ロマンチックは届かない

 近くで騒いでいた同僚生が、ぴたりと動きを止めた。
尻尾を逆立て、耳を伏せ、出口までの距離を測るように目だけが忙しなく動く。サバナクローの連中にしては珍しく衝動的ではない理性的な行動だった。絶対に巻き込まれたくない、逃げ切る。そういう気概を感じる。
 つまり、俺の客が来たってことか。対象が見えないラインを超えた瞬間から、飛び散るように寮生が逃げていく。そんなものを気にもとめず、不法侵入者は俺だけをみて嬉しそうに微笑んだ。

 クラスだったら別に良いが、こいつはどうやってサバナ寮の内部にまで入り込んでいるんだろうな……。サバナからポムへの転寮までの間で、どこかに隠し通路的なものを発見したか新たに作り出したのかもしれない。
 瞬きする度にぐんぐんと近づく怪異のような勢いで近寄ってくるが、サバナにいた頃は風を切る音が聞こえるような勢いで飛びついてきていた。今はすっかりポム色に染められて、まるで踊るように優雅な動きだ。それで超スピードで接近するんだから前より怖い。

ナマエ! ああ、モン・シェリー! 君の時間をほんの少しだけ私に分けてほしいんだ!」

「いいけどさあ、来る前に連絡いれろよ」

「すまないね、はやる気持ちが抑えきれなくて……。君を想うと私の心は春の牡鹿のように浮き足立って制御が出来ないんだ」

「モン・シェリーってなに」

「君のことだよ!」

「対話しろや」

 俺はかつて、こいつがここにいたほんの少しの間だけルークと相部屋だった縁があって、そこそこ仲が良い。“そこそこ”という言葉がどれほど遠慮がちか、本人に伝わったことは一度もないが。

 ルークの知りたがりは、実家の妹の「ねえねえなんでなんで?」攻撃と同じ類のものだ。入学したばかりで、妹の“ねえねえなんでおしえてこたえてお兄ちゃんが返事してくれないママお兄ちゃんが虐めるうぎゃー!” の攻撃から逃れたばかりの俺は、完全に麻痺っていた。妹(5歳)よりも5億倍は理性的に話が出来るので、ルークの“あれはなにこれは何君はどう思うんだい”の質問攻めも、特に機嫌を損ねることなくだいたい全部答えてやった。

 だが他のサバナ寮生は違う。短慮で短気、好奇心を煽られると牙を剥く連中ばかりだ。そりゃあ、あいつらがルークに構うわけもない。案外面倒見がいいやつも多いが、その面倒見は“喧しい同級生”のルークには発揮されなかったみたいだ。

 そこでへこんだりしたら可愛いものだが、ルーク・ハントはルーク・ハントなので結果はご覧の通り。逃げる獲物を追い立てて狩りとり、欲しい情報だけ全部抜いて捨てる。

 結果、めちゃくちゃ怖がられた。転寮した今も、顔を出しただけで逃げる奴がいる。まるで幼児の「おばけこわい」と同じ反応だ。
5歳児もルークも、逃げなきゃ追ってこないのに。馬鹿だな、ほんと。

「俺の部屋行く? それかどこか行きたいとこでもあるのか」

「君となら世界の果て、星の落ちるところまで共に行きたいね。うん、でも今日はお邪魔しよう。君の香りに包まれて過ごしたいんだ」

「残念朝からずっと換気してるから無臭」

「防犯上いかがなものかと思うよ。次から部屋の中で待っていていいかな」

「なんで良いと思ったんだやめろ」

 なんでこいつ、模様替えして置き場所を変えたのに迷いなく自分用のブランケットを持ってこれるんだろうな。そもそもなんで私物を俺の部屋に……いいけど……。
 見覚えのない茶器に、知らないうちに増えた紅茶。見覚えのある字で美味しいれかたのメモが付けられている。
はあ〜〜? 蒸らすの〜〜? 面倒くさ……。水でよくない? 助けてくれ面倒過ぎる。水で許してくれよ。

「ふふ、」
「なに」

 俺が嫌々紅茶と戦っていると、ルークは勝手知ったる人の部屋とばかりにソファで優雅に脚を組んで笑っていた。笑い方まですっかり上品になりやがって。いや、前からか?
 サバナにいた時も、身嗜みこそ俺らと同じだったが、所作だけはずっと綺麗だったな。

「細かい作業も、時間のかかることも嫌いなのに。私のためにありがとう!」

「わかってんならこれ置いてくのやめろや~~。アポなしお客様にこんな厚遇、俺くらいしかしてくれないからな」

「それは私がナマエにとって特別だから?」

「特別だから」

 転寮したあともわざわざ会いに来てくれる友達なんて、特別だろうが。俺って情に厚い良いヤツ。そう続けて、美味いか不味いかもよくわからない紅茶の完成で顔を上げる。
 さっきまでベッドにいたはずのルークが目の前にいて叫びかけた。近い速い怖い! 気配を消して移動するのはやめろ!!

「私にとってもナマエは特別だよ。ねえ、どうすれば伝わるのかな」

「お、おう……?」

 唐突な言葉に、返事の仕方を一瞬忘れた。文句のひとつでも言ってやろうとしたのに、口を開いた瞬間、声が詰まった。ルークの顔が、見たことのないかたちをしていた。

 普段のルークは、感情の輪郭があいまいだ。笑う時も、怒る時も、どこか“舞台の上”にいるようで、現実の足が地に着いていない。
 そのくせ人の本心はよく見抜くくせに、自分の心を見せるのは決まって“冗談”の仮面を被っている時だ。
 だからこそ、その仮面が少しでも揺らぐと、こちらの方が戸惑う。
今の顔は痛みに耐えている人間の顔だった。

 その一瞬がルークらしくなくて、突発的に生まれた怒りなんて、どうでもよくなってしまった。ルークも人間だったのか! なんて、失礼な冗談すら言えない。

「お前、大丈夫か。なにか悩みでもあったから来たのかよ。話聞くぞ?」

「ふふ、悩みはつきないよ。私もお年頃だからね」

 軽く笑ってみせる。けれど、声の奥が乾いている。張りのある声を無理に立てているようで、明るさがうす皮みたいに剥がれかけている。
 ルークが“わかりやすい”なんて、ありえない。それ自体がもう、異常事態だった。

「だめっぽいな」

「君の目からはそう見えるのかい」

「本当に悲しそうだ」

 言いながら、気づけば手が伸びていた。
ちょうど目の前にある顔を、両手で包むように挟み込む。思ったよりも冷たい。けれど、その冷たさが妙に現実的で、離せなかった。

 ルークはわずかに瞬きをして、そのあと、頬を俺の手に擦り寄せるようにして目を閉じた。深く息を吐く。その息が指先をかすめて、やけにあたたかい。

「ああ、モン・シェリー。君はひどいひとだ」

「だからモン・シェリーってなんなんだよ」

 くすくすと笑う声が、紅茶の湯気と一緒に消えていく。笑っているのに、どこか泣き出す寸前のような音だった。
 その一瞬をどう処理していいのか分からなくて、気の利いた言葉を探して視線だけが泳ぎまくる。手の位置も変えた方がいいか? ずっとほっぺたモチモチしてるのもおかしいよな??

 これだけ綺麗な人間にも、悩みってのはあるんだな。現実逃避にそう思ったときにはもう、ルークはいつもの距離に戻ってカップを持ち上げ、ひと口だけ紅茶を啜った。

 何も言わず、立ち上がる。去り際の仕草はいつも通り優雅で、扉を閉める音まで静かだった。

 残されたのは、紅茶の香りと、なにかが確かに起こったという感覚だけ。
 半分フリーズしたまま、まだ温かいカップを見つめながら息をついた。

 ……なんだったんだ、あいつ。人の感情だけめちゃくちゃにして出てったぞ。……まあ、いつものことか。