未来あるおんなのこ

 エルシノア・ヴェルグレイヴは、王都へ行くのがあまり好きではない。王都そのものが嫌いなわけではなく、大通りには辺境で見かけない店がいくつもあり、母と一緒に菓子店を覗くのは楽しかった。建物は大きく、道を行き交う馬車も華やかで、初めて王宮を遠くから見たときには、物語に描かれていたお城というものが本当に存在するのだと感動した覚えもある。それでも「今度、王都へ行きますよ」と母から告げられると、憂鬱になるようになったのは、ここ一年ほどのことである。
 
 きっかけになったのは、王立学院へ入学する予定の子供たちを集めた交流会だった。王都から離れた領地で暮らしている貴族の子供も、いずれ学院へ入れば長い時間を王都で過ごす。その前に同年代の子女同士を顔合わせさせ、名前や家柄だけでも覚えさせておこうという趣旨らしく、エルシノアも六歳を過ぎた頃から何度か参加するようになっていた。父も母も良い制度だと思っているらしいし、エルシノア自身、最初はそう感じていた。入学初日に知らない人しかいないより、知っている顔が一つでも多いほうが心強いに決まっている。ただ、知っている顔が増えることと、会いたい相手が増えることは、必ずしも同じではなかった。
 
 その日のお茶会も、はじめは楽しかったのである。王都の伯爵家が開いた小さな集まりで、庭には子供用の丸卓が並び、花の形に固めた砂糖菓子や、小さな焼き菓子がいくつも用意されていた。エルシノアは隣に座った令嬢の髪飾りを褒め、その子が教えてくれた王都で流行している色の話に耳を傾けた。辺境では見かけない話題が多く、知らないことを知るのは面白い。ところが住んでいる場所を聞かれ、ヴェルグレイヴ辺境伯領だと答えたあたりから、少しずつ雰囲気が変わっていった。
 
「本当に国境のすぐそばなのですってね。王都から何日も馬車へ乗らなければ着かないなんて、わたくしには想像できませんわ。お店も少なくて、遊ぶ場所もないのでしょう?」
 
「大きなお店は王都ほどありませんけれど、街もありますし、遊ぶところならたくさんありますの。夏は川へ行けますし、わたくしは馬に乗るのも好きですわ」
 
 向かいの令嬢が「まあ、やっぱり辺境の方って、王都とはずいぶん違うのね」と口元へ手を当てる。その言葉だけなら、地方による暮らしの違いを面白がっているようにも聞こえた。けれど別の令嬢がエルシノアの顔をじっと眺め、隣の子へ何か囁いたあと、二人揃ってくすくすと笑った。困って見返すと、その子は悪びれた様子もなく口を開く。
 
「ごめんなさい。エルシノア様って、お顔までなんとなく辺境の方らしいなと思ったの」
 
「辺境の顔、というものがあるのですか?」
 
「ほら、目が細いでしょう? 王都では、もう少し丸くて大きな目のほうが可愛らしいと言われますもの。鼻も少し低いですし、なんというか、素朴なお顔なのね」
 
「地味という意味でしょう?」
 
 また小さな笑いが起きた。大声で罵られたわけではない。物を取られたわけでも、突き飛ばされたわけでもないので、どう反応すればいいのか迷った。母なら失礼なことを言われたときには毅然としていなさいと教えるだろうし、父なら相手の家名を聞いた瞬間から何か恐ろしいことを考え始めそうである。しかし、その場にいるのは同じくらいの年の子供ばかりだった。相手があまりにも当たり前の顔をしているため、もしかすると本当のことを教えてくれているだけなのかもしれない、とさえ思えてくる。
 
 それから王都へ来るたび、似たような言葉を何度か聞いた。いつも同じ相手ではないし、全員が意地悪をするわけでもない。それでも「目が細い」「鼻が低い」「辺境らしい顔」という言葉は覚えてしまい、気がつけば人と話すときに少し俯く癖までついていた。帰りの馬車で母に「今日は楽しかったですか」と聞かれたときも、「はい。お菓子がとても綺麗で美味しかったです」と答えた。嘘ではない。菓子は本当に綺麗だったし、親切にしてくれた子もいる。だからこそ、父と母を心配させるほどのことではなく、自分が気にしなければ済む話なのだと思いたかった。
 
 けれど、あと数年もすればエルシノアは王都で暮らすことになる。領地が遠い以上、王都の屋敷を拠点に学院へ通う予定で、侍女や護衛がいても父や母が毎日そばにいる暮らしとは違う。今は数日我慢すれば帰れる交流会が、そのうち日常になるのだと思うと気が重かった。それでも弱音は吐きにくい。父は学院時代の話をするときいつも嬉しそうで、母も入学する頃に仕立てる衣装の話をしている。何より父は国境を守る辺境伯であり、母もその留守を預かって領地を取り仕切る人だ。その二人の娘が、同じ年頃の令嬢から顔を笑われたくらいで「行きたくありません」と言うのは情けない気がした。
 
 それでも、親というものは子供が思っているよりよく見ているらしい。ある日の夕食で、父が肉を切りながら何でもないような顔をして尋ねてきた。
 
「エルシノア、お前、学院へ行くのが前ほど楽しみじゃなくなったか? 前は制服が何色だとか、どんな授業があるのかとか、毎回俺に聞いてきただろう。この間なんか学院の話をしても『そうですの』で終わった。父はこう見えて、娘のことをよく見ているぞ」
 
「それを自分で言わなければ格好よかったのですけれどね」
 
 母に笑われ、エルシノアもつられて少しだけ肩の力が抜けた。
 
「行きたくないわけではありませんの。ただ、少し……知らない方がたくさんいるところで暮らすのが、不安になってしまって」
 
「それなら普通だ。俺だって入学前は嫌だったぞ。知らない奴ばかりのところへ放り込まれるうえ、お前のお爺様からは『ヴェルグレイヴの名に恥じるな』なんて何度も言われたからな。いま考えると子供に背負わせるには重すぎる」
 
「お父様も怖かったのですか?」
 
「怖かったさ。だが入ってしまえば案外どうにかなったし、何より、とんでもなく気の合う友人ができた」
 
 そこから聞かされた話は、エルシノアの想像していた「辺境伯の跡取りとして立派に学んだ父の学院生活」とはずいぶん違っていた。父は入学して間もない頃、妙に馬の合う少年と知り合ったらしい。それが、現国王だった。授業の課題を一緒にやり、剣術の稽古では本気になりすぎて叱られ、食堂に最後の一つだけ残った串焼きを取り合って腕相撲までしたという。父は相手を地方貴族の息子だと思い込んでおり、向こうも訂正しなかった。
 
「今思えば変だったんだ。領地の話を振ると毎回ごまかすし、長期休暇に屋敷へ呼べと言っても絶対に嫌がる。父親は忙しい、母親も人前に出る仕事をしている、それくらいしか家族のことを話さなかった。それでも俺は、家の事情を言いたくない奴もいるだろうと思って聞かなかったんだ」
 
「では、いつ王族だと分かったのです?」
 
「卒業式だ。朝まで隣で普通に飯を食っていた男が、式が始まったら王族席から出てきた。あのときは本気で倒れるかと思ったぞ。しかも式が終わったあと、あいつの第一声が『驚いたか』だからな。驚くに決まっているだろう。俺は何年も王子の肩を叩いて、串焼きを奪って、試験前には答案の見せ合いまでしていたんだぞ」
 
「答案の見せ合いについては、あまり娘へ詳しく教えなくてもいいと思います」
 
「そこは大事なところじゃない。大事なのは、あいつが卒業まで黙っていたことだ」
 
 母の横槍にも父は真顔で返し、エルシノアはとうとう声を立てて笑った。今の国王が幼い頃、病弱でほとんど表へ出なかったという話は知っている。ただ父によれば、すべてが病気のせいではなかった。当時は周辺国との関係や王宮内部の事情もあって、王子を必要以上に人前へ出さないほうが安全だった時代があり、そのため学院でも身分を伏せていたらしい。
 
「けれど、今は違う。陛下も頑張ったし、俺も頑張った。もちろん俺たちだけじゃない。王都にも地方にも、国を少しずつ良くしようとした奴が大勢いた。昔より国境は落ち着いたし、王宮の中もずっと静かになった。だからお前たちは、俺たちが子供だった頃より気楽に学院へ行けばいい。勉強して、友達を作って、喧嘩したら仲直りして、くだらないことで笑って帰ってこい。それくらいできる時代にしたつもりだぞ」
 
 その言葉を聞いて、エルシノアは父をとても格好いいと思った。普段は母に脱いだ上着を片付けろと叱られ、娘の菓子を一つもらおうとして断られている人なのに、国を守る人として話すときだけは別人のように見える。王様と一緒に平和な時代を作ったのだと、少しくらい自慢しても許されるだろう。
 
「学院には怖い奴もいるだろう。でも、いい奴だってちゃんといる。俺は一生付き合える友人をあそこで拾った。本人には絶対言わんが、陛下と会えたのは、俺の人生でもかなり上等な出来事だ」
 
「お父様、その言葉、陛下へお伝えしたら喜ばれるのではありませんか?」
 
「嫌だ。調子に乗る」
 
「そういうところが子供の頃から変わっていないのではありませんか」
 
 母に呆れられても、父は気にした様子もない。その夜から学院への不安が消えたわけではなかったけれど、お父様にも怖いと思った時期があり、それでも大切な友人ができたのなら、自分にも似たようなことが起きるかもしれない。そう思えるだけで少し楽になった。
 
 だから数日後、第四王子との顔合わせが決まったと聞いたときも、驚きや緊張と一緒に、ほんの少し期待があった。その第四王子の父親は、お父様が学院で出会った親友でもある。お父様が何十年も友達でいられる人のお子様なら、もしかすると怖い方ではないのかもしれない。そんな小さな希望を抱きながら迎えた顔合わせの日、エルシノアはいつも以上に早く目が覚めた。
 
 王宮へ着いて最初に安心したのは、国王陛下が父を見る顔だった。正式な顔合わせなので二人とも人前に出るときの口調を守っているものの、父が何か言うたび陛下の目元がほんの少し緩む。父も国王へ向かうというより、昔からよく知る友人を見る表情をしていた。その隣にいる第四王子オズリックは、想像していたよりずっと普通の男の子に見えた。背丈も自分と大きくは変わらず、声もまだ子供のもの。それなのに話し方には不思議な落ち着きがあり、挨拶のときも慌てた様子を見せない。エルシノアは一度だけ目を合わせ、すぐに視線を落とした。
 
 王都のお茶会で何度も向けられた視線を思い出したのである。もし王子からも同じように思われたら。そんな不安を抱えているうち、大人たちの会話から、容姿を笑われていたことまで知られてしまった。
 
 父の眉間に皺が増えていくのを見て、エルシノアは慌てて袖を引いた。自分が気にしなければ済むことなのだから、大事にしないでほしいと頼んでも、父は娘がどう思うかと、自分が父親として腹を立てるかは別の話だと言う。あとで誰に何を言われたのか教えてほしい、と続ける声は穏やかなのに、顔だけを見るとまるで安心できなかった。
 
 それでも話すと約束し、怖いことだけはしないでほしいと念を押した。父が本気で怒ると、なぜか周囲の騎士たちまで揃って恐ろしい顔になるのである。すると父は心外そうに眉を上げ、自分はいつだって穏便に話をする人間だと請け合った。
 
 その言葉を聞いた国王陛下が、小さく咳払いをした。
 
 父がすぐにそちらを見る。陛下は何も言わず、わずかに片方の眉を上げただけだった。それだけで何か通じたらしく、父も口元をほんの少し歪める。止めているのか、呆れているのか、それとも昔から同じことを何度も見てきた人にしか分からない何かなのか、エルシノアには判別できない。
 
 ただ一つ分かったのは、助けを求める相手を間違えたらしいということだった。父がこういう顔をしているとき、国王陛下は止める側というより、その後どうなるのかまで知ったうえで見守る側らしい。学院時代からの親友というのは、きっとこういうところにも表れるのだろう。
 
 
 その後、大人たちから少し離れ、オズリックと庭園を歩くことになった。本当の二人きりではなく、少し後ろを侍女と護衛がついてきている。それでも婚約者候補の男の子と並んで歩く経験など初めてで、最初のうちは何を話せばいいのか分からない。困っていると、オズリックのほうから庭について話してくれた。母君が好きだから毎年植えられる花のこと、兄君が小さな頃に落ちた池、剣の稽古をして芝を傷めてしまい王妃陛下から叱られた場所。王子なのだから難しい話をするのかと思っていたのに、聞かされるのは思いのほか普通の家族の話ばかりで、エルシノアもだんだん緊張を忘れていった。
 
「こちらのお花は、なんという名前ですの? 辺境では見かけない気がします」
 
「春鈴花です。母上が好きで、毎年ここに植えさせているんですよ。朝に見ると花びらの端へ露がたまって綺麗なのだそうです。僕は朝が弱いので、母上から聞いただけですけど」
 
「まあ。王子様は毎朝きちんと同じ時間に起きていらっしゃるものだと思っていました」
 
「起こされれば起きます。でも起きてからしばらくは、魂の半分くらい布団に残っていますね。王子でも眠いものは眠いんですよ」
 
 とうとう声を立てて笑ってしまった。庭園の小径には、ときどき低い段差がある。エルシノアなら一人で越えられる程度のものなのに、少し先へ下りたオズリックは振り返ると自然に手を差し出した。
 
「ここ、石が少し滑ります。手をどうぞ。転ぶほどではないと思いますけど、今日の服を汚したら、お互い母上たちに怒られそうですから」
 
 ほんの一段なのに手を貸してくれるとは思わず、エルシノアは一瞬だけ迷ってからそっと握った。同じ七歳なので手の大きさに大した違いはない。それでも支えるために必要なぶんだけしっかり握り、下り終えるとすぐ離してくれる。その距離の取り方がとても紳士的に感じられ、胸の奥が妙にくすぐったくなった。
 
 ガゼボへ入って休憩を取ったあと、オズリックが侍女へ頼み、小さな箱を卓上へ持ってこさせた。歩いている間にも何度か気にしている様子があったので、エルシノアも中身に興味を持っていた。ところが蓋を開ける前に、オズリックはこちらを見て、とても真面目な顔で尋ねてきた。
 
「エルシノア嬢、一つお願いがあります。あなたの顔に触れてもいいですか? 嫌でしたら断ってください。顔合わせに必要なことではありませんし、僕が勝手にやってみたいだけなので、断られても気を悪くしたりはしません」
 
 父以外の男の人から顔を触られた経験などほとんどない。医師に診てもらったことはあっても、それとは何か違う気がした。
 
「え、……はい。オズリック殿下がお望みでしたら、わたくしは構いません」
 
「それでは駄目です。僕が王子だから許すという意味なら、触りません。顔へ触れられるのが苦手な人もいますし、嫌なことを我慢してまで付き合う必要はないんですよ」
 
 そんなことを言われるとは思わず、エルシノアはまじまじと彼を見た。王子様に言われたことでも、嫌なら断っていい。その王子本人がそう言っている。
 
「それなら、わたくし自身が気になります。先ほどから殿下がその箱を何度か見ていらしたでしょう? 何が入っているのだろうと思っていました。それに、殿下が何をなさりたいのかも知りたいです」
 
「では、その意味での『はい』ならありがたく受け取ります。目元に触れますから、少しでも嫌な感じがしたらすぐ教えてくださいね」
 
 箱の中には、小さな刷毛や粉、見慣れない形の道具が並んでいた。化粧道具らしいと気づいた頃には、オズリックが手際よく必要なものを選び始めている。同い年の男の子がする動作とは思えないほど迷いがなく、それだけでも不思議だった。
 
「少し目を閉じてもらえますか? 痛いことはしませんから、くすぐったかったりしたら教えてください」
 
 素直に瞼を閉じると、急に相手が近くにいることばかり意識してしまう。お父様以外の男の人に顔を触られるなんて、本当に初めて。今さら気づき、耳が少し熱くなった。瞼の近くへ触れる指先は思っていたよりずっと軽い。顔を笑われるときには、どこがおかしいのか探されているようで人の視線が怖かったのに、オズリックに見られている今は不思議と嫌ではない。
 
「でも、わたくしの目は細いので、あまり綺麗にはならないと思います。王都へ来るたびにそう言われますし、鏡を見ても、たしかに他のご令嬢より細く見えますもの」
 
「そこから訂正しましょう。あなたの目は細いんじゃなくて、切れ長と言うんです。語彙のない輩に絡まれて大変でしたね。目尻まで綺麗に伸びていますから、隠してしまうほうがもったいないですよ」
 
 ぱちっと目を開けてしまった。オズリックが少しだけ笑う。
 
「驚いたのは分かりましたから、もう一度閉じてください。まだ何もしていませんよ」
 
「……すみません。でも、そんなふうに言われたことがありませんでした。それに、鼻も低いとよく言われるので、そこもきっと変なのだと思っていました」
 
「低いだけではありません。鼻先が小さくて、目や口を邪魔しない形をしています。顔の中の配置も綺麗ですよ。あなたを笑った人たちは、ずいぶん雑に人の顔を見るんですね」
 
 また目を開けそうになり、今度は我慢した。切れ長。綺麗。もったいない。今まで自分について考えるとき、一度も使ったことのない言葉ばかりである。オズリックの指が眉の近くを整える。怖くない。むしろ、もう少しこのままでいてほしい。そこまで考えてしまい、自分でも何を思っているのだろうと恥ずかしくなった。
 
 やがて手が離れ、「できましたよ」と声をかけられた。差し出された手鏡を両手で受け取り、恐る恐る覗き込む。髪も頬も口も、いつもの自分と変わらない。ただ目元は、形そのものを変えられていないのに、横へすっと伸びた部分が前より綺麗に見えた。鏡を右へ傾け、左へ戻し、何度も瞬きをしてみる。
 
「まあ……。これ、本当にわたくしですの? 目が少し大きくなったように見えます」
 
「大きくしてはいません。もともとある横幅を隠さなくしただけです。ほんの少ししか手を入れていませんよ。あなたはこれからもっと美しくなります」
 
 頬が一気に熱くなり、エルシノアは鏡から顔を上げられなくなった。あなたはこれからもっと美しくなります。もう一回言ってほしい、と一瞬だけ思ってしまい、そんな自分から逃げるように鏡へ視線を落とす。
 
「でも、わたくしの目はこのままでいいのでしょうか? もっと丸く見えるようにしたほうが、王都では綺麗なのだと思っていました」
 
「流行に合わせて雰囲気を変えるのは楽しいですけど、欠点でもないところを直す必要はありません。一人ひとりに似合う化粧がありますし、同じ人でも年齢や服で変わります。誰かと同じ顔に見せることだけが化粧ではないんですよ」
 
 返事をしようとしても、うまく声が出なかった。ずっと嫌だと思いかけていた部分を、オズリックは欠点ではないと言ってくれた。それだけでも十分嬉しいのに、鏡まで譲ってくれ、侍女へ今日のやり方を書いたものを渡すとも約束してくれる。最後には「成長したら顔立ちも変わりますから、もし嫌でなければ、王都へ来たときにたまに顔を見せてください。そのときまた似合うものを考えます」と言われ、次に王都へ来る日を初めて楽しみに思った。
 
 大人たちのところへ戻る途中も、エルシノアは何度も鏡を覗いた。
 
「エルシノア嬢、鏡を気に入ってくれたのは嬉しいですけど、前も見てください。このままだと本当に転びますよ」
 
「すみません。でも、少し見るだけですから。さっきと変わってしまっていないか気になってしまって」
 
「化粧は歩いたくらいでは逃げません。ほら、危ないので手を繋ぎましょう。鏡を見るのは座ってからにしてください」
 
 差し出された手を、今度はほとんど迷わず取った。エルシノアは片手で鏡を胸へ抱え、もう片方をオズリックに預けたまま歩く。大人たちのところへ戻ると、父が真っ先に娘の顔を見て、右から眺め、左からも確かめた末に呟いた。
 
「……少し目を離した隙に、可愛さが増した……?」
 
「もとから可愛らしいですよ。少し離れていたぶん、会えない時間で愛しさが増したのではありませんか?」
 
 もとから可愛らしい。また言われた。エルシノアの顔が一気に熱くなる。この人は、どうしてこんなことを平気で口にできるのだろう。王子様というものは皆こうなのか、それともオズリックだけなのか分からない。少なくとも父は、母へ似たことを言うときにはもっと得意げな顔をしているので、たぶん少し違う。
 
 父は娘の顔へ何が起きたのかよく分かっていなかったらしく、しばらく眺めたあとでオズリックへ丁寧に礼を言った。エルシノアはもらった鏡を見せたくてたまらず、「お父様、こちらまでいただきましたの。裏側をご覧になってください。王家のお花が彫ってありますでしょう?」とすぐ差し出した。
 
 帰りの馬車へ乗っても、その熱はまったく冷めなかった。父と向かい合わせに座り、王宮を離れてしばらくすると、エルシノアは膝へ置いていた鏡をまた持ち上げる。
 
「お父様。オズリック殿下は、本当に素敵な方でした」
 
「ああ」
 
「とても優しくって、紳士的でいらして。それに、わたくしが嫌なら顔には触らないと仰ったのです。王子様なのに、わたくしが嫌なことは断っていいのだと、ちゃんと聞いてくださいました」
 
「それは立派だな。お前が嬉しそうなのもよく分かる」
 
 それだけでは全然足りなかった。
 
「庭園でも、段差があると手を貸してくださいましたの。それから春鈴花の名前も教えてくださって、王妃様がお好きな花なのだそうです。王子様でも朝がお苦手なことがあるそうで、冬はお布団から出るのが嫌なのですって。そういうところも親しみやすくて、とても素敵でしたわ。それに、わたくしの目を切れ長だと仰ってくださったんです。細いんじゃないって。目尻まで綺麗に伸びているから、隠すほうがもったいないと教えてくださいました」
 
「うん。その話はさっきも聞いたな」
 
「まだありますの。鼻も低いだけではなくて、鼻先が小さくて他のところを邪魔しない形なのだと仰いました。それから、わたくしを笑った方たちは人の顔を見るのが雑なのだとも。あんなふうに言ってくださった方は初めてです。オズリック殿下は、本当に素敵な方でした。優しくって、紳士的で……」
 
 とうとう父が声を立てて笑った。
 
「エルシノア。同じことを何度も言っているぞ」
 
「言い足りませんっ。ほんとうに、ほんとうに素敵だったんだもの」
 
「分かった、分かった。父も聞いていて嬉しいよ。だからそんなに怒るな。せっかく殿下に綺麗にしてもらった顔が怖くなるぞ」
 
「怒っていません。それに、わたくしの目は細いのではなくて切れ長なのです。お父様も今日からちゃんと覚えてくださいませ」
 
「これは失礼した。今日覚えたばかりの大事な言葉だったな」
 
 父がますます楽しそうに笑うので、エルシノアは少し頬を膨らませたものの、本気で怒る気にはなれない。鏡へ目を戻すと、朝と同じ自分の顔が映っているのに、今はもう目を見て最初に「細い」とは思わなかった。オズリック殿下が切れ長だと言ってくれた目。綺麗だと言ってくれた目。そう考えるだけで、昨日より少し好きになれそうな気がする。
 
 次に王都へ来るのはいつだろう。今日教えてもらったやり方を覚えて、また見てもらいたい。今度庭園を歩けるなら、こちらから辺境に咲く花の話もしてみたい。オズリックならきっと「辺境らしい」と笑うのではなく、名前を聞いてくれるだろう。
 
 婚約がどうなるのかは、まだ分からない。七歳のエルシノアにとって結婚とは、父と母のように同じ屋敷で暮らし、食事をして、ときどき喧嘩をしながらもずっと一緒にいるもの、というくらいの認識しかなかった。それでも、もし婚約が決まればオズリックとまた会える理由が増える。そう考えると、このお話がなくならなければいいのにと思った。
 
「お父様」
 
「今度はなんだ?」
 
「オズリック殿下、わたくしのことを、もとから可愛らしいと仰いましたわよね」
 
 父は一瞬きょとんとしたあと、またにこにこし始めた。
 
「言っていたな。俺もちゃんと聞いたぞ」
 
「……そうですわよね」
 
 それだけ確認し、エルシノアは満足して鏡を抱え直した。口元が勝手に緩み、戻そうとしても少し経つとまた笑ってしまう。窓の外には、つい数時間前まで苦手だった王都の街並みが流れていた。学院へ入るのはまだ少し怖い。それでも、お父様が学院で大切な友人と出会ったように、自分にもそういう出会いがあるかもしれないと思えるようになっていた。
 
 もっとも、エルシノアの場合は学院へ入るよりずっと前に、もう一人見つけてしまったのかもしれない。
 
「お父様。やっぱり、オズリック殿下は本当に素敵な方ですわ。優しくって、紳士的で、それに……とっても格好よくて」
 
「うん。とうとう『格好いい』まで増えたな」
 
「だって、格好よかったんですもの。仕方ありませんわ」
 
 父はとうとう堪えきれなくなったように声を上げて笑った。何がおかしいのか分からず、エルシノアは少しだけ眉を寄せる。それでも父は娘をからかう以上のことは言わず、ひどく嬉しそうな顔でこちらを見ているだけだった。
 
 切れ長。綺麗。隠すのはもったいない。もっと美しくなる。王宮でかけられた言葉を思い出すたび、胸の奥がくすぐったくなる。それが初めての恋なのだと、七歳のエルシノアにはまだ分からない。ただ、次に会える日が待ち遠しくて、王都へ来る予定を初めて自分から聞いてみたいと思っている。
 
 向かいに座る父親のほうには、娘の胸の中で何が起きたのか、だいたい全部分かっていた。普段のエルシノアは、七歳にしては妙にしっかりしている。辺境伯家の長女だからと本人なりに気を張っているところもあるのだろう。弟妹の前では姉らしくしようとするし、大人の話を聞くときには背筋を伸ばし、嫌なことがあっても「大丈夫です」と飲み込んでしまう。王都でのことだって、本当ならもっと早く父親へ泣きついてくれてよかったのだ。
 
 それが今は、さっきから同じ王子の話を何度も繰り返している。優しかった、紳士的だった、格好よかった。こちらが一度聞いたと返しても、まだ言い足りないらしい。よほど今日のことが嬉しかったのだろうと思えば、その浮かれようすら可愛くて仕方がなかった。
 
「そういえば、お父様。オズリック殿下は、どんな動物がお好きなのでしょう。わたくしは犬が好きですけれど、殿下は猫のほうがお好きかもしれません。あ、でも、うさぎがお好きということもありますわね」
 
 唐突に話題が飛んだので、辺境伯は少し考えるふりをした。
 
「狼や熊かもしれないぞ。王家の紋章には金獅子が描かれているんだから、案外ああいう強そうな獣が一番好きかもしれん」
 
「そうでした! わたくし、そこまで考えていませんでしたわ」
 
 エルシノアは本気で感心したらしく、鏡を膝へ置いて背筋を伸ばした。
 
「もっとたくさん勉強しなくてはいけませんね。動物のことも、お花のことも、王都のことも。次にお会いしたとき、オズリック殿下とたくさんお話がしたいですもの。殿下はとても博識で、いろいろなことをご存じで、それに考え方も深くて……今日だって、わたくしがずっと嫌だと思っていたところを、ほんの少し見ただけで違う見方を教えてくださったでしょう?」
 
「ああ。そうだったな」
 
「春鈴花のこともご存じでしたし、お化粧のことなんて、わたくしよりずっとお詳しくて……。あんなに何でもご存じなのに、偉そうになさらないところも素敵ですわ。わたくしがもっといろいろ覚えたら、殿下もお話ししていて楽しいと思ってくださるでしょうか」
 
「少なくとも今日の様子を見る限り、お前と話すのは楽しそうだったぞ」
 
「ほんとうですか?」
 
「ああ。父にはそう見えた」
 
 それだけで、エルシノアの顔がぱっと明るくなる。
 
「では、帰ったら春鈴花について調べます。それから王都でよく飼われている動物も。あ、でも殿下がお好きなものを先に聞いてしまえば早いのでしょうか。けれど何も知らずに尋ねるより、少しくらい知っていたほうがお話も広がりますわよね。もし犬がお好きなら、うちの子たちの話もできますし……」
 
「そうだな」
 
「猫がお好きなら、お母様の部屋へよく来るあの白い猫のお話もできます。うさぎなら……うさぎは、わたくしあまり詳しくありませんわ。お父様、領地にもうさぎはたくさんおりますよね?」
 
「いるぞ」
 
「では、うさぎについても覚えなくては」
 
「忙しくなりそうだな」
 
「はい!」
 
 返事だけはずいぶん勇ましい。さっきまで王都へ来ることさえ気の重いものにしていた娘が、今度は次に王都へ来るまでに何を覚えようかと真剣に悩んでいる。
 
 辺境伯は笑いを堪える必要もないと思い、素直に頬を緩めた。
 
 たぶん娘は、明日になっても同じ話をするだろう。母親にも侍女にも、オズリック殿下がどれほど優しかったかを聞かせ、鏡を見せ、切れ長という言葉を何度も口にするに違いない。それでも構わなかった。むしろ、何度でも聞いてやりたい。
 
 いつもは聞き分けのいい娘でいようとする子が、今日は珍しく七歳の子供そのものの顔をしている。好きな相手のことをもっと知りたいと目を輝かせ、褒められた言葉を何度も思い返し、次に会う日のために何を話そうかと今から悩んでいた。
 
「それでお父様、オズリック殿下は本当に、とっても素敵な方でしたの。わたくしが顔を触られるのを嫌ではないか、ちゃんと聞いてくださって……」
 
「ああ。それはさっきも聞いたぞ」
 
「でも、もう一度お話ししてもよろしいでしょう?」
 
「もちろん。何度でも聞くよ」
 
 エルシノアは嬉しそうに頷き、それから本当に、最初からもう一度話し始めた。
 
 ヴェルグレイヴ辺境伯は時々「ああ」「そうか」「それはよかったな」と相槌を打ちながら、上機嫌で娘の話を聞いていた。王都を出ても、街道へ入っても、オズリック殿下の話はいっこうに終わる気配がない。けれど、それでよかった。
 
 今日くらいは何度でも同じ話をして、何度でも嬉しそうに笑えばいい。そんなふうに年相応にはしゃぐ娘を見るのもずいぶん久しぶりだったので、父親としては、王都から領地へ帰り着くまでずっと同じ王子の話を聞かされたところで、少しも困りはしなかった。
 
 

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