本編スタートの世界

 中等部に上がって二年目、十六歳になった俺は、メイクアップアーティストとして順調にステップアップしていた。

 いや、王子としてもちゃんと成長している。勉強はしているし、剣術も魔法もそれなり、社交に出れば第四王子として愛想よく笑えるし、卒業後に婿入りするヴェルグレイヴ辺境伯領についても少しずつ学んでいる。
 そこを疎かにして化粧ばかりしているわけではない。ただ、人生には適性というものがある。俺の適性は、人の顔をいい感じにすることだった。
 
 七歳で前世を思い出してから九年。こちらの化粧事情を知り、道具を作り、職人と相談し、顔の成長に合わせてエルシノアの化粧を変え続けてきた。
 あの頃はまだ頬の丸い女の子だった婚約者も、今ではすっかり年頃の娘らしい顔つきになっている。灰青色の瞳は昔よりさらに横へ長く、鼻筋も成長とともにすっと整った。本人が七歳の頃に気にしていたところは、だいたい全部そのまま長所へ育ったと思う。俺の見る目、間違ってなかったな。
 
 
 そして婚約が決まったあの日から、俺とエルシノアの関係はずっと良好である。
 喧嘩をしたことがないとは言わない。九年も付き合えば当然ある。俺が誕生日の贈り物を仕事机へ置いたまま忘れて叱られたこともあれば、エルシノアが領地から送ってきた手紙を俺が授業中に読んで教師から没収され、その事実を本人へ報告したら「どうして授業中に読むんですの!」とさらに叱られたこともあった。
 それでも翌日まで引きずるほどの喧嘩はほとんどなく、会えば普通に話すし、互いの家族とも仲がいい。何よりありがたいのは、俺が好き勝手に顔を触っても怒られないことである。
 
 王子という立場は便利なようで、こういう仕事には滅茶苦茶不便だった。
 
 未婚の若い王族が婚約者でもない異性の顔へ手を添え、目元や唇へ触れていたら、それだけで完全にアウトだ。本人と家族から許可を取ればいいという問題でもない。王族の一挙一動は本人だけのものではないため、出来る出来ない以前に、やらないほうが面倒が少なかった。
 その点、正式な婚約者であるエルシノアなら誰も文句を言わない。俺はありがたく触らせていただいている。
 
 新しい刷毛を作れば試し、粉の粒子を細かくすれば試し、春になれば春の色を、冬になれば冬の質感を試す。
 もちろん本人の好みが最優先だ。昔は俺が似合うものを選ぶだけだったけれど、今ではエルシノア自身にも明確な好みがあり、「今日は凛々しく見せたいですわ」「このドレスなら口元を濃くしたほうが好きです」と注文が来る。いい。そういうのがいい。顔は本人のものなのだから、俺はそこへ本人が欲しいものを描く職人だ。前世で何百人と顔を触ってきた頃から、その考えは変わっていない。
 
 
 一方、同性なら多少距離が近くても問題になりにくい。その結果、父上と三人の兄上は俺の練習台になった。
 特に兄上たちは容赦しなくていいので非常に助かる。眉を少し変えれば顔つきがどう動くか、肌の色に合わせてどの程度粉を変えるべきか、照明の強い夜会と昼の式典で陰影をどこまで入れるか。
 男は化粧をしないという文化も特になく、儀礼の場では男女問わず薄く整えることも珍しくなかったため、俺は遠慮なく三人へ手を出した。
 
 すると数年後、妙な評判が立った。王家の男は、揃いも揃って顔がいい。…………もともとだよ。父上も母上も美形なので、息子四人がそれなりに整っているのは遺伝である。
 俺はちょっと眉を整え、肌を均一に見せ、兄上ごとの骨格に合わせて陰影を乗せ、髪と服と照明まで計算して一番見栄えする状態へ持っていっただけ。その「だけ」で肖像画の依頼が増えたらしい。
 
 そして母上が拗ねた。
 
「わたくしだけ仲間外れではありませんか。あなたの父も兄たちも、最近ますます見栄えが良くなったと褒められているのに、わたくしには何もしてくださらないなんて寂しいわ」
 
「母上は女性なので、俺が毎朝お顔へ触れるわけにはいかないでしょう。王妃の寝室へ息子が化粧道具を抱えて通っていたら、別方向で妙な噂になりますよ」
 
「では、その素晴らしい技術はエルシノア嬢が辺境へ持っていってしまうのね。わたくし、老後だけ急に顔面偏差値が落ちるのかしら」
 
「そんな悲しい未来を想像しないでください。分かりました。俺が直接やるのではなく、母上付きの侍女へ教えます。それなら毎日できますし、俺がいなくなっても困りません」
 
 こうして俺は、王妃付き侍女の化粧講師になった。考えてみれば当然だった。俺が一人で全員へ化粧するなんて無理だ。
 前世でだって、撮影現場一つならともかく国一つの顔面を俺一人で担当したことはない。まして俺は高等部を卒業したらヴェルグレイヴ辺境伯家へ婿入りする。
 俺が王都から消えた瞬間、父上と兄上と母上の仕上がりが目に見えて落ちました、となったら結構な問題になる。何事もワンオペは駄目なんだよな。俺が熱を出したら終わる仕組みは、仕組みとして終わっている。
 
 そこで化粧そのものより、まず人を育てることにした。王妃付きの侍女たちはもともと身支度を手伝ってきた人間なので飲み込みが早く、半年もしないうちに俺が細かく口を出す必要はなくなった。
 顔立ちを見る、本人の希望を聞く、衣装や年齢や場に合わせる。俺が前世から大事にしていた部分を順番に教えれば、あとは彼女たちなりの工夫まで始まる。よしよし。これで俺が死んでも技術は残る。十六歳が考えることではない気もするが、前世の記憶が三十代半ばまであるので仕方ない。
 
 問題は、その技術が王宮だけで止まらなかったことだった。
 
 
 流行った。め~~っちゃ流行った。
 
 
 始まりは、兄上たちである。俺とエルシノアが仲良くしていること自体、王家や高位貴族の間では好意的に見られていた。
 七歳から婚約して九年、会えば自然に隣へ座り、俺が彼女の髪や顔へ触れてもエルシノアが嫌がらず、むしろ次はこれを試したいと自分から化粧道具を持ってくる。政略結婚として始まったにしては随分うまくいっている、という認識だったらしい。そこで兄上たちが思った。自分も婚約者へ同じことをすれば、さらに仲良くなれるのではないか。
 
 やめろ!!!
 
 素人が人の顔へ手を出すな!!!
 
 ある日、次兄が得意げに「婚約者の眉を整えてやろうと思う」と言い出した瞬間、俺は椅子から立ち上がった。
 
「待ってください兄上。整えるとは具体的にどこを、どれくらい、どういう形へ変えるつもりですか。そもそも婚約者殿が今の眉をどう思っているか聞きました?」
 
「そこまで聞くものなのか? お前はいつもエルシノア嬢へ自然にやっているだろう。少し細くすれば今風になるかと思って」
 
「だから素人が流行だけ見て手を出すなと言ってるんです! 本人の希望が先です。太さを変えたいのか、形を変えたいのか、今のままで少し整えたいだけなのか。まず聞き取りからです!」
 
「分かった、分かったからその刷毛を武器みたいに持って迫るな。では、お前が最初から教えてくれ」
 
 そういうことなら話は別である。幸い、我ら四兄弟は全員そこそこ手先が器用だった。さらに兄上たちの婚約者も、婚約者本人から「化粧をしてみたいから顔へ触れていいだろうか」と尋ねられれば、まんざらでもない。
 むしろ「変なことをなさらないでくださいませね」と言いながら耳が赤くなる程度には歓迎していた。よろしい。では訓練開始。
 
 俺は容赦しなかった。刷毛の持ち方、粉の量、力加減。左右差を無理に消さないこと。目だけを見るな、顔全体を見ろ。似合う色より先に本人が好きな色を聞け。濃くするなら一気に乗せるな。失敗したからといって上からさらに重ねるな。あと一番大事なのは、相手の顔を自分の作品だと思うな。
 兄上たちは俺が合格を出すまで、紙と練習用の人形と自分の顔で散々練習した。その後ようやく婚約者本人をモデルに使う許可を与え、各々が考える全力の『美』を描かせる。
 
 これが思った以上に好評だった。普段の化粧は専門の侍女へ任せる。男たちが毎朝婚約者の部屋へ押しかけるような話ではない。ただ舞踏会や祝宴など特別な日になると、ほんの一部だけ婚約者が担当するようになった。
 
「今日の眉はあの方が描いてくださったの」
 
「まあ、綺麗。わたくしは紅を選んでいただきましたわ」
 
 女性たちがそんなふうに微笑み、隣では男たちが揃って、私がやりました、という顔をしている。ほのぼのしてるな。
 高位貴族の若者たちの間で、婚約者の化粧を一部でも出来る男は気が利く、という妙な常識まで生まれ始めた。俺はそこまでやれとは言っていない。ただ、結果は悪くなかった。
 
 単純接触効果というものなのかもしれない。同じ席に座り、相手の顔を近くで見て、どうしたいか聞き、失敗しないよう真面目に手を動かす。
 婚約だけ決まっていて普段ろくに話もしない男女より、そうやって互いへ手間をかけた二人のほうが親しくなりやすいのは当然だろう。もちろん、どうしようもなく不器用な男もいる。そういう人間へ無理に顔を触らせるのは危険なので、俺は逃げ道も用意した。
 
 爪紅である。顔というキャンバスは難しい。一度線を間違えるだけで左右が変わるし、人によって骨格も違う。それに比べれば爪は面積が小さく、多少失敗しても落としてやり直せる。何度か繰り返せば、職人並みとはいかなくても見られる程度にはなった。
 何より、手を握って一生懸命塗ってもらうという状況自体が女心へ刺さるらしい。俺は女心について前世で散々苦労した男なので偉そうなことは言えないが、少なくとも「あなたと仲良くしたい」「喜ばせたい」という気持ちは伝わる。それだけでも大きかった。
 
 俺から直接教わった侍女たちの中でも特に腕のいい者には王家の信を与え、外部で講習を開く許可を出した。そこからさらに各家の侍女へ技術が伝わり、数年前からは化粧品そのものも正式な商品として流通している。
 貴族向けの高級品と、一般家庭でも手を出しやすい安価な品。ここまで来ると明らかに俺の管轄ではない。商業組合が入り、職人組合が入り、財務関係の人間まで出てきた頃には、俺は「この色もう少し黄みを抑えたいですね」と言っているだけなのに横で知らない大人たちが生産量と税率の話をしていた。好きにしてくれ。経済を回すのは専門家へ任せる。
 
 ただし、安全性だけは口を出した。なにせ異世界である。前世の歴史では、肌を白くするため鉛白を塗り、水銀を含む白粉やしみ取り剤を使い、砒素を美容目的で摂取し、瞳を美しく見せるためベラドンナを点眼して瞳孔を開かせた時代まであった。
 美しくなった結果、健康を損ねてどうする。美容に命を張るな。俺は職人と薬師へ原材料を全部出させ、分からないものは医師や研究者へ回した。前世知識だけで安全と言い切るつもりもない。この世界独自の植物や鉱石だって山ほどあるのだから、そこは今世の専門家へ任せるしかない。
 
 そうして出来上がったものが売れれば職人の仕事が増え、店が増え、侍女にも新しい技能がつく。ついでに若い貴族たちの婚約関係まで以前より妙なこじれ方をしなくなったという報告を聞き、俺としてはもう十分だった。平和じゃないか。顔を塗って経済が回り、恋愛関係まで改善する。メイクアップアーティスト冥利に尽きる。
 
 そんなこんなで迎えた、中等部二年の新学期。その朝も俺は、学院の正門をエルシノアと並んで歩いていた。
 今日は入学式ではないものの、休暇明けということで人が多い。新しく中等部へ上がった十五歳、学年の変わった在校生、他国や地方の学院から来た編入生。正門前は馬車と生徒で混み合い、あちこちから久しぶりだの背が伸びただのという声が聞こえている。
 
 俺の隣にいるエルシノアは、朝から機嫌がよかった。理由は単純である。今日の紅を俺が入れた。昨夜届いた新作を試したいと言われ、朝の支度へ少しだけ顔を出したのである。深すぎない赤へほんの少し茶を混ぜた色で、エルシノアの肌にも濃い茶髪にもよく合っている。
 
 目元は本人付きの侍女が仕上げており、俺は最後に口元だけ触った。九年前、自分の目を隠すような化粧をしていた女の子は、今ではその切れ長を完全に武器として使いこなしている。
 
「やっぱりその色、正解だったね。少し暗いかと思ったけど、外で見るとちょうどいい」
 
「朝から三度目ですわよ。そんなに気に入ったのなら、オズリック様が自分で使えばよろしいでしょう」
 
「俺の顔だと赤みが強すぎるよ。兄上なら似合うかもしれないけど」
 
「そこで本当にお兄様へ塗ろうと考え始めるところが、あなたですわね」
 
 エルシノアが笑った。こうして並んで学院へ通うのもあと二年足らず。その後は高等部へ進み、卒業すれば俺は辺境へ行く。
 七歳の頃には遥か遠くに感じた話なのに、十六歳になると急に現実味が出てきた。まあ、それはまだ先でいい。いま考えるべきは今日の授業と、新しく入った編入生の顔と名前を覚えることくらいだ。
 
 ちょうどそんなことを考えていたときだった。
 
 
「なんで並んで歩いてるの!? そもそも顔違うし!! エルシノアはもっと眼が……」
 
 
 甲高い声が正門前へ響き、俺とエルシノアが同時に振り返る。見覚えのない女生徒がいた。制服からして中等部に上がったばかりだろう。
 十五歳くらい。こちらを指さし、驚愕というより、あり得ないものを見つけたような顔をしている。周囲の生徒まで何事かと振り返った。何を言っているんだ、という疑問へ到達するより早く、人が動いた。
 
 俺の斜め後ろにいた護衛のラドヴァンが、最初の「なんで」の「な」で走り出している。速い。幼い頃から鍛えられてきただけあって、判断に迷いがない。
 王子と婚約者へ突然指をさし、大声で意味不明なことを叫ぶ人物が現れたら、とりあえず距離を取らせる。実に正しい。ただし、ラドヴァンがその女生徒へ辿り着くことはなかった。
 
 横から別の女子生徒が一歩踏み込んだ。足を払った。綺麗だった。あまりにも綺麗すぎて、俺は一瞬、武術の実演でも始まったのかと思った。
 
「きゃっ!?」
 
 女生徒の身体がくるりと横へ傾き、そのまま地面へ転がる。ただ力任せに倒したわけではないらしく、頭を打つ寸前には腕まで添えて勢いを殺していた。転ばせた相手へ怪我をさせないところまで一連の動作らしい。ラドヴァンが急停止する。エルシノアまで目を丸くした。
 
 女生徒を転がした本人は、何事もなかったように姿勢を戻した。同年代くらいの少女で、見覚えはない。ただ、制服の胸元に付けられた細い銀の飾りには覚えがあった。編入生にだけ付けられるものだ。今年から入ってきた子らしい。それ以外は知らない。
 ただ、銀の飾りの下にもう一つ、小さな月桂樹を象った徽章が留められている。それについては俺にも分かる。学院側が編入時に確認する成績証明の中でも、特に優秀な者だけがそのまま身につけることを許されるものだ。
 一年に一人しか選ばれないとか何とか、教師が説明していた気がする。要するに、頭がいい。その頭のいい編入生が、登校早々とんでもなく綺麗な足払いで女生徒を転がした。
 
「出過ぎた真似をいたしました。ですが、護衛の方よりわたくしのほうが近かったものですから」
 
 編入生は俺たちへ軽く頭を下げると、すぐに地面の女生徒へ視線を戻した。声は静かで、息一つ乱れていない。
 
「お怪我はありませんね。でしたら立ってくださいな。お話があるなら、その指も下ろして」
 
「な、何するのよ! わたしはただ、おかしいから教えてあげようと……」
 
「では、普通にお話しなさい。叫ぶ必要はないでしょう?」
 
 女生徒が絶句した。ラドヴァンが俺を見る。俺もラドヴァンを見た。エルシノアは隣で、まだ若干ぽかんとしている。教師が遠くから走ってくる。周囲には野次馬。地面には謎の女生徒。その横には、名前も知らないのに成績だけはやたらと良さそうな編入生。そして俺は、つい数分前まで、新作の紅がエルシノアへよく似合うなあ、くらいのことしか考えていなかった。
 
 凄い……新学期早々何が起こるんだ……。
 
 

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