俺は、しっかりした子供だったらしい。自分ではそんなつもりはなかったけれど、母さんも父さんも、学校の先生も、親戚のおばさんも、だいたい同じことを言った。
聡くんはしっかりしてるから。聡なら一人でも大丈夫だから。聡は手がかからなくて助かる。褒め言葉だったのだと思う。
実際、他人からそう言われると母さんは少しだけほっとした顔をしたし、父さんも俺の頭を撫でた。だから俺も、しっかりしている方がいいのだろうと理解していた。
兄貴は頭がよかった。学校の成績という意味でも優秀だったし、本当にいろんなことを知っている。俺が小学生の頃、理科の宿題で月の満ち欠けが分からないと言ったら、丸い菓子パンと懐中電灯を持ってきて説明してくれたことがある。
途中で弟が菓子パンを食べようとして兄貴に怒られていたので、月がどうして欠けて見えるのかより、半月になったパンを弟が勝手に食ったことの方をよく覚えている。
ただし、兄貴は身体が弱かった。調子のいい日は普通に学校へ通えるものの、駄目な時は一週間どころか一か月近く入院する。退院した翌週にまた熱を出すことも珍しくなく、家にはいつも入院用の鞄がひとつ準備されていた。
弟は反対に身体だけはやたら丈夫で、その元気をもう少し兄貴へ分配できないものかと思うくらいだった。ついでに甘えん坊である。幼稚園の頃は俺が家を出ようとすると玄関まで追いかけてきて、俺が小学校、弟が幼稚園へ行っていた一年なんかは、ほぼ毎朝ランドセルへしがみついた。
「にいちゃんといっしょにいくううう。おれもしょうがっこういくううう」
母さんが引き剥がそうとすると、ランドセルごと俺が後ろへ引っぱられる。教科書入りのランドセルだけでも小学一年生には十分重いのに、そこへ幼児一人を追加されたらたまったものではない。それでも嫌だった記憶はなく、仕方ないなあと思っていたし、鼻水まで垂らして泣いている弟は正直にいってかわいかった。
今日は図工があるから帰ったら絵を見せてやる、と約束すると納得してくれる日もある。その五分後には幼稚園へ行きたくないと母さんにしがみついていたので、結局のところ行き先はどうでもよく、俺についていきたかっただけなのだろう。俺と一緒なら小学校だろうが会社だろうが火星基地だろうが構わなかったに違いない。
そんな弟と、いつまた病院へ行くか分からない兄貴がいたため、俺は自然と後回しになった。参観日のプリントを出す時は兄貴の診察日と重なっていないか確認してから渡したし、運動会も似たようなものだった。
熱が出れば自分で体温を測り、三十八度を超えていなければひとまず寝る。一度だけ夕方になっても下がらなくて母さんへ連絡したところ、兄貴の検査結果を聞いている最中だったらしい。電話の向こうで何度も謝られて、俺の方まで申し訳なくなった。
「大丈夫。寝てるから。水あるし、薬も前にもらったやつあるよ」
子供に飲ませる薬なんて前にもらったものを勝手に飲んでいいのか、今になって考えるとちょっと疑問ではある。その時は母さんが安心したので、俺的には正解だった。
夜になって父さんがゼリーとスポーツドリンクを大量に買って帰宅し、翌朝には熱も下がった。弟は俺の枕元へお気に入りの恐竜を三体並べてくれた。本人なりのお見舞いらしい。普段は絶対貸さないティラノサウルスまで置いていったので、俺としてはむしろいつもより待遇がよかった。
そういうことが積み重なり、俺はますます「しっかりした子」ということになっていった。
祖父母の家には弟と一緒によく預けられた。母さんが病院へ泊まり込む日、父さんまで仕事で帰れない夜。電車で四駅先にある祖父母の家は、当時としてもだいぶ古い一戸建てだった。
祖母は何かにつけて食べ物を出す人で、学校帰りに寄れば夕飯前なのに焼きおにぎりが出てくるし、風呂から上がる頃には果物を剥いて待っている。高校生になってから「そんなに食べられない」と言ったら量は減ったが、今度は一つ一つが高級になった。なぜそこを改善するのかは分からない。
祖父は若い頃から本が好きだったらしく、一階の奥に小さな書斎を持っていた。俺が生まれた頃には出版社の新刊は完全に電子書籍へ移行しており、紙の本なんて古本屋か保存図書で見るものになっていた。それなのに祖父の書斎だけは壁一面が本で埋まり、背表紙が日焼けしたものや、ページの端が黄色くなったものまで平然と並んでいる。
最初は漫画を探していた。家の電子書籍ならいくらでも読めたけれど、家族用アカウントでは何を買ったか履歴に残るし、子供用の端末は新しい作品を開くたび保護者へ通知が飛ぶ。別に読んではいけないものを探していたわけではない。ただ、自分が何を読んでいるのか全部母さんたちへ知られるというのが、なんとなく嫌だっただけだ。
そこで見つけたのが、やたら長い題名のついた小説だった。表紙には剣を持つ男と、胸の大きな女の人が描かれている。隣にも似たような本。そのまた隣にもある。棚一段どころか二段くらい、そんな本ばかり詰まっていた。
「じいちゃん、これ何?」
祖父は老眼鏡を少し下げて表紙を確認し、それから妙な間を置いた。孫には発掘されたくなかった青春だったのかもしれない。
「……昔流行った小説だよ。小説投稿サイトっていうのがあってな。そこから本になったやつ。じいちゃんが若い頃は、こういうのが山ほど出てた」
読んでも怒られなさそうだったので、一冊借りた。これが結構おもしろかった。
剣や魔法が格好いいとか、知らない世界を旅するのが楽しいとか、もちろんそういう普通の理由もある。ただ、俺が妙に気に入ったのは、何をすると「良いこと」になるのかがとても分かりやすいところだった。
困っている人を助ければ感謝される。奴隷として売られている女の子を買って自由にすれば、その子は主人公を恩人だと思ってくれる。身分の低い相手へ分け隔てなく接すれば、あとになって実は重要人物だったと分かることもある。怪我人へ薬を渡す。腹を空かせた子供に食事を奢る。嫌われている種族にも人間と同じように優しくする。そうすれば大抵、その直後か少し先に答え合わせが待っていた。この世界の人間はそんなことをしてくれない。あなたは変わっている。ありがとう。
主人公が何かをすると、誰かがちゃんと返事をする。それが俺には気持ちよかった。
当時の俺がそんな分析をしながら読んでいたわけではない。ただ、これをすれば喜ばれる、こう言えば安心してもらえる、ここで助ければ好きになってくれる、という流れが好きだったのだと思う。
俺の日常には、そういう分かりやすい答え合わせがほとんどなかった。家で皿を洗っても、別に誰も驚かない。宿題を忘れず終わらせるのは当然で、参観日の紙を自分で管理してもイベントは発生しない。翌日にはいつもの生活が始まる。
それを不満に思っていたわけではなかった。俺より兄貴の方が大変なのは見れば分かるし、弟は手を離したら何をするか分からない時期が長かった。俺だけ病院へ行かなくていい。俺だけ学校から親を呼び出されるようなこともしない。なら、俺に割く時間が少なくなるのは合理的だ。そのくらいの理屈なら子供にも理解できた。
だから、自分はもしかすると寂しいのかもしれないと初めて考えたのは、祖父の家で何冊目かの異世界小説を読んでいた時だった。
その物語では主人公が前の世界で死に、目を覚ましたら貴族の子供になっている。神様からとんでもなく強い魔法をもらい、家族にかわいがられ、家庭教師から天才だと褒められ、街へ出れば人を助けるたび評判が上がっていく。最後には神獣にまで認められて仲間になった。死んだだけでそんなにいろいろもらえるの、すごいな。そんなことを考えた記憶がある。
別に死にたかったわけではない。それどころか死ぬのは普通に怖かった。それでも、何も持っていないところから始まって、何をすれば評価されるのか分かる世界には少し惹かれた。
それからも祖父母の家へ泊まるたび何冊か読んだ。作品名はほとんど忘れている。途中の巻が抜けたシリーズもあったし、祖父自身が「これは途中で買うのやめた」と言うものも混ざっていた。
それでも、異世界へ行ったら冒険者ギルドへ行くとか、魔法には属性があるとか、奴隷商でひどい扱いを受けている人を見かけた主人公はだいたい放っておかないとか、そういう知識だけは妙に頭へ残った。現代日本で役立つ可能性が限りなく低いものばかりである。
兄貴の病気は、結局よくならなかった。医学そのものは俺たちが子供の頃にも少しずつ進歩していたし、昔なら助からなかった患者が普通に学校へ通えるようになった、なんてニュースも珍しくない。
それでも進歩というものは全員を順番に救ってくれるわけではないらしい。兄貴は中学生になっても高校生になっても、良くなったり悪くなったりを繰り返した。俺が高校へ上がる頃には、自宅より病院で過ごす時間の方が長くなっている。一方で弟は、その頃ちょうど見事にぐれていた。
理由はいろいろあったのだと思う。兄貴のことで両親の関心がそちらへ向きやすかったのは、俺だけではなく弟も同じだった。
むしろ子供の頃から「見て見て」が激しかったあいつの方が、この家庭環境には向いていなかったのかもしれない。髪の色が変わったところまではどうでもよかった。
そのうち学校から電話が来るようになり、帰宅時間が日付を越え、知らない連中を家へ連れてくる。父さんの財布から金がなくなったこともあった。盗んだ原付を乗り回したとか、店から物を持ってきたとか、その辺は後になって聞いている。本人はいまだに細かいことを言わないので、どこまで本当かは知らない。
ただ、警察のお世話になったことがあるのは確かだった。母さんは泣いたし、父さんは怒った。俺は学校へ行って、部活へ顔を出し、受験勉強をした。家へ帰ると知らない靴が玄関へ三足くらい並んでいる日があり、邪魔なので端へ寄せてから自分の靴を脱いだ。
それでも弟のことを嫌いにはならなかった。昔から面倒くさいやつだったので、面倒くささの種類が変わったくらいに思っていたところもある。ある夏の夜、日付が変わる少し前に帰ってきた弟が、コンビニの袋を俺へ投げてきた。髪は明るい。耳には穴が増えているし、どこかで殴り合ったのか頬に薄い痣まであった。
「にいちゃん、アイス。これ好きだったろ。冷凍庫入れとくと母さん食うから、今食えよ」
袋を開けると、昔から俺が好きだったチョコのアイスが入っている。弟の分は棒のソーダ味。どう見ても偶然ではなく、それぞれ選んで買ったらしい。
「お前、俺の好み覚えてんのに母さんの好み覚えてないの? 母さん、チョコより抹茶だぞ」
弟は一瞬きょとんとして、それから面倒そうに鼻を鳴らした。
「知ってるし。そういう意味じゃねえよ。母さん、冷凍庫にある人のもん勝手に食うじゃん」
そこは本当にその通りだったので、二人で台所に座ってアイスを食べた。冷凍庫をあけると抹茶と、父さんの好きなイチゴ味もあったので、家族分買ってきたんだろう。父さんの分は母さんに食べられる危険があったが、夜勤で帰ってきていなかったので仕方なかった。
弟は食べ終えるとまた出ていき、翌週だったか翌々週だったかには学校から再び呼び出しが来たらしい。悪いやつではない。少なくとも俺にとってはずっと、幼稚園の制服でランドセルへしがみついていた弟の延長にいる。それと人へ迷惑をかけることは、どうやら普通に両立するらしかった。
俺が十八になった年、兄貴の容態はかなり悪化した。大学受験の時期と重なったので、母さんは俺に気を使って「病院へ来なくてもいい」と言った。
受験生へ気を使う余裕なんてないだろうに、妙なところで律儀な人だ。俺も毎日は行かなかった。顔を見に行っても兄貴が眠っている日は多かったし、俺がそばにいたところで治療が進むわけでもない。模試が終わった日に一人で病院へ寄ったのは、たまたまだった。父さんたちは午前中に来ていて、俺が着いた頃にはもう帰ったあとだったという。
兄貴は起きていた。昔よりずっと痩せていて、布団の上に出ている腕が本当に細い。棒っきれみたいだと思った。本人へ言ったらたぶん笑っただろうけれど、さすがに口にはしなかった。
俺を見ると少し身体を起こそうとしたので、やめろと止める。学校の話、受験の話、弟がまた髪を染め直した話。大した内容ではない。そろそろ帰ろうと椅子から立った時、兄貴が急に手を伸ばしてきた。頭へ触れられるまで、何をしているのか分からなかった。十八にもなって頭を撫でられるとは思わない。しかも兄貴の手は驚くほど軽く、子供の頃にされた時とはまるで違っていた。
「聡にばっかり我慢させて、悪かったなあ」
一瞬、何の話なのか本気で分からなかった。兄貴を見ると、困ったような顔で笑っている。
「なんで兄貴が謝るんだよ。病気になりたくてなったわけじゃないだろ」
そう返したら、兄貴の指が俺の髪をくしゃっと混ぜた。ほとんど力なんて入っていない。
「それはそうなんだけどさ。父さんも母さんも、お前は大丈夫だからってずっと言ってただろ。俺もそう思ってた。聡は一人で出来るから、聡なら分かってくれるからって。病院で暇だから昔のことばっか思い出すんだけど、考えたらお前、子供の頃からずっとそれだったなと思って」
言われても、すぐには何も出てこなかった。悲しいとも腹が立つとも思わない。ただ、今まで誰も開けなかった引き出しを突然開けられて、中に何が入っているのか自分でも分からないまま眺めているような感覚だけが残った。兄貴は少し息を整え、それからまた笑った。
「俺が言うのも変だけど、もうちょっとわがまま言っていいんじゃないか。聡が何したいか、俺、あんまり聞いたことなかったし。退院したら聞くから考えといてよ」
その時、初めて少しだけ嬉しくなった。
病院を出て駅まで歩きながら、自分が何をしたいのかを本気で考えた。
受験が終わったらどこかへ行こうか。兄貴が外出できるようになったら一緒に飯でも食べるか。そういえば俺は、家族に何を食べたいか聞かれるたび「なんでもいい」と答えていた。今度は何か一個くらい指定してみよう。焼肉がいいかもしれない。いや、兄貴は食事制限があるから難しい。それなら病院の近くにあった店のプリンでもいい。
家族相手だけの話でもない。大学へ入ったら今までやっていないことをやればいいし、欲しいものがあれば買えばいい。嫌なことがあったら嫌だと言ってみる。
兄貴に言われたからというだけではなく、それまで自分の中にそういう選択肢自体がなかったことへ、ようやく気づき始めていた。十八ならまだ何でも変えられる気がした。しっかりした俺をやめる必要まではない。ただ、その隣へ別のものを足していけばいい。帰宅した時、珍しく気分がよかった。
三日後の明け方、兄貴は死んだ。
電話が鳴った時、俺は眠っていた。母さんの声で目が覚め、廊下へ出ると父さんはもう着替えている。病院へ着いた頃には、終わっているものは全部終わっていた。
それからしばらく、自分が何をしたかったのか考える時間はなくなった。葬儀があり、親戚が来て、学校へ連絡し、兄貴の部屋をどうするかという話も出た。大学受験も予定通りやってくる。母さんはしばらくまともに眠れず、父さんはいつも通り仕事へ行った。
俺は、兄貴は異世界転生したんだろうと思うことにした。
もちろん本気で信じていたわけではない。俺たちの時代にそんなことを真顔で言うのは、祖父くらいの年代の人間か、昔の創作文化を趣味にしている物好きくらいだった。今では異世界転生という言葉自体、古典ジャンルの名前として文学史の授業に出てくるような代物である。
それでも、そう思っておくことにした。
あれだけ身体が弱かったのだから、次は《頑健》とか《完全健康》とか、そういう身も蓋もないスキルを神様からもらえばいい。せっかくなら病気どころか毒も呪いも効かなくて、一日中走り回っても息一つ切れない身体がいい。そのまま剣を持って世界一の戦士になる兄貴を想像したけれど、あの細い腕で大剣を振り回している姿がどうにも似合わなくて、一人でちょっと笑った。
いや、兄貴は頭がよかったから魔道士かもしれない。
俺に月の満ち欠けを説明するためだけに菓子パンと懐中電灯を持ってきた男である。魔法なんてものが実在する世界へ放り込まれたら、たぶん夢中になって調べるだろう。魔法学校へ行って、よく分からない古代文字を読めるようになって、誰も解けなかった術式を解いて、気の合う仲間なんか作って旅に出る。途中で体調を崩して置いていかれることもない。走れと言われれば走れるし、徹夜で遺跡を調べても翌日に熱を出さない。食事制限もなく、好きなものを好きなだけ食べられる。
俺が遊びに行こうと誘った時に、「その日、検査だから」と断らなくていい。
そこまで考えたところで、それ以上はやめた。
別に死後の世界を信じたわけではない。ただ、兄貴が完全に何もなくなったと思うより、その方が少しだけ都合がよかった。祖父の書斎で読んだ昔の小説だって、だいたい死んだところから話が始まる。だったら兄貴の人生も、あそこで最終回ではなく第一話が終わっただけということにしておけばいい。
どこか知らない世界で、今頃ものすごく健康に暮らしている。
そういうことにした。
だからといって悲しくなくなるわけではなかったし、病院へ行けば会える気がすることもあった。スマート端末の連絡先から兄貴の名前を消せず、何年経っても残したままだった。ただ、兄貴のことを考えるたび最後に病院のベッドを思い出すのは嫌だったので、そのあとへ勝手に続きを付け足した。
たぶん元気にやっている。
魔王でも倒しているかもしれないし、案外戦いなんてせず、魔法の研究所で嬉々として論文を書いているかもしれない。仲間がいて、友達がいて、好きな相手なんかもできているかもしれない。向こうにも弟がいたら、菓子パンを勝手に食われて怒っているだろう。
俺はそうやって、兄貴の死を自分の中の適当な棚へ押し込んだ。たぶん綺麗な受け入れ方ではなかったけれど、誰かに見せるものでもないので問題はなかった。
そして弟は、兄貴が死んでから急に変わった。
別人になったわけではない。朝帰りが減り、やがてなくなった。髪の色を戻し、学校にも通うようになる。悪い仲間と縁を切ったとか、バイトを始めたとか、そのあたりは本人ではなく母さん経由で聞いた。
俺も普通によかったと思った。犯罪をしない方がいいに決まっている。母さんも父さんも、久しぶりに弟のことで喜んでいた。ある夜、リビングで弟が泣きながら母さんの手を握っているところに居合わせた。
「俺が兄貴の代わりに母さんたちを守るよ。もう心配かけねえから。ちゃんとする」
母さんも泣いた。父さんは何も言わず、弟の肩を何度か叩いている。家族が少しだけ前を向いた、そういう場面だったのだと思う。
一応、俺も兄貴なんだけどな。
口には出さなかった。弟の言う兄貴が、死んだ長男を指しているのは分かる。それに俺は「母さんたちを守る」なんて宣言したこともない。言ってもいない役目を弟に奪われた、と腹を立てるのも妙な話だ。それでも、なんだか引っかかった。
弟が本当に立ち直っていくにつれて、その引っかかりの正体も少しずつ分かってきた。
父さんは親戚に「あいつもずいぶん大人になった」と嬉しそうに話す。母さんも「根は優しい子だったからね」と言い、近所のおばさんにまで「弟くん、立派になったわねえ」と褒められていた。もちろん良いことである。良いことなのだけれど、計算が合わない。
弟は一度、マイナス百くらいまで行った。人へ迷惑をかけ、親の金を盗み、学校へ行かず、たぶん犯罪もした。そこから犯罪をしなくなり、学校へ戻り、働いて、自分の金で生活するようになる。
現在地だけ見れば、普通である。けれどマイナス百から普通まで戻ると、百点以上成長したように見える。
俺は最初から学校へ行った。問題を起こさなかった。受験をして大学へ入り、親へ金をせびることもなかった。ずっと同じ場所に立っていたせいで、誰の目にも上昇しているようには映らない。
おかしくない?
そこまで考えるたび、いや、別に褒められたいわけではない、と自分で付け足した。たぶん、その付け足しまで含めて、俺はずっと面倒くさかったのだと思う。
弟を嫌いなわけではない。社会人になった弟はいまだに時々アイスを買ってきた。実家で会えば冷凍庫から俺の好きなやつを出し、「これ見つけたから買っといた」と渡してくる。一人暮らしを始める時には車まで出してくれた。途中で荷物を一箱落として俺の皿を二枚割ったけれど、まあそこも含めて弟である。
いいやつなのだ。昔から俺にとってはわりといい弟で、それと同時に他人には迷惑な不良だった時期もある。今は普通にいいやつになった。だから、父さんたちが弟を褒めるたびにざらつく自分の方が、余計に嫌だった。
兄貴が最後に言ったことを思い出して、俺も一応いろいろやった。大学では誘われたサークルに入り、飲み会にも行った。
流行ったものにはだいたい一度乗る。キャンプが流行れば道具を一式揃え、二回行って満足したので売った。
社会人になってからはボルダリングをやり、ランニングもやった。VRのライブにも行ったし、自動運転の観光バスが一般向けに解禁された時には、会社の同期と意味もなく一周乗ってみた。
昔の人が想像した未来ほど未来らしい社会にはならなかった。空を飛ぶ車はいつまで経っても一般家庭には来なかったし、月面都市もまだニュースの中にしかない。それでも無人運転の車や立体映像広告くらいなら日常の風景に混じっている。
初めて乗った時には全員で自動運転車の写真を撮ったのに、五年後にはその車内で平気で寝ていた。人間というものは未来に慣れるのが早い。
友達もいた。会社で昼を食べる相手がいて、休日に声をかければ来るやつも何人かいる。恋人がいた時期もあった。一緒に暮らすところまではいかなかったが、別れた時にはそれなりに落ち込んだので、ちゃんと好きだったのだろう。
旅行もした。趣味のコミュニティにも入った。新しく出来た店へ行き、流行っているものを試し、飽きたら次へ移る。俺は人生を楽しむのが極端に下手だったわけではないと思う。
ただ、楽しかったものは、楽しかったところで終わった。帰宅して風呂へ入り、一人で布団に横になる頃には、また元の場所に戻っている。だから次の予定を入れた。
三十を過ぎた頃、それを繰り返している自分を見て、ようやく少し変だと思った。
俺は一人でいるのが嫌いではない。友達だっている。家族とも絶縁していない。弟からはたまにしょうもない動画が送られてきて、父さんと母さんの誕生日には連絡する。それなのに、誰かと会ったあとも、何か楽しいことをしたあとも、まだ足りない。
そこでやっと、子供の頃に祖父の家で考えたことへ戻った。もしかすると俺は、ずっと寂しかったのかもしれない。ただし、人がいないという意味ではなかった。
兄貴が病院にいる時も、弟が泣いている時も、両親が忙しい時も、俺は自分がどうしたいかを考えなくてよかった。
困らせない方を選べばいい。手がかからない方へ行けばいい。自分で出来るなら自分でやる。それで大体うまくいった。代わりに、俺が何をしたいのか誰かに聞かれることも少なかった。
十八になって兄貴から突然「何がしたいか考えておけ」と言われた時、あんなに嬉しかったのは、たぶん初めて誰かがそこを気にしてくれたからなのだ。
だったら、その後いろいろ試したのも、兄貴の遺言を律儀に守っていたというだけではなかったのだろう。
流行っていることなら楽しめる可能性が高い。人間関係を増やせば、そのうち誰かと深く繋がれるかもしれない。新しい場所へ行けば、今まで知らなかった自分が見つかるかもしれない。ずっと、何かを探していた。何を探しているのか分からないまま。
そう考えた時、昔読んだ異世界小説がなぜあんなに好きだったのかも、なんとなく腑に落ちた。
あの世界は分かりやすかった。困っている奴隷を自由にしてやればいい。虐げられている人には優しくする。悪者が現れたら倒し、怪我人を見つけたら助ける。身分の低い相手にも普通に接する。そうすると、相手はきちんとこちらを見る。ありがとう。あなたは優しい。あなたみたいな人は初めてだ。主人公が差し出したものに対して、必ずと言っていいほど返事があった。
俺が欲しかったのは、善行そのものではなく、たぶんあれだった。答え合わせ。これをした俺は間違っていない。ここにいていい。あなたがいてくれてよかった。そんなふうに、誰かの口から返してもらえること。
もっと言えば、何をすれば好かれるのか最初から分かっている世界だった。だから楽だった。
現実の人間関係では、相手へ優しくしたからといって必ず好かれるわけではない。何年そばにいても、何を考えているか分からない人間はいる。真面目に生きても褒められないし、一度大きく道を外れた人間が戻ってきた方が拍手されることもある。別にそれがおかしいわけではない。ただ、俺には少し難しかった。
いつか自分が本当にそんな世界へ生まれ変わったら、たぶん俺もあの主人公たちと同じことをするだろう。
奴隷がいたら解放する。困っている女の子を見れば助ける。自分に使える力があるなら、人のために使うと思う。良いことなのだから、やっておいて間違いはない。相手が喜んでくれれば、なおさら正解だったと分かる。
それが純粋に相手のためなのか、自分が良い人間だと確認したいだけなのか、本人にも区別はつかないかもしれない。でも、そんなところまでいちいち疑って善行をする必要があるのかとも思う。悪いことをするよりずっといい。祖父の本棚から俺が覚えたのは、案外その程度の、ごく単純な人付き合いの方法だった。
もっとも、異世界へ転生する予定なんてない。
俺は普通に働き、普通に歳を取った。兄貴よりずっと長く生きた。それだけでもかなり恵まれている。父さんも母さんも年を取り、弟はすっかりまともな大人になった。
俺だって別に不幸ではない。給料はそこそこ。職場環境も悪くない。身体にも大きな病気はなく、健康診断で血圧について注意されるようになった程度なら、同年代には珍しくもなかった。
それでも、まだ足りない。何が足りないのかは、結局よく分からない。
誰かに愛されたいのかもしれない。認められたいのかもしれない。自分だけを見てほしいのかもしれない。昔もらえなかった分まで褒めてほしいのかもしれない。
三十も過ぎた人間がそんなものを欲しがるのは、なんとなく格好悪い気もする。兄貴が生きていたら、たぶんそこまで聞いて笑っただろう。
お前、それも我慢してるだろ。そんなことを言いそうな気がする。でも、もう答え合わせをしてくれる兄貴はいない。
だったら仕方ないので、また何か探すことにする。新しい店でもいい。旅行でもいい。趣味でも、人間関係でも、流行りものでも構わない。次こそ案外しっくり来るかもしれない。ずっとそうやってきたのだから、今さらやり方を変える必要もないだろう。
まだ足りない。次は何をやろう。手近なところで初心にでも戻ろうかな、サウナとか……。

※コメントは最大3000文字、5回まで送信できます