ゆびきりげんまん
槐野綴真を最初に知った時、俺は名前を知らなかった。塀の向こうで笑っている子供だった。親父との訓練中、氷の制御が悪いと言われた。指が冷たくて曲げづらい。俺の動きが止まると親父が名前を呼んだ。
その時、塀の向こうから高い笑い声が聞こえた。少し後に男の声がする。子供が何か言い、男が答え、また二人で笑った。
言葉ははっきり聞こえなかった。互いに怒っていないことは分かった。俺の家にも兄と姉がいる。姉さんと夏兄は優しかったが、親父は俺が二人と遊ぶことを許さなかった。燈矢兄とはあまり話したことがない。嫌われていたというのはわかる。
家族が同じ庭で笑う声を、俺は自分の家の塀の向こうから聞いていた。
幼稚園で槐野を見た時、あの声だと分かった。槐野はよく喋った。兄が尻尾で牛乳を倒した話、父親が買った健康器具を母親が物干し台にした話、朝に靴下が片方見つからなかった話。俺が返事をしなくても続けた。
同じ組だったが、会う日は少なかった。俺は訓練のために休むことが多く、幼稚園へ行っても途中で迎えが来た。槐野も風邪で休んだり、家の用事で早く帰ったりした。一か月近く会わないこともあった。次に会うと、槐野は前に何を話したのか忘れて、同じ話をもう一度した。
俺は一度聞いたとは言わなかった。言えば別の話が始まるだけだった。槐野の兄は狼の異形型だった。灰色の毛があり、頭の上に耳がある。迎えに来ると槐野は走って抱きついた。兄は片腕で槐野を持ち上げ、肩へ乗せた。槐野が耳を触っても本気で怒らなかった。塀の向こうで一緒に笑っていた男の声は、槐野の兄だったらしい。家でも二人の声がよく聞こえた。
槐野が何かを壊し、兄が注意する。槐野は兄の尻尾が当たったと言い返す。少しすると二人で片づけ、その後は別の話をしていた。喧嘩をしても、次の話がある。家族なら普通なのかもしれない。俺には分からなかった。いいなと思った。槐野が兄の肩で眠り、運ばれて帰る姿も覚えている。
俺は誰かに運ばれて家へ帰ったことがなかった。母さんはやってくれただろうけど、母さんにわがままを言いたくなかったし、親父はアレだ。抱き上げられたとしても、訓練場所へ移される時だったと思う。
火傷をした後、しばらく幼稚園へ行かなかった。母さんに会えなくなった。鏡を見ると、湯をかけられた時のことを思い出す。左目は見えていた。皮膚は痛かった。親父は訓練を続けさせた。俺は左側を使わないと決めた。親父からもらった炎はいらなかった。
幼稚園へ戻ると、ほかの奴らが俺の顔を見る。先生から怪我について聞くなと言われていた。誰も聞かなかった。聞かずに見て、俺が顔を向けると逸らした。
隣の席に座ろうとすると、別の席へ移った奴もいた。気にしていないつもりだった。見られるたび、左側が熱くなる気がした。槐野も俺を見た。小さな声で何かを言ったが、聞き取れなかった。昼食の後、椅子を引きずって俺の近くへ来た。大丈夫かと聞かれると思った。大丈夫ではなかった。可哀想だと言われたら怒るつもりだった。
「医療技術が進んでてよかったね、跡はのこったけど、目玉つぶれてないもんな。不幸中の幸い」
何を言われたのか、すぐには分からなかった。槐野は真面目な顔をしていた。左目が見えていることは良かった。母さんのことも、親父のことも、何も良くなかった。それでも目は見えた。槐野の顔も見えた。
変な慰めで、少し笑った。笑うつもりはなかったのに口が動いた。槐野は自分の言葉が正しかったと思ったらしく、すぐに家族の話を始めた。俺は返事をしなかった。槐野が話すのはいつも、知らなくても困らない話ばかりだった。聞いていても苦しくなかった。返事も求めなかった。俺が黙っていても、勝手に話を終わらせ、次に会った時は別の話をした。俺が幼稚園を三日休んでも、その間にあったことを話した。俺がいない間も槐野の時間は続いていて、その一部を渡されているようだった。
俺は母さんのことを話さなかった。親父のことも、訓練のことも言わなかった。槐野には分からないと思った。槐野の家には優しい兄がいる。父親と母親も槐野を叩かない。家へ帰れば声がする。俺とは違う。槐野が兄と公園へ行った話をしていた時、腹が立った。羨ましいと思ったことを知られたくなかった。
「おまえにおれのきもちはわからない! 」
「分かんないねえ」
「なら、しゃべるな! 」
「ごきげん悪いね」
槐野は折り紙を持って別の机へ行った。嫌われたと思った。その日は、俺から話しかけなかった。次に幼稚園へ行くと、槐野は兄のシーツが洗濯物を毛だらけにした話をした。前のことには触れなかった。
俺が何を言っても、槐野は完全にはいなくならない。近づくなと言えば離れる。喋るなと言えば、その時は黙る。次に会えば戻ってくる。俺の気持ちが分かるとは言わなかった。助けるとも言わなかった。火傷をした後、ほかの奴らが近づかなかった時、槐野は隣へ座った。それを覚えていた。
幼稚園の昼寝で、槐野はすぐ眠った。布団へ入る前まで喋っているのに、横になると静かになる。寝相は悪かった。布団を蹴り、枕から頭を落とし、隣の奴の足を抱えたこともあった。
俺は昼寝が苦手で、目を閉じると家のことを考えた。親父の声が聞こえる気がした。起きていると先生に注意されるので、横を向いて眠ったふりをする。隣では槐野が口を少し開けて眠っていた。
ある日、将来の夢について話しているのを聞いた。槐野は色紙を輪にしてつないでいた。《仮縫い》で留めた場所が途中で外れ、指で何度もなぞっていた。
「つよくて、おれとずっといっしょにいてくれるひとがすき」
「ヒーローになりたいの? 」
「ならない。つよいひとにかってもらって、あんぜんなところにすむ」
「人は飼わないんだよ」
先生とほかの奴らは笑った。俺は笑わなかった。槐野が言った人は自分だと思った。
俺は強くなる。親父の言うことを認めるつもりはなかったが、ほかの子供より強いことは分かっていた。槐野の家は隣にある。幼稚園も同じだった。ずっと一緒にいられる。安全な場所を用意することもできる。
槐野は誰の名前も言わなかった。ほかに当てはまる奴はいなかった。その日の昼寝で、槐野の小指へ自分の小指を絡めた。約束をする時は指をつなぐと、姉さんから聞いた。
「俺が飼う」
槐野は眠っていた。返事はなかった。しばらくすると指が動き、俺の小指を握った。約束。
次の昼寝でも指をつないだ。その次もつないだ。槐野は大体眠っていた。途中から、槐野が先に小指を出した日もあったと思う。眠る前に何か言ったこともあった。
何度も同じことをしたので、どの日に何があったのかは混ざっている。槐野が起きていた日と眠っていた日の区別も曖昧だった。
それでも、槐野も約束した。俺が強くなる。槐野とずっと一緒にいる。槐野を飼う。槐野が望んだことだった。
小学校は別になった。会う時間は減った。家は隣なので、門の前ですれ違うことがあった。槐野は挨拶した。俺が返さなかった日も、次に会うとまた挨拶した。
ときどき、ワンチャンと言った。困った時に言う。何かに期待する時にも言う。犬のことだと思う。槐野の兄が狼に似た異形型なので、槐野の中では助けてくれるものが犬の姿をしているのかもしれなかった。
停電した夜、塀の向こうから槐野が兄を呼び、すぐに返事があった。槐野が転べば兄が起こす。疲れれば背負う。眠れば運ぶ。槐野にとって助けは兄の形をしていた。だから犬に救いを求めても不自然ではないだろう。本人が困っていないなら、聞く必要もなかった。槐野は昔から変なことを言う。中学生になっても学校は別だったが、行動範囲は重なっているので外で会うことも、多かった。その時も、同じ夢を話していた。
「強くて俺とずっと一緒にいてくれる人に飼われて、安全なところで生きたい」
俺のことだ。幼稚園の時から変わっていない。
槐野は約束を覚えている。俺は強くなっていた。左側は使わない。親父の炎がなくてもヒーローになれる。雄英へ入り、働けば槐野を養える。安全な家も用意できる。槐野は《仮縫い》を使う仕事に興味があると言っていた。働きたいなら働けばいい。嫌になれば辞めてもいい。
槐野は麦茶を一年中飲む。辛いものが苦手で、魚の骨を取ることを面倒がる。冷房を強くすると腹を壊す。部屋へ物を置いたまま忘れる。壊れた物をすぐに捨てず、《仮縫い》で何度も使う。兄と仲がいい。槐野を飼う家には、兄が泊まれる部屋が必要だった。槐野の兄を遠ざければ、槐野は嫌がる。俺は親父と同じことをしない。槐野が会いたい人間には会わせる。槐野が笑う場所を減らさない。
高校も同じだと思っていた。俺は雄英のヒーロー科へ推薦で入る。槐野は普通科へ入る。学科が違っても学校は同じだ。朝と放課後に会える。昼も時間が合えば会える。卒業後は一緒に住む。幼稚園の時から全部決まっていた。
槐野が別の高校から推薦を受けたと知った時、最初は意味が分からなかった。門の前で会った槐野が大きな封筒を持っていた。聞くと、設備保全を学べる学校の書類だと言った。
「推薦、たぶん決まるよ。轟も推薦だろ。お互い楽できるな」
槐野は笑って家へ入った。俺は門の前に取り残された。槐野は雄英へ来ない。違う学校へ行く。学校で会えない。三年間一緒にいられない。俺に何も言わずに決めていた。
約束を忘れたのかと思った。その日の訓練では氷を出す範囲を間違えた。親父に集中しろと怒鳴られた。声は聞こえていたが、槐野のことを考えていた。
別の高校へ行けば、知らない奴と会う。《仮縫い》を使う仕事を学ぶ。卒業後、その学校から紹介された会社へ入るかもしれない。家を出るかもしれない。俺の知らない場所で、俺の知らない奴と暮らすかもしれない。強い奴に会うかもしれない。
その夜は眠れなかった。次の日、槐野の家へ行こうとして、門の前まで行って戻った。何を言えばいいか分からない。違う学校へ行きたいと言われたら、止める理由をうまく説明できない。怒れば、槐野はごきげん悪いねと言う。近づくなと言えば離れる。今までは家が隣だったので、次に会えた。高校も家も離れたら、戻ってこないかもしれない。
日曜日にもう一度門の前へ行き、呼び鈴を押した。槐野が出てきた。家へ入れてほしいと言うと、自分の部屋へ通してくれる。幼稚園の頃に一度だけ入ったことがある。家具は変わっていた。床には学校案内が積まれている。窓際に小さなサボテンがあった。槐野は麦茶を持ってきて、向かいへ座った。
「どしたん? 話聞こか」
「進学、なんであそこなんだよ」
「推薦いけたから……? 」
「俺は雄英だ。おまえは違う」
三年間も違う学校になること、相談されなかったことを言っても、なぜ困っているのか分からない顔をした。俺は槐野の将来にいると思っていた。槐野の中には、俺がいなかった。
「俺に飼われたいって言ったのに」
「言って……ないが……? 」
「約束した」
「何を」
槐野は覚えていなかった。俺は覚えている。昼寝の布団。槐野の小指。眠ったまま少し動いた指。何度もした約束。俺が強くなる。ずっと一緒にいる。槐野を飼う。
槐野が別の学校へ行けば、そこで知らない奴に会う。別の奴に飼われるかもしれないと伝えると、条件の良い奴がいれば検討すると答えた。意味が分からない。俺には槐野以外がいないのに、槐野には俺以外がいる。
俺は強い。ずっと近くにいた。火傷の後、槐野が隣にいたように、俺も槐野が危ない時には守るつもりだった。それでも足りないのか。なぜ俺では駄目なのか。なぜ相談しなかったのか。なぜ離れて平気なのか。なぜほかの奴を選べるのか。
聞いても、槐野は俺が駄目だとは言っていない、進路を決める時に隣人へ相談しない、家が隣だから離れない、条件は比べた方がいいと答えた。俺が聞きたいこととは違った。
槐野は俺との約束を、将来を決めるものだと思っていなかった。俺はずっと、そのつもりでいた。強くなる理由の中に槐野がいた。ヒーローになった後の家にも槐野がいた。槐野がいない高校を考えたことがなかった。三年は長い。槐野は俺がいなくても平気だった。俺は槐野がいないことを考えると、悲しかった。
「分かった。雄英の普通科を受ける」
「絶対受かれ。勉強は俺が教える」
「推薦を断って落ちたら、責任を取ってね」
「取る」
身体に入っていた力が抜ける。槐野が雄英へ来る。同じ学校にいる。朝に会える。放課後も会える。三年間離れなくていい。
「もっといい飼い主がいたら、普通にそっちへ行くかもしれないよ」
「俺以上の飼い主なんていないだろ」
「じゃあ今のところ第一候補ね」
「今のところをつけるな」
槐野は簡単に、俺以外を選ぶことを口にする。俺には槐野以外がいない。ほかの奴を飼うつもりも、ずっと一緒にいるつもりもない。槐野には選択肢がある。俺より強い奴がいる。話しやすい奴もいる。料理ができる奴も、槐野を笑わせる奴もいる。
俺は槐野が何を考えているのか分からないことが多い。それでも俺以上はいないと言うしかなかった。槐野が俺以外を見ることを、認めたくない。
「焦凍くんでも負ける可能性はワンチャンあるけどね」
「また犬に頼るのか」
「犬? 」
「ワンチャンだ」
犬ではなかった。可能性があるという意味だった。今まで槐野は、困るたびに犬へ助けを求めていたわけではなかったらしい。槐野は、俺が何年も犬に救いを求めていると思っていたのかと笑った。槐野は昔から変なことを言うから、意味が分からなくてもそういうものかと納得してしまっていただけだ。それよりも槐野が雄英へ来ることの方が大切だった。家へ帰った後、姉さんに料理を教えてほしいと頼んだ。
「急にどうしたの? 」
「必要になる」
「一人暮らしするの? 」
「まだしねえ。槐野を飼う」
「綴真くんは人間だよ? 」
知っている。姉さんは何か言いたそうだったが、味噌汁の作り方を教えてくれた。出汁を取り、豆腐を切った。一つだけ大きくなった。槐野なら大きいものから取るだろう。
槐野が兄と食事をする時も、肉の大きい方を先に取ると言っていた。槐野の兄はそれを見て笑い、次からもっと大きいものを買ってくる。俺もそうすればいい。
次の日、槐野の家で英語を教えた。槐野は知っている単語まで綴りを間違え、意味の分からない語呂合わせを作った。休憩になると麦茶を二つ用意した。俺の分も出した。味噌汁を作らせてもらい、大きく切った豆腐を槐野の椀へ入れる。
「美味いか」
「美味しいよ」
うちで使っている味噌とは味が違った。少し甘くて、豆腐にも合っている。あとでどのメーカーか聞こうと思う。槐野が好きな味なら、俺も同じものを買えばいい。味噌汁だけじゃない。槐野が何を食べるのか、何を着るのか、どこで暮らすのかも、これから少しずつ知っておかなければならない。
俺たちはもう、いつまでも子供のままではいられない。将来の夢も、昔のように聞こえのいい言葉を並べていれば済むものではなくなって、現実にするための進路や金や生活のことまで考える時期に来ている。それに向けて努力をしなければならないのに、俺は自分のことばかり考えて、槐野の隣にいるための努力が足りなかった。だから失敗しかけた。次は間違えない。
「お前の衣食住は、俺がちゃんと面倒見るからな」
槐野は箸で大きな豆腐を半分に割りながら、いつもの調子で笑った。
「良い飼い主で安心だなあ」
そうだろう。俺は、良い飼い主になれる。

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