バッドコミュニケーション六年目

 六年前、トモツグはアルハイゼンに告白した。

 

 場所は教令院の図書館から少し離れた回廊。ちょうど講義を終えた学生たちがぞろぞろと帰っていく時間帯で、告白するには少々人目が多かった。もっと静かな場所を選べばよかったかもしれないが、あれこれ考えていたら一生言い出せなくなりそうで、思い切って呼び止めた。今思えば、もう少しいい感じのところでやればよかったと思う。まあ、花畑に呼んだってアルハイゼンは論理的理由で花畑を選んだというレポートでも出さない限り、来てくれなかっただろうが。

 

 回廊の端で呼び止めて、好きなんだ、友人としてではなく、恋愛感情を持っている。できれば付き合ってほしい。そう伝えると、アルハイゼンは手にしていた本から顔を上げ、しばらくこちらを見ていた。

 

「君の気持ちは理解した。だが、今は勉学に集中したい時期なんだ。そういう関係について考えるのは、卒業してからにしたい」

 

 ずいぶんあっさりした返事だった。アルハイゼンはそう言うと、ほんの少しだけ口元を緩めた。普段は滅多に見せてくれない、柔らかな笑みだった。

 

 ああ、この顔が好きなんだよな。

 

 振ったくせに、よりによって今、一番可愛い顔を見せてくるなんて残酷な男だ。いや、勝手にぶっ刺さっているのは俺の方なんだけど。

 

 もちろん、断られる覚悟はしていた。アルハイゼンが自分に恋愛感情を抱いているようには見えなかったし、むしろ色よい返事をもらえると思う方が楽観的すぎるだろう。それでも、実際に断られてみると、予想していたよりずっと堪えるものがあった。

 

 しっかりと振られて、ようやく自分が思っていた以上に“ちゃんと”恋をしていたのだと気づいた。一時の熱に浮かされていたわけじゃない。本当に好きだったのだ。そうして過去形にするきっかけを貰えただけでも、ありがたいと思うべきだろう。

 

 アルハイゼンは恋愛ごとなんてくだらないものに足を引っ張られていい人材じゃない。これですっぱり、はっきり、この気持ちとも決別できるというわけだ。むしろ、こちらの勝手な事情に巻き込んでしまったことを申し訳なく思うくらいだった。

 

「……そっか。いや、突然こんなことを言って悪かった。返事をしてくれてありがとう。勉強の邪魔をしてごめん」

 

「今日の講義はもう終わっている。邪魔にはなっていないが」

 

「そういう話じゃなくてさ。まあ、いいや。じゃあ、また」

 

「ああ。また明日」

 

 明日。その言葉に、少しだけ胸が軽くなる。告白したことで、これまでの友人関係まで失うかもしれないと覚悟していたのだ。アルハイゼンは、気の進まない相手と義理で付き合いを続けるような男ではない。もっとも、一度は「また明日」と言ってくれたからといって、以前と同じように接してもらえる保証はなかった。

 

 ところが翌日、講義室へ行ってみると、アルハイゼンはいつもの席で本を読んでいた。

 

「昨日の講義で出された課題だが、君の資料にはいくつか誤りがあった。提出前に確認しておいた方がいい」

 

「あ、うん。ありがとう。……それ、わざわざ持ってきてくれたのか?」

 

「昨日、君が持ち帰るのを忘れたんだろう。机に置いてあったから回収しておいた」

 

 そう言って差し出されたのは、書き込みだらけの資料だった。

 

 その後も、二人の付き合いは特に変わらなかった。一緒に食事をすることもあれば、図書館で偶然出くわして互いの研究について話すこともある。こちらが冗談を言えば、いつも通り容赦のない返事が返ってきたし、彼の方から声をかけてくることも珍しくない。

 話題の9割は研究関係だったが、残りの1割くらいは、ごく普通の友人同士の会話だったと思う。何を話したのかは覚えていない。覚えておくほどのことでもない、どうでもいい話ばかりだったのだろう。

 

 振られたことを除けば、実に平和な学生生活だった。

 アルハイゼンがこれまでと変わらず接してくれたおかげで、こちらも気まずい思いをせずに済んだ。ありがたいことだ。もし変に気を遣われていたら、きっといつの間にか友人から知人へと格下げされ、そのうち適当な誰かに「あの書記官とは昔馴染みなんだ」と自慢するくらいの関係になっていただろう。

 

 そうして月日は流れ、気がつけば六年が経っていた。

 

 教令院を卒業し、それぞれの仕事に就いてからも交流は続いている。アルハイゼンが書記官になり、あれこれと騒々しい事件に巻き込まれたあとも、二人の付き合いはさほど変わらなかった。

 

 アルハイゼンは交友関係が狭い分、一度親しくなると案外面倒見がいい。学生時代からそういうところはあったが、働き始めてからは仕事と私生活をきっちり分けるようになったので、かえって以前より個人的な話をする機会が増えた気がする。研究の話も相変わらずするけれど、あれはお互い趣味みたいなものだから、仕事の話には数えていない。

 

 少し前には、故郷の稲妻から大量の書物が届いた。鎖国が解かれて以来、実家からはあれこれ送られてくるようになったのだが、今回ばかりは量が多すぎて困ってしまった。家族も何を考えたのか、頼んだ覚えのない古い本まで詰め込んでくれたのである。おかげで部屋が箱だらけになり、見かねたアルハイゼンが仕分けを手伝ってくれた。

 

 休日を潰してまで付き合ってくれるとは思わなかったので、随分とありがたかった。本人は稲妻の書物に興味があっただけだと言っていたが、だったら持ち帰って読めばいいのに、最後まで整理に付き合ってくれたのだから、やはり親切な男なのだと思う。

 

「今度、稲妻にも遊びに来てくれよ。実家にはまだ古い本がたくさんあるし、君なら面白がってくれると思う。案内くらいはするからさ」

 

「そうだな。機会があれば行こう。稲妻の文献には、こちらで手に入らないものも多いからな」

 

「本当に? それなら家族にも伝えておくよ。君が来たら、きっと歓迎してくれると思う」

 

 そんな約束までしてしまった。

 書記官という立場上、そう簡単に国外へ出かけられるとも思えないので、まあ社交辞令のようなものだろう。それでも嬉しかった。あのアルハイゼンが、俺に対しては社交辞令まで言ってくれるのだから、大した進歩ではないか。

 

 トモツグ自身にも、この六年で多少の変化があった。学生時代の恋心を懐かしく思い出せるようになり、友人に当時の話をして笑うことさえある。あれほど好きだった相手なのに、時間というのは偉大なものだ。

 

 最近は知人に誘われ、独身者向けの交流会にも顔を出している。最初こそ身構えていたが、行ってみれば軽食をつまみながら仕事や趣味の話をする、ごく気楽な集まりだった。中には恋人探しそっちのけで、共通の趣味について熱心に語り合っている者までいる。

 

 何度か参加するうちに顔見知りも増えた。植物を育てるのが好きな女性とは休日に市場を歩いたし、商人の青年にはオルモス港の面白い店を教えてもらった。先日は何人かで食事に行く約束までして、休日の予定が以前よりずっと賑やかになっている。

 

 肝心の恋人は、残念ながらまだできていない。まあ、そう簡単に見つかるとも思っていなかったし、今のところは十分に楽しんでいる。学生時代には考えもしなかった休日の過ごし方だ。

 

 そんな話をアルハイゼンにしたのも、特に深い理由があったわけではない。以前借りた本を返しに行ったところ、夕食を食べていくよう勧められたので、ついでに近況を話しただけのことだった。

 

「それで、オルモス港の方で交流会があるんだ。せっかくだから参加してみようと思ってる。あっちの人たちとは仕事以外で話す機会が少ないしね」

 

「……また行くのか」

 

「うん? ああ、先月の集まりとは主催者が違うんだよ。今回は商人が多いらしい。教令院の学者ばかり集まる会より、話題が豊富で面白そうだろう? 君も一緒に行くか?」

 

 夕食を終えたばかりの食卓には、まだ食器が残っていた。

 アルハイゼンは向かいの席で本を読んでいる。先ほどからほとんどこちらを見ていないので、話を聞いているのかどうかも怪しかった。まあ、いつものことである。

 

「……俺は行かない。必要ない」

 

「だろうね。君の場合、誰かと付き合うことになっても、相手に合わせて生活を変えたりはしなさそうだ。……いや、案外そうでもないのかな。カーヴェさんとは上手くやってるみたいだし」

 

「君の目には、あれが上手くいっているように見えるのか」

 

「少なくとも、俺にはそう見えるよ。君が他人と同居するなんて、学生時代には想像もできなかったからね」

 

 軽い気持ちで言ったところ、アルハイゼンがようやく本から目を上げた。何か気に障ることでも言っただろうか。そう思った矢先、とんでもない言葉が飛び出した。

 

「ところで、君は少年にしか恋愛感情を持たない異常者ではなかったのか」

 

 危うく手にしていたカップを取り落とすところだった。

 

「……は?」

 

「違うのか。 君のこれまでの行動から判断する限り、成人した人間に興味を持っているとは考えにくいんだが」

 

「ちょっと待ってくれ。なんだって? 少年? どうして俺がそんなことになってるんだ!?」

 

 いったいどこからそんな話が出てきたのか。まさか教令院で変な噂でも流れているのだろうか。だとしたら、とんだ風評被害もいいところだ。

 

 しかし、こちらの困惑などお構いなしに、向かいの男は不愉快そうに眉をひそめている。

 

「俺のことを好きだと言ったくせに、成長した途端、歯牙にもかけなくなっただろう。単に興味を失っただけなら、その時点で伝えるのが最低限の礼儀じゃないのか。何も言わずに態度を変えられても、こちらには判断のしようがない」

 

「いや、待ってくれ、本当に待ってくれ。君が何に怒ってるのか全然わからないんだけど、ひょっとして六年前の告白の話をしてるのか?」

 

「ほかに何がある?」

 

「だって、あれは君に振られただろう!?」

 

 思わず声が大きくなった。だというのに、アルハイゼンは心底理解できないとでも言いたげな顔をしている。

 

「俺がいつ君を振った?」

 

「六年前だよ! 教令院の回廊で告白したとき! 君は今は恋愛のことを考えられないって言ったじゃないか。あれを振られた以外の何だと思えばよかったんだ?」

 

「『今は考えられない』という言葉は、その時点では考えられないという意味でしかない。どこに誤解の余地があるんだ」

 

 あまりにも堂々と言い切られたので、一瞬こちらがおかしいのかと思ってしまった。いや、そんなわけがあるか。

 

 アルハイゼンは頭がいい。学識も洞察力も飛び抜けていて、教令院でもその才能を疑う者はほとんどいない。ただし、昔から少々おかしなところはあった。そして今回ばかりは、それがとんでもない方向へ発揮されているらしい。

 

 頭のいい人間は、往々にして説明を省きがちだ。しかし、アルハイゼンは自分の頭脳が優れていることを十分に自覚しているし、相手が理解できていないと判断すれば、嫌がられようと延々と説明を続ける。義務を果たす圧が強い男だ。それなのに、どうして肝心なところだけ六年間も説明しなかったんだ?

 

「あのさ、アルハイゼン。確認させてほしいんだけど、ひょっとして君は、俺と交際していると……?」

 

「……少なくとも、そう認識するだけの根拠はあった。君は告白を取り消していないし、その後も俺との関係を続けていたからな」

 

「それは友人だからだよ! 好きな相手に振られたからって、今までの付き合いまで全部なくす必要はないだろう?」

 

「なるほど。君にとっては、恋愛感情を失ったあとも以前と同じ態度を取ることが、誠実な振る舞いというわけか」

 

 何だか話が嫌な方向へ進んでいる。

 

 ……いや、待てよ。もしかすると、これは出身国の違いなのかもしれない。

 

 稲妻生まれの自分にとって、恋人同士になるというのは、どちらかが「付き合ってください」と申し込み、もう一方が「はい」と答えるところから始まるものだった。もちろん例外はあるだろうが、少なくとも自分の周囲ではそうだったし、言ってしまえば一種の情報交換だ。双方の意思を確認して、初めて交際が成立するという認識でいた。

 

 ところが以前、フォンテーヌ出身の知人に聞いた話では、あちらでは必ずしもそうではないらしい。互いに好意を持ち、二人で出かけたり親密な時間を過ごしたりするうちに、わざわざ交際を申し込まなくても、いつの間にか恋人同士になっていることがあるのだとか。

 それで認識違いは起きないのかと尋ねたところ、むしろ何をそんなに確認したいんだと笑われてしまった。なるほど、文化の違いというのは面白いものだなあと思った覚えがある。

 

 もしかすると、スメールもそうなのだろうか。考えてみれば、稲妻は長らく鎖国していた島国だ。自分たちの方が少数派という可能性も十分にある。そう考えると、互いの認識が噛み合わなかったことにも、一応の説明がつく気がしてきた。

 

 ……いや、つくか? 「今は考えられない」と言われたら、普通は断られたと思っても仕方なく無いか……?

 

「そもそも、君が俺の告白を『一旦保留』として受け取ってたなんて知らなかったんだ。ましてや、そこから先の話が俺の知らないところで自動的に進んでるなんて、思いもしなかったよ。

そんな素振り、一度も見せなかったじゃないか。今まで何度も一緒に食事をしたし、君の家にも遊びに来てるけど、恋人らしいことなんて何ひとつしてないだろう?」

 

「君がそういう関係を望んでいるとは思わなかったから、無理に踏み込まなかっただけだ。だが、君が来る日は君の好きな物を用意していたし、休日の予定も君と過ごすために空けていた。俺が自分の私生活に他人を招き入れること自体、そう多くはないと知っているだろう。少なくとも、俺は君を恋人として扱っていたつもりだし、君以外の誰かと交際することも考えていなかった」

 

 そこまで聞いて、とうとう言葉が出なくなった。

 何しろ、振られたあとは心機一転ただの友人として付き合ってきた男が、どうやら自分とは相思相愛のつもりでいたらしい。頭を抱えたくなったところで、ふと以前聞いた話を思い出した。

 

「そういえば、君、前に教令院の上層部から縁談を持ちかけられてなかったか? あれはどうしたんだ?」

 

「断った。俺には必要のない話だったからな」

 

「……ちなみに、どういう理由で断ったんだ?」

 

「すでにパートナーがいるので必要ありません、と伝えた。それ以上の説明を求められる筋合いもないからな」

 

「…………」

 

 パートナー。

 誰のことか、なんて今さら考えるまでもない。ないのだが、念のため確認させてほしい。

 

「……あの、アルハイゼン。すごく言いにくいんだけど、それって俺のこと?」

 

「君以外に誰がいる?」

 

「それ、先に教えてほしかったなあ……!」

 

 思わず天井を仰いだ。

 この男のことは、昔からよく知っているつもりだった。他人の意見に流されず、自分の価値観に従って生きているところも、余計な社交を好まないところも、率直に物を言いすぎて誤解されがちなところも、気難しいところも、学生時代から少しも変わっていない。そんな男が、まさか盛大な認識違いを抱えたまま、今に至るとは。

 

「君は本当に、俺が君を特別扱いしていると気づいていなかったのか」

 

 言われてみれば、確かにそうだった。アルハイゼンは誰にでも親切な男ではない。教令院には彼を嫌っている者も大勢いるし、当人もまったく気にしていなかった。関わる必要のない相手には驚くほど無関心で、興味のない頼み事など平然と断る。

 

 とはいえ、根っからの嫌な奴というわけでもない。分かりにくいだけで案外親切だし、親しい相手にはほんの少しだけ態度が柔らかくなる。そんな可愛げを見つけてしまったからこそ、当時の自分は彼を好きになったのだ。

 

 ……確かに、あの頃のアルハイゼンはまだ成長しきっておらず、格好いいというより可愛いと言った方がしっくりくる外見をしていた。しかし、先に中身を好きになってしまったので、容姿についてはあまり深く考えていなかった。それが今になって牙を剥くとは、いったい誰が予想できただろう。俺は全く予測できなかった。その結果が今だ。

 

「……ごめん。俺、本当に何も気づいてなかった。でも、君も悪いと思うよ。言ってくれなきゃさすがにわからない。君の考えてることを全部察するなんて、俺には無理なんだから」

 

「そうか。では、今ここで言えば解決するのか? 俺は君を好ましく思っている。正式なパートナーだと思い違いをするくらいにな」

 

「……君、もしかして俺が他の人と付き合うと思って、嫌だったのか?」

 

「当然だろう。俺はついさっきまで君と交際していると思っていた。それなのに最近になって見合いのような集まりに参加し始め、あまつさえ俺にそれを勧めてきた。これをどう受け取ればよかった?」

 

「そうだったのか……。ごめん、本当に。君がそんなふうに考えてるなんて、夢にも思わなかったから」

 

「君は昔の俺が好きだったんだろう。学生時代の俺は、今ほど体格がよくなかった。君が告白してきた頃はまだ成長の途中だったからな。今の俺は、君が好んでいた頃の外見とはかなり違っている」

 

「……なるほど……だから、俺が少年にしか興味がないと思ったのか……」

 

「そう考えれば、君の行動にも一応の説明がつく。少なくとも、俺が思いついた中では最も矛盾の少ない仮説だった」

 

 なんてことだ。どうやらアルハイゼンは自分の恋人が重度の少年愛好家だと考えながら付き合っていたらしい。しかも成長とともに興味を失われたと思い込んでいる。いや、そもそも前提から両者の意識がずれていたのだが……。

 というか、六年前のアルハイゼンは確かに紅顔の美少年だったが、六年前の俺も普通に未成年の少年だったんだが……。少なくとも当時は少年と少年で年齢的には釣り合っていたはずじゃないか? 許されないか? 顔面格差的な問題で……。

 

「俺が君を好きになったのは外見が理由じゃない。もちろん綺麗な顔だとは思ってたけど、それだけで好きになるわけないだろう。今だって格好いいと思うし、そもそも君の顔がどう変わろうと関係ないよ」

 

「それは結構なことだな。だが、君が俺に関心を持たなくなったという事実は変わらない」

 

「関心がなくなったわけじゃないって! 君に振られたと思ってたから、もう諦めなきゃいけないと思ったんだよ。今だって君のことは好きだよ。友人としても、大切に思ってる」

 

「……そうか」

 

 アルハイゼンはそれきり黙り込んでしまった。膝に置いた本を見下ろしたまま、何やら考え込んでいる。

 

「……アルハイゼン?」

 

「……本当は、気づいていた」

 

「え?」

 

「君の態度が変わったことには、ずっと前から気づいていた。俺と話すときも、二人で食事をするときも、君は以前と変わらず楽しそうにしていたが……俺にそれ以上のものを求めることはなくなった」

 

 アルハイゼンは口を閉じた。いつもの彼なら、こんなところで説明を中断したりはしない。考えを整理できていないのか、あるいは口にすること自体が嫌なのか、トモツグには判断がつかなかった。

 

「……どうすれば、君の気持ちを取り戻せるのかわからなかったんだ」

 

「……アルハイゼン」

 

「だって君は、俺のことを好きだと言ったじゃないか」

 

 その声があまりにも頼りなく聞こえたので、思わず顔を上げた。

 

「友人としてではなく、恋愛感情を持っていると。あんなにはっきり言ってくれたのに……そんなにすぐ好きじゃなくなることがあるなんて、知らなかった。あの頃の俺は、まだ、幼かったから」

 

 アルハイゼンは俯いたまま、ぽつぽつと言葉を続けた。

 

「何がいけなかったのか、聞けばよかった。だが、君にもう好きではないと言われたら、どうすればいいのかわからないだろう。……君が俺のことを好きじゃなくなったと気づきたくなかっただけだ」

 

 トモツグは何も言えなかった。

 あのアルハイゼンが、こんなふうに言葉を探している。いつもなら相手が聞きたくないことまで遠慮なく口にする男が、たったひとつの答えを聞くことを恐れて、六年間も黙っていたというのだ。

 

「……君の言う通りだ。俺にも落ち度はあった。最初から確認しておけば、何年も無駄にせずに済んだんだ」

 

「無駄って、そんな……。君、顔を上げてくれないか? ちゃんと話したいんだけど」

 

「今はやめてくれ。少し考えたい」

 

 そう言われてしまえば、無理に話しかけるわけにもいかない。仕方なく口を閉じていると、アルハイゼンの膝に置かれた本の表紙に、ぽつりと雫が落ちた。彼はすぐに指先で拭い取ったが、そもそもどこから水が、と顔を上げたところで、ようやく気づいた。

 

「……えっ。アルハイゼン、君、泣いてるのか?」

 

「見ればわかることを聞くな。今の君には、これ以上説明するつもりはない」

 

「いや、そんな……! ちょっと待ってくれよ。ごめん、本当にごめん。君を泣かせるつもりなんてなかったんだ。ほら、ハンカチがあるから……」

 

「触るな」

 

「わかった、触らない。じゃあ、これだけ受け取ってくれないか? せめて顔を拭こう。……なあ、アルハイゼン、泣かないでくれよ。俺、どうしたらいいかわからないよ」

 

「……うるさい。少し黙っていてくれ」

 

 言われるままに口を閉じ、差し出したハンカチを恐る恐る目元に当ててみる。幸い、今度は拒まれなかった。

 

 大変なことになった。

 

 アルハイゼンが泣いている。しかも泣かせたのは俺だ。まさかこんなことになるとは思わなかったし、どう慰めればいいのかもさっぱりわからない。ただ、あのアルハイゼンが泣くということは、よほどのことをしたに違いない。認めよう。間違いなく俺が悪い。全面的に俺が悪い。

 

「……あのさ、もう少しだけ話をしてもいいか? 俺もまだ混乱してるけど、ちゃんと考えたいし、君の話も聞きたい」

 

 返事の代わりに手首を掴まれた。離そうとすると少し力が強まったので、仕方なくそのまま目元を拭いてやる。ハンカチはすっかり湿ってしまったが、涙はなかなか止まらない。

 

 俯いた顔を覗き込もうにも、こちらが動くと掴まれた腕まで引っ張られるので、椅子から半ば腰を浮かせた格好で世話を焼くしかなかった。

 

 どうしたものだろう。せめて何か言ってくれればいいのだが、今は黙っていろと言われているし、何よりアルハイゼンのこんな姿を前にして、気の利いた慰めの言葉なんて思いつくはずもない。

 

 そうして途方に暮れていたところで、玄関の扉が開いた。

 

「ただいま! ああ、今日は実にいい日だったな。やっぱり仕事が片付いた後の酒は格別……」

 

 帰ってきたのは、この家のもう一人の住人である。どうやらランバド酒場で一杯やってきたらしく、頬はほんのり赤く、足取りも普段より浮ついていた。片手に何やら紙包みを提げ、よほど上機嫌なのか、鼻歌まで歌っている。

 

 しかし、食卓の二人に気づくなり、ぴたりと足を止めた。こちらを見て、アルハイゼンを見て、もう一度こちらへ視線を戻す。その顔から笑みが消えたのは、彼がアルハイゼンの目元に気づいた瞬間だった。

 

「……な、な、なんだ!? アルハイゼン!? 君、どうしたんだ、その顔は! えっ、泣いてるのか!?」

 

「あっ、カーヴェさん。こんばんは。あの、ちょっと事情があって……」

 

「事情って、どんな事情だよ! 君、アルハイゼンが泣いてるんだぞ!? これはよっぽどのことだ! よっぽどのことがなきゃ、こんなことにはならないだろう!? どうしたんだ本当に!」

 

 そう叫ぶなり、持っていた紙包みを手近な椅子に放り出し、慌てて駆け寄ってきた。勢い余って食卓の脚に爪先をぶつけたらしく、一瞬顔をしかめたものの、それどころではなかったようだ。

 

 いきなり二人の間に割り込まれたので、こちらも反射的に身を引こうとした。しかし、相変わらず手首はアルハイゼンに掴まれたままである。しかも、カーヴェが近づいてきた途端、なぜか余計に力が強くなった。痛くはないが、どうにも逃げられそうになかった。

 

「おい、アルハイゼン。いったい何があったんだ? どこか痛いのか、それとも具合が悪いのか? 君がこんなふうになるなんて、ただ事じゃないぞ。何があったのか僕に話してくれないか?」

 

 普段なら、こうして顔を覗き込まれただけで嫌味のひとつも返す男である。ところが今夜に限っては、カーヴェが目の前に屈み込んでも文句ひとつ言わなかった。

 

 それどころか、少しだけ顔を上げると、涙で濡れた目を向けて、いかにも傷ついた様子で口を開いた。

 

「こいつが俺をいじめた」

 

 迷いのない一言だった。

 

「なんだと!?」

 

 カーヴェが勢いよく振り返る。酒のせいで赤かった頬が、今度は怒りでますます赤くなっている。

 

「こらー!! トモツグ、君はいったい何をしたんだ! こんなに泣かせるなんて、いくら何でもやりすぎだろう!」

 

「えっ、いや、待ってください! 違うんです、ちょっと誤解があって……!」

 

「何が違うっていうんだ! アルハイゼンが泣いてるんだぞ!? このアルハイゼンが! 君だってこいつとは長い付き合いだろう。こんなことになるまで何をしたんだよ!」

 

 それはこちらが聞きたい。

 いや、確かに泣かせたのは自分なのだが、アルハイゼンもアルハイゼンだ。何もそんな言い方をしなくたっていいだろう。さっきまであれほど理路整然と自分の主張を述べていたくせに、どうして今になって説明を丸ごと放棄するのか。しかも、よりによって酔っぱらったカーヴェに向かって。

 

 しかし、当のカーヴェはすっかり庇護者の顔になっている。アルハイゼンを背中に庇い、こちらを睨みつける様子は、実に頼もしかった。少なくとも、守られる側にとっては。

 

 普段は顔を合わせるたびに口論している二人だが、アルハイゼンが本当に困っているとなれば、カーヴェは迷わず味方につくのだろう。その優しさは素晴らしいと思う。できれば自分も、その恩恵にあずかる側でありたかった。

 

 おまけに、カーヴェが割り込んできたせいで、こちらはますます無理な姿勢を強いられていた。椅子から腰を浮かせ、食卓の端から身を乗り出し、掴まれた腕をどうにか伸ばしている。うっかり身体を捻ろうものなら腰を痛めそうだし、かといってアルハイゼンの手を振りほどく勇気もない。

 

 そもそも、自分はここまでの罪を犯しただろうか。犯した気がする。

 

 少なくとも、アルハイゼンの立場からすれば、六年間も弄ばれた挙げ句、捨てられたようなものなのかもしれない。こちらにも反論の余地は大いにあるが、現在、教令院の歴史上でも指折りに頭のいい男二人から責められている状態なので、何を言っても負ける未来しか見えなかった。

 

 しかも片方は泣いているし、もう片方は酔っぱらっている。最悪の組み合わせだった。 

 

「カーヴェさん、本当に違うんです。俺たちはちょっと話し合いをしていて、それで行き違いがあったというか……。とにかく、わざと泣かせたわけじゃないんですよ!」

 

「だったらどうしてこんなことになってるんだ! 君たちは二人とも学者だろう。相手を泣かせるほど感情的にならなくても、きちんと対話することくらいできるはずじゃないか!」

 

 まったくもって正論だ。しかし、その話し合いをした結果がこれなのである。おまけにカーヴェは酔っぱらっているし、こちらが何か言おうとするたびに、ますます説教に熱が入ってしまう。実に厄介なことになった。

 

 とはいえ、善意から叱ってくれているのは間違いない。ここまで真剣にアルハイゼンを心配している相手を邪険にもできず、仕方なく本人へ助けを求める視線を向けた。

 

「……アルハイゼン。君からも何か言ってくれないか? 俺の説明じゃ、どうも信じてもらえないみたいだから」

 

「君が俺をいじめたのは事実だろう。そこに訂正の余地があるとは思えないが」

 

「お互いに悪かったってことで仲直りしようよ~~……」

 

 情けない声が出た。

 まったく、いつまで経っても話が進まない。カーヴェはすっかりこちらを悪者だと思い込んでいるし、肝心のアルハイゼンまでその誤解に便乗している。しかも、いつの間にか泣き止んでいたらしく、カーヴェの酔いと正論が入り混じった説教に身を縮めるこちらを眺めて、ふん、と鼻で笑った。

 

 ……なんだ、笑えるじゃないか。

 

 少し腹立たしいが、とりあえず機嫌は持ち直したらしい。それならまあ、よかったことにしておこう。こちらとしても、いつまでも泣かれているよりはずっといい。

 

 それにしても、今夜は長くなりそうだ。六年前の話はもう十分したのだから、そろそろこれからの話をしたい。たとえば、俺がもう一度告白したら何か変わるだろうか、とか。

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