。「寒い辛い死ぬお見舞いに来て労わって」と友人から先輩まで、連絡先を知っている全ての人間に泣きつき、面白がられてイベントのようになったことを忘れるな。目の前の部屋でそれをやられて、騒音被害を受けたんだぞこっちは。
仕方ないなあと棚に置いてあった乾いたバスタオルを掴み、そのままレイフの頭からばさりと被せた。レイフは「わぷっ」と情けない声を上げ、布の中で少しもがいたあと、後ろにいるのが僕だとわかった途端にタオルの隙間からへらりと笑った。
「あんがと、デュース」
「また着替えを持ってこなかったのか?」
「下だけ持ってきて満足したっぽい」
そう言ってレイフは、自分の下半身を見下ろした。履いているのは部屋着用のスウェットで、何期か前に放送していたロボットアニメの柄が派手に入っている。安かったから買った、と前に言っていたやつだ。格好よくていいな。僕は結構好きだけど、エースは「うわダッセェ、上下セットで着るなよ」と全否定していた。上下セット売りの物を上下セットで着て何が悪いんだろうな。
「ローズハート寮長に見られたら終わりだぞ」
「命が?」
「命が」
僕が即答すると、レイフは一瞬だけ真顔になり、それからなぜか覚悟を決めたようにタオルを肩へ引っかけた。
「とりあえず風のように走ってみるわ。わんちゃんあるだろ」
「風のような速度で首をはねられるだけだろ」
妙なやる気を出して足を踏み出しかけたレイフの腕を掴み、僕は持ってきていたパーカーを押しつけた。ほんの少しレイフの方が背が高いし肩幅もあるけれど、前を閉めればそれなりに見えるはずだ。少なくとも、上半身裸で寮内を疾走するよりは何倍もましだ。僕はシャツ1枚になるけど、多少冷えるだけでTPO的に問題は無い。はず。
「ありがとう!」
「気にするな。……レイフ、それは」
「あ、これ?」
それに気づいた時、ついうっかり口に出てしまった疑問は、逃げる間もなく丁寧に拾われた。
レイフの背中に、縦へ走る傷跡があったからだ。五センチほどの、真っ直ぐな線。傷口の色を見ると、そんなに昔のものでは無さそうだった。手術でついた傷、というには少し歪な気もする。
「事故にでもあったのか?」
「元カノに刺された」
「元カノ」
復唱してから、一拍遅れて瞬きをした。こんなにへらへらしてるレイフにも、そんな波乱万丈な出来事が……。でもこいつ刺されても納得できるな……と受け入れかけたが、僕たちはまだ16歳じゃないか!?
「ミドルスクールで?!」
「ミドルスクールで」
「一体どんな人間関係を築いてきたんだ……反省した方がいいぞ」
「俺の非を確信するのはやめろ」
「違うのか?」
「浮気した」
「命は許してくれるなんて優しい人だったんだな」
「良い彼女だったよ」
僕だったら殺しているなあ。別れていない限り、恋人はまだ僕のものだ。僕が一方的に所有しているというより、互いにそういう形で愛を預け合っている、という意味で。
だから、ちゃんとさよならを言わずに他の誰かへ手を伸ばすのは、僕ごと、その約束を踏みにじる行為になる。裏切りには相応の罰が必要で、僕の場合、それはたぶん死だ。だって愛しているんだろ? 愛している相手を裏切るなら、そのくらいの覚悟はしているはずじゃないか。恋人に対しては、誰よりも誠実であるべきだ。
なので、レイフは本当に優しい元カノに当たったのだとしみじみ思う。
命を許してくれるなんて懐が広い。人間のできた良い女性だったんだろう。レイフもしみじみと「最高の女だった」と言っている。最高だとわかっていながら他によそ見をしていたのか、最悪だなこいつは。
まあ、話していて楽しいやつだけど。顔だって格好良いし、誰にでも親切ではあるけど。友人としたら最高な人間だけど、恋人としてはわりとおしまいなやつだろう。
僕が頭の中で丁寧にレイフを否定していたら、何を勘違いしたのか「惚れるなよ」とウインクをして来たので、ドライヤーの温風を顔面に吹きかけてやった。「眼が!」と叫んでいるので追撃する。誰がこんな落とし穴みたいな男に惚れるか。僕の好みじゃない。
……と、思っていたんだけどなあ。
それから数ヶ月。まさか、そのレイフと付き合うことになるとは想定の範囲外。
同室者が早々に退学した結果、一人部屋になったレイフは、冬眠前のクマみたいに忙しなくうろうろしている。「水飲むか? 腰痛くねえ?」とやたら大事にしてくれているので、正直嬉しい。水は飲むし、腰は痛くない。身体の丈夫さには自信があるから、よほど変なことをされない限り、明日には元気だ。
恋人になったら、友人だった頃とは違う類の優しさを見せるからしょうがない。沼のような男だ。底の方には歴代恋人の人骨が沈んでいるんだろう。
「水な、水」と、コップを用意する背中にある傷跡を見て、思うところがあった。
「レイフ、お願いがあるんだ」
「おねだり? 言うてみ」
「その、僕は、えっと」
「なんだもじもじして、えっちなこと?」
「違う! あの……、僕も、」
「うん」
「僕も……て、いいか」
「うん? 聞こえない」
ああもう、焦らされてるのか!
そう気づいた瞬間、顔に熱が集中した。一気に全部が暑い。こんなの、初めてレイフとひとつになった時以来だ。あの時だって、冷静に振る舞えていなかった気がする。僕はあの時も相当おかしかったし、今もかなりおかしい。けれど、自覚があるからといって、まともになれるわけではない。
変な顔をしていなければいい。
そう願って俯いた僕を、レイフは覗き込むように見つめてきた。距離が近い。息がかかる。へらへら笑っているくせに、目だけはいつも優しい。こういう顔をされると困る。僕は正しい言葉を選べなくなる。腹の底で膨らんでいた願いが、喉元までせり上がってくる。
いま、いまだ、言うぞ!
「……~~! 僕も、レイフを刺していいか!?」
「ダメだが!? なんで照れた顔でそれが出た!!?」
なんで!!
「僕もレイフに一生消えない傷を付けたくて……」
「いやもじもじしながら言っても暴力は暴力だわ。こえーわまじかよお前」
「アイスピックでも?」
「傷跡小さければそれでいいって訳じゃないんですよ、それは殺害に使うタイプの武器だから。わかる? 死んじゃうかもなの。刺されると痛いのよわかる?」
痛くても、元カノの傷はそこにあるじゃないか。僕が触れられる場所に、見える形で、ずっと残っている。過去の女の怒りと愛と殺意が、レイフの身体に薄く焼きついている。
なのに、僕のものは何もない。僕はこんなにレイフを好きなのに。レイフが好きだと言うたびに、胸の奥で何かがきらきら光って、同時にぐらぐら煮えるのに。僕だけが何も残せないなんて、そんなのは不公平じゃないか。
「……どうしても、か?」
「酷いことされたみたいな顔するな。今この場でいちばん酷いのはデュースだからな? だいたいこの傷は俺が浮気したからやられたのであって、お前も同じことしたいなら俺がまた浮気しないとその権利はないぞ。何言ってんだ俺は」
「浮気したら殺すんだから傷跡は残らないだろ」
「お前の澄み切った瞳、すごい好きだよ。音声さえ聞こえてなかったら惚れ惚れしちゃうとこだった」
「ありがとう、僕もレイフの眼が好きだ」
「こええんだよなこの男、だから良いんだけど」
悲しい。
レイフは笑っている。怖がっているようで、怖がっていない。呆れているようで、嫌がってはいない。僕はその境目を見誤らないように、じっとレイフの顔を見た。
好きな人を傷つけたいなんて、たぶん普通ではない。けれど、普通であることと、真剣であることは違う。僕はふざけていない。レイフの身体に、自分だけの印が欲しい。
ダメか? 本当にダメか? 僕がこれ程頼んでも?
そう続けていると、レイフは深くため息を吐いた。肩が少し落ちる。それから、困ったように、けれどどこか楽しそうに笑う。
「仕方ないなあ」
レイフはそう言って、髪をかきあげた。
「ほら、ここならいいから。バージンだぞ喜べ」
見せつけられた耳は、傷ひとつ、穴ひとつない。白くて、薄くて、指で挟んだら簡単に熱を持ちそうな耳だった。そこだけがまだ誰のものでもないみたいに綺麗で、息を呑んだ。
「いいのか!」
「いいよ、痛くするなよ」
「ああ、任せてくれ!」
嬉しかった。本当に嬉しかった。胸の中で鐘が鳴るみたいだった。その日のうちに当面のお小遣いをすべて使って、ピアッサーを4つ買った。店員に妙な顔をされた気もするが、そんなことはどうでもいい。帰るまでの道のりが長くて、箱を抱えた指先がずっとそわそわしていた。レイフの耳に穴を空ける。僕の手で。僕が選んだ位置に。僕が残す。
「マジかよこの男やべえな」
そう笑っていたレイフも、充分にヤバい男だと思う。だって、本当に逃げなかった。ベッドの端に座って、髪を片側に寄せて、少しだけ首を傾けている。信じられないくらい無防備だった。その姿を見た瞬間、変なところがぎゅっと苦しくなった。レイフが許した。僕に、ここまで許した。その事実だけで、どうしようもなく満たされる。
穴を空けるたびに、レイフの肩が小さく跳ねた。痛いのだろう。それか音にビックリしてる。けれど、文句は言わなかった。そのたびに「痛かったか?」と聞き、レイフは「まあまあ」と笑った。耳たぶに触れる指先が熱い。自分の手なのに、自分のものではないみたいに震えている。
「穴はほっとくと閉じるから、ずっとピアスを付けてろよ」
「仰せのままに」
「よし、良い子の返事」
いつもはほんの少しだけ高い位置にあるレイフの頭が、今は僕の膝の上でふざけた調子で揺れている。まるで飼い慣らされた獣みたいだ。いや、たぶん飼い慣らされているのは僕の方なのだろう。レイフが少し笑うだけで、こうして喜んでしまう。ひどい話だ。ひどい話なのに、幸福だった。
僕のつけた傷が、永遠になるといいな。
うっすら血が滲んだ耳の後ろを撫でる。レイフはくすぐったそうに目を細めた。僕は指先についた赤を見つめ、それから舐めた。
「元カノに勝った」
「何の勝負してんだよ」
血の味、鉄の味、嫌いじゃない。胃の中に落ちて、いつか僕の血肉に混じって、僕とおまえが少しだけでも同じものになる。それがなんだか、とても嬉しかった。
