不器用な彫像たち

 王立グレイヴァル学院で《氷の彫像》といえば、第三王子オルディス・フェルナードと、その婚約者エルシェナ・ヴァルクライア公爵令嬢のことを指す。廊下ですれ違えば足を止め、きちんと礼を交わす。隣り合って席につけば必要な会話もする。ただ、それだけだった。

 どちらも目を引くほど整った顔立ちなのに、相手を前にした途端、その美貌は揃って愛想を忘れる。仲睦まじい婚約者というより、よく出来た彫像を二体並べておいたようだと、いつからかそんな呼び名が定着していた。

 

 長い付き合いのわりに淡々としている、と周囲は面白がった。昼餐の席で給仕がオルディスに菓子を勧めれば、本人が口を開くより先にエルシェナが「殿下にはこちらを」と香草を利かせた塩味の焼き菓子へ視線を向ける。オルディスも異を唱えず、代わりに彼女の紅茶へ添える砂糖だけは、給仕が尋ねる前に「今日は二つ」と告げた。

 翌日の講義では、西日の差す席に座ろうとしたエルシェナへ、オルディスが何も言わず自分の席を引いて譲る。彼女も礼を述べず、当然のようにそこへ腰を下ろした。そんなときだけ、二人のあいだには長年連れ添った夫婦じみた遠慮のなさが覗くのだが、顔を見合わせて笑うことはやはりなかった。

 

 

 春、新入生の中にミレッタ・ノールという平民の娘がいた。魔法理論の講義では教師の板書に首を傾げ、古代術式の演習では上級生の計算違いを見つけ、気づけば研究室へ連れていかれている。

 そんな調子で名前だけは早々に知られたが、本人はいたって気安かった。王族専用の資料庫へ初めて入った日など、緊張しすぎて扉脇に立つ石像へまで「本日はよろしくお願いいたします」と頭を下げたという。司書に初代学院長の像だと教えられると、しばらく黙ったあと、引っ込みがつかなくなったのか「え、偉い方なので、なおさら挨拶しておいてよかったです」と顔を赤くして返した。その話ばかりは、彼女がどんな術式を解いたという噂よりずっと早く学院中を駆け回った。

 

 

 折悪しく、その頃の王都では平民の奨学生と王子の恋物語が流行っていた。書店を覗けば、流行にあやかったらしい似たような題名と表紙が平積みにされ、昨日まで一冊だったものが翌週には三冊へ増えている。

 国が豊かになり、識字率が上がったおかげで、本はもう貴族や学者だけのものではない。

 町娘も職人の徒弟も、少し小遣いを貯めれば流行りの物語を買える時代になっていた。

 

 優秀だが身分の低い少女、彼女に惹かれる王子、嫉妬の末に道を踏み外す高位貴族の婚約者。そして最後には華やかな宴で悪事を暴かれ、婚約を失う。そこまでがお約束である。そんな筋書きが王都中に溢れているところへ、オルディスがミレッタをたびたび傍へ置くようになった。当然、学院の生徒たちは現実のほうにも勝手に配役を始めた。

 

「昨日も殿下と一緒に図書塔から出てきたわ。あの子、王家の封印がある資料まで持っていたでしょう」

 

「研究の手伝いらしいけど、例の小説も最初はそうだったぞ。王子が奨学生の才能を認めて、特別に資料を貸すところから始まるんだ」

 

「あなた、あの本を馬鹿にしていたのに、どうしてそんなに詳しいのよ」

 

「妹が食卓で全部しゃべるんだよ。僕が読破したみたいな顔をするな」

 

 食堂の一角で笑いが起きた。その少し離れた席では、件の流行小説を本当に読破したらしい男子学生が、何も聞こえなかった顔でそっと視線を逸らしている。

 

 噂の続きを考えるには、エルシェナの態度もずいぶん都合がよかった。

 オルディスがミレッタを連れて廊下を歩いていても、彼女は足を止めず、いつもと変わらぬ会釈だけを残して通り過ぎる。

 二人で話しているところを見かけても、聞こえてくるのは生徒会の議題だの領地政策だの、色気の欠片もない話ばかり。オルディスのほうも彼女を呼び止めない。

 怒るでもなく、睨むでもなく、あまりに平然としているものだから、「きっともう何を言っても無駄だと諦めているのよ」と、エルシェナは知らないうちに失恋まで済ませたことにされていた。

 

 秋に入ると、噂好きには格好の出来事まで転がり込んできた。人通りの少ない旧校舎の脇で、エルシェナがミレッタを呼び止めているところを見かけた学生がいたのである。

 話の中身までは聞こえない。ただ、途中でミレッタの顔色が悪くなり、エルシェナがその肩へ手を置いたところまでは目にしていた。

 

 それが数日もすると、肩へ触れただけの手が腕を掴んだことになった。

 

 さらに噂が回るうち、今度は逃げ道を塞いで詰め寄ったという話へ変わっていく。

 

 しまいには「殿下へ近づかないで」と言ったらしい、と台詞まで生えてきた。

 

 そこまで話が育ってしまえば、誰が実際に聞いたのかを気にする者もいない。 最初の目撃者は、気づけばあちこちで訂正して回っていた。

 見たものについては否定しようもないが、自分の口から出てもいない話まで発端扱いされては困る。相手は第三王子の婚約者にして、公爵令嬢。面白半分に膨らませた噂の出所として名前を残されれば、笑い話では済まなくなる。

 

「そこまでは見てないって。肩に手を置いただけだよ」

 

「でも顔色が変わったんでしょ?」

 

「変わったけど」

 

「じゃあ何か言われたんじゃない?」

 

「だから、それは知らないんだって!」

 

 残念ながら、訂正版のほうはあまり人気が出なかった。そこから「秋の交流会で婚約破棄があるらしい」という予想へ辿り着くまで、そう時間もかからない。何しろ流行小説でも、決着の舞台は華やかな宴と相場が決まっている。ここまで材料が揃えば、筋書きとしては申し分ないらしい。とりわけ下級貴族や平民出身の学生たちは面白がり、ついには結果を菓子で賭けようとして寮監に見つかる者まで現れた。

 

「あなたたち、現実と小説を混同しない! 王族と公爵家の婚約を賭け事の種にするなど、学院生として以前に礼を欠いています。お菓子はすべて没収。ついでに今夜の談話室使用も禁止です。少し頭を冷やしなさい」

 

  机の上に積んでいた焼き菓子の包みが、容赦なく寮監の腕へ回収されていく。さっきまで誰が勝つだの外れるだのとはしゃいでいた学生たちは、一転して揃って項垂れた。

 さすがに調子に乗りすぎたらしい。没収されていく菓子を名残惜しそうに目で追った者は、寮監にもう一度睨まれて、慌てて姿勢を正した。

 

 

 そんな騒ぎの中、頑として口を開かない連中もいた。学生自治会の役員や各委員会の長、第三王子や公爵令嬢と親しい高位貴族たち。

 その中には、普段なら恋愛沙汰の匂いを嗅ぎつけた途端に首を突っ込んでくる伯爵家の次男まで混じっていたのだが、今回に限って何を聞いても歯切れが悪い。

 

「あなたが黙っていると気味が悪いわ。何か知っているんでしょう?」

 

「知らないよ。君たちが言ってる通り、交流会になれば何か分かるんじゃないか」

 

「今、私の顔を見ないで言ったわね」

 

「見たら見たで怪しいって言うだろ。もう好きに疑ってくれ。俺を逆さにして振ったって何も出ないぞ!」

 

 とうとう両手まで上げて降参した彼だったが、その態度すら「そこまでして隠すなんて」と受け取られた。おかげで噂は一段階先へ進み、上級貴族のあいだでは、いつの間にか「すでに破談は決まっているらしい」という話まで出来上がっていた。

 

 

 秋の交流会当日、大広間は深緑と葡萄酒色の布で彩られ、柱には紅葉した枝と木の実があしらわれていた。今年のドレスコードは《実りの秋》。深い緑、赤、琥珀、焦茶、金といった秋を思わせる色を装いのどこかに取り入れることになっている。

 

 その会場へ、ミレッタは純白のドレスで現れた。 しかも隣を歩くのはオルディスである。 ざわめきが一度だけ大きくなり、すぐに押し殺された。

 白いドレスは秋色に染まった広間では嫌でも目につくうえ、普段のミレッタが身につけているものとは仕立ても生地も違う。オルディスと並んで歩く姿を見て、流行小説を知る学生たちが互いに目配せした。あまりにも、それらしい登場だった。

 

「本当に来た。しかも白よ」

 

「さすがに偶然じゃないだろ。あの小説の……じゃない、エルシェナ様もいるし」

 

「今、登場人物の名前を言いかけたでしょう」

 

「緊張してるんだよ。人の婚約破棄を見るの初めてなんだから仕方ないだろ」

 

 期待を隠さない者がいる一方で、王族と公爵家の揉め事を本当に目の前で見せられるのかと青ざめている者もいた。

 

 その頃、エルシェナは少し離れたところで友人たちに囲まれていた。

 

 オルディスはミレッタと話しながらも、給仕が彼女たちの卓へ近づいたあたりで一度そちらへ目を向ける。盆の上を見て、わずかに眉を寄せた。

 やがて給仕が新しい飲み物を差し出すと、エルシェナが手を伸ばすより先に、通りかかったオルディスがその一つを別の杯へ取り替えた。どうやら彼女の苦手な香草が入っていたらしい。エルシェナも理由を尋ねず、そのまま受け取る。

 

 

 そんな何気ないやり取りを見ても、学生たちの解釈は変わらなかった。「別れを前にしても礼儀だけは崩さないのね」と、勝手にしんみりした話へ落ち着いていく。

 

 やがて楽団が一曲を終えると、広間には拍手が広がった。その音が静まりきる前に、オルディスがミレッタを伴って中央へ進み出る。純白のドレスが動いたことで、あちこちからまた視線が集まった。

 

 あれほど噂を楽しんでいた学生たちには、それだけで十分だった。友人の袖をそっと引く者、思わず背筋を伸ばす者、期待を隠しきれず目を輝かせる者までいる。寮監に菓子を没収された面々など、今度こそ賭けておけばよかったと言いたげな顔をしていた。

 

 その一方で、少数ながら浮き足立つ様子のない学生もいた。学生自治会の役員たちは静かに杯を卓へ戻し、隣から何か囁かれても返事をしない。ただ正面を見ている。

 

 オルディスが片手を上げると、拡声魔法の淡い光が広がった。

 

「今夜は皆に報告がある」

 

 そこで一度、言葉が切れた。 広間のあちこちで息を呑む気配がした。とうとう来た、とでも言いたげに顔を見合わせる者がいる。

 エルシェナへ視線を走らせる者も少なくない。本人は友人たちの中で静かに立ったまま、特に顔色を変えていなかった。 オルディスはそんな空気に構わず続けた。

 

「以前から続いていた嫌がらせの実態を突き止めるため、ミレッタ・ノール嬢には調査へ協力してもらった。私が彼女をそばへ置いていたのも、その一環だ」

 

 オルディスはいったん言葉を切り、隣に立つミレッタの白いドレスへ目を向けた。

 

「本来、今夜は学院が用意した特待生用の衣装を着てもらう予定だった。だが、そのドレスから有害な薬品が検出された」

 

 広間の空気が、目に見えて張りつめた。「まさか」「そんな」と押し殺した声があちこちから漏れる。

 けれど思い返せば、オルディスとの噂が立つより前、ミレッタは何と呼ばれていただろう。教師に意見し、上級生の研究へ加わり、目立つ成績を上げる彼女を、「出しゃばりな平民女」と囁く声は確かにあった。

 

「発覚したのが交流会の直前だったため、学院側では代わりを用意できなかった。ヴァルクライア公爵家にも協力を願い、急ぎ彼女の寸法へ直せる衣装を探していただいたが、間に合ったのがこの一着だった」

 

 公爵家の名が出たところで、エルシェナが静かに一歩下がり、裾をつまんで淑女の礼を取った。それに気づいたミレッタもすぐさま彼女へ向き直り、腰から深々と頭を下げる。貴族令嬢なら決してしない礼だったが、平民の彼女にとっては、それ以上ないほど丁重な感謝だった。

 

「今夜のドレスコードに沿わない衣装を着せることになった責任は、学院と私にある。ミレッタ嬢本人には何の非もない」

 

 オルディスがそう告げると、壁際で給仕をしていた男が胸元から黒銀の徽章を取り出す。楽団のそばで譜面を整えていた青年も、回廊に控えていた侍従も、入口近くで学生と談笑していた若い教師も、同じ紋章を掲げる。

 学監警務院の徽章を知る者から顔つきが変わった。それにつられるように周囲の声も途絶え、広間には先ほどまでの浮ついた気配が残らなかった。

 

「証拠はすでに確保している。長く調査へ協力してくれた者たちにも礼を言いたい」

 

 先ほどから静かだった学生たちが、示し合わせたように右手を胸へ当てた。それは今回の調査に加わった者へ事前に決められていた合図だった。学生自治会役員、委員長格の生徒たち、寮長、高位貴族の子弟、商家出身の特待生。例の伯爵家の次男も、その中にいる。

 

 「知ってたじゃない」 隣の友人が低い声で責めると、彼は胸へ手を当てたまま顔だけ向けた。

 

「今それを言う?黙っていろって言われてたんだから仕方ないだろ」

 

「知らないって言いながら目を逸らすから、私はてっきり破談を隠しているのかと思ったのよ」

 

「僕が有能すぎてすまないね。ほら、目を付けられる前に黙りたまえよ。庇ってやらないぞ」

 

 その小声を拾う者もいたが、今度ばかりは噂へ育てる余裕がなかった。

 

 オルディスは広間を見渡した。

 

「頼まれて噂を広めた者、手紙を運んだ者、金品と引き換えに偽証した者、嫌がらせだと知りながら手を貸した者。

覚えがあるなら、自分から学監警務院へ名乗り出てほしい。自発的な申告については内容を確認したうえで温情を求める。

自分ではただ噂話に加わっただけだと思っていても、誰かに話を広めるよう頼まれた、同じ話を繰り返し吹き込まれた、金品を受け取ったなど、少しでも不審な点に心当たりがある者は申し出てほしい」

 

 広間の端で、男子学生が見るからに青い顔で友人へ何か囁いた。聞かされた側はしばらく黙ったあと、警務官のいる方角を顎で示す。男子学生は警務官と皿の上の菓子を交互に見たあと、覚悟を決めたように菓子だけ口へ放り込んだ。

 

「最後に食うものがそれでいいのか」

 

 友人の一言に、張りつめていた周囲から思わず笑いが漏れる。オルディスまで口元を緩めた。

 

「自ら名乗り出る者まで遺言を用意する必要はない。我が国の法は、過ちを認めて悔いる者にまで無慈悲ではないからな。警務院に心当たりのない者は、予定通り交流会を楽しんでくれ」

 

 王子は差し出された杯を受け取る。

 

「これから先、努力した学生の将来が、つまらない悪意で潰されない学院になることを願う。平和な学院へ乾杯!」

 

 最初に杯を掲げたのは調査へ協力していた生徒たちだった。教師が続き、やがて広間全体から声が返る。楽団の演奏も戻り、すぐ普段通りとはいかなかったものの、関係のない学生たちは少しずつ料理へ戻っていった。

 

 先ほどの男子学生も、しばらくして警務官のところから戻ってきた。肩を落とし、見るからにしょぼくれた顔をしているくせに、席へ着くなり真っ先に菓子を皿へ取ったあたり、食欲までなくしたわけではないらしい。

  幸い、彼は事件の中心にはいなかった。面白半分に噂を広めたことは既に把握されており、こっぴどく叱られ、だが厳重注意だけで済んだという。

 

 ただの恋愛沙汰だと思って囃していたものが、実際には学院に根を張った差別と嫌がらせの一端だった。その落差は、さすがに堪えたようだった。

 

 

 

 その日、エルシェナは最後まで騒ぎの中心へ出なかった。ミレッタとも話さず、帰り際にオルディスと短く目を合わせて広間を出る。

 

 婚約破棄の噂はさすがに消えたが、二人の仲が冷え切っているという話まで一緒になくなったわけではない。事件のために協力していただけではないか、家同士の都合で別れないだけだろうと、懲りない者は次の筋書きを作り始めた。

 

 そこへ横から水をぶちまけたのが、ミレッタ本人だった。

 

 友人から「旧校舎の脇でエルシェナ様に脅されていたと思っていた」と聞かされた途端、それまで機嫌よく焼き菓子を食べていた彼女が本気で腹を立てたのである。

 

「私のことを好き勝手に言った人たちにも腹は立つわよ。でも、それよりエルシェナ様まで陰険な女みたいに言われていたほうが許せない! あの時ばかりは、もう調査のことなんか全部ぶちまけてやろうかと思ったわ。あんなに良くしてくださったのに!」

 

「それなら、あの時は何を話していたの?あなた、ずいぶん顔色が悪かったって聞いたわ」

 

「あの日のことは忘れもしない……一言一句諳んじられるわ。エルシェナ様は私に『あなたの身の安全は必ず守りますからね。見えないところにも護衛をつけています。怖いでしょうけれど、もう少しがんばってちょうだいね』って言ってくださっただけよ! 脅迫状が来た後だったから、それを聞いた途端に気が抜けたの!」

 

「護衛までついていたのね。全然気づかなかったわ」

 

「私だって後から知ったのよ! 図書館にいた人も、門の近くにいた人もそうだったし、市場の焼き栗屋さんまで警務院の人だったの。私、あの人から何回栗を買ったと思ってるのよ!」

 

 焼き栗屋に化けていた警務官は、途中からやたら商売に熱が入り、本物の露店より客を集めかけて上司に叱られたらしい。その話にはミレッタも声を上げて笑った。 しかし、話題がエルシェナへ向いた途端、また腹を立て始める。

 

「帰りが遅くなる日は馬車まで手配してくださったのよ! 公爵家の馬車で迎えに来られたら、それこそ翌日には何を言われるか分からないでしょう? だから、わざわざ平民の私が乗っていても目立たない馬車を用意してくださったの。本当にお優しい方なの……麗しくて、慈悲深くて……」

 

 怒っていたはずなのに、最後のあたりではすっかりうっとりしている。 そこで周囲もようやく気づいた。関係が悪くないどころではない。ミレッタはエルシェナに心酔している。

  調査中は口止めされていた反動もあったのだろう。それからというもの、ミレッタは折を見ては、いかにエルシェナに世話になったかを語るようになった。もともと弁の立つ娘だけあって、その語り口には無駄に説得力がある。

 普段の《氷の彫像》ぶりしか知らない学生が「さすがに少し美化していない?」と疑えば、むしろ待ってましたとばかりに胸を張った。

 

「まあ、私だから特別によくしていただいた可能性はあるけど。成績もいい、勉強も頑張ってる、将来は国に尽くす公務員志望! 私には、それだけの価値があるって……こと!」

 

 腹立たしいことに、混ぜ込まれている事実は誰にも否定できない。自信満々ではあるが、別に誰かを害しているわけでもないので、止める理由も見つからなかった。

 そのうち友人の一人が、「その調子だと、いつか『偉大なるエルシェナ様』とかいう本を出しそうね」と笑った。それを聞いたミレッタはぴたりと黙り 「なるほど……」 と顎に手を当てて何かを考えはじめる。

 

「待って。今のなし。お願いだから着想を得ないで」

 

 軽口を叩いた本人が慌てて止めに入ったものの、ミレッタは返事の代わりに、にこりと美しい笑みを向けるだけだった。学院の礼法講習で覚えた「返答を控えたい時の微笑」を、こんなところで使いこなしている。

 

「やめて。その顔、絶対何か考えてるでしょう」

 

 ミレッタはなおも微笑んでいた。 ずっと先の未来、忘れた頃に『偉大なるエルシェナ様』が出版されても、誰も驚かない気がした。

 

 

 

 

 その話は巡り巡って、オルディスの耳にも届いた。 公爵邸の庭園では、エルシェナが東屋の卓いっぱいに書類を広げている。銀の茶器も焼き菓子もきちんと用意されているので、名目だけなら立派な茶会だが、二人とも茶より先に署名待ちの束へ手を伸ばしていた。

  こうなったのはもう何年も前だ。まだ今より仕事に慣れていなかった頃、終わらない書類を前に二人揃って「永遠ってこういうことをいうのかもしれない」と頭を抱えたことがある。

 次期国王である長兄とその妃は、同じ量の書類でも涼しい顔でさらさら片づけてしまう。その姿を見るたび、オルディスは三番目に生まれて本当によかったと思っていた。あれを毎日やれと言われたら、三日に一度は耐えきれずエルシェナと抱き合って泣いていただろう。人間には限界がある。

 

「後始末もなかなか終わらないね。朝から同じところへ名前を書いていたら、自分の家名が急に知らない言葉に見えてきたよ」

 

「こちらも似たようなものです。先ほど書状を追加された時など、持ってきた侍従まで申し訳なさそうな顔をしていました」

 

「持ってくる人間が謝り始めたら末期だな」

 

 オルディスは署名をひとつ済ませ、ようやく茶へ手を伸ばした。

 

「そういえば、ミレッタが君のことでずいぶん怒っていたらしいよ。自分への悪口より、君が悪く言われたほうが許せないんだって。旧校舎で何を話したかまで、すっかり喋ったそうだ」

 

「まあ」

 

 エルシェナの口元がふっと緩む。ミレッタを思い浮かべると、どうにも神話に出てくる栗鼠を連想してしまう。神樹の枝を渡り、知恵の実をせっせと運ぶ、小さく賢い働き者。ミレッタも何かを教われば嬉しそうに目を輝かせ、次にはもう別の誰かへ伝えようとするところがよく似ていた。

 淑女教育を受けてからは仕草までずいぶん優雅になったのに、その忙しなさだけは隠しきれていない。それが可愛らしくて、護衛をどんな姿で傍につけるか相談された折、つい「焼き栗屋などいかがでしょう」と口にしてしまったのだ。

 

「私は必要なことをしただけなのに。あの方は本当に真っ直ぐですね」

 

「その勢いで焼き栗屋の正体まで学院中へ広めた」

 

「あら。それはお気の毒に。彼は任務が終わって残念がっていたのでしょう?」

 

「よく知ってるね」

 

「新しい焼き網まで買ったと聞きましたもの。そこまで気に入ったのなら、今度こちらの庭で焼いていただこうかしら。親しい方だけの小さな集まりなら、少しくらい変わった余興があっても楽しそうでしょう?」

 

 言いながら、エルシェナはもう半分ほどその光景を思い描いているらしい。庭のどこなら煙が流れても困らないか、栗を盛るなら銀器より籠のほうが似合うか。茶匙を指先で遊ばせながら、視線だけが書類の上を離れていく。 オルディスもつられて顔を上げた。

 

「ミレッタも呼ぼう。囮役なんてものを引き受けてもらったんだ。終わった途端に、はいご苦労さまでした、ではさすがに薄情すぎる」

 

「ええ。あの方ならきっと喜びますわ」

 

「焼き栗に?」

 

「焼き栗にも、招かれることにも」

 

 エルシェナはそこで少し笑った。

 

「それに、私も一度くらい食べてみたかったんです。あれだけ評判になったものを、結局ひとつも口にしていませんもの」

 

「じゃあ決まりだな」

 

 エルシェナは裏返していた紙を表へ戻し、その余白へさらさらと日付を書き込む。オルディスが横から覗き込み、空いている日の候補をひとつ指した。 どうやら後始末の書類より先に、焼き栗の予定だけは片づきそうだった。

 

 顔を見合わせ、二人で笑う。ひとしきり笑ったあともエルシェナの目元には名残が残っていて、オルディスは茶を飲みながらそれを眺めていた。

 

「学院では、まだ僕たちの仲が悪いと思われているみたいだよ。婚約破棄が消えたと思ったら、今度は家の都合で別れられないらしい」

 

「仕方ありませんわ。オルディス様、人前で笑うと急に愛想がよくなりすぎるんですもの」

 

「君にだけは言われたくないな」

 

 エルシェナが不服そうに眉を上げる。オルディスはその顔を見て、ふと庭の奥へ目をやった。あの辺りで二人して泣いたことがある。

 

 初めて大人たちの茶会へ婚約者として並んで出ることになり、家庭教師から「もう少し笑みは控えてください」と何度も直された日のことだった。

 オルディスは気を許すと表情が明るくなりすぎ、相手によっては特別な好意と受け取られかねない。エルシェナも笑えば年相応の少女らしさが一気に出てしまい、公爵令嬢としては少々無防備に見えるらしかった。

 

 何度やっても合格が出ないまま稽古を終え、その夕方には二人ともすっかり思い詰めていた。 このままでは婚約を解消される。

 どちらが言い出したのか、今となっては覚えていない。ただ、幼い二人にはそれが恐ろしくて仕方なかった。 庭へ逃げ込み、大きな生垣の陰へ隠れたつもりでしばらく別々に泣いた末、エルシェナが「離れたくありません」と言ったので、オルディスも「僕も嫌だ」と答えた。

 それから抱き合って、また泣いた。 泣くだけ泣いて少し頭が働くようになると、子供なりに対策も考えた。一緒にいると気が緩むから、人前では必要以上にくっつかない。会えば嬉しくなって笑ってしまうから、授業中と同じように“しっかり”する。これなら失敗しない。

 

 二人は大発見でもしたように頷き合い、翌日から律儀に実行した。

 

 なお、その一部始終は大人たちに筒抜けだったらしい。 子供の目には壁のように高かった生垣も、大人からすれば向こう側を見渡せる程度の高さしかない。

 そもそも第三王子と公爵令嬢を二人きりで庭へ放り出すはずもなく、護衛も侍女もすぐ近くに控えていた。幼い頃は、オルディスが公爵家を訪れる日に王妃まで顔を出すことも珍しくなく、その日も公爵夫人と茶を飲んでいたという。

  二人が庭で泣いていると侍女から知らされ、母親たちは少し離れたところから、抱き合って「婚約を解消されたくない」と泣く我が子たちを見守っていたそうだ。 この事実を知ったのは、ずっと後になってからだった。

  今では王妃も公爵夫人も、思い出すたびに「本当に可愛らしかったこと」としみじみ語る。 気づいていなかったのだから、一生黙っていてほしかった。

 

「……あの頃は、本気でしたね」

 

 エルシェナも同じことを思い出したらしい。カップを置きながら、小さく笑う。

 

「オルディス様が『笑わなければ失敗もしない』と仰った時、天才かと思いましたもの」

 

「君も大賛成しただろう」

 

「子供でしたから」

 

 あの頃は、それで何もかも解決したつもりだった。そして十年近く経った今も、人前では必要以上に親しくしないという約束だけがしぶとく残っている。

 

  親しい友人たちには、二人の笑い方は評判がいい。王子も公爵令嬢もこんなふうに笑うのかと最初こそ驚かれるが、そのうち「そっちのほうが好きだ」と言われるようになる。

 ただし、腹を抱えたり、互いの肩へ寄りかかったりする姿は、高位貴族の振る舞いとして褒められたものではない。何より二人一緒だと、片方が笑えばもう片方まで釣られるので始末が悪かった。

 

「この前も、生まれた子犬の話をした途端に笑っていらしたでしょう」

 

「君だって今、ずっと笑ってるよ」

 

「ここは公爵家の庭ですもの。眉のような模様の子犬を思い出したって困りませんわ」

 

 言われた途端、オルディスの頭にも例の一匹が浮かんだ。兄弟たちは揃って凛々しい顔をしているのに、あの子だけは目の上に垂れた眉のような模様があり、何をしていても少し困って見える。

 元気いっぱいに庭を駆け回っていてさえ、顔だけは「どうしましょう!」と訴えているようで、初めて見た時には二人ともその場で笑い出してしまった。 思い出したオルディスの口元がまた崩れる。

 

「駄目だ。あの顔を思い出すと笑う」

 

「オルディス様がどうしても手元へ残すと仰ったのでしょう?」

 

「だって一匹だけあの眉なんだよ。手放せるわけないだろう」

 

 婿入りの際には当然、一緒にヴァルクライア家へ連れていくつもりでいる。エルシェナも最初から反対する気はなく、むしろ専用のベッドまで用意させて楽しみにしている。

 

「せっかく一緒に来るのですから、何か役目を差し上げたいですわね」

 

「結婚式に出す?」

 

「国の式典ですよ」

 

 即座に返され、オルディスは笑いながら肩をすくめた。 「じゃあ、身内だけのお披露目のほうで。指輪を運んでもらおうか」 エルシェナは一度きょとんとしてから、例の下がり眉で首輪に指輪をつけられ、事情も分からずこちらへ歩いてくる子犬を想像したらしい。口元を押さえたものの間に合わず、声を立てて笑った。

 

「だめ……そんな顔で大役を任されているところを想像したら……」

 

「本人は真剣に歩いてくるよ。『どうしましょう!』の顔で」

 

 そう言いながら、オルディスは人差し指と中指を卓上へ立てた。とことこと歩かせ、途中で一度止まり、困ったように首を傾げる仕草まで指先だけで再現してみせる。 エルシェナはしばらくその二本の指を眺めていたが、頭の中で例の下がり眉の子犬に置き換わったらしい。

 指輪を託されているとも知らず、ただ一生懸命こちらへ歩いてくる姿が浮かんだのか、口元を押さえた。

 

「ふふ、可愛い……だめ、そんな顔で来られたら、式の途中で笑ってしまいます」

 

 オルディスも指を止めたまま吹き出した。 リングドッグの話でひとしきり笑ったあと、オルディスは目尻に残った涙を指で拭った。これを学院でやれば《氷の彫像》の評判など一日で消し飛ぶだろう。代わりに何と呼ばれるのかは、あまり考えたくない。

 

「結婚式では好きに笑おうか」

 

「結婚式で、ですか?」

 

「これだけ長いこと《氷の彫像》だと思われてるんだ。最後くらい驚かせてもいいだろう。君も僕も、好きなだけ笑って」

 

 エルシェナは少し考えてから、楽しそうに目を細める。

 

「それは面白そうですわね。皆さま、驚いてくださるかしら」

 

「驚くよ。さっきみたいに笑えば特に」

 

「それは少々、はしたないですわ」

 

 そこはオルディスも否定できない。自然に笑えば二人とも年齢より幼く見えるほど表情が崩れるくせに、意識した途端に今度は別の問題が出る。

 オルディスは頬がこわばって、どう見ても作った笑顔になる。エルシェナに至っては完璧すぎた。口元も目元も淑女の見本そのもので、綺麗に整いすぎているせいで、かえって心から笑っていないことが一目で分かってしまう。

 

「好きに笑うのはいいけど、結婚式までには、ほどほどに品よく笑えるくらいにはしたいね」

 

「では、今から練習いたしましょうか」

 

「今から?」

 

 返事を待たず、エルシェナが身を乗り出した。両手でオルディスの頬を包み、指の腹でそっと揉みほぐしていく。

 

「やっぱり固いですわ。オルディス様、無理に笑おうとなさるとすぐここへ力が入るんです」

 

「君だって人のこと言えないよ」

 

「私はこれでも、淑女らしく微笑むことには慣れております」

 

「慣れすぎてるんだよ。完璧すぎて、今から社交辞令を言いますって顔になってる」

 

「まあ」

 

 少しむっとした声が可笑しくて、オルディスは笑いながら手を伸ばした。今度は自分がエルシェナの頬を包み、柔らかなところを親指でゆっくり揉む。

 

「ここかな」

 

「オルディス様、私は直す必要ありませんわ」

 

「あるよ。もう少し力を抜いて」

 

「それは今、オルディス様のせいで笑いを堪えているからです」

 

「じゃあ堪えなければいい」

 

 その一言でエルシェナが吹き出した。整えたばかりの微笑はあっさり崩れ、オルディスもつられて笑う。頬を揉まれたまま笑う相手の顔が可笑しくて、どちらも手を離せない。

 

  やがて笑いがおさまっても、エルシェナの手はまだオルディスの頬にあった。オルディスも同じように彼女へ触れたまま、親指で一度だけやさしく撫でる。視線が合う。今度はどちらも笑わなかった。

 

 エルシェナがちらりと庭の端を見る。侍女は少し離れた場所で控え、護衛もこちらへ背を向けている。見ていないふりがずいぶん上手い。

 

 オルディスもそちらを確かめてから、庭木の陰へ少しだけ身体を寄せた。エルシェナも逃げず、短く唇を重ねる。

 

 本人たちは人目を避けたつもりだったが、護衛も侍女も視線を逸らすのがいささか早すぎた。幼い頃と違うのは、今さらそれを指摘する者が誰もいないことくらいだ。

 

 顔を離したエルシェナが、堪えきれないように笑った。

 

「やっぱり、今の笑い方は結婚式では駄目ですわね」

 

「僕は好きだけど」

 

「そういうお話ではありません」

 

「じゃあ、式までに練習しよう。ほどほどに品よく、でも作り笑いには見えないくらい」

 

「難題ですわ」

 

「昔から難題ばかり一緒にやってきただろう」  

 

 そう言うと、エルシェナはまた笑った。今度はオルディスも何も直そうとせず、その顔を見て笑う。結婚式までは、まだ少しある。学院では明日も、廊下ですれ違えばきちんと礼を交わし、隣り合って席につけば必要な話だけをするのだろう。噂好きな誰かがそれを見て、《氷の彫像》は今日も変わらないと納得するに違いない。

 その顔を想像したところで、オルディスはまた吹き出した。理由を尋ねるより先にエルシェナも釣られて笑う。

 

 庭にはしばらく、学院では一度も聞かせたことのない二人の笑い声が残った。

 

 

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