家に帰る途中、カーヴェは今日こそ早く寝ようと決めていた。ここ数日は仕事場に泊まり込んで図面を仕上げていたし、昨夜など椅子に座ったまま眠ってしまい、起きたら首がひどいことになっていた。
依頼主からは完成した設計をいたく気に入ってもらえたので、それだけは救いといえる。最後の最後で玄関の柱をもう少し豪華にできないかと言われたときには、さすがに頭を抱えたものだが、そこは意地と気合いで何とかした。心身ともにボロボロな気分だ。途中で酒でも飲んでやるかと思ったが、そんな元気も今はない。
そんなわけで、ようやく帰ってきた我が家である。正確にはアルハイゼンの家だが、家賃を払っている以上、我が家と呼んだって構わないだろう。せめて今夜くらいは気分よく過ごしたい。できれば同居人とも顔を合わせずに済ませたいところだが、あいにくそういう願いに限って叶わない。
玄関に近づいたところで、扉の向こうから話し声が聞こえてきた。
「そういえば、今日はきみのところのヒステリックプンプン風スライムは帰ってきてるかな。しばらく見ていない気がするんだけど」
「確認していない。三日前は生きていた」
聞き覚えのある声が二つ。片方はアルハイゼンで、もう片方もよく知っている人物のものだった。
それにしても、ヒステリックプンプン風スライムとは何だろう。風スライムは知っている。スメールの街道でもたまに見かけるし、昔、野外調査に出かけた際には荷物をひっくり返されたこともあった。しかし、ヒステリックプンプンという種類については聞いた覚えがない。そもそもスライムにそんな名前をつけるものなのか。まさかアルハイゼンが飼育でも始めたのだろうか。魔物だぞ。
あの男の趣味に口を出すつもりはないが、生き物の世話などできるのか少々疑わしい。三日前に生きていたという返事も、飼い主としてはどうなのだろう。
そんなことを考えながら扉を開けると、居間の卓を挟んで座っていた二人がこちらを見た。いつもの椅子で本を読んでいるアルハイゼンと、その向かいで分厚い書物を広げているザーミル。教令院の学生だった頃からの知り合いで、最近も仕事の相談などで顔を合わせることがある。
人当たりがよく、学者特有の気難しさもあまりない男だ。まあこれはカーヴェから見た場合の話で、他の人間がどう思っているかまでは知らない。先に口を開いたのはアルハイゼンの方だった。
「居たぞ。探していたんだろう、ちょうど帰ってきた」
「おお、帰ってきたのか。よかったよ、実はきみに聞きたいことがあったんだ。この前の講義で紹介していた建築様式についてなんだけど、古い資料を調べていたら気になる記述を見つけてね」
「……待ってくれ。さっきの会話は何だったんだ?」
思いがけず話を振られたせいで、危うく聞き流すところだった。
「さっきって、アルハイゼンと話していたこと? それなら特に重要な話はしていないよ。ああ、講義のことなら、この本を見てから聞こうと思ってたんだ」
「違う! ヒステリックプンプン風スライムの話だよ! 君たち、さっき確かにそう言っていただろう!?」
「ああ、うん。そうだけど」
「……まさかとは思うが、それは僕のことじゃないだろうな?」
「そうだよ。ほら、ここなんだけど」
「そうだよ!?」
あまりにあっさり肯定されたので、思わず聞き返してしまった。
冗談にしてもひどすぎる。これでもスメールでは名の知られた建築デザイナーなのだ。ヒステリックプンプン風スライムなどという、何ひとつ褒めるところのない呼び名で扱われる筋合いはない。
救いを求めるつもりは毛頭なかったが、とりあえずアルハイゼンを見た。いつの間にか視線は本に戻っており、まるで自分には関係のない話だとでも言いたげな態度を取っている。
「アルハイゼン! 君も君だ! 普通はそんな呼び方を聞いたら、少しくらい訂正するものじゃないのか!?」
「俺は君の呼び名について何も言っていない。ザーミルに帰宅しているか尋ねられたから、知っている範囲で答えただけだ。呼称の適切さについて意見を求められた覚えはないな」
「何だよその言い草は! 大体、三日前に生きていたって何なんだ! 僕が死んでいる可能性を考えていたのか!?」
「三日前の時点で生存を確認していたという話だ。それ以降は顔を合わせていない以上、確実なことは言えないだろう」
もう嫌だ、こいつ。
口を開けば開くほど腹が立つ。こんな人間と何年も付き合いがあるなんて、我ながら信じられない。
「まあまあ、カーヴェ。元気そうで安心したよ。それで、この本の三十七頁を見てもらえるかな。回廊の断面図が載っているんだけど、どうしても納得できないところがあってね」
「君も少しは悪びれたらどうなんだ! 僕に失礼な名前をつけておいて、何事もなかったように質問を始めるなんて!」
「まあまあ、落ち着いてくれよ。俺は風スライムのこと結構好きだよ。ほら、この図だと柱の配置が左右対称になっているのに、本文では片側だけ屋根の勾配が違うと書かれている。これ、写し間違いじゃないかな」
「……どれ?」
差し出された本を覗き込むと、確かにおかしなところがあった。
古いスメールの建築物を扱った資料らしい。図面の細部はかなり省略されていたが、構造そのものはよく知っている形式で、以前にも似たようなものを調べた覚えがある。問題の箇所にはわざわざ印までつけられており、ザーミルが何を疑問に思ったのかもすぐに理解できた。
「これは写し間違いじゃないよ。ほら、こっちの図を見てごらん。梁の位置が少しずれているだろう? この建物は敷地の形に合わせて設計されているんだ。左右対称に見えるけど、実際には片側の奥行きが違うから、屋根の勾配もそれに合わせて調整されているんだよ。それに、図面上の正面はこっちだけど、実際には道から見えるこちら側を正面として設計したんじゃないかな? 周辺の地形や道の位置も関係しているだろうし、当時の地図と照らし合わせてみると、もっとわかりやすいと思うよ」
「なるほど。でも、それならこちらの柱をもっと内側に寄せた方が合理的じゃないかな。そうすれば屋根の荷重も均等になると思うんだけど」
「構造だけを考えるならね。でも、建築はそれだけじゃないんだ。ここは人が通る場所だから、柱を内側に寄せると通路が狭くなる。それに、この時代の建築では日差しの入り方も重要だったんだよ。実際に建物を見ればわかると思うけど、午後になると回廊の内側に影が落ちるようになっていて……」
説明しながら手近な紙を引き寄せ、簡単な図を描いた。
こういう話になると、つい熱が入ってしまう。ザーミルも質問の仕方がうまい。こちらが説明したことをすぐに理解し、さらに疑問を重ねてくるので、話していてなかなか楽しかった。途中で別の資料まで持ち出すことになり、気づけば卓の上には本が何冊も積み上がっていた。
アルハイゼンは途中で席を立ったらしく、いつの間にか姿が見えなくなっていた。あの男が他人の学術的な議論に興味を示さないとは考えにくいが、専門外の話に付き合う義理もないと判断したのだろう。まあ、いなくなってくれた方が余計な口を挟まれずに済む。
「ありがとう、カーヴェ。やっぱりきみに聞いて正解だったよ。これでようやく先に進めそうだ」
「それならよかった。興味があるなら、今度実物を見に行くといい。資料だけではわからないことも多いからね。古い建物でも、現地に行ってみると意外な工夫が見つかったりするものさ」
「ぜひそうするよ。ああ、そうだ。せっかくだし、今夜は一緒に食事でもどうかな。しばらく忙しそうだったし、久しぶりにゆっくり話したいんだ。もちろん俺が奢るよ」
「そうだな、今日は仕事も片づいたし……」
そこまで言って、ふと思い出した。
ヒステリックプンプン風スライム。
危ないところだった。危うく何事もなかったかのように食事の誘いを受けるところだったではないか。
建築の話ができたおかげで仕事の疲れもいくらか軽くなったし、今は思い出した怒りのおかげですっかり元気になっている。
ザーミルは昔から、時々こちらに失礼なことを言う男だった。もっとも、アルハイゼンのように嫌味ったらしいわけでもなく、本人に悪気があるようにも見えないので、ついつい許してしまっていた。
だが、考えてみればそれがよくなかったのかもしれない。何を言っても怒られないと思われているのなら、ここらできちんと抗議しておく必要があるだろう。
よし、今夜は徹底的に問い詰めてやろう。
そう決めて、カーヴェはにっこり笑った。
「いいとも。ぜひご一緒させてもらおうじゃないか」
その日の夜、ランバド酒場にはすこぶる機嫌の悪い建築家がいた。
「まったく信じられないよ! ヒステリックプンプン風スライムだって!? よくもまあそんな失礼な名前を思いついたものだ!」
卓に置かれた酒杯は、すでに何度か空になっている。目の前には香ばしく焼かれた肉と、注文したばかりの料理が並んでいた。食事は実に美味しかったし、酒も悪くない。奢りだというので遠慮なく頼ませてもらったが、財布を気にせず飲めるというのはなかなか素晴らしいものだ。ただし、名前の件については別である。
「しかも君、僕があれだけ抗議したのに完全に無視して質問を始めただろう! こっちはまだ何ひとつ納得していないんだぞ!」
「いやあ、助かったよ。あの本の記述がずっと気になっていたんだ。おかげで疑問が解けたし、今度の休みには現地まで足を運んでみようと思ってる」
「それはよかったね! 僕だって教えた甲斐があったよ! でも今はその話をしているんじゃない!」
向かいの男が楽しそうに笑っている。
ザーミルという人間は、昔からこういうところがある。基本的には親切だし、人の話もよく聞いてくれる。何か困ったことがあれば手を貸してくれるし、頼み事をすれば嫌な顔ひとつしない。実際、仕事で忙しくしていたときには差し入れを持ってきてくれたこともあったし、金も借りている。返したけど。
本当に困りきっていたあの時、借金の申し出をしたらその場でドンと貸してくれた。返した時には「人に金を貸す時はあげるつもりでやれという家訓で」となかなか受け取らなかった。本当に優しくて良い奴だ。人が良すぎて心配になってしまう。誰かに騙されやしないだろうか、もしものときは僕を頼ってほしい。腕っぷしにはあまり自信がないけれど、幸い交友関係は広い方だ。何かあっても、きっと力になれると思う。知り合いには少々偏りがあるので、あらゆる手順をすっ飛ばして、いきなり大マハマトラに協力を求めることになるかもしれないが……いや、違う! 僕は今、怒っているんだぞ!
しかし、ザーミルはこちらが真剣に抗議しているときに限って、なぜか嬉しそうな顔をするのだ。
「愛情のこもったニックネームなのに、そんなに嫌かな。俺としてはかなり気に入ってるんだけど」
「ヒステリックもプンプンも風スライムも、全部マイナスイメージじゃないか! 一体どこに愛情がこもっているんだよ!」
「風スライムは可愛いだろう? 丸くて、ふわふわ浮いていてさ。特に怒って膨らんでるところなんか、見ていて飽きないよね」
「君は風スライムに襲われたことがないのか!? あいつら、可愛い顔をしていても結構危険なんだぞ! それに、どうして僕とスライムを同列に扱うんだ!」
「俺が可愛いと思ってるからいいだろ。きみが怒っているところ、結構好きなんだよ」
「……本当かなぁ?」
「本当だよ。これまで一度だって、きみのことを可愛くないと思ったことはないけど」
さらりと言われて、返事に困った。
可愛い、という言葉が嫌いなわけではない。美しいものは好きだし、自分の容姿だって、それなりに気を遣っているつもりだ。服装にも装飾品にもこだわりがある。何より、他人から好意的に評価されるのは嬉しいことで、わざわざ否定する理由もない。
ただ、成人もとっくに過ぎた男に向かって可愛い可愛いと言うのはどうなのだろう。それも、怒っているところが好きだなんて。
「……まあ、可愛いならいいか」
「そうそう。少なくとも俺は褒めてるつもりなんだから、そんなに怒らなくてもいいと思うよ」
「いや、よくないな。そもそも、君の『好き』は『可愛い』に依存する感情だからね。僕が可愛くなくなったらどうするつもりなんだ? そのうちもっと可愛い風スライムを見つけて、そっちに夢中になるんじゃないのか?」
「そんな心配をしてたの? それなら安心していいよ。俺が好きなのはきみなんだから」
「……そういうことを、君は本当に気軽に言うよな」
酒杯を持ち上げ、中身を飲み干した。
何とも落ち着かない気分になる。別に、嫌なことを言われたわけではない。それどころか、よく考えればかなり嬉しいことを言われている気もする。なのに、どうしてこう素直に喜べないのだろう。おそらく、本人があまりにも楽しそうだからだ。
軽薄だ。軽薄だぞザーミル! きみがそんなんだからなぁ~~……と、どんどん自分の言葉もあやふやになっている。まだ自覚があるので酔ってない。思考はいつも通り冴え渡っている。口が回らないだけだ。
もう一杯、と酒を注文した。
さすがに少し飲みすぎかもしれないとも思ったが、今夜は財布の心配をする必要がないし、明日は急ぎの仕事も入っていない。たまには羽目を外したっていいだろう。
そう思っていたのに、次の酒を飲み終える頃には、どうも頭がうまく働かなくなってきた。
向かいから何か話しかけられたので返事をしたが、何を聞かれたのかよく覚えていない。途中で笑われた気もする。失礼な話だが、もう抗議するのも面倒くさかった。
卓に肘をつき、頬杖をつく。灯りが少し眩しい。周りの客の話し声や食器の触れ合う音が、やけに遠くから聞こえてくる。
「……ザーミル」
「うん? どうしたの、カーヴェ。そろそろ帰ろうか。今日はもうずいぶん飲んだだろう」
「きみはさあ……僕のことが好きなんだよなぁ?」
「もちろん。昔から何度も言ってるじゃないか。忘れちゃった?」
「忘れてないよぉ。僕だってちゃんと覚えてるさ……。でも、きみは時々ひどいことを言うからね。僕のことをスライムなんかに例えて……」
何を言おうとしていたのだったか。
そうだ、可愛いという話をしていた。ザーミルが自分のことを可愛いと思っているとか、怒っているところが好きだとか、そんな話だったはずだ。
まったく変わった男だと思う。怒っている顔なんて、普通はあまり見たいものじゃないだろうに。少なくとも、カーヴェ自身は好きな相手にわざわざ不愉快な思いをさせたいとは考えない。
でも、まあ。本人がそれで喜んでいるなら、仕方がないのかもしれない。
「……きみがぼくをすきなら、それでいいや」
「うん。好きだよ、カーヴェ」
「じゃあ、いい……。でも、ヒステリックプンプン風スライムは、ちょっと長すぎると思うんだよねぇ……。呼ぶのも面倒だろうし……」
「そうかな。俺は結構、語呂がいいと思うけど」
「よくないよぉ……。もっと……もっといい名前があるだろうに……」
何か言い返された気がするが、もう聞き取れなかった。
腕を組んで卓に伏せる。眠い。こんなところで寝てはいけないのはわかっているし、ザーミルにも迷惑をかけるだろう。せめて椅子に座り直そうと思ったものの、どうにも身体が言うことを聞いてくれない。
とりあえず少しだけ目を閉じよう。少し休めば、きっと起きられる。
そう思いながら顔を横に向けると、まだこちらを見ているザーミルと目が合った。
いつものように笑っているのかと思ったが、少し違った。何だかずいぶん優しい顔をしている。こんな顔もするんだなあ、とぼんやり眺めているうちに、何となく触れてみたくなった。
卓の向こうへ手を伸ばすと、こちらの意図を察したのか、ザーミルが少し身を乗り出してくれた。おかげで苦労せずに頬へ手が届く。指先に触れた肌は思っていたより温かく、少しだけ面白かった。
「……きみはいじわるだけど、やさしいよな」
「そう? さっきまで散々怒られていたから、てっきり嫌われたのかと思ってたよ」
「そんなこと言ってないだろう……。きみはすぐ、僕のことをからかうけどさぁ……」
頬を撫でると、ザーミルが目を細めた。
昔からこういうところは好きだった。人の話をちゃんと聞いてくれるし、困ったときには助けてくれる。今日だって散々失礼なことを言われたけれど、こうして美味しい食事をご馳走になっている。今も、酔っ払いの気まぐれに嫌な顔ひとつせず付き合ってくれていた。
「……ずっとやさしければ、ずっとすきなのにさ」
ぽつりとこぼすと、頬に添えていた手をそっと取られた。
「それは困ったな。俺としては、明日もきみに好きでいてほしいんだけど」
「だったら……もうちょっと、やさしくしてくれよぉ……」
「うん。努力するよ」
あまり信用できない返事だったが、今はもう文句を言う元気もない。手を引っ込めようとしたところで大きなあくびが出て、すっかり眠くなってしまった。
「……おやすみ、ザーミル……」
「おやすみ、カーヴェ。帰るときには起こすから、ゆっくり寝てていいよ」
その声を聞きながら、卓に突っ伏した。まあ、今度またあの名前で呼ばれたら、絶対に怒ってやろう。
そこまで考えたところで、とうとう眠気に負けてしまった。
しばらくして、卓の向こうから小さな笑い声が聞こえた。
「……本当に可愛いなあ」
もちろん、返事はなかった。
すっかり眠り込んでしまったカーヴェの前から空いた酒杯を片づけ、店員に水を頼む。ついでに勘定も済ませておいた。帰り道で起きてくれればいいが、駄目なら家まで送ってやるしかない。
卓に伏せたままの金髪が、呼吸に合わせてかすかに揺れている。頬にはまだ酒の赤みが残っており、先ほどまで散々文句を言っていた口は、今ではすっかりおとなしくなっていた。そっと髪を耳の後ろに寄せても、起きる気配はない。
「……さて、どうやって連れて帰ろうかな」
ザーミルは頬に残る感触を思い出し、つい笑ってしまった。
明日の朝、目を覚ましたカーヴェはどんな顔をするだろう。昨夜のことを覚えていたら、きっとまた賑やかなことになる。それも悪くない。
目の前で眠る金髪をそっと撫でながら、次は何と呼んでやろうかと考えた。どちらにしても、楽しみだった。

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