頭を打って前世の記憶を思い出した。
こういうの、何ていうんだっけ。異世界転生? 悪役令嬢? いや、悪役令嬢かどうかはまだわからない。そもそも私、どういう訳か今世の記憶がほとんど残っていない。頭を打ったせいで、一時的な記憶障害……とは説明されたけど、あんまり自分を客観視出来ていないのが素直な感想。
前世の私は戸田菜都美、二十六歳。会社員。独身。最後に覚えているのは横断歩道で信号待ちをしていたことで、あのあと何があったのかはさっぱり思い出せない。おそらく事故にでも遭ったのだろう。お気の毒さま、私。
そして今世の私は、リゼット・オルブライト。十七歳の貴族令嬢らしい。
らしい、というのは医師から教えてもらったからだ。目を覚ましたときには自分の名前も思い出せず、目の前にいる初老の男性が誰なのかもわからなかった。
医師だと名乗られたので素直に納得したけれど、よくよく考えてみれば随分と立派な服を着ている。診察のためだけにあんな大きな宝石のついた時計鎖を下げる必要があるのかしら。お医者さんというより、どこかの偉い貴族に見えた。
まあ、そのあたりはどうでもいい。
大切なのは、この世界に魔法があるということだ。
そう、魔法! 転生先としては大当たりじゃない?
前世ではファンタジー小説を愛読していたし、仕事帰りにコンビニで買ったご飯を食べながら、こういう世界に行けたらなあと何度も妄想したものだ。世知辛い毎日からの、唯一の逃避先だったとも言う。可哀想、私。
この世界、魔法が使えるなら、今度こそ好きなことをして暮らしたい。前世では仕事と家を往復するばかりだったけれど、今世はせっかく貴族のお嬢様なのだから、魔法を習ったり、可愛いドレスを着たり、できれば素敵な男性と恋愛なんかもしてみたい。
そう思って医師に魔法のことを尋ねたら、非常に気の毒そうな顔をされた。
「リゼット様、魔法のことはもう少しお身体が回復してから考えましょう。今は頭を打ったばかりですし、魔力も安定しておりませんから、どうか無理をなさらないでください」
あら、そんなに心配してくれるの。優しい先生だこと。ただ、魔力が安定していないという言葉が気になったので詳しく尋ねてみたところ、私の魔力は成人の平均的な魔力量の一割にも満たないらしい。
なんということか。魔法のある世界に転生して、魔法が使えないなんて。これでは前世で読んでいた異世界転生ものに申し訳が立たない。せめて生活魔法くらいは使いたかったのだけれど、侍女にこっそり教えてもらって練習したところ、指先から火花ひとつ出せずに終わった。
しかも、身体がひどく疲れる。少し歩くと息が切れるし、本を読んでいるだけでも眠くなってしまう。頭を打ったせいかと思っていたら、侍女によれば以前からこうだったらしい。
もしかして、病弱なのかしら。
そう思っていたら、病弱なのは妹のほうだった。
「ノエルお嬢様も、リゼットお嬢様がお目覚めになって本当に安心していらっしゃいます。昨日もお部屋へいらしたでしょう? お姉様のお加減はどうかと、朝から何度も尋ねていらっしゃったんですよ」
「ええ、可愛らしい子だったわね。私よりずっと元気そうだったけど、あの子も身体が弱いの?」
「お生まれになったころは、それはもう大変だったんです。最近は随分とお元気になられましたけれど、旦那様も奥様も、今でも少しお顔が見えないだけで心配なさるくらいですから」
侍女の言葉を聞いて、私は窓の外を見下ろした。庭では金色の髪をした少女が庭師に何か頼んでいる。やがて薔薇の枝を一本切ってもらうと、嬉しそうに抱えてこちらへ走ってきた。
あれが妹のノエル。十二歳。昨日も私の部屋へやってきて、頭は痛くないか、ちゃんと食べられているかと、それはもう熱心に心配してくれた。今世の記憶がないので初対面も同然だったけれど、私が戸惑っていると、ちっとも気にしていない様子で笑ってくれた。
妹が可愛いのは結構なことだ。だけど、あの子が病弱なのだとしたら、私のこの疲労感はいったい何なのだろう。少なくとも、庭を走り回っているノエルよりは私のほうがずっと弱々しい。
おまけに、両親が会いに来ない。
頭を打って記憶喪失になったというのに、父も母もろくに顔を見せない。侍女に尋ねればお仕事で忙しいとのことで、どうやら夜には私の部屋を覗いているらしいのだけれど、起きているときに来てくれたことは一度もなかった。そのくせ、妹の部屋には毎日顔を出しているという。
…………あれ?
これ、もしかしてドアマットヒロインものなのでは?
前世でよく読んでいた小説のジャンルだ。家族に冷遇され、妹ばかり可愛がられ、役立たずだの無能だのと蔑まれていた主人公が、前世の記憶を取り戻して自立する。帳簿とかをつけるし、自分の座る席も決める。そして自分を虐げてきた人々から離れ、素敵な男性と出会って幸せになってインスタントハッピーエンド。
思い返せば、私には魔力がほとんどない。病弱と言われている妹は元気いっぱいで、両親は私の見舞いにさえ来ない。
ただ、少し困ったことに、使用人たちはみんな親切だった。
私の部屋は広くて綺麗だし、食事も美味しい。昨日など、侍女が私の好きなものだと言って焼き菓子を持ってきてくれた。前世では給料日前になるとスーパーの見切り品ばかり食べていた身としては、これだけでも相当な好待遇。感謝しかない。
もしかすると、単に両親が忙しいだけなのかもしれない。そう思い直していたところ、着替えを手伝ってくれた侍女が、私の胸元を確認してほっと息をついた。
「ペンダントもきちんと身につけていらっしゃいますね。お嬢様、こちらだけは絶対に外さないようになさってください。以前も、何があっても外さないとお約束してくださったでしょう?」
「そういえば、ずっとつけているわね。これ、誰からもらったものなの? 何かのお守りかしら」
「旦那様と奥様がお嬢様方のためにご用意されたものですよ。ノエルお嬢様も同じ石をお持ちですから、今度お会いしたときに見せていただくとよろしいかもしれませんね」
妹とお揃い。しかも、絶対に外してはいけない。私は侍女が退室するなりペンダントを裏返し、細かな模様が刻まれていることに気づいた。魔法のある世界なのだから、単なる装飾ではない可能性もあるだろう。そう思って本棚を漁ってみたところ、どうみても辞書だろうとしか言えないような分厚い魔法教本が残っていたので、試しに調べてみることにした。
そして一時間後、見つけてしまった。
魔力譲渡の術式!
対になる装身具を通して、片方の魔力をもう片方へ送り届けるためのまじないらしい。医療などにも応用されると書かれていたけれど、それよりも私が気になったのは、送り手が魔力不足に陥ることがある、という注意書きのほうだった。
これ、私の魔力、妹に奪われてない?
いやいやいや、冗談じゃない。前世の私は搾取される人生を送ってきた。人手が足りないからと残業を頼まれ、代わりがいないからと休日出勤を引き受け、体調が悪くても迷惑をかけたくない一心で働き続けていた。そんなことを繰り返しているうちに二十六歳になり、恋人もいなければ趣味に使う時間もなく、最後は横断歩道で死んでしまったらしい。
せっかく生まれ変わったのに、今度は妹のために魔力を吸い取られる人生ですか。さすがに遠慮したい。
とはいえ、事情も聞かずに飛び出すのはよろしくないので、まずは両親にきちんと確認して、もし本当に私の魔力を妹へ譲渡しているのなら、今後はやめてもらおう。大丈夫、私はもう前世の戸田菜都美ではない。ノーと言える女になりましょう。
そう決心した日の夕方、両親が揃って私の部屋を訪ねてきた。
二人とも随分と疲れた顔をしていた。父は上着を脱ぐことも忘れて来たらしく、袖口には馬車の泥がついている。母も帽子を手にしたままで、私の顔を見るなり目元を緩めた。
「リゼット、具合はどうだい。先生からはもう起きてもいいと言われているけれど、頭は痛まないか、何か思い出したことはないかい?」
「頭は平気です。それより、お父様とお母様に聞きたいことがあるんですけど、このペンダントって妹とお揃いなんですよね。どうして私たちだけが同じものを持っているんですか?」
父は私の胸元を見た。母も何か気づいた様子で、手にしていた帽子を置くと、ベッドのそばへ椅子を引き寄せる。
「リゼット、それについては先生から何か聞いているかしら。あなたの記憶が戻るまでは、あまり難しいお話をしないほうがいいと言われていたのだけれど、そうね……これは、きちんと説明しておくべきだったわね」
「私、自分の魔力が妹に譲渡されていることは調べました。これをつけているせいで魔法も使えないんですよね? だったら、もう外したいんです。自分の魔力を自分のために使ってみたいし、いつも疲れているのだって嫌なんです」
「外すって……待ちなさい、リゼット。その話なら先生にも同席していただかないといけない。お前が嫌だと思ったのなら、私たちが無理に続けさせることはないんだ。ただ、そのペンダントは勝手に外してはいけないもので……」
父が立ち上がったので、私は反射的に鎖を掴んだ。やっぱり引き止められるのだと思ったし、ここで説明を聞いてしまえば、結局は妹のために我慢しなさいと言われるような気がしたのである。父がベッドへ手を伸ばし、母も私の名前を呼んだ。
「リゼット、駄目よ! それだけは今、外してはいけないの!」
母の声に驚いて手が滑った。父が私の手首を掴んだときには、もう鎖が頭を越えていた。
ぱき、と小さな音がした。
青い石に亀裂が走り、私の手のひらで粉々になる。驚いている間にも胸の奥から何かが湧き上がってきて、身体が熱くなり、指先まで力が満ちていく。これまでまとわりついていた疲労感が嘘のように消え、私は思わず深く息を吸った。
すごい。これが魔力というものなのか。
けれど、父は私の手首を掴んだまま動かなかった。母は砕けた石を見つめ、唇を震わせている。二人とも、まるで誰かが死んだような顔をしていた。
「……あなた、先生を。私、ノエルのところへ行くわ」
「待ってくれ、私が先生に連絡する。リゼット、お前はここにいなさい。ノエルのところへは、母さんが行ってくれるから」
父は廊下にいた使用人を呼び止め、何やら早口で指示を出した。母も部屋を出ようとしたのだけれど、扉の向こうから妹の声が聞こえたので、私は思わず顔を上げた。
「お母様、どうしたの? 廊下でみんな慌てていたけど、お姉ちゃんに何かあった?」
ノエルは部屋へ入ってくるなり私を見つけ、いつものように笑いかけてくれた。それから、父がまだ握っていた私の手に気づき、砕けた青い石を見て足を止める。
「あ……お姉ちゃん、ペンダント外したの? そっか、そうなんだね」
母は妹を抱き寄せ、その頬に触れている。なんだか大げさな騒ぎになってしまったけれど、ノエル自身は特に怒っていないらしい。むしろ、泣きそうな顔をしている母を見て、困ったように笑っていた。
「いいの、いいの! お母様、泣かないで。私ね、もう随分元気になったでしょう? だから、元に戻るだけだよ。お姉ちゃんだってずっと疲れていたんだし、もう休ませてあげたいって、私も前から思ってたんだから」
「ノエル、もう喋らなくていいわ。先生がいらっしゃるまで、私と一緒にお部屋へ戻りましょう。あなた、リゼットのことをお願いね」
母は妹の肩を抱き、父にそう言い残して部屋を出ていった。途中、ノエルが振り返って手を振ってくれたけれど、私は何を言えばいいのかわからず、曖昧に振り返すことしかできなかった。
なんだろう、これ。
普通、こういうときって、両親が逆ギレして魔力を寄越せとか、妹が可哀想だとか言ってくるものなんじゃないの? それなのに、誰も私を責めない。父は砕けた石を拾い集めると、もう元には戻らないとでもいうように、そっと布で包んだ。
「……リゼット、すまなかったね。もっと早く、きちんとお前に話しておくべきだった。先生には私から説明しておくから、今夜はもう休みなさい」
謝られた。しかも、父は今にも泣き出しそうだった。
私はますます困ってしまい、とりあえずベッドへ戻ることにした。どうやら魔力が急に戻ってきたせいか、先ほどから妙に頭が重い。身体は驚くほど軽いのに、眠気だけが強くなっていくのである。
父は私が横になると、昔からそうしていたような手つきで額に触れた。知らない人だと思っていたはずなのに、その手が思いのほか馴染んで、私は少しだけ不思議な気持ちになる。
明日になったら、ちゃんと話そう。妹には少し申し訳ないけれど、魔力を全部譲渡してやる必要はないはずだ。お医者さんだっているのだから、何かいい方法が見つかるだろう。
そう考えているうちに、私は眠ってしまった。
夢を見た。
母の膝の上に、小さな赤ん坊がいる。私はその子を抱っこしたくて仕方がなくて、何度も母の袖を引っ張っていた。ようやく抱かせてもらうと、赤ん坊は私の指を握ってくれた。小さな爪が透けるように薄くて、力を入れたら壊れてしまいそうだったので、私は恐る恐る手を握り返した。
「おかあさま、ノエルのおてて、ちっちゃいねえ。わたしのゆび、ぎゅってしてるよ。かわいいねえ」
母は笑っている。父も仕事から帰ると真っ先に赤ん坊のところへ来て、今日は何をしたのかと私に尋ねてくれた。私は、ノエルが何回くしゃみをしたとか、お乳を飲んだあとにしゃっくりをしたとか、そんなことを得意になって報告していた。
妹が生まれたのは、私が五歳になった年だった。母のお腹に赤ちゃんがいると教えてもらったときは嬉しくて、家中の使用人に話して回った。女の子だったらお人形遊びをするし、男の子だったらお馬さんごっこをしてあげようと、まだ顔も見ていないうちから計画を立てていたのを覚えている。
けれど、生まれてきた妹は、私が想像していた赤ちゃんとは少し違っていた。よその家の赤ちゃんは大きな声で泣くのに、ノエルはほとんど泣かなかった。お乳もあまり飲めず、抱っこすると身体が軽くて、父と母が何度も医師を呼んでいた。
そのうち、私は妹に触らせてもらえなくなった。少し触れただけでも熱が上がることがあり、母は眠る間も妹のそばを離れられなかった。父も仕事から戻るとすぐにノエルの様子を確かめ、私は侍女に連れられて別の部屋で遊ぶことが増えた。
寂しかったので、お人形を抱っこしていた。妹が元気になったら一緒に遊べるようにと、何度も練習していたのだ。
ある日、父と母に連れられて大きな病院へ行った。診察室には白い髪の医師がいて、父が何度も頭を下げていた。母はノエルを抱いたまま泣いている。私は椅子に座って足をぶらぶらさせながら、早く帰ってお人形を見せてあげたいなあと思っていた。
生来性魔力環流不全症。
医師が告げた病名を、私はずっとあとになってから覚えた。
人間の身体には魔力が流れている。魔力は成長や治癒にも必要なもので、子供のころには大人よりも多くの魔力を使って身体を育てるらしい。
けれど、ノエルの身体は自分の魔力をうまく循環させることができなかった。せっかく生み出した魔力が身体を巡る前に散ってしまい、成長するための力が足りなくなるのだという。
治療には健康な人間の魔力を使う必要があった。ただ送り込むだけではなく、患者の身体を通った魔力を送り主へ戻し、再び患者へ送る。魔力の通り道ができるまで何度も循環させ、患者自身の魔力器官を育てていくのだと、医師は父に説明していた。
けれど、父の魔力は適合しなかった。母も駄目だった。親戚や知人にまで検査を頼んだけれど、適合する人間は見つからなかった。
そうして、最後に検査を受けたのが私だった。
私の魔力なら、ノエルの身体を正常に巡ることができる。ただし、治療には長い時間が必要で、その間、私は自分の魔力のほとんどを妹へ送り続けなければならない。身体の成長にも影響が出るかもしれないし、強い魔法を使うことは難しくなるだろうと説明されていた。
父は何度も首を振っていた。母も私を抱きしめたまま、ほかに方法はないのかと医師に尋ねている。私は大人たちが何を話しているのかよくわからなかったけれど、ノエルが死んでしまうかもしれないということだけは理解していた。
そんなの、嫌だった。せっかく生まれてきた妹なのに、まだ一緒にお人形遊びもしていない。歩けるようになったらお庭を案内してあげるつもりだったし、私が学校へ行くようになったら、帰ってきてから覚えたことを全部教えてあげようと思っていた。
だから、私はノエルを抱きしめた。母が慌てて支えてくれたけれど、構わずぎゅっと抱っこして、それから医師へ向かって言った。
「わたしがやる! わたしのまほう、ノエルにあげるの!」
父と母は驚いていた。医師も困ったように笑い、これはあなたが思っているよりずっと大変なことなんですよ、と説明してくれた。けれど、そんなことを言われたって、私にはどうして大人たちが迷っているのかわからなかった。
「やだあ! ノエル、わたしのいもうとだもん! わたしのまほうでげんきになるなら、ぜんぶあげる! だってだいすきなんだもん! わたしおねえちゃんだもん!」
泣きながらそう言うと、ノエルまで泣き出してしまった。父も母も泣いていて、結局その日は家族みんなで泣きながら帰ったのを覚えている。
治療が始まったのは、それから少し経ってからだった。
父と母は最後まで迷っていたけれど、ノエルにはもう時間がなかった。私のほうは、自分の魔力を生み出す器官が十分に育っていて、治療を続けても命に関わるような影響はないと説明された。それでも、つらくなったらいつでもやめていいのだと、医師は何度も念を押していた。
そのとき渡されたのが、青い石のペンダントだった。
私とノエルのために作られた魔力循環器。私が送り出した魔力は妹の身体を巡り、私のところへ戻ってくる。戻った魔力に自分の魔力を足して、再び妹へ送り出す。そうして二人の身体の間を何度も循環させることで、ノエルの魔力器官を育てていく仕組みだった。
魔力を繋ぐためには、与える側の意志が必要になる。私が本当に嫌になれば、いつでも循環を止めることはできたけれど、急に止めてはいけないとも教えられた。長い時間をかけて私の魔力に頼るようになった妹の身体は、ある日突然それを失えば、自分の魔力だけでは生命を維持できなくなるかもしれない。
だから、やめたくなったら必ず先生に相談すること。自分だけでペンダントを外したり、壊したりしないこと。
私は何度も頷いたけれど、心の中では、絶対に外すわけがないと思っていた。だって、ノエルが死んじゃう。そんなこと、私がするわけないじゃない。
それから十年以上、私は妹と一緒に育った。
ノエルは少しずつ元気になり、初めて寝返りを打ち、立ち上がり、私の名前を呼んでくれるようになった。幼いころは何度も熱を出していたけれど、五歳になるころには庭を歩き回れるようになり、七歳になったときには初めて魔法を使った。手のひらに小さな光を灯して見せてくれたとき、私は嬉しくて何度も拍手した。
その一方で、私のほうは魔法の授業で落ちこぼれてしまった。ほかの子供たちが水を出したり、火を灯したりしているのに、私は指先から小さな火花を出すことさえできない。何度も練習していると気分が悪くなり、保健室へ運ばれたこともあった。
悔しくて泣いた日には、父が好きなお菓子を買ってくれた。母は魔法が使えなくてもあなたには素敵なところがたくさんあるのよと慰めてくれて、ノエルは私の代わりに先生へ文句を言いに行こうとした。自分のせいで私が魔法を使えないのだと知っていたから、妹は私の前で魔法を使うことを遠慮するようになった時期もある。
私はそれを叱った。せっかく使えるようになったのに、もったいないじゃない。私のことなんか気にしないで、好きなだけ魔法を使えばいいのに。ノエルが元気になってくれたことが嬉しいのだから、私の前でもっと見せてほしかった。
そう言ったら、あの子は泣いてしまった。お姉ちゃん大好き、と抱きついてきたので、私も大好きだよ、と抱きしめ返した。
治療費は高額だった。専門医の診察を受けるだけでも大変な費用がかかり、魔力循環器の調整や薬代も必要になる。父は領地の仕事を増やし、母も実家の伝手を頼って商売を始めた。私が療養しなければならない日には、どちらかが必ずそばについていてくれたけれど、私たちが大きくなるにつれて仕事は増え、家族揃って食事をする機会も少なくなっていった。
ノエルが十歳になったころ、医師から病状が大きく改善していると教えられた。身体の成長とともに魔力器官も発達していて、自分の魔力を少しずつ循環させられるようになっているという。まだ外部からの供給は必要だけれど、この調子なら治療を終えられる可能性も十分にあると聞かされ、父も母も泣いて喜んでいた。
その日は家族で食事をして、ノエルが作った小さな魔法の花火を眺めた。私も真似しようとしたけれど失敗してしまい、妹に笑われたので、今に見ていなさいよと宣言したのを覚えている。
それから二年。事故に遭う少し前のことだった。
私たちは揃って、医師の診察を受けていた。
「良好です。これほど順調に魔力器官が発達するとは、正直なところ、私も予想しておりませんでした。あと数ヶ月もすれば、ご自身の魔力だけで身体を維持できるようになるでしょう。そうなれば徐々に環流を弱め、最終的には装置を外すことができます」
母が泣いていた。父も目元を押さえ、何度も医師に礼を言っている。ノエルは私の手を握ったまま、何がそんなに嬉しいのかと思うほど笑っていた。
「お姉ちゃん、聞いた? あとちょっとだって! 私ね、ずっとお姉ちゃんと一緒に魔法の練習をしたかったの。だから、ペンダントを外せるようになったら、最初に私が教えてあげるね!」
妹は得意そうに胸を張っていた。最近では初等部の魔法をひと通り使えるようになり、先生からも褒められているらしい。私はそんな妹を見ながら、いよいよ私も魔法を使えるようになるのかと思ったものの、今さら十七歳で初等部の魔法を習うのも少々恥ずかしいような気がした。
帰りの馬車では、妹がずっとお喋りしていた。魔法が使えるようになったら一緒に何をしようか、学校が休みの日にはどこへ遊びに行こうか。私もつられて色々な話をして、今度の休みには二人でお菓子を作ってみようと約束した。
その翌日、私は階段から落ちた。
足元がふらつき、手すりを掴み損ねて、そのまま数段転がり落ちたらしい。幸い骨折などはなかったけれど、頭を強く打ってしまい、しばらく意識が戻らなかったという。
父は知らせを聞くとすぐに王都へ使いを出した。母は治療費を用意し、主治医を呼ぶための手続きを整えた。王家の治療にも携わったことのある高名な医師で、病院から出てきてもらうだけでも相当な費用がかかる。その人を呼ぶために、両親は仕事も予定もすべて変更して奔走していた。
私が目覚めたとき、枕元にいた白髪の医師。銀糸の刺繍が入った袖口と、胸元に下げられた青い石の時計鎖。
私が五歳のころから診てもらっていた先生だった。
事故の後、両親がなかなか会いに来なかったのは、私とノエルの治療を続けるために働いていたからだった。今世の記憶を失っていることを心配して、医師には何度も相談していたらしい。私が眠っている間に部屋を訪れ、顔色を確かめ、侍女から一日の様子を聞いていた。
夢の最後に、昨日の自分が見えた。
私はベッドの上に座り、青い石を握っている。父が何か言おうとしていた。母も慌てて手を伸ばしていたけれど、私はそれより先に鎖を引き抜いた。拒否、否定、それに反応して、亀裂が走る。やめて、と、手を伸ばした。どこにも届かない手は、夢の中の私と重なる。
手のひらで石が砕ける。
父の手が、私の手首を掴んだ。
ノエル。
あの子は笑っていた。
元に戻るだけだよ。
私は目を覚ました。
窓の外はすっかり暗くなっていて、枕元のランプだけが部屋を照らしていた。寝具に触れる手の感覚も、遠くから聞こえてくる使用人たちの足音も、何もかもが妙にはっきりしている。起き上がろうとして、胸元に手を伸ばした。
何もない。
私はベッドから飛び降りた。今までなら立ち上がるだけでも息が上がっていたのに、今日は身体が軽かった。廊下へ出て階段を駆け下りても、少しも苦しくない。足を止めたくてたまらなかったけれど、止まることができなかった。
「ノエル! ノエル、どこにいるの!」
妹の部屋は一階の奥にある。幼いころは階段を上ることさえ難しかったので、父が改装してくれた部屋だった。私の部屋からは少し離れているけれど、昔は毎日のように通っていたので、暗い廊下でも迷うことはない。
部屋の前には、何人もの使用人が集まっていた。いつもなら私を見ると笑顔で挨拶してくれる侍女が、壁に寄りかかって泣いている。執事は廊下の真ん中に立っていて、私の姿を見ると何か言いかけたけれど、結局何も言わずに道を空けた。
私は扉を開けた。
ノエルが寝ていた。白い寝具の上に金色の髪を広げ、いつもと同じように目を閉じている。昔から寝相の悪い子だったのに、今日は毛布がきちんと掛けられていた。頬には少しだけ赤みが残っていて、口元も緩んでいる。何か楽しい夢を見ているような顔だった。
父がベッドのそばに座り、妹の手を握っていた。母は反対側にいて、ノエルの髪を撫でている。部屋の隅には白髪の医師が立っていたけれど、私が入ってきても何も言わなかった。
「お父様、ノエルはどうしたの? 先生もいらっしゃるんでしょう、だったら早く治療を再開してあげて。私の魔力はもう戻っているから、今なら前よりもたくさん送ってあげられると思うの」
父は私を見た。何かを言おうとして、けれど言葉にならなかったらしく、妹の手を握り直した。
私はベッドへ近づき、ノエルの肩に触れた。冷たかった。毛布が薄いのかと思い、もう少し引き上げてやったけれど、妹は身じろぎひとつしない。
「ノエル、起きて。お姉ちゃん、さっきはごめんね。私、頭を打ったせいで、何も覚えていなかったの。だから、もう一度ペンダントを作ってもらおうね。先生もいらっしゃるし、きっとすぐに治療を再開できるから」
妹の頬に触れると、思っていたよりもずっと冷たくて、私は慌てて母の顔を見た。ノエルは寒がりで、冬になると私のベッドへ潜り込んできた。私が熱を出して寝込んでいたときも、一人で眠るのが嫌だと言って私のところへ来ようとしたくらいだ。私はそれに、仕方ないわねえ特別にゆたんぽになってあげるねと笑って抱きしめていた。私の体調が悪くなると、いつも「ごめんなさい」と泣きそうな顔をした。そんなのいいのに。元気になったらいくらでも恩を返してもらうんだから。その為ならどれだけ辛くったってへっちゃらなのに。
毛布をもう一枚持ってきてほしいと母に頼んだ。あの子は蜂蜜を入れた温かい牛乳も好きだから、起きたら飲ませてあげよう。
まだ小さかったころには、薬を飲んだあとに甘いものを食べさせると喜んでくれた。今日は何を用意してもらえばいいだろう。厨房に頼めば、きっとノエルの好きなものを作ってくれるはずだった。あまーいホットミルクに、ミントの葉を一枚だけ乗せるのが最近のお気に入りだ。私がそうやって飲んでいたから、大人っぽいといっていた。いくつになっても真似っ子ばかりなんだから、こまっちゃう。
母が泣いていた。声を上げることもできず、ただ私の名前を呼んでいる。父は私を抱き寄せようとしたけれど、私はその腕を振りほどき、医師のところへ駆け寄った。
「先生、お願いです。もう一度、ノエルに魔力を送ってください。あの子、まだ十二歳なんですよ。先生が、もう少しでペンダントを外せるようになるって、そう言ってくださったんでしょう?」
医師は私の手を握った。あの人の手は、昔から大きくて温かかった。診察のときにはいつも私の手を取って、魔力の流れを調べてくれていたので、私はその感触をよく覚えている。
「リゼット様、私もできる限りのことはいたしました。しかし、すでに環流は完全に断たれており、ノエル様の魔力器官は……」
「だったら、私の魔力を使ってください。今ならもう、どれだけ送っても大丈夫ですから。先生、私の魔力を全部使っていただいても構いません。あの子が元気になるなら、私、これからもずっと頑張りますから。魔法なんて一生使えなくていいんです! 先生、お願いします、お願い……っ」
先生は、私から目を逸らした。私はその人の袖を掴んでいたけれど、何も言ってもらえないので、仕方なくノエルのところへ戻った。
妹の手を握った。
幼いころ、ノエルは眠っていても私が手を握ると、握り返してくれることがあった。もう少し大きくなってからは、私の手を引っ張って自分の頬に当て、冷たいから温めてほしいと甘えるようになった。今日はどうしても起きてくれないので、試しに頬へ手を当ててみたけれど、やっぱり何も返ってこない。
最近は母に似てきたと皆が言っていたけれど、私には父にもよく似ているように思えた。笑うときに少し鼻を鳴らすところなんて、父にそっくりなのだ。本人にそう言うと嫌がるので、あまり口にはしなかったけれど。
あの子は、昨日、薔薇を抱えて庭を走っていた。
今度の休みには一緒にお菓子を作ろうと約束していたのに、何を作るのかはまだ決まっていなかった。ノエルは焼き菓子が好きだけれど、私は果物の入ったものが好きなので、いつもそこで意見が分かれてしまう。結局二種類作ることになるのだけれど、私たちはそれをわかっていて、毎回同じような相談をしていた。
私は妹の手を握ったまま、母が何か言うのを聞いていた。
「リゼット、あなたのせいじゃないのよ。あの子は、もう十分に頑張ったの。生まれたときは一年も生きられないかもしれないと言われていた子が、こんなに大きくなって、走れるようになって、魔法まで使えるようになったんだから。あなたのおかげで、私たちは十二年も、あの子と一緒に暮らせたのよ」
母は私の肩を抱き、顔を寄せてきた。昔から、泣いているとこうしてくれる人だった。学校で嫌なことがあった日も、熱が下がらなくて怖くなった夜も、母は私の身体を抱きしめて、もう大丈夫よと言ってくれた。
「ノエルは最後まで、あなたが魔法を使えるようになってよかったって話していたわ。お姉ちゃんには私よりもずっとたくさん魔力があるんだから、きっとすごい魔法使いになれるよって。だから、どうか自分を責めないでちょうだい。あの子はね、神様からお預かりしていた大切な子を、神様にお返ししただけなのよ」
母は泣きながら、私の頬を撫でてくれた。
その手がひどく荒れていた。最近は仕事が忙しく、指先に小さな傷ができることもあったので、私は以前、母のために手袋を買ったことがある。今度はもっと柔らかいものを選ぼうと思っていたけれど、結局そのままになってしまった。
父も私を抱きしめてくれた。大きな手で背中を撫でられて、私は五歳のころに戻ったような気がした。あのとき父は、何も心配しなくていいんだよと何度も言ってくれたけれど、私はノエルを抱っこしたまま、絶対に魔力をあげると言い張っていた。
先生も、父も母も、何度も私に確認した。
本当にいいのかと。
私は、何度聞かれても同じように答えたのだ。
今度はその私に、父が何も悪くないと言っている。母も、どうか自分を責めないでほしいと泣いている。
私はノエルの手を握り直した。
あの子が小さかったころ、どちらの手が大きいかと比べたことがある。まだ赤ん坊だったので、私の指一本を握るのがやっとだった。あれから十二年も経って、私とあまり変わらないくらい大きくなったのに、もう握り返してくれない。
戸田菜都美。
前世の自分の名前を思い出した。
二十六歳で死んだ、知らない世界の女。仕事に疲れ、自分の人生を生きたいと願いながら死んだ、私とは別の人生を送った女。
私はノエルの顔を見た。少し開いた唇の間に、前歯が見えている。成長が遅れ気味のノエルは、去年ようやく最後の一本が生え替わって、少しだけ大きいのを気にしていたけれど、私は可愛いと思っていた。笑うときには口元を隠さないほうがいいよと言ったのに、最近はすっかり癖になってしまったらしい。
その口元を、もう隠さなくなった。
「……戸田、菜都美」
自分の口から出た名前が、ひどく気持ち悪い。
私はそんな名前じゃない。リゼット・オルブライト。ノエルの姉で、この子が生まれたときからずっと一緒にいて、世界で一番大好きな妹のために魔力をあげると約束した、ただの姉だった。
それなのに、あの女が。
あの女が、私の頭の中に出てきたから。
「戸田菜都美っ……なんでお前出てきたんだよおおおおおっ!」
叫びながら、自分の顔を何度も殴った。父が慌てて腕を掴んだけれど、振りほどいて、今度は髪を掴んだ。頭を打ったところが痛んだので、もっと痛くしてやろうと思った。
あのとき頭なんか打たなければよかった。いっそ目を覚まさなければ、前世の記憶なんて戻らなければ、ノエルは今ごろ自分の部屋で眠っていて、明日の朝にはいつものように私を起こしに来たはずなのに。
父に両腕を押さえられても暴れ続け、母が泣きながら名前を呼んでいるのも構わず、自分の身体をどうにかして傷つけようともがいた。
私が痛がるたびに父の腕へ力がこもり、そのたびに余計なことをしないでと喚いた。どうして止めるの。何で私ばっかり助けるの。
もう何もいらないから、魔力も、健康な身体も、これから先の人生も全部持っていっていいから、あの子を返してよ。言葉にならない声で泣き叫んでいるうちに、父が床へ膝をつき、私を抱え込んだ。母も背中からしがみついてきた。二人がかりで押さえられて、ようやく身動きが取れなくなった私は、それでも足をばたつかせ、喉が痛くなるまで叫び続けた。
ベッドの上ではノエルが眠っていた。騒がしいとすぐに起きてしまう子だったのに、今夜はこんなにうるさくしても目を開けない。せっかく綺麗に梳かしてもらった髪が毛布の端からこぼれていたので、直してあげたかった。いつもそうしていたように、耳の後ろへかけてあげたかったのに、父が私の手を離してくれない。
お願いだから離してと頼んでも、父は首を振るばかりで、母は私の背中に顔を押しつけて泣いていた。私は二人の間でもがきながら、ノエルの名前を呼んだ。
起きて、お願いだから起きて。お姉ちゃんが悪かったから。もう絶対にあんなことしないから。
何度も謝っているうちに、自分が何を謝っているのかもわからなくなった。ただ、あの子に聞いてほしかった。私がどれほどあの子を愛していたのか、ちゃんと覚えているうちに伝えておけばよかった。
きっとノエルは、そんなこと知ってるよと笑っただろう。いつもみたいに私を許して、それからお腹が空いたと言うのだろう。私はその返事を待ちながら、父と母に押さえられたまま、いつまでも妹の名前を呼んでいた。

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