美しい物語からの逃走

 フィセリア・ルオルティアが初めて恋をしたのは、まだ恋というものが何なのかもよくわかっていない頃のことだった。

 

 相手はアルテオ・サーヴェリ。ルオルティア伯爵家に出入りしている下級官吏の息子で、父親同士に多少の付き合いがあったため、用事のたびに屋敷へ連れられてきていた。初めて会ったときなど、父親の背中に隠れてこちらをちらちらと窺うばかりで、フィセリアが話しかけてもろくに返事をしない。それが何度か顔を合わせ、一緒に遊ぶようになると、すっかり遠慮というものを忘れてしまったらしい。今では屋敷へやってくるなり、父親たちの話が終わるまでフィセリアを遊びに誘うのが当たり前になっている。

 

 しかも、打ち解けてからのアルテオは随分と生意気だった。木登りをすれば自分だけ高い枝まで登って得意げに手を振り、駆けっこをすれば勝つたびに、遅いだの鈍臭いだのと余計なことまで言ってくる。フィセリアが伯爵家の娘だからといって、手加減する気などまるでないらしい。それどころか、こちらが悔しがれば悔しがるほど嬉しそうに笑うのだから、腹立たしいことこの上ない。いつか絶対に負かしてやる。そう心に決めているのに、アルテオが屋敷へ来たと聞けば、フィセリアはその日の予定もそっちのけで庭へ飛び出してしまう。

 

 彼と遊ぶのは楽しかったし、負けるのは悔しいけれど、勝てたらどんな顔をするだろうと考えるだけで胸が弾んだ。

 そんなある日、二人は庭園の奥にある大きな桑の木まで競走することになった。

 

「今日は絶対に負けないんだから。先に桑の木に触った方が勝ちよ」

 

「いいよ。でも、負けたからって怒るなよ」

 

「怒らないわ! それに、今日はわたくしが勝つんだから!」

 

 ところが、威勢よく宣言したまではよかったものの、いざ走り出してみれば、やはりアルテオの方がずっと速い。フィセリアが懸命に足を動かしている間にも、彼の背中はぐんぐん遠ざかっていく。おまけに余裕たっぷりに振り返っては、まだそんなところにいるのかと笑う始末。あんなに憎たらしい顔をされて、黙って引き下がれるものか。

 

「待ちなさいよ、アルテオ!」

 

「待ってたら競走にならないだろ!」

 

 まったくもって可愛げのない男の子である。フィセリアの方が背も高いし、誕生日だって2ヶ月も早い。わたくしのほうがお姉さんなのに、ちっとも敬ってくれないんだから! と唇をきゅっと結び、これでもかというほど足を速めた。

 

 髪のリボンがほどけかけていることも、ドレスの裾が足にまとわりついていることも、今はどうでもよかった。とにかくあの生意気な少年に追いつきたい。その一心で、フィセリアはさらに足を速める。負けるものかと大きく踏み出したところで、とうとう自分のドレスの裾を思いきり踏んづけてしまった。

 勢いよく転んで膝を打ち、痛いやら悔しいやらで、フィセリアはとうとう泣き出す。すると、さっきまで得意そうに笑っていたアルテオが慌てて戻ってきて、彼女の膝についた土を払った。

 

「ほら、だからそんなに急いだら危ないって言ったのに。膝、痛い? 血は出ていないみたいだけど、立てる?」

 

「……そんなこと言わなかったわ。ずっとわたくしのことを笑っていたじゃない」

 

「あれは君が変な走り方をするからだよ。……わかった、僕が悪かったから、もう泣かないでよ。ほら、あそこの桑の実、赤いのより黒くなっている方が甘いんだ。取ってあげるから」

 

 アルテオは木に登り、枝の先にあるよく熟れた実を取ってくれた。最初に取れた一番大きなものをフィセリアに渡し、自分は小さな実を口へ放り込む。おかげで彼女はすっかり機嫌を直し、今度はもっと高いところにある実が欲しいと言い出したので、彼は少々甘やかしすぎたことを後悔したらしい。

 

 別の日には、フィセリアが木登りを教えてほしいと頼み込んだこともあった。アルテオにばかり高いところから見た景色を自慢されるのが悔しかったのである。何度も失敗しながら低い枝へ足をかけ、ようやく自分の背丈より高いところまで登れたものの、今度は怖くて降りられなくなってしまった。

 

「僕が先に降りるから、君はさっき僕が足を置いていたところに乗せるんだよ。枝をちゃんと掴んでいれば落ちないから。……ほら、下ばっかり見ないで、僕の方を見て」

 

「……もし落ちたら、あなたも一緒に落ちてくれる? わたくしだけ落ちるなんて嫌だわ」

 

「そんなことしたら二人とも怪我するだろう。僕が下で受け止めてあげるよ。だから、君はちゃんと降りることだけ考えて」

 

 何とか地面へ戻った時には、二人とも服を汚し、手のひらまで真っ黒になっていた。こっそり水場で手を洗ってから屋敷へ戻ったのだが、フィセリアのドレスの裾には見事な泥の跡が残っている。当然ながら二人揃って叱られたものの、翌日にはまた庭を駆け回っていたので、あまり反省はしていなかったらしい。

 

 

 アルテオは本を読むのも好きだった。フィセリアが遊びに誘いに行くと、時には彼女にはまだ難しい本を広げていることがあり、そういう時は隣に座って面白そうなところだけを読んでもらった。遠い国の冒険や昔の王様が戦争に負けた話など、彼が教えてくれるものは何でも面白かったが、続きが気になって尋ねても、そこから先はつまらないから読まなくていいなどと勝手なことを言う。

 

 それが不満で、フィセリアは自分でも本を読むようになった。アルテオが飛ばしたところにも面白い話が隠れていると気づいてからは、二人で同じ本を読んでも感想が違うことが増え、どちらの登場人物が賢いかで言い争いになったこともある。アルテオは負けず嫌いなので、自分とは違う意見を言われるとすぐに反論するのだが、知らないことを尋ねれば、たとえ喧嘩の最中でもきちんと教えてくれた。

 

 そんなアルテオが珍しく何も言い返さなかったのは、フィセリアが庭で作った花冠を彼の頭に載せた時のことである。

 

「アルテオ、ちょっとこちらを向いてちょうだい。いいものを作ったから、あなたにあげるわ」

 

「ええ? そんなもの、僕が頭に載せてどうするのさ。花冠なんて女の子のつけるものだろう。君がつけた方がずっと似合うよ」

 

「そんなことないわ。あなたにもきっと似合うと思うの。ほら、動かないで。せっかく綺麗に作ったんだから、少しくらいつけてみてちょうだい」

 

 フィセリアが強引に載せてやると、アルテオは何とも言えない顔になった。赤や白の小花を編み込んだ花冠は、確かに少年の頭には少々可愛らしすぎたかもしれない。それでも似合っていると褒めれば外そうとはせず、父親に呼ばれて屋敷へ戻る時にもそのままだったので、廊下ですれ違った侍女に笑われてしまった。

 

 以来、フィセリアが花冠を作るたび、アルテオはまた自分に被せるつもりだろうと警戒するようになった。嫌なら断ればよいのに、彼女が差し出すと結局は素直に頭を下げてくれる。ある時など、父親に挨拶する直前まで被っていたことに気づかず、随分とからかわれたらしい。

 

 

 フィセリアはそんなアルテオが大好きだった。彼が来る日は朝から馬車の音を気にしていたし、帰る時間が近づくと、まだ遊び足りないと言って引き留めようとする。アルテオの方も父親の用事が早く済んでしまった日など、もう少しだけ遊んでから帰りたいと頼み込んでいた。

 

 普段は何でもできると威張っているくせに、フィセリアがほかの男の子と遊んだ話をすると急に不機嫌になるので、彼女は時々わざとその話を持ち出しては、彼が拗ねる様子を楽しんでいた。

 そうするとアルテオは自分の方がずっと面白い遊びを知っていると言い張り、次に来る時には珍しいものを持ってきたりするのだ。おかげでフィセリアの部屋には、彼からもらった石や木の実や、何に使うのかわからない小さな金具が増えていった。

 

 

 そんな日々も、アルテオの父親が地方へ赴任することになって終わりを迎えた。

 フィセリアはひどく悲しんだが、これから先、二度と会えないわけではない。王都には王立学院があり、貴族の子女だけでなく、試験に合格すれば平民でも入学できる。アルテオほど頭のよい少年なら、きっと大丈夫に違いなかった。

 

「わたくし、王立学院へ行くことになっているの。アルテオも来るのでしょう?」

 

「行くよ。試験に受かれば、僕だって入れるんだから。君が行くなら、きっと僕も行く」

 

「それなら、また会えるわね。わたくし、待っているわ。だから、入学したら真っ先に会いに来てちょうだいね」

 

 フィセリアがそう告げると、アルテオはしばらく黙り込んでから、何やら決意を固めたような顔で頷いた。

 

 別れ際、フィセリアはお気に入りだった水色のリボンを彼に渡している。アルテオは女の子の髪飾りなんてどうすればいいのかわからないと困っていたが、結局、丁寧に畳んで胸の内側へしまってくれた。その仕草が嬉しくて、フィセリアは泣きそうだった顔をほころばせた。

 

 

 いつか再会した時には、きっと今より素敵な人になっているのだろう。彼女はそう思っていたし、自分も彼に恥ずかしくない淑女になりたいと考えていた。

 

 

 

 その願いが叶ったのは、王立学院への入学から間もない頃のこと。中庭を歩いていたフィセリアは、見覚えのある横顔を見つけて足を止めた。背が伸び、肩幅も広くなっていたけれど、真剣に本を読む時の少し険しい顔つきは昔のままである。友人たちに断りを入れるのも忘れ、嬉しさのあまり駆け寄った。

 

「アルテオ! アルテオでしょう? わたくしよ、フィセリアよ! 本当に学院へ来たのね。いつこちらへいらしたの? お父様もお元気?」

 

 何から話せばいいのかわからず、次々と質問を重ねてしまった。相手は一瞬だけ目を見開くと、すぐに表情を引き締め、彼女へ向かって丁寧に頭を下げた。

 

「……ルオルティア伯爵令嬢、お声がけいただき光栄ですが、何かご用でしょうか」

 

「え? あの、わたくし……昔、一緒に遊んでいたでしょう?覚えていないの? あなたが引っ越す時、また学院で会いましょうって約束したじゃない」

 

「申し訳ありません。幼少の頃のことは、あまり。せっかくお声がけいただいたのに、お話を合わせられず恐縮です」

 

 フィセリアは返す言葉を失った。あんなに仲がよかったのに、彼にとっては忘れてしまう程度の思い出だったのだろうか。困ったように目を伏せる青年を前にしていると、勢いよく駆け寄ってしまったことまで恥ずかしくなってくる。

 

「……ごめんなさい、突然。わたくし、懐かしくて、つい。お勉強の邪魔をしてしまったわね」

 

「いえ。どうぞ、お気になさらず。伯爵令嬢も、学院でよい日々をお過ごしください」

 

 フィセリアは友人たちのところへ戻り、久しぶりに会ったから少しはお話ができると思ったのだけれど、と笑った。友人たちは気の毒がってくれたし、男の子なんてそんなものよと慰めてもくれた。

 

 

 学院では、その後もアルテオの名を頻繁に耳にすることになった。彼は優秀な成績で特待生として入学し、学術競技では上級生を抑えて表彰され、研究班では治水事業に関する新しい術式の考案にも携わった。実用化された術式は王都の外でも高く評価され、王宮へ招かれる機会まで得たという。

 

 顔立ちがよく、教師からの信頼も厚い。身分を笠に着る貴族子弟にも臆せず意見を述べるものだから、学生たちの間ではなかなかの人気者になっていた。

 

 それに伴い、フィセリアの立場が少々悪くなった。

 

「ルオルティア様、サーヴェリ様があれほどご活躍なさるなんて、見抜いていらしたのね。お知り合いだと伺っていたけれど、随分と積極的にお声がけなさっていたものだから、わたくし、てっきり何か特別なご関係なのかと思っていたわ」

 

「まあ、わたくしなら、さすがにあんな大勢の前でお声がけする勇気はないわ。優秀な殿方を早いうちから捕まえておくのも、貴族の嗜みということなのかもしれないわね」

 

「でも、ご本人はあまり乗り気ではなかったようだけれど。お可哀想に、断るにもお立場があるものね。身分の低い方ほど気を遣わなければならないのでしょうし」

 

 昔の友人を見つけて喜んだだけなのに、いつの間にか身分を利用して優秀な男子学生を囲い込もうとしたことにされていた。違うと説明したところで、肝心のアルテオが何も言わないのだから、どうにも分が悪い。

 

 廊下ですれ違っても、彼は軽く会釈するだけで通り過ぎていく。フィセリアも次第に声をかけなくなり、彼の姿を探すこともやめた。

 

 幸い、親しい友人たちは変わらず付き合ってくれたし、学院生活そのものはそれなりに楽しかった。授業を受け、課題をこなし、時には街へ出かけて菓子を食べる。卒業する頃には、アルテオのことも懐かしい思い出として振り返れるようになっていた。

 

 初恋というのは、案外こんなものなのかもしれない。

 

 

 

 さて、卒業した貴族令嬢に待っているものといえば、まずは結婚の話である。

 

 昔は家同士で決められる婚姻も多かったが、近頃では恋愛結婚も珍しくなくなっていた。家格や財産を無視できるわけではないけれど、本人同士が気に入っているなら結構なことではないか、という風潮が広がりつつある。

 

 フィセリアだって恋愛には興味がある。初恋は残念な結果に終わったものの、世の中には他にも素敵な男性がいるはずなので、友人たちと誘い合わせて積極的に夜会へ参加することにした。

 

 そこで一つ、不満があった。友人たちは季節に合わせて新しいドレスを仕立て、花や宝石で美しく着飾っていたけれど、フィセリアの両親はなぜか地味な色合いのものばかり選びたがるのである。

 

 灰色、濃紺、深緑。布地は上等で仕立ても見事だったが、装飾は控えめで、同じものをもう少し年上の女性が着ても違和感はないだろう。

 

「お母様、今度の夜会には、もう少し明るい色を着ていきたいのですけれど。皆様、春らしい華やかなドレスを用意していらっしゃるの。わたくしも、せめて淡い青か、薄桃色のものを仕立てていただけないかしら」

 

「あら、どうして? その濃紺のドレス、とても上品でしょう。あなたには落ち着いた色が似合うのよ。せっかく上等な布地で仕立てたのだから、もう少し着てあげてちょうだい」

 

「ええ、もちろん、素敵なドレスだと思っておりますわ。でも、わたくしと同い年の方々は、皆さんもっと明るい色をお召しになっているでしょう? 今しか着られないようなものもありますし、わたくしだって一度くらい」

 

「フィセリア、女性は慎み深くあるものですよ。あまり着飾って男性の気を引こうとするのは感心しません。あなたにはあなたのよさがあるのですから、それを大切になさい」

 

 母はいつものように優しく微笑んで話を終わらせてしまった。フィセリアとしても、上等なドレスを買ってもらっているのに色が気に入らないと文句を言うのは気が引ける。結局、その夜も母が選んだ濃紺のドレスを着ることになった。

 

 せめてもの抵抗に、髪には友人から譲ってもらった水色のリボンを結んでいる。ドレスに合わせて細く編み込んだので目立ちはしなかったが、鏡の前で何度も位置を直すほど気に入っていた。

 

 会場では友人たちと歓談し、何人かの男性とも踊った。皆それぞれに素敵な人だったけれど、これといって心を惹かれる相手は見つからない。今夜もこのまま終わるのかしらと考えながら果実水を飲んでいると、後ろから声をかけられた。

 

 

「失礼。君の好きな色は、水色だったんじゃないか?」

 

 振り返ると、そこにいたのはレクシオ・イルヴェインだった。イルヴェイン伯爵家の子息で、学院時代には同級生だった青年である。家格も近く、顔を合わせれば挨拶くらいはしていたが、特に親しかったわけではない。

 

「まあ、レクシオ様。よく覚えていらしたのね。ええ、水色が好きですわ。けれど、学院ではそれほどお話ししたこともありませんでしたのに、どうしてご存じだったの?」

 

「そうなんだよ。今にして思えば、もっと話しかけておけばよかった。あの頃は女子と男子で何となく分かれていただろう? 女性に気軽に声をかけるのは軟派な男のすることだと思っていたから、僕も少し格好をつけていたんだ」

 

「まあ、それなのにわたくしの好きな色をご存じだったの? 随分とよく見ていらしたのね。女子学生に声をかけるのは軟派でも、眺めている分にはよろしかったのかしら」

 

「いや、そう言われると困るんだけれど……君は水色のリボンをよくつけていただろう。あれがね、君に似合っていて可愛いなと思っていたんだ。顔を見ると、つい目がそちらへ行ってしまってね」

 

「あら、軟派な方。学院時代には真面目な方だと思っておりましたのに、すっかり変わってしまわれたのね。他のご令嬢にも同じようなことをおっしゃっているのではなくて?」

 

「そこは素直になったと言ってくれよ。他の令嬢には言っていないとも。昔より多少は女性との話し方も覚えたつもりなんだけれど、君の前ではどうにも上手くいかないな。実はね、君は水色のドレスを着てくるんじゃないかと思っていたんだ。きっと似合うだろうに、って。……いや! もちろん、今日のドレスも素敵だし、髪の水色のリボンもよく似合っているよ。別にがっかりしたわけじゃないんだ」

 

 慌てて付け加えるあたり、学院時代の真面目さは今も健在らしい。フィセリアは扇で口元を隠し、少しばかり意地悪なことを尋ねてみた。

 

「学生時代と同じように?」

 

「より一層さ」

 

 今度は迷いなく答えられたものだから、フィセリアはとうとう声を立てて笑ってしまった。レクシオもつられて笑い、先ほどまでの気負いがすっかり抜けた様子で、彼女の隣へ並んだ。

 

 学院時代のレクシオは真面目で、少々堅苦しいほど礼儀を重んじる青年だった。こんなに気さくな人だったのかと驚いているうちに話が弾み、いつしか二人は会場の端にある長椅子へ移っていた。

 

 彼は植物を育てるのが好きで、珍しい花を手に入れるために遠くの市場まで出かけるほど熱心らしい。去年など、種から育てていた植物を、花が咲く直前に使用人が雑草と間違えて抜いてしまったという。

 

「それはお気の毒に。お怒りになったでしょう? せっかく遠くから取り寄せたお花だったのでしょうに」

 

「いや、怒る前に笑ってしまったよ。あれほど毎日眺めていたのに、花が咲く前は確かに雑草にしか見えなかったんだ。使用人も平謝りだったし、僕も次からは札を立てておくことにした。今度こそ咲かせてみせるつもりだから、その時はぜひ見に来てほしい」

 

「楽しみにしておりますわ。わたくし、花が咲く前の姿も見てみたいですもの。どれほど雑草に似ているのか、気になってしまって。もし本当にそっくりだったら、わたくしも間違えて抜いてしまうかもしれないわ」

 

「君までそんなことを言うのかい? ああ、でも、見せたらきっと納得してしまうんだろうな。少し悔しいよ。今度こそ咲かせるつもりだから、君にはぜひ証人になってもらいたいんだけれど、どうだろう」

 

 フィセリアは喜んで引き受けた。その後も学院時代の教師の話や旅先での失敗談など、話題は尽きなかった。特に面白かったのは、レクシオが旅先で珍しい植物だと思って持ち帰ったものが、王都ではありふれた雑草だったという話である。植物が好きなわりに、随分と雑草に縁のある人だった。

 

 会場の客も入れ替わり始めた頃、レクシオは何度か時計を気にした後、手元のグラスを卓上へ置いた。先ほどまでの気さくな様子とは打って変わって、何やら改まった顔をしている。

 

「ところでフィセリア。こうして話してみると、僕と君って随分と気が合うと思わないかい? 趣味も近いし、話も弾む。家柄的にもちょうどいい。僕としては、かなりよい組み合わせだと思うんだけれど、君はどう思う?」

 

「それだけ?」

 

「……それだけ、とは? いや、もちろん、家同士の相性も悪くないと思うし、僕自身も君とは上手くやっていけると思っているんだけれど。ああ、それと、僕はあまり夜遊びもしないし、賭け事も好きじゃない。そういう意味でも、結婚相手としては悪くないんじゃないかな」

 

「お話が合って、家柄もちょうどいい。おまけに賭け事もしない。それは結構なことですけれど、他には何もありませんの?

わたくし、もう少し素敵な理由が聞けると思っていたのだけれど」

 

 レクシオは困った顔をした。何度か言い直そうとして、結局どれも上手くいかなかったらしく、最後には膝を叩いて開き直った。

 

「いや、もう、どう言えばいいのかわからないな! 僕はね、君のことを学院時代から可愛いと思っていたんだ。卒業してからもずっと気になっていたし、今日こそはと思って声をかけた。それで、もし君がよければ、これから二人で出かけたり、お茶を飲んだりして、もっと親しくなれたらと思っているんだ。僕は仕事も真面目にしているし、約束だって守る。賭け事もしないし、休日には庭の手入れをしているくらいだから、他の女性と遊び歩く心配もない。どうだろう。お買い得な男だよ、僕は」

 

 フィセリアはとうとう堪えきれなくなった。さっきまであんなに楽しく話していた人が、いざ女性を口説こうとした途端、自分の長所を並べて売り込み始めるのだから、おかしくて仕方がない。しかも、休日に庭の手入れをしていることが、女性と遊び歩かない証拠になるのかどうかは少々疑わしかった。

 

「もう、レクシオったら!そういう時はね、『君が好きだ』だけでいいのよ!」

 

「ああ、そうか。そうだね。……うん、君が好きだよ、フィセリア。学院の頃からずっと気になっていたけれど、今夜こうして話してみて、前よりもっと好きになった。だから、これからも君に会いたいんだ。昔の同級生としてではなく、できれば恋人として、僕とお付き合いしてもらえないかな」

 

 先ほどまであんなにおかしなことを言っていたくせに、今度は真っ直ぐこちらを見つめてくる。フィセリアは急に恥ずかしくなり、扇で口元を隠した。こんなことなら、もう少し可愛らしいドレスを着てくればよかった。

 

「……ええ、喜んで。わたくしも、あなたともっとお話ししたいわ。今夜だけでは、まだまだ話し足りませんもの。今度はぜひ、二人でお出かけしましょうね」

 

 その途端、少し離れたところから歓声が上がった。見れば、フィセリアの友人たちとレクシオの友人たちが、柱の陰からこちらを覗いている。

 

「レクシオ! お前、ようやく勇気を出したと思ったら、お買い得な男だなんて、あんな口説き方があるものか!」

 

「フィセリア、おめでとう! わたくしたち、あなたが楽しそうにお話ししているから邪魔しないようにしていたのよ。まさかこんなことになるなんて、今夜はお祝いしなくちゃね!」

 

 友人たちに取り囲まれ、レクシオは顔を真っ赤にしていたが、今さら逃げられるものでもない。そんな彼をからかっていた友人の一人が、ふと思いついたように胸元の花を抜いた。

 

「二人の恋が綺麗に花開きますように!」

 

 そう言って花を放り投げると、今度は令嬢の一人が髪からリボンをほどき、二人へ向かって差し出した。

 

「それなら、こちらは素敵なご縁が結ばれますように!ほら、皆様もお祝いして差し上げましょうよ!」

 

 たちまち周囲では、胸元を飾っていた花や髪飾りのリボンが次々と宙を舞い始めた。誰かが楽団に陽気な曲を頼んだものだから、会場の一角はちょっとしたお祭り騒ぎである。せっかく整えた髪を崩してまでリボンを投げてくれる友人もいて、フィセリアは嬉しいやらおかしいやら、すっかり笑いが止まらなくなってしまった。

 淑女の慎み深さとは随分かけ離れた祝福だったけれど、誰もが自分のことのように喜んでくれている。フィセリアは足元に落ちた花を拾い上げ、今度は友人たちの方へ投げ返してやった。おかげで騒ぎはますます大きくなり、帰る頃には頬が痛くなっていたほどである。

 

 

 

 

 

 

 それから二人は何度も会うようになった。レクシオは話し上手で聞き上手だったが、時々ひどく間の抜けたことを言う人だった。フィセリアも彼の前では遠慮なく冗談を言えるし、意見が違っても気まずくならない。彼が育てている珍しい植物を見に行った時には、例の雑草によく似たものが無事に育っており、二人で立て札を作り石で囲って、花が咲くまで眺めていたこともある。

 

 彼の家族も気さくな人々で、イルヴェイン伯爵夫人は初めてフィセリアを迎えた時、息子が随分前から彼女の話をしていたと教えてくれた。

 

「学院へ通っていた頃からよ。水色リボンの素敵な子がいるんだと、何度聞かされたことか。だったらお茶にでもお誘いなさいと勧めたのに、あの子ったら、そんな軽薄な真似はできないと言うのよ」

 

「母上、その話はもういいでしょう。せっかく来てくれたフィセリアに、僕がどれだけ意気地なしだったかを説明する必要はないじゃないですか……」

 

「まあ、隠しておきたかったの? でも結局、あなたがぐずぐずしている間に卒業してしまったのでしょう。わたくし、もう二度と機会がないのではないかと心配していたの。悪いところもお父様そっくりに育っちゃって」

 

 夫人は呆れたように息子を見たが、すぐに何かを思い出したのか、楽しそうに笑い始めた。

 

「実はね、わたくしたちも学院の同級生だったのよ。在学中はほとんどお話ししたことがなかったのだけれど、卒業して半年ほど経った頃、突然この人が訪ねていらしてね。何のご用かと思ったら、いきなり結婚してほしいとおっしゃるんですもの。驚いたなんてものじゃなかったわ」

 

「……お前、その話を今ここでする必要があるのかね。私はそれなりに順序を踏んで申し込んだつもりだったのだが」

 

「あら、そうだったかしら? わたくしの記憶では、お茶をお出しした途端に結婚してくださいとおっしゃったはずよ。おまけに、どうしてわたくしなのかと尋ねたら、家柄も釣り合うし、互いの両親も喜ぶだろうからと、そんなお話ばかりなさるの。それで、肝心のわたくしのことは好きなのかと聞いたら、ようやく真っ赤になって頷いてくださったのよ」

 

「……父上、そんな求婚をなさったんですか?」

 

 息子が呆れた顔で振り返ると、伯爵は咳払いをして茶器を持ち上げた。いつも穏やかな人だけれど、こうして見ると照れ隠しをする時の仕草まで親子でそっくりである。

 

「ふふ、でもね、フィセリアさん」

 

 夫人は彼女の方へ身を寄せ、息子にも夫にも聞こえないよう声を潜めた。

 

「この子、あの人のよいところにもそっくりだから、あなたもきっと幸せになれるわよ」

 

 そう言って片目をつぶってみせる夫人に、フィセリアも微笑んで頷いた。レクシオがどれほど誠実で、一緒にいると楽しい人なのかは、彼女自身がよく知っている。隣では当の本人が、父親に向かって求婚の時の話をもっと詳しく聞かせてほしいと頼み込み、母親からあなたも似たようなことをしたのでしょうと笑われていた。

 

 イルヴェイン家には娘がいなかったので、伯爵夫人はそれからもフィセリアが訪ねてくるたびに喜び、お茶の時間には自慢の菓子を並べてくれた。

 伯爵も彼女を歓迎してくれたが、あの日以来、息子の失敗談を披露しようとすると、妻から昔の求婚話を持ち出されるようになり、以前ほど気軽にはからかえなくなってしまったらしい。

 

 

 

 そんな二人の交際を、ルオルティア伯爵夫妻は歓迎しなかった。相手が悪いとは言わないものの、まだ結婚を急ぐ必要はない、ほかによい縁談があるかもしれないと、何かにつけてはぐらかし、話を先延ばしにしたがるのである。

 

「でも、お父様。レクシオ様は誠実な方ですし、イルヴェイン家の皆様もとても親切にしてくださるの。わたくし、この方と結婚したいと思っております。それ以上によいお話なんて、わたくしには考えられませんわ」

 

「そうはいっても、まだ若いのですから。人の気持ちというものは変わるものですよ。今は結婚のことなど考えず、落ち着いて過ごしなさい。お父様もあなたの将来を心配なさっているのだから、少しは親の言うことも聞くものです」

 

 それなら何が問題なのかと尋ねても、両親ははっきり答えてくれない。レクシオの家柄にも人柄にも文句はつけられないらしく、今はまだ早い、急ぐ必要はないと繰り返すばかりだった。

 

 

 そんな折、イルヴェイン伯爵から正式な婚姻の申し出があった。相手方の伯爵夫妻をいつまでも待たせるわけにもいかず、ルオルティア家で両家の家族が顔を合わせることになったのである。

 

 当日、フィセリアは緊張しながらも、これでようやく結婚の話を進められると期待していた。レクシオも彼の両親も協力してくれると言っていたし、家同士の釣り合いも悪くない。父親が心配していることがあるなら、話し合って解決すればよいのだ。

 

 応接室ではひととおりの挨拶が済み、給仕が茶を注いだところで、イルヴェイン伯爵が口を開いた。

 

「本日は、息子レクシオとフィセリア嬢の婚姻について、改めてお話をさせていただければと思いまして。本人たちの気持ちは固まっているようですし、我々としても喜ばしいことだと考えております。もちろん、そちらにもご事情はおありでしょうから、まずは率直なお考えを伺えればと」

 

 ルオルティア伯爵は渋い顔で茶器を置いた。何か言いにくいことがあるらしく、しきりに顎を撫でている。妻も隣から目配せしていたが、結局は夫に任せるつもりなのか、黙って茶を飲んでいた。

 

「いや、その件については、少々……」

 

 言いかけたところで、廊下から慌ただしい足音が聞こえてきた。

 

 応接室の扉が勢いよく開かれ、上等な礼服を着た青年が飛び込んでくる。頬を紅潮させ、息を切らしている彼の顔を見て、フィセリアは思わず腰を浮かせた。

 

 

「フィセリア! ようやく、ようやくこの日が来たんだ! 僕は陛下から男爵位を賜った。もう君に恥じることのない身分を手に入れたんだよ!」

 

 

「……え? アルテオ?」

 

 

 アルテオ・サーヴェリだった。学院卒業後も王宮で功績を重ね、最近では国境地帯の開発事業にも関わっていると聞いていたが、こんなところで再会するとは思わなかった。

 

「随分待たせてしまったね。でも、これでやっと君を迎えに行ける! 僕はずっと、この日のために頑張ってきたんだ。幼い頃に別れたあの日から、君のことを忘れた日はなかった!」

 

 フィセリアは腰を少しだけ浮かせたまま固まった。幼なじみだった青年から、理解できない言葉が飛び出てきた気がする。フィセリアの混乱はよそに、父親が勢いよく立ち上がり、飛び込んできた青年へ歩み寄った。

 

「おお、アルテオ君! とうとうやったのか! いやあ、君なら必ず成し遂げると信じていたよ。よくぞここまで頑張った!」

 

「はい、伯爵閣下! お約束どおり、爵位を得て参りました。これでようやく、フィセリアに想いを告げることができます! 」

 

「立派になったものだ! 陛下から爵位を賜るほどの功績を挙げた君なら、娘を安心して任せられる!」

 

 母親まで立ち上がり、感激のあまり涙ぐみ始めた。アルテオの手を両手で握り、よく頑張りましたねと何度も繰り返している。

 

 

 

 一方、フィセリアとレクシオは口を開けたまま動けず、向かいのイルヴェイン伯爵夫妻も、茶器を持った姿勢で三人を眺めていた。誰も事態を飲み込めないまま、再会した三人だけが熱心に話を進めている。

 

 しばらくして、レクシオが隣のフィセリアへ顔を寄せた。

 

「……こういう小説、読んだことがあるな……」

 

「悪書よそれ、燃やしましょう」

 

「うん。そうしよう。いや、最後まで読んだ時はなかなか感動した覚えがあるんだけれど、実際にやられると、こんなに恐ろしいものなんだね……」

 

 二人がこそこそと話している間にも、アルテオは伯爵夫妻へ熱心に礼を述べていた。

 

 

 

「伯爵閣下、奥方様。お二人には本当に感謝しています。幼い僕に、身分の違いを越えるためには相応の努力が必要だと教えてくださったこと、今でも忘れていません。あの時、フィセリアへの想いを告げることを禁じられたのは辛かった。けれど、あの約束があったからこそ、僕はここまで来られたんです!」

 

「君には才能があったからね。あのまま子供の恋に浮かれていては、せっかくの将来を台無しにしてしまうかもしれなかった。だからこそ、我々も心を鬼にしたのだよ。伯爵家の娘を迎えるには、相応の覚悟と努力が必要なのだと、君に知ってほしかったのだ」

 

「ええ、本当に。フィセリアには何も知らせず、あなたが立派になって迎えに来てくださるのを待っていたの。きっと素敵な再会になると思っていましたわ。ああ、今まで秘密にしているのがどんなに辛かったことか!」

 

 フィセリアは膝の上で手を握りしめた。学院の中庭で、アルテオは幼い頃のことなど覚えていないと言った。あれだけ仲がよかったのに、彼にとっては忘れてしまう程度の思い出だったのかと、ひどく悲しかったのを覚えている。

 

 それが今になって、忘れた日はなかったと言うのだから、いったい何を信じればよいのだろう。あの日、彼に声をかけたことでどんな噂を立てられたのか、アルテオは知っていたのだろうか。

 

「フィセリア、よかったわねえ。あなたには辛い思いをさせてしまったけれど、これも全てあなたのためだったのよ。いつかこんな日が来ると信じていたわ」

 

 母は嬉しそうに涙を拭っている。フィセリアは自分の濃紺のドレスに目を落とした。春の夜会に水色のドレスを着たいと頼んだ時も、母はこんなふうに優しく微笑んでいた。

 

 慎み深くありなさい。

 

 華やかなドレスを着たがるたび、落ち着いたものを選びなさいと言われてきた。娘が恋人を見つけてこないように、男性の気を引かない装いをさせていたのではないか。今まではただ好みが合わないだけだと思っていたけれど、そう考えれば、両親の頑なな態度にも納得がいく。

 

 華やかなドレスを着て夜会を楽しむ娘よりも、慎ましく初恋の相手を待ち続ける娘の方が、両親の望む物語には相応しかったのだろう。

 

 そこまで思い至ったところで、フィセリアは急に気持ちが冷えていくのを感じた。

 

 彼がいつ爵位を得られるかなど、誰にもわからなかったはずなのに。仮にその日が来なかったとしたら、自分はどうなっていたのだろう。婚期を逃してしまった娘に、残念だったねとでも言うつもりだったのか。それとも、最後まで誰かを待ち続ける健気な娘を眺めて満足していたのだろうか。どちらにしても、フィセリアにとっては少しもありがたくない話だった。

 

 当のアルテオは、今も晴れやかな顔をしている。彼はフィセリアが俯いているのを見つけると、ようやくこちらへ向き直り、アルテオは照れくさそうに微笑んだ。昔はあんなに好きだった笑顔なのに、フィセリアは何と返せばよいのかわからず、ただ彼を見つめていた。

 

「フィセリア、もう何も心配はいらないよ。君はずっと僕を待っていてくれたんだろう? あの日の約束を覚えているかい。今まで君に寂しい思いをさせてしまったけれど、これからはずっと一緒にいられるよ」

 

「……わたくし、あなたが迎えに来るなんて、ひと言も聞いていないのだけれど」

 

「それはもちろん、君には秘密にしていたからね。何も知らない君を驚かせたかったんだ。伯爵閣下たちも協力してくださっていたし、こうして念願が叶った今となっては、あの頃の苦労も懐かしいよ。ああ、君に全部話せる日が来て、本当によかった!」

 

 フィセリアが覚えているのは、学院で再会しようという約束だけだ。それがいつの間に結婚の約束になったのだろう。昔はあんなに優しくて、フィセリアが転べば自分から戻ってきてくれた男の子だったのに、今は目の前で困っている彼女のことさえ見えていないらしい。

 

 そんなことを考えている間にも、アルテオは伯爵夫妻へ結婚式の相談を始めていた。いつ頃がよいだろうか、披露宴には誰を招こうかなどと話し始めているあたり、すでに婚姻は成立したつもりでいるようだった。イルヴェイン一家と実の娘のことは、まるっきり意識の外に放り出しているらしい。

 

 

 

 

 隣で椅子の軋む音がした。レクシオが姿勢を変え、フィセリアの方へ身を寄せてくる。

 

「……フィセリア、君はどうしたい? 僕としては、こんな場所で君との婚姻について相談を続ける気にはなれないんだけれど」

 

「逃げたいわ。できれば、あの方たちがこちらを見る前に」

 

「うん。僕もそうしたい。……母上、父上、聞こえました?」

 

 イルヴェイン伯爵夫人が、すっと身を乗り出した。先ほどから夫と何度か目配せを交わしていたが、話がまとまったのか、穏やかな声でフィセリアへ話しかけてくる。

 

「ねえ、フィセリアさん。ひとつ相談があるの。わたくしの親しい友人に、以前から養女を迎えたいと話しているご夫妻がいるのよ。もちろん、先方のご意向も伺わなければならないけれど、もしあなたが望むのなら、お話をしてみましょうか」

 

「……養女、ですか?」

 

「ええ。あなたはもう成人なさっているのだし、結婚相手をご自分で選んでよいはずでしょう。でも、これからご実家と何かと揉めることになりそうですもの。別のお家で暮らせるようになれば、少しは安心ではないかしら。それに……こんなことを申し上げるのは失礼だと思うのだけれど、ちょっと、その……おかしい方たちと縁付きたくないわ」

 

 夫人は小声で、しかし実にきっぱりと言い切った。

 

「お義母様。わたくしも、おかしい方たちとは縁を切りたいので、ぜひお願いいたします」

 

「まあ! お義母様ですって!」

 

 夫人は嬉しそうに両手を合わせたが、すぐに夫へ向き直った。

 

「あなた、わたくし、もうフィセリアさんを連れて帰りたいのだけれど。よろしいでしょう?」

 

 イルヴェイン伯爵は向こうの三人へ目をやった。ルオルティア伯爵は上機嫌で結婚式の日取りについて語っており、妻もアルテオへ披露宴の希望を尋ねている。最初から部屋にいた客人たちのことは、すっかり頭から抜け落ちているらしかった。

 

「……そうだね。先方のご事情はよくわかった。今後については改めて相談するとして、今日は失礼させてもらおうか。しかし、さすがに挨拶くらいはしておくべきだろうか」

 

「父上、話しかけたら僕たちまで登場人物にされてしまいそうです。それだけはぜひ避けたいんですけれど」

 

 レクシオの言葉に、フィセリアは勢いよく頷いた。自分たちが帰ると言い出せば、きっとあの三人は引き留めるだろう。下手をすれば、アルテオとレクシオの間で何か話し合いを始めてしまうかもしれない。それこそ小説の登場人物そのものではないか。

 

 ちょうどアルテオが懐から何かを取り出した。古びた水色のリボンが広げられると、ルオルティア伯爵夫人は感激のあまり胸元を押さえ、夫も何度も頷いている。

 

 フィセリアが幼い頃、別れの記念に贈ったものだ。まだ持っていてくれたのかと、ほんの少しだけ嬉しくなったが、それを両親に見せながら二人の運命について語り始められては、さすがに居たたまれない。

 

 イルヴェイン伯爵は黙って立ち上がった。

 レクシオがフィセリアに腕を差し出し、夫人は扇を広げながら、さりげなく彼女と三人の間へ立った。給仕をしていた使用人は一瞬だけ動きを止めたが、伯爵から目配せされると、何も見なかったという顔で静かに扉を開けてくれた。

 

 四人は足音を忍ばせて廊下へ出た。背後では、まだアルテオの熱弁が続いている。あの頃、君がくれたリボンを見つめては、必ず立派になって迎えに行こうと……などという言葉が聞こえてきたが、扉が閉まるとそれも途切れた。

 

 廊下ですれ違った使用人たちは、四人の姿を見るなり視線を逸らした。壁に掛かった絵画を熱心に眺める者もいれば、突然窓の外の景色が気になり始めた者もいる。若い侍女など、何もない壁を見つめたまま動かなくなってしまった。

 

 玄関ホールでは、執事が花瓶の位置を直している。こちらに気づくと、何食わぬ顔で花瓶を動かし続け、誰にともなく呟いた。

 

「……本日は、イルヴェイン伯爵家の皆様をお見送りした者はおりませんので。何かお尋ねがありましても、わたくしどもは何も存じ上げません」

 

 フィセリアは危うく吹き出しそうになった。執事は彼女が幼い頃から仕えている古参の使用人で、廊下を走ればすぐに注意されるような相手である。それが今は、花瓶の位置が気になって仕方がないらしい。

 

 侍女長も何事もない顔で玄関の扉を開けてくれたが、フィセリアと目が合うと、ほんのわずかに頷いた。門番に至っては、四人が近づいてきた途端、背筋を伸ばして空を見上げ始める。曇りひとつない青空で、鳥の姿など見当たらなかった。

 

「あ、鳥」

「ほんとだ、鳥だな」

 

 門番たちは揃って空を眺めている。フィセリアは口元を押さえながら通り過ぎたが、背後でどちらかが咳払いをしたので、ますますおかしくなってしまった。

 

 

 

 馬車の待つ場所まで辿り着くと、イルヴェイン伯爵が皆を手招きした。本来なら伯爵夫妻とレクシオは別々の馬車で帰る予定だったのだが、四人揃って一台へ乗り込んでしまう。夫人のドレスがレクシオの膝に乗り、伯爵の帽子がフィセリアの腕に引っかかった。

 

 御者が何かを尋ねるより先に、伯爵が出発を命じる。馬車はすぐに走り出し、ルオルティア家の屋敷が遠ざかっていく。角を曲がって建物が見えなくなった途端、フィセリアは両手で顔を覆った。

 

「こわああい!」

 

 その声にレクシオがびくりと肩を跳ねさせた。けれど彼もすぐに窓の外を振り返り、屋敷が見えないことを確かめると、堪えていたものを吐き出すように喋り始めた。

 

「わかる! いや、本当に何だったんだ、あれは? 僕、危うく当て馬役にされかけた? 正式な求婚の話をしに来たはずなのに、最初からいなかったことにされていた気がするんだけれど!」

 

「わたくしなんてヒロインにされかけたのよ! 嫌だわ、怖すぎる! レクシオ、守って! 絶対に守ってちょうだい!」

 

「もちろん守るよ! でも、できれば僕のことも守ってほしいな。あの人がまた現れたら、今度こそ決闘を申し込まれそうな気がするんだ」

 

「その時はわたくしも一緒に逃げるわ!」

 

「二人とも、もう少し落ち着きなさい。先方が何を言い出しても、フィセリアさんご本人が望まない婚姻を認めるつもりはないよ。まずは弁護士を呼んで、今後のことを相談しよう」

 

 イルヴェイン伯爵はそう言って、ようやく大きく息を吐いた。隣の夫人も頷いている。

 

「そうねえ。それにしても、恋愛結婚が珍しくない世の中でよかったわ。もう少し昔だったら、親の決めた相手と結婚するのが当たり前だなんて言われて、もっと面倒なことになっていたかもしれないもの」

 

「本当にね。おかげで僕も、ずっと好きだった女の子と結婚できそうだ」

 

 レクシオが隣から手を握ってくる。フィセリアは思わず彼を見上げ、少し照れくさくなって笑った。こんな騒ぎのあとだというのに、好きだと言われればやっぱり嬉しい。

 ところが、そこで自分のドレスが目に入った。

 

「……あら?」

 

「どうしたんだい?」

 

「わたくし、着替えも何も持ってきておりませんわ!」

 

 フィセリアは慌てて自分の身なりを確かめた。櫛も化粧道具も、普段使っているものは全部実家に置いたままだ。さすがに今から取りに戻る勇気はないし、そもそも戻ったところで無事に帰してもらえるとは思えない。

 そんな彼女を見て、イルヴェイン伯爵夫人は楽しそうに笑った。

 

「あら、それなら明日、お買い物に行きましょう! 必要なものは全部揃えればいいのよ。ちょうどよかったわ、わたくし、娘と一緒にお洋服を選ぶのが夢だったの。フィセリアさん、何か着てみたいものはあるかしら?」

 

「まあ、本当によろしいのですか? それなら……」

 

 フィセリアは思わず身を乗り出しかけ、慌てて姿勢を正した。欲しいものなら、いくらでもある。春らしい薄桃色のドレスも、花をたくさん飾った帽子も、一度は身につけてみたかった。けれど、最初に思い浮かんだのは、やっぱり大好きなあの色だった。

 

「わたくし、水色のドレスを着てみたいのです。できれば、少し華やかなものを」

 

「あら、素敵じゃない! あなたにはきっと似合うわよ。明日は仕立て屋にも寄りましょうね。そうだわ、レクシオ、あなたも一緒にいらっしゃいな。荷物持ちが必要だもの」

 

「もちろん行きますよ。実は僕も、フィセリアに水色のドレスを贈りたいと思っていたんです」

 

 レクシオはそう言ってから、少しばかり照れくさそうに笑った。

 

「学院の頃から、きっと似合うだろうなと思っていたんだ。君がよければ、僕に贈らせてくれないかな」

 

「まあ! それなら、あなたが目を離せなくなるくらい着こなしてみせるわ。しっかり見蕩れてちょうだいね」

 

「それは楽しみだなあ。……いや、でも、あんまり綺麗になられると、ほかの男たちが放っておかないかもしれない。そう考えると、少し心配になってきたぞ」

 

「あら、あなたがちゃんと捕まえていてくださればいいでしょう? わたくし、ほかの方についていくつもりなんてないのだから」

 

 フィセリアが得意げに微笑むと、レクシオは困ったように笑いながらも、繋いだ手を離そうとはしなかった。

 

 向かいでは伯爵夫人が、どの店へ行こうかと夫に相談している。伯爵も妻の楽しそうな様子には弱いらしく、何を言われても頷くばかりだったが、明日は弁護士との話し合いもあるのだと告げると、夫人は少し考えてから、それならあなたがお願いね、とあっさり答えてしまった。

 

「……私一人でかい?」

 

「あら、あなたなら大丈夫よ。わたくし、法律の難しいお話は苦手なんですもの。それより、フィセリアさんに似合うドレスを選ぶ方がずっと得意だわ」

 

「僕も明日は買い物に付き合う予定なんだけれど」

 

「そうよ。あなたは荷物持ちでしょう?」

 

「……どうやら、私一人で何とかしなければならないらしいね」

 

 伯爵が苦笑すると、レクシオは申し訳なさそうに肩をすくめた。けれど、フィセリアの方はもう明日の買い物のことで頭がいっぱいになっている。

 

 水色といっても、淡い空色から鮮やかな青まで、いろいろな色がある。せっかく仕立ててもらうのだから、時間をかけて気に入ったものを選びたい。髪飾りも新しくしよう。今度は細いリボンをこっそり編み込むのではなく、誰が見てもわかるくらい大きなものをつけてみるのもよさそうだ。

 レクシオはフィセリアがなにを付けても似合うといいそうだが、その中で彼がいちばん気にいるものをみつけるのだって、きっと楽しい。

 

 これまで散々慎み深くしてきたのだから、少しくらいはしゃいでもよいだろう。

 

 そうしてフィセリアは、明日の買い物では大きな水色のリボンも選ぼうと心に決めた。

 

 

 もちろん、どれほど素敵なものが見つかっても、もう二度と男の子に贈るつもりはない。

 リボンは贈るよりも、贈られる側でいた方がよさそうだ。何しろ、うっかり一本渡しただけで、十年がかりの勘違いをされてはたまったものではないのだから。

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