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 バシャッ、と景気のいい音がした。いや、景気よくてどうすんだよ。次の瞬間、顔がかあっと熱くなって、目の前で大釜をかき混ぜていたやつの顔が、頭の中いっぱいに広がった。
 すぐ近くから「Bad Boy!」って怒鳴り声が聞こえた気もするけど、そんなもんはもう遠い遠い。ビックリするくらい他人事の距離感のバドボ。なるほどね。これが『恋』ってやつね。やけに納得してしまったのは、オレがロマンチストだからじゃない。

 今まさに頭から被った液体が、よりにもよって惚れ薬だったからだ。

「う~わ、トラッポラお前平気? 俺のことめちゃくちゃ好きになっちゃった?」

「んー、調合成功。これ絶対評価Sだわ」

「残念ながら減点だ。まったく、症状は?」

ピノックのことめっちゃ好きになりました」

「うわあ」

 ピノックが、はっきりと「いやだなあ」って顔をした。そりゃそうだろうなとは思う。クラスが一緒だけど寮は違うし、つるんでる奴も違う。廊下ですれ違えばまあ挨拶くらいはするし、軽口を叩けばそれなりに返ってくる。けど、その程度だ。
 だいたい今日だって、ペアを作れって言われた瞬間に、ピノックが露骨に出遅れていたから、オレが拾ってやっただけだ。
 オレが優しいから。オレは空気を読めるし、誰とでもそれなりにうまくやれるタイプだから。ああいう場面でひとり余りかけてるやつを見ると、まあ、ほっとくのも感じ悪いだろ。だから助けてやっただけ。オレが。わざわざ。親切に。

 なのに、惚れ薬を頭から引っ被ってピノックのことが大好きになってしまったオレは、その「うわあ」みたいな顔に、びっくりするくらいダメージを受けた。
 胸の奥がぎゅっと絞られて、息が詰まる。心臓を素手で握られたみたいに痛くて、勝手に目のふちが熱くなった。なんでそんな顔すんの。いや、そういう顔するのは分かる。分かるけど、分かりたくない。

 頭のどこかから「どうして」っていう、まるで自分のものじゃないみたいに重たい悲しみがどろどろ溢れてきて、ピノックに嫌がられたことが、オレの顔も、声も、性格も、今まで適当にうまくやってきた全部も、まるごと否定されたみたいに感じた。
 たかが授業のペアだろ。たかが惚れ薬だろ。たかが、さっきまで別に特別でもなんでもなかった相手だろ。そう思う冷静な部分はまだ残っているのに、惚れ薬にぐずぐずに煮込まれた感情の方は、そんな正論を聞いてくれない。ピノックが嫌そうにする。オレが傷つく。傷ついた自分にまた傷つく。なにこれ。恋ってこんなに迷惑なの? 最悪すぎる……。

「嫌そうな顔すんな。泣くぞ」

「めんどくさい……」

「は? 待って普通に悲しい。泣く」

「泣いちゃった……」

 感情の乱高下がひどい。泣くって言ったら、本当に泣けてきた。自分でもちょっと引いたけど、止めようと思う前に目からぼろぼろ涙が出て、喉の奥から「うええん」と声まで出た。
 抵抗する気力もない。だってピノックが嫌そうな顔をした。オレのことを。今のオレが世界で一番好きな相手が。そりゃ泣くだろ。薬のせいだけど。薬のせいなのは分かってるけど、それはそれとして悲しいものは悲しい。

「トラッポラ、情緒終わってんじゃん」
「おい待て、惚れ薬の材料って恋する者の涙いるよな?」
「おら! トラッポラ1リットル泣け!!」
「瓶持ってこい瓶!」

 そこら辺で調合していたヤツらが、最悪の野次を飛ばしながらこっちに集まり始めた。泣いてる人間に対してその反応できるの、普通にどうかしてる。ほんとNRCの治安はクソ。今ならグリムの方がまだ品があると思う。
 オレは泣きながら、勝手に列を作ろうとしている連中をにらんだ。

「見せもんじゃねーんだけど」
「素材が喋ってる」
「追加で泣けそうなこと言うなよ!」

 ムカつく。全員ムカつく。あとで絶対覚えてろよ。惚れ薬が抜けたら、一人ずつちゃんと嫌な感じの仕返しをする。けど、ピノックだけは全部許す。泣かされても許すし、酷いことを言っても三回くらいまでは我慢してやる。へえ、オレって好きな相手には献身的で可愛いとこあるじゃん。別に知りたくなかったな。

「解除薬は必要そうか?」

 クルーウェル先生がそう聞いてきたけど、オレは首を振った。

「いえ、あれクッソ不味いからいいです。どうせ数日でとけるし、ピノックのこと好きになってるだけなんで大丈夫です。ピノックは効果切れるまでオレに尽くして優しくしといて」

「いやだなあ」

「嫌って言うな。今んとこ世界で一番お前のことが好きな稀有な存在だぞ、慈しめ。明日デートするからお洒落して待ってやがれ」

「イグニハイド生にデートに着ていく服があると思ってんのかよ。上下ババアの乳首色ジャージしかねえわ」

「逆に見てえわ、ババアの乳首色ジャージ」

 なにそれ。むらさき? 灰色? ピノックと違って、ババアの乳首なんか見たことないから分かんねえ。……は? こいつ、ババアの乳首見たことあんの? え、許せん。

「てめー、オレという男がいながらババアと寝たのかよ」

「もう時間感覚めちゃくちゃじゃん。お前という男はいないのよ。あれはミドルスクールん時の指定ジャージだから、近隣住民全員がババアの乳首色つってるだけで、俺も実物は見たことねえよ。命名者に責任がある。俺の隣を歩いて人権を保ちたかったら服を貸しな」

「え、オレがコーディネートしていいの?」

 その瞬間、泣いていたことも、解除薬を断ったことも、周りでこっちを見ているやつらのことも、まあまあどうでもよくなった。
 ピノック、顔色は本当に地獄だけど、そんなもんメイクでどうにでもなる。いつもダボついた服ばかり着てるから分かりにくいだけで、よく見れば足は長いし、体の線も悪くない。
 ちゃんと整えたら普通に格好よくなるやつじゃん。顔だって、一時間前のオレなら「死んだ鰻みてーな目」とか言っていたはずなのに、今は「思慮深いおめめ」と思える。惚れ薬ってすげえ。人間の認識をここまで雑に改ざんしてくるの、魔法薬として普通に危険だろ。

 でも、分かっていても楽しいものは楽しい。ピノックがオレに服を貸せと言った。つまり、オレが選んだ服を着るということだ。
 明日、オレが選んだ格好で、オレの隣を歩くということだ。
 そこまで考えたら、さっきまでぐちゃぐちゃだった気分が一気に上向いた。これが俗に言う惚れた弱みってやつなんだろうな。
 たぶん薬の効果が切れたら、また普通に「ドブぞこおめめ」とか言うようになると思うけど、今のオレには無理だった。ピノックの顔面の治安の悪さすら、なんかクールに見えている。影のある男っていいよな……。

「オレが惚れ薬被ったの、お前にも責任あるからちゃんと付き合えよ」

「うえ~~」

「お前がトロトロ鍋掻き回してたから跳ねたんだろうが。「もちろんだよこちらこそよろしくお願いします」って頭下げてオレの愛を乞え。抵抗すんな。好きって言え」

「すき」

「んふふ」

「そんなんでいいのお……?」

 好きなやつの言葉一つで感情が上下左右に動き回るのって、疲れるけど面白いし。こんなの数日間だけの先の見えてるニセモノだから逆に安心ってところがある。

 ほんとのオレは、ピノックのことをクラスメイトの暗いやつくらいにしか思ってないし、ピノックだってオレのことをクラスメイトのうるせえやつくらいにしか思ってないはずだ。あ、今そう考えただけで普通に傷ついた。うわーー、めんどくせぇ。でも、おもしろ。

 自分が『恋をしてる』状態をこんなに冷静に眺められることなんて、こういう事故でもない限りない。だったら、せっかくだし遊んでみてもいいだろ。

「いいの。オレがピノックを好きでいる間だけ、オレたちはらぶらぶすんの」

「俺の意思はあ?」

「ありませーん。ま、ゲームみたいなもんだと思ってよろしく」

 「ゲーム」と呟いて、ピノックがにやっと笑った。うん、食いつくと思った。こいつ、ゲーマーだって聞いたことあるし。

「おっけー、乗ったわ。最高の彼ピになってやんよ」

「かかってきな」

 そういう少し悪そうな笑い方も格好いいなあと、オレの中の恋心が勝手にキュンキュン反応した。オレって好きな相手には全肯定しちゃうタイプっぽい。恋すると頭バカになるって、こういうことを言うんだろうなってわかっちゃったな。