After You Let Go

side:B

 

 ブレナンは、リックが目を開けた時、自分も生き返ったような気がした。

 

 即死ウサギの角が盾を貫いた瞬間から蘇生が成功するまで、何分経ったのか分からない。実際には数分だったのだろう。だが、倒れたリックの胸から血が広がり、いつも騒がしい男が一言も発さず、開いた目が何も見ていないのを理解した時、時間の感覚は消えた。頭にあったのは、自分のせいだという言葉だけだった。

 事前に危険察知を強化していれば、脚力上昇を重ねていれば、防御障壁をもう一枚張っていれば。即死ウサギが現れる可能性は知っていた。個体数が少ないからと警戒を怠った。

 

 リックはいつも、自分の補助があるから大丈夫だと笑っていた。それを聞くたび、過大評価だと思いながらも悪い気はしなかった。勇者パーティーでは何もしていないと言われた自分を、リックだけは最初から信じた。剣が軽い、盾が硬い、今日は身体が羽みたいだと、いちいち大げさに喜び、ブレナンがいるから勝てたと何度も口にした。その信頼に甘えた結果が、胸を貫かれて倒れたリックだった。

 

 蘇生術は、一度目は失敗した。心臓が戻らなかった。二度目は心臓こそ動いたものの、呼吸が始まらなかった。ブレナンは自分の生命力まで術式へ流し込み、三度目でようやくリックを引き戻した。

 

 目が開いた時、安堵より先に恐怖が来た。また閉じるのではないかと思った。だから腕を掴み、脈を確かめ続けた。リックはいつものように軽口を叩いた。生まれ変わった気分だと笑い、血のついた顔で大丈夫だと言った。けれど、何かが変わっていた。

 

 最初は死の衝撃だと思った。近づけば身を引き、手を伸ばせば驚く。蘇生された者が一時的に触れられることを嫌がる例はある。自分の身体が自分のものではないように感じ、他人の接触に過敏になるらしい。だから無理に尋ねなかった。何日かすれば戻ると思っていた。

 

 リックは戻らなかった。いつも通りよく喋り、よく笑い、依頼へ出れば以前と同じように前へ立った。補助をかければ振り返って礼を言い、夕食には誘い、何でもない冗談を口にする。変わったのは、自分へ向けていた好意だけだった。好きだと言わない。結婚しようと言わない。触れない。朝、寝台へ飛び込んでこない。歩く時に袖を掴まない。人混みで腰へ腕を回さない。酒を飲んだ夜、肩へ頭を預けない。たったそれだけのことが、一日のあらゆる場所で目についた。

 

 リックは元々距離の近い男だが、誰にでも同じではなかった。ギルドの友人とは肩を組み、子供の頭は撫でる。それでも、ブレナンへ触れる時だけは、どこか甘えるようだった。体格はリックの方が大きく、前衛としての腕力もあるくせに、隣ではわざと重さを預けてくる。

 

 初めの頃は煩わしかった。追放された直後で、他人へ近づかれること自体が嫌だった。仲間だと思っていた者たちから、役立たず、寄生虫、報酬泥棒と呼ばれ、荷物を道端へ投げ出された翌日、見知らぬ青年が結婚を前提にパーティーを組めと頭を下げてきた。からかわれているのだと思った。断れば笑われるか、怒られるか、どちらかだと身構えた。断る気力も、別の仲間を探す気力もなかった。どうにでもなれという気分で、誘いに乗っただけだった。

 

 ところがリックは、パーティーを組むことだけ了承すると本当に嬉しそうに笑った。初めての依頼で補助術を使えば、戦闘が終わるなり駆け寄ってきた。

 

「すごいな、お前! 俺、今日いつもの倍くらい強かった!」

 

「お前の実力だろう。気のせいだ」

 

「じゃあ毎日“気のせい”をくれ。好きだ。結婚しよう」

 

「戦闘の興奮で判断するな」

 

「じゃあ宿で落ち着いてから改めてもう一回言う」

 

「言わなくていい」

 

 宿でも言った。翌朝も言った。依頼に失敗した日も、雨に降られてずぶ濡れになった日も、報酬を盗まれかけた日も言った。リックの好意には条件がなかった。ブレナンが役に立った日は褒め、役に立てなかった日は慰めるように好きだと言った。

 そんなものを向けられた経験がなかった。家族とは早くに離れ、冒険者になってからは能力だけで評価された。勇者パーティーへ入った時は、ようやく居場所ができたと思った。結果は追放だった。能力すら評価を失った。

 

 だからリックの言葉も、長く続くとは思わなかった。今だけだ。期待外れだと分かれば離れていく。元勇者パーティーという肩書きに目が曇っているだけで、好意を真に受ける方が愚かだ。そう考え、何を言われても流した。結婚はしない。期待するな。リックは笑って受け止めた。悲しい顔をしなかった。それに安堵しながら、同時に少し苛立った。本気ではないのかもしれないと思ったからだ。

 

 だが、リックは一年続けた。その間、他の誰かへ同じ言葉を向けることもなかった。酒場の女に誘われても笑って断り、綺麗な男を紹介されても、自分には結婚予定の相手がいると言ってブレナンを指した。ブレナンが否定すると、予定は未定だと笑った。

 いつしか、そのやり取りは日常になった。リックは自分を好きでいる。今日断っても、明日また言う。少し冷たくしても離れない。機嫌が悪くて返事をしなくても、翌朝には抱きついてくる。その確信が、ブレナンの中へゆっくり根を張った。人生でいちばん深く眠れるようになった。

 

 リックの好意を受け入れるつもりはないのに、それが自分へ向けられていることには満足していた。

 

 自分が失敗してもリックは見捨てないと信じられた。補助術を褒められるたび、自分には価値があると感じた。好きだと言われるたび、胸の中の欠けた部分が埋まった。自分は選ぶ側で、リックは待つ側だった。結婚してほしいと頼まれ、仕方のないやつだと笑ってやる。その関係が心地よかった。

 

 好きだと返せば、何かが決まってしまう。一夜の遊びではなく、誰かとちゃんと恋人になる自分を想像できなかったし、周囲の目も気になった。

 リックへ抱いているものが恋愛感情なのかも分からない。それなら今のままでいい。リックは楽しそうで、自分も悪くない。誰も困っていない。実際にはリックだけが何度も答えを求め、ブレナンだけが先延ばしにしていたのだが、その事実を真面目に考えたことはなかった。

 

 いつでも答えられると思っていた。今日でなくてもいい。明日でも、一月後でも、一年後でも、リックが諦めそうになった時に少し優しくすればいい。髪を撫でるか、抱きつくのを一度許すか、好きではないが嫌いでもないと伝えれば、あの男はまた嬉しそうに笑う。その傲慢さに気づいたのは、言われなくなってからだった。

 

 最初の夜、リックが「おやすみ」とだけ言った時、ブレナンは暗闇の中で続きを待った。好きだよ、と軽い声が聞こえるはずだった。聞こえなかった。眠ったのかと思い、しばらく耳を澄ませた。隣の寝台から規則正しい呼吸が聞こえ始めても、妙に落ち着かなかった。自分から何か言おうかと考えたが、言葉が見つからない。好きだと言われなかったことを指摘するなど、できるはずがなかった。

 

 翌朝、いつもならリックが覆いかぶさってくる時間に目を覚まし、無意識に待った。リックは自分の寝台で目を開け、何事もなかったように挨拶をした。その日も好きだとは言わなかった。

 次の日も、その次の日も。ブレナンは次第に、リックの口元ばかり見るようになった。

 笑うたび、今度こそ言うのではないかと思う。肩が触れそうになるたび、以前のように寄りかかってくるのを待つ。

 リックは寸前で距離を取った。あからさまに避けているわけではない。ただ、普通にぶつからないよう避けているだけだった。それがかえって苦しかった。嫌われたなら、もっと冷たくなるはずだ。会話も減り、依頼も別にしようとするだろう。リックは仲間としては以前と変わらない。つまり、自分へ向けていた好意だけが、なくなった。

 

 ダンジョンで死なせたからだ、と最初に考えた。

 自分の補助が足りず、蘇生にも二度失敗した。リックは表面上笑っているが、内心では信頼を失ったのかもしれない。好きだと伝えるほどの相手ではなくなった。

 

 次に、蘇生の最中に何か不快なことをしたのではないかと考えた。身体へ触れ、胸元の服を裂き、口の中の血を指で掻き出した。命を救うために必要だったとはいえ、リックが覚えていれば嫌悪を抱く可能性はある。だが聞けなかった。

 

 リックより六つ年上で、冒険者歴も長い。いつも落ち着いていて、明るすぎる青年を仕方なく受け止める側。それが二人の間で割り振られた自分の役目だった。今さら、なぜ触れない、なぜ好きと言わないと縋ることなどできなかった。

 

 

 そうして黙っているうちに、リックは三人目の仲間を探すと言い出した。回復か補助ができる後衛がいい、と。前衛なら、リックの負担を減らすためだと思えた。斥候でも、荷物持ちでもよかった。自分にはできないことを補う者なら納得できた。

 だが求められたのは、自分と役割の重なる者だった。自分が抜けるとか、とリックは言った。ずっと二人でやると決まっているわけではない、とも。

 

 心臓の奥が冷えた。リックは、自分が離れる未来を考えている。それに備え、代わりを用意しようとしている。

 なぜなのかは明らかだった。死なせたからだ。好きだと言われていることに甘え、真剣に向き合わなかったからだ。

 リックは一年間、何度も手を伸ばした。ブレナンはそれを受け取らず、しかし引っ込めることも許さなかった。好きだと返さないまま、好きでいろと無言で求め続けた。

 触れられれば文句を言いながら離さず、求婚されれば断りながら笑った。完全に拒絶すればリックが離れると分かっていたから、可能性があるように見せていた。

 

 

 自覚した瞬間、自分のしてきたことの卑しさに吐き気がした。それでも、反省より先に浮かんだのは、取り戻したいという願いだった。もう一度好きだと言ってほしい。以前のように触れてほしい。自分だけを見て、結婚しようと笑ってほしい。

 

 

 セシリアという女の話を聞いた時、ブレナンの中に残っていた余裕は完全になくなった。女で、二十六歳。治癒術士。リックが話しやすいと褒め、自分とも合うのではないかと言う。

 リックは男しか好まないわけではない。過去に女と付き合ったこともあると聞いていた。明るく、顔立ちも悪くなく、前衛として腕が立つ。陰気で面倒くさい年上の男へ一年も尽くせるほど情も深い。その気になれば、相手などすぐに見つかる。

 

 三人で依頼へ出れば、リックはセシリアを守り、彼女はリックの傷を治す。自分だけが余る。やがて二人で十分だと気づき、リックは責めることもなく、今までありがとうと笑うのだろう。

 十分な金を渡し、新しい仲間を探すのも手伝うと言うかもしれない。嫌いだと怒鳴られるより、役目を終えた者として丁寧に送り出される方が恐ろしかった。

 

 

 ブレナンは部屋を出たあと、酒場へ行き、ほとんど味のしない酒を飲んだ。

 頭の中では、リックがセシリアへ好きだと言う声が何度も繰り返された。それは自分へ向けられていた声と同じ調子で、明るく、冗談めいて、けれど嘘ではない。想像しただけで腹の底が煮えた。自分には怒る資格などない。リックは自由だ。別の相手を選ばれて当然だった。それでもグラスを握る指へ力が入り、薄い硝子にひびが入った。

 

 店主へ謝って代金を払い、宿へ戻ると、リックが待っていた。傷つけたなら言ってくれ、と言われた。ブレナンは傷ついていないと答えた。嘘だった。今すぐ抱きしめて欲しかったし、ブレナンだけでいいよと言って欲しかった。

 セシリアを仲間にするな。代わりを探すな。自分を捨てないでくれ。喉まで出かかった言葉を、年長者としてのつまらない矜持が押し戻した。

 

 リックは少し待ち、何も言わないブレナンを見て風呂へ行った。扉が閉まったあと、ブレナンは寝台へ座り込み、両手で顔を覆った。

 好きだと伝えればいい。それだけだった。だが、いざ言おうとすると、自分の気持ちが本物なのか疑いが湧く。リックの好意を失ったから惜しくなっただけではないのか。愛されている優越感を取り戻したいだけではないのか。もしそうなら、好きだと言うことは、今までよりさらに卑劣だった。リックをつなぎ止めるためだけに恋愛感情を装うことになる。

 

 ただ、リックが他の誰かへ触れる姿を想像すると耐えられない。好きだと言う声が自分以外へ向くのが嫌だった。隣の寝台が空くのも、朝に顔を見られなくなるのも、戦闘後に「ありがとう」と「お前がいないと生きてけないな」と言われる立場を奪われるのも嫌だった。

 リックが死んだ時、世界が終わったと思った。生き返った時、自分も息ができた。それを愛と呼ばないなら、何と呼ぶのか。ブレナンには分からなかった。分からないまま、さらに三日が過ぎた。

 

 セシリアとの試験依頼の前日、リックは新しい盾を見に行くと言った。ブレナンもついていくつもりだったが、ギルドから呼び出しがあり、以前の勇者パーティに関する確認へ時間を取られた。用事を終えて市場へ向かうと、防具屋の前にリックがいた。隣には赤毛の女が立っている。セシリアだとすぐ分かった。リックが盾を構え、女がその縁へ手を添えて何か話していた。二人とも笑っている。距離が近い。リックが女の肩へ触れた。人混みを避けるために軽く引き寄せただけだったが、ブレナンの目には、それで十分だった。以前なら自分へ向けられていた仕草だった。

 

 気づいた時には、二人の前まで歩いていた。リックがこちらを見て、明るく手を上げる。

 

「ブレナン。ちょうどよかった。こっち、セシリアさん。明日の依頼の話してたんだ」

 

「初めまして。お話は伺っています」

 

 セシリアが丁寧に頭を下げる。ブレナンは返事をしようとしたが、声が出なかった。柔らかな目元、健康的な肌、落ち着いた話し方。リックが好みそうかどうかは分からない。それでも、自分よりはるかにふさわしいと思えた。女で、治癒術士で、リックの好意を素直に受け取れそうだった。ブレナンのように一年も待たせたりしないだろう。

 

「ブレナン?」

 

「……明日の依頼は中止だ」

 

「え?」

 

「三人で行く必要はない」

 

「いや、顔合わせも兼ねてるから」

 

「必要ないと言っている」

 

 自分でも驚くほど強い声が出た。セシリアが目を丸くし、リックの表情から笑みが消えた。ブレナンはすぐに後悔した。これでは単に感じの悪い男だ。セシリアには何の落ち度もない。

 

「すまない。少し、リックと話がある」

 

「俺と?」

 

「ああ。今すぐだ」

 

 リックの腕を掴んだ。久しぶりに触れた身体は温かかった。逃がしたくないという思いが先に立ち、力を緩められない。リックは眉を上げたが、振り払わなかった。セシリアへ謝り、明日の予定はあとで連絡すると告げてから、ブレナンに引かれるまま路地へ入った。人通りの少ないところまで来て、ようやく足を止める。

 

「痛いって。どうしたんだよ」

 

「なぜ、あの女の肩に触れた」

 

「人にぶつかりそうだったから避けただけ。……え、そこ?」

 

「そういう話ではない」

 

「じゃあ、どういう話?」

 

 リックは困ったように笑った。その顔を見て、ブレナンは何度も準備した言葉をすべて忘れた。落ち着いて話すつもりだった。死んだ日から態度が変わった理由を尋ね、誤解があるなら解き、自分の気持ちも順序立てて伝える。年上らしく、リックを責めないように。しかし実際に口から出たのは、ひどく幼稚な問いだった。

 

「俺を捨てるのか」

 

「は?」

 

「セシリアを入れて、俺を外すつもりなんだろう」

 

「待って。なんでそうなるんだよ」

 

「同じ後衛を二人入れる理由がない。お前は俺が抜けても困らないようにすると言った。あの女を俺の代わりにするつもりだ」

 

「違うって。三人でやれたらいいって話だよ。それに、お前がいつか抜けることになっても、俺が一人にならないようにってだけで」

 

「なんで俺が抜けるんだ。お前が俺を捨てる以外に理由がないだろう」

 

 リックの顔から、完全に笑みが消えた。何かを探るようにブレナンを見る。その目が怖かった。見限られた者を見る目ではない。ただ、本当に分からないという顔だった。

 

「落ち着いてくれよ。何か誤解がありそうだな……。俺は絶対にブレナンを追放なんてしないよ。勇者のところでのことがトラウマになってるんだろ? あれは特殊例だって」

 

 ブレナンがいなくなってから勇者パーティは落ち目だってよ。ざまあだな、とリックが笑う。それが、話をずらそうとする仕草にしか見えなかった。

 勇者たちのことなどどうでもいい。今は勇者たちではなく、自分とリックの話をしているのに、リックはぺらぺらとよく喋った。未来はどうなるか分からない。ブレナンは優秀だから引き抜きがあるかもしれないし、どこかで良い相手が見つかるかもしれない。その時、二人パーティだと一人の期間ができてしまう。全部、聞きたくない言葉ばかりが丁寧に並べられていく。

 

「お前は」

 

 喉が詰まった。聞きたくない。だが聞かなければ何も分からない。

 

「お前は、もう俺を好きではないのか」

 

 リックが目を見開いた。路地の外から、荷車の車輪が石畳を鳴らす音が聞こえた。誰かの呼び声、店先で笑う子供の声。そこだけ時間が止まったように、リックは何も言わなかった。やがて片手を後頭部へ回し、気まずそうに髪を掻く。

 

「好きだよ」

 

 胸に熱が戻った。ブレナンは息を吸う。だが、リックはすぐに続けた。

 

「好きだけど、それは俺の話だろ。お前に関係ないようにしなきゃなって思った」

 

「関係ない?」

 

「俺が勝手に好きでいるのは止められない。でも、お前に好きになってくれって迫るのは違うじゃん。ずっと断られてたのに、俺、都合よくじゃれ合いだと思ってた。悪かったよ」

 

「悪いとは言っていない」

 

「言えなかっただけだろ。お前、優しいから」

 

「違う」

 

「ブレナン。いいんだって」

 

 リックが笑った。慰めるような笑い方だった。それが何より距離を感じた。

 

「俺、死んだ時にさ、ちょっと変な夢を見たんだ。お前が女の人と結婚して、幸せになってる夢。六人くらい」

 

「六人?」

 

「そこは気にしないで。夢だから。とにかく、なんか急に分かったんだよ。お前、男は無理なんだなって。考えれば最初からそう言ってたし。俺が勝手に可能性あると思ってただけで」

 

「俺は、男が無理だと言ったことはない」

 

「結婚はちょっと、今後も期待するなって、初日に言っただろ」

 

「お前との結婚を考えられなかっただけだ。あの時は会ったばかりだった」

 

「そのあと一年、考えても無理だったじゃん」

 

「それは……」

 

 言葉が続かない。リックは責めていなかった。事実を並べただけだった。一年あった。一年の間、ブレナンは一度も好きだと言わなかった。結婚してもいいとも、いつか考えるとも言わなかった。リックが勘違いする余地を残しながら、答えだけは与えなかった。

 

「だから、もうやめた。お前が嫌いになったわけじゃないし、パーティも今まで通り続けたい。ただ、恋愛の話はなしにしようって。それならお前も楽だろ」

 

「楽ではない」

 

「急に変わったから、まだ慣れないだけだよ」

 

「違う!」

 

 声が路地へ響いた。リックがわずかに身体を固くする。ブレナンが大声を出すことなど、ほとんどなかった。自分でも制御できなかった。

 

「慣れたくない。お前が何も言わないのも、触れないのも、他の人間を探すのも嫌だ」

 

「……ブレナン」

 

「俺は、お前がまた好きだと言うと思っていた。何度断っても、明日には言うと。だから、答えなくてもいいと思っていた。お前は離れないと……勝手に、そう思っていた」

 

 口にするほど、自分の醜さが明らかになる。リックは黙って聞いていた。

 

「好きだと言われるのが嬉しかった。お前が俺を選んでいることも、何をしても離れないことも。自分が、お前より上にいるような気になっていた。俺が許せば触れられて、俺が決めれば結婚できる。そう思っていた。最低だ。分かっている。分かった時には、お前はもう何も言わなくなっていた」

 

「そこまで自分を悪く言わなくていいよ。俺が勝手に言ってただけだし」

 

「そうやって俺を許すな」

 

「怒ってほしいの?」

 

「分からない。だが、何もなかったように終わらせないでほしい」

 

 ブレナンはリックの腕を握ったまま、もう片方の手で服の胸元を掴んだ。縋っていると自覚した。余裕のある大人でも、仕方なく好意を受け止めてやる年長者でもなかった。

 見捨てられそうになり、何をすればいいか分からず、相手の服を掴んでいるだけの男だった。リックの方が背が高い。自然と見上げる形になる。そのことさえ、今まで意識したことがなかった。いつもリックが甘えてくるから、自分が守る側だと思っていた。実際には、ブレナンの自尊心も安心も、ずっとリックの好意に支えられていた。

 

「俺はお前が好きだ」

 

 言った瞬間、胸の奥が痛んだ。ようやく言えたという安堵はなかった。遅すぎると分かっていた。

 

「好きだ。お前が死んだ時、俺も終わったと思った。お前が他の誰かに触れるのは嫌だ。好きだと言うのも嫌だ。セシリアを入れたくない。俺の代わりを探すな。俺は抜けない」

 

 リックは、しばらく何も答えなかった。驚き、困惑し、そのあと悲しそうに眉を下げた。

 

「それ、今すごく不安だから言ってない?」

 

「違う」

 

「俺が離れそうになったから、つなぎ止めたいだけかもしれない。お前自身、好きって言われるのが嬉しかったって言っただろ」

 

「それだけじゃない」

 

「でも、分かんないんだろ」

 

「分からなかった。今も、全部を綺麗に分けられるわけではない。それでも、お前を失いたくないだけじゃない。俺はお前が好きだ」

 

「今日、急に?」

 

「急ではない。お前が死んだ日からずっと考えていた」

 

「半月くらいじゃん」

 

「俺にとっては十分だった」

 

「俺に好きって言われなくなって、半月で耐えられなくなっただけにも見えるよ」

 

 反論できなかった。リックの言う通りだった。ブレナン自身、自分の気持ちを完全には信用できていない。愛されなくなった恐怖と、リックを愛している気持ちを、きれいに分けることはできなかった。だからこそ、リックは受け取らないのだろう。以前なら、好きだと言いさえすれば飛び上がって喜んだはずの男が、今はブレナンを傷つけないようにしながら拒んでいる。

 

「ごめん。嬉しくないわけじゃないんだ。前の俺なら、たぶんここで結婚式場押さえてた。でも、今のお前の言葉に乗っかったら、俺がまた無理させることになる気がする」

 

「無理なんてしてない」

 

「じゃあ、今、俺に口づけたいと思う? 無理にしろって意味じゃない。ただ、想像した時に嫌じゃないか、考えてみて」

 

 ブレナンは息を止めた。リックの目が近い。以前、何度も額を押して避けた距離だった。今は逃げたくないと思う。だが、身体がすぐには動かなかった。その一瞬を、リックは見逃さなかった。

 

「ほら」

 

「待て」

 

「いいって。試すみたいなことして悪かった。冗談だよ、気にするなって」

 

「待てと言っている」

 

 リックが離れようとする。ブレナンは服を掴んだまま引き寄せた。勢いがつき、互いの胸がぶつかる。リックが目を丸くした。ブレナンは自分でも何をしているのか分からないまま、リックの頬へ手を伸ばした。指先が肌に触れる。温かい。生きている。あの日、血の気を失って冷たくなった顔ではない。その事実だけで喉が詰まった。

 

「俺は、お前に触れられるのが嫌だったわけではない」

 

「ブレナン」

 

「初めは驚いた。慣れてからは……待っていた。朝も、歩いている時も、眠る前も。お前が触れるのを待っていた。自分から求めれば、俺も同じだと認めることになるから、しなかった」

 

「それ、だいぶずるいな」

 

「ああ。ずるかった」

 

 リックの頬を包んだ手が震える。ブレナンは目を閉じる前に、相手の表情を見た。冗談にして逃げる様子はない。かといって、喜んでもいない。ただ静かに待っている。その慎重さが、自分のせいだと思うと苦しかった。

 

 ブレナンは顔を近づけた。口づけるつもりだった。だが唇が触れる寸前、怖くなり、わずかに顔を逸らした。結果、口づけはリックの口角へ浅く触れた。まともなものではなかった。それでも離れようとすると、今度はリックの腕が腰へ回った。力強く引き寄せられ、背中が壁へ当たる。ブレナンは息を呑んだ。いつも甘えるように触れてきた男の腕が、今は逃がさない形で身体を囲んでいる。リックの顔がすぐ近くにあった。

 

「今の、俺が動いたら駄目なやつ?」

 

「……分からない」

 

「そればっかりだな」

 

「仕方ないだろう。今まで考えないようにしていた」

 

「じゃあ今日はここまで」

 

 リックが腕を緩めようとする。ブレナンは反射的に背中へ腕を回した。

 

「離すな」

 

「ブレナン、そういうの今まで一回も言わなかったくせに」

 

「言わなくても、お前が離さなかった」

 

 声が情けなく掠れた。リックの肩へ額を押し当てる。表情を見られたくなかった。二十八歳にもなって、六つ年下の男へ捨てないでくれと縋っている。これまで作ってきた余裕など、どこにも残っていない。本気の恋などしたことがなかった。それがこんなに人生の足を引っ張るなんて、考えたこともなかった。

 

「離さないでくれ。俺は、まだうまくできない。お前が欲しい言葉をすぐ全部返せないかもしれない。それでも、他の誰かのところへ行くのは嫌なんだ」

 

「それはさすがに都合よすぎない?」

 

「ああ」

 

「認めるんだ」

 

「認める。全部謝る。どれだけずるかったか全部言う。だから、俺のことを諦めないでほしい。全部聞いて、全部許してくれ。俺のダメなところを嫌いにならないで、受け入れろよ。しょうがないなって言え」

 

「傲慢」

 

「本当に悪いとは思ってる」

 

「そういうところも好きだよ」

 

 リックの身体がわずかに揺れた。笑ったらしい。以前のような明るい笑いではなく、困り果てた時の小さな笑いだった。

 

「俺、前向きに失恋しようとしてたんだけどなあ」

 

「するな」

 

「命令するじゃん」

 

「頼んでいる」

 

「頼み方が怖いんだよ。服、伸びるって」

 

 ブレナンは掴んでいた胸元を見た。指へ力が入りすぎて、布が皺だらけになっている。慌てて手を離すと、リックがその手を取った。指を絡めるのではなく、逃げないように包むだけの握り方だった。それでも久しぶりの接触に胸が詰まった。

 

「セシリアさんとの試験依頼は断らないよ。仲間としては良さそうだし、こっちの都合で話をなかったことにはできない」

 

「いやだ」

 

「そこは子供みたいなこと言うなって。お前の代わりにはしない。ちゃんと説明するから」

 

「役割が同じだ」

 

「同じじゃないよ。セシリアさんは治癒が中心で、お前は補助が中心だろ。そもそも、お前を代えるために探したんじゃない」

 

 その言葉を聞いた瞬間、ブレナンは自分がどれほどそれを待っていたのか思い知った。役に立つと言ってほしかった。必要だと言ってほしかった。好きだと言われなくなってから、全部失ったと思っていた。

 

「俺のことも、誰かに代えたりしないか」

 

「パーティの相棒としてなら、絶対に代えない」

 

「それ以外は」

 

「そこは保留。お前が今、捨てられそうで必死なのか、本当に俺とそうなりたいのか、俺にはまだ判断つかない」

 

「どうすれば信じるんだ」

 

「焦らないことじゃない? 俺が一年前からずっと言ってたからって、今日急に同じ場所まで来なくていいよ」

 

「焦らなければ、お前はセシリアと結婚するかもしれない」

 

「しないよ。会ったばっかだぞ」

 

「お前は俺にも会った日に求婚した。お前は惚れっぽい男だろ」

 

「それ言われると弱いな」

 

 リックがまた笑う。少しだけ以前の笑い方に戻っていた。ブレナンはその顔を見て、ようやく呼吸が楽になった。完全に戻ったわけではない。好きだと言ってくれたからといって、恋人として受け入れられたわけでも、結婚を約束してもらえたわけでもない。それでも腕を振り払われなかった。

 

 また以前の関係へ戻るだけでは駄目だった。リックが好きだと言い、自分が仕方なく受け止める形へ戻れば、同じことを繰り返す。今度は自分が追わなければならない。言葉だけでなく、行動で示さなければ、リックは信じないだろう。セシリアが仲間になれば嫉妬もする。余裕のある大人でいるつもりだったが、余裕を失った途端、ずいぶん狭量だった。リックの好意を独占したい。視線も、言葉も、手も、自分へ向けてほしい。一年前、初対面で求婚された時は、面倒な男に捕まったと思った。今は、自分から捕まえ直さなければ逃げられる。

 

 ブレナンはリックの手を握り返した。

 

「宿へ戻るぞ」

 

「話は終わり?」

 

「終わっていない。人目のないところで続ける」

 

「お、急に積極的。結婚についても話し合う?」

 

「ああ。それもだ。ちゃんと考える」

 

 リックが立ち止まった。繋いだ手が引かれ、ブレナンも足を止める。振り返ると、リックは信じられないものを見るような顔をしていた。

 

「今、結婚考えるって言った?」

 

「言った」

 

 ブレナンは口を閉じた。リックは手を繋いだまま待っている。通りへ出れば人の目がある。男同士で手を繋いで歩けば、何か言う者もいるかもしれない。以前のブレナンなら、そう考えて離していた。今はリックが先に離す方が怖かった。

 

「好きだ」

 

「うん」

 

「嬉しそうにするだけではなく、お前も何か言え」

 

「好きだよ」

 

 言ったあと、リックが声を上げて笑った。ブレナンは久しぶりに聞いたような気がした。実際には毎日聞いていたはずなのに、自分へ好意が向かなくなってからの笑い声は、どこか遠く感じていた。今は近い。繋いだ手から体温が伝わる。

 

 まだ許されたわけではない。告白したからといって、この半月がなかったことになるわけでも、答えを先延ばしにした一年が帳消しになるわけでもない。リックは前向きに別の方向を見ようとしている。ブレナンはそれを、自分の都合で引き戻そうとしている。最低だと思う。それでも諦める気はなかった。

 

 今分かることは、リックがまだ自分を好きなことと、諦めかけただけで嫌いになってはいないことだけだった。そのわずかな可能性へ、今度は自分が縋る。格好悪くても、嫉妬深くても、リックの前でだけは隠さない。好きだと伝え、触れてほしいと頼み、他の誰かへ行くなと言う。そうしていつか、リックがまた笑いながら結婚しようと言った時には、今度こそ待たせずに答えるつもりだった。

 

 もっとも、その日の夜、宿へ戻るなりリックから「じゃあ練習で一回、俺のことダーリンって呼んでみよう」と言われ、ブレナンが反射的に「それはちょっと」と答えてしまい、リックが腹を抱えて笑ったため、道のりはまだ相当に長そうだった。

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