異世界へ転生したと気づいたのは七歳のころだった。その時点で、ここが前世で読んだ小説や遊んだゲームと何の関係もない世界だということも分かっている。
王太子も悪役令嬢も聖女も見当たらず、魔法は空を飛ぶより畑へ均等に水を撒くほうがありがたがられた。私は商店の帳場を手伝う平民の娘として生まれ、十二歳で魔力適性と計算の早さを買われ、子供のいなかったセリダン男爵夫妻の養女になった。
そこから先は、少しだけ知っている展開に似ていた。貴族の子女が通う学園、家同士で決められた婚約、見栄えのする青年と、綺麗で隙のない婚約者。そこへ現れる身分の低い少女。これ、私の出番じゃない? 最初にそう思ったとき、自分でもちょっと笑った。
相手はジョシュア・ガルヴェ。子爵家の嫡男で、婚約者はイェルナ・ヴァレンド伯爵令嬢。侯爵や公爵ほど雲の上ではないものの、男爵家の養女から見れば充分に高い家柄にあたる。
ジョシュアは金髪で剣術の成績もよく、笑うと左の頬にだけ薄くえくぼが浮かんだ。イェルナは顔立ちだけでなく姿勢まで綺麗な人で、廊下を歩いていても背中がすっと伸び、本を抱える指先まで妙に品がある。そのわりに愛想は薄く、誰かに声をかけられても少し笑って終わり。ジョシュアに対しても似たようなものらしい。
「十歳から一緒にいるけど、彼女と話して楽しかった記憶がほとんどないよ。僕が何を好きか知ろうともしないし、婚約者という席に座っていれば務めを果たしたつもりなんだろう」
だから私は聞いた。好きな食べ物、苦手な授業、剣術で使いやすい型、卒業したら領地のどこへ行きたいか。雨の日は好きか、子供のころ何をして遊んでいたか。試合で勝てば喜び、負けた日は翌日まで蒸し返さない。それだけでジョシュアはこちらを見るようになり、恋愛なんて案外こんなものなのかもしれないと思った。
困ったのは婚約だった。貴族同士の約束は、本人が別の相手を好きになった程度で消えてくれない。破棄するなら相手にも理由が要る。
イェルナには男がいる。最初にそれを口へ出したのは、たぶん私だった。
女子寮の部屋で髪を乾かしていたとき、同室の子がイェルナの話を始めたので、「そういえば最近、東棟によく行くよね」と返した。
東棟には上級生用の談話室もある。数日後には誰かと会っているらしいという話へ変わり、一週間ほど経つころには図書館裏で男と二人きりだったという目撃談まで生まれていた。誰も見ていないはずなのに、噂というものは風を向ければ思ったように育つ。さらに少し経つと相手の名前までついた。ノーマン・グッドール侯爵家三男。私は本人と話したことさえなかった。
さすがに途中で怖くなった時期もある。それでもジョシュアから「やっぱり僕の勘は正しかった」と言われると、その気持ちは薄れた。私が作った噂という感覚も、いつの間にか遠くなる。そんなころ、イェルナのそばへ見慣れない侍女が二人つくようになった。
一人は四十を少し越えたくらいで、階段を上るたび右膝から小さな音が鳴る。もう一人は若く、いつ見ても少し眠そうな目をしていた。
学園付きの侍女と同じ服なので最初は気にしなかったものの、二人ともイェルナが教室へ入れば廊下で待ち、出てくれば何食わぬ顔で後ろについた。ある日、年上のほうが階段で膝を押さえているところへイェルナが戻ってきて、「今日はもう下がっても構いませんよ」と声をかけたことがある。
「お嬢様がお転婆をなさらなければ、この膝もあと十年は働けます。ここまで来たからには最後まで付き合いますよ」
変な返事だった。その話をすると、ジョシュアは「とうとう家から監視役を付けられたのか」と笑った。あれだけ噂になれば伯爵も気づく、という言葉に私も納得した。
学園の中庭で婚約破棄が行われたのは、それから二か月後だった。
昼休みの噴水前には人が多い。わざわざ観客を集めなくても、ガルヴェ子爵家の嫡男が伯爵令嬢を待ち構えていれば、自然と足を止める者が出てくる。私も少し離れたところに立った。心臓の鼓動は速かったけれど、怖くはない。ここまで来たのだから成功する。そう信じていた。
ジョシュアはイェルナへ、ノーマンとの不貞を知っていること、家同士の都合だけで裏切った女との結婚を強制されるつもりはないことを告げた。
かなり練習してきたらしく、一度も言葉につかえない。最後には私の肩を抱き、「だから僕はイェルナ・ヴァレンドとの婚約をここで破棄する。僕が妻として望むのはネリネ・セリダンだ。この先の人生まで家の都合だけで決められるつもりはない」と言い切った。
誰も声を出さなかった。もっとざわつくと思っていたし、誰かが口元を押さえたり、仲のいい子なら小さく拍手したり、そういう光景をどこかで期待していたのだと思う。イェルナはジョシュアを見て、肩に置かれた手へ視線を移し、それから私を見た。ほんの少し首を傾げる。
「承知しました。父へそのまま伝えます。ジョシュア様も本日は早めに御実家へ戻られたほうがよろしいでしょう」
それだけ告げると、年上の侍女を連れて去っていった。すれ違いざま、その侍女と目が合う。怒ってもいなければ、呆れている様子もない。ただ、値踏みするように一度だけこちらを見た。その視線が妙に気になったものの、イェルナは帰った。これで終わったのだと思った。
───────
娘が学園から戻ってきた日は、厨房でその年最初の梨を煮ていた。ヴァレンド家では毎年、最初に届いた中からいちばん甘いものを選び、香辛料と少量の酒を加えて煮るのが恒例になっている。トゥーリオもこの時期を楽しみにしているのだが、妻がこれを好みすぎるせいで、最初の一鍋に限っては口へ入らない年のほうが多かった。
もっとも、よく食べるところも含めて好ましいと思って結婚したのだから、それ自体に文句はない。美味しいものを前にすると普段より目を輝かせ、次の一口を選びながら嬉しそうに頬を緩める姿は、今でも見ていて飽きなかった。
ただし、妻が魅力的に食べることと、一鍋すべて食べていいことは別の話である。少なくとも娘の分くらいは残しておきたいし、自分だって一口くらいは御相伴にあずかりたい。昨年など妻が「三皿しか食べていない」と主張したものの、その三皿で鍋がほとんど空になり、翌朝には娘にまで疑われた。イェルナから「昨夜、厨房へ入ったのはお母様だけです」と淡々と証言されて三日ほど機嫌を損ねていたので、今年は甘い匂いが廊下まで流れてきた時点で厨房へ顔を出し、娘の分と自分の分を先に取り置くよう料理長へ頼んでおいた。
そこへ当の娘が帰ってきた。学園での騒ぎは、付き添いのメイドが先に使いを寄越していたので、トゥーリオもすでに知っている。人前で婚約破棄を宣言されたにしては、イェルナは平静で、少し疲れている程度に見えた。
イェルナは小さく頷いたあと、廊下に漂う甘い匂いに気づいたらしい。「梨ですか」と聞いてきたので、トゥーリオは今年こそ自分の分を確保してあると胸を張った。
「私はりんごのほうが好きです。それより、お父様。昔作ってくださった、あの焼いたりんごをもう一度食べたいです」
「あれをまだ覚えていたのか」
「お父様と共犯の“わるいこと”でしたから」
イェルナがくすりと笑う。まだ幼かったころ、夜中に目を覚ましてトイレへ向かった彼女は、灯りの消えた厨房で父親を見つけたことがあった。
料理人たちが帰ったあと、小腹の空いたトゥーリオが、こっそり自分でりんごを焼いていたのである。見つかった父親は少し考え、娘を追い返す代わりに皿を半分寄越して、「お母様には内緒だぞ」と口止めした。二人で冷める前に平らげ、翌朝は何も知らない顔で食卓についた。
イェルナは知らないが、そのあとトゥーリオはしっかりコックに叱られている。それでも、あの小さな“わるいこと”が娘の中では楽しい思い出として残っているらしい。それが分かると、叱られた甲斐もあったような気がして、少し嬉しかった。
「あの日から、りんごが一番好きな果物になったんですよ」
「そういうことなら、今夜また作ろうか」
「お母様には」
「もちろん内緒だ」
婚約を破棄されたその日の娘が、そこでようやく少し楽しそうに笑った。
翌日の昼過ぎ、ガルヴェ子爵夫妻が訪ねてきた。息子は連れていない。応接室へ通すと妻もほどなく入り、四人で卓を囲んだ。ガルヴェ家とは付き合いが長く、領地同士を結ぶ街道には双方が金を出し、川沿いには共同倉庫も持っている。
イェルナとジョシュアの婚約も、その関係を次代へ繋ぐために結ばれたものだった。愛情まで育てば喜ばしいが、それを前提にした話ではない。互いに礼節を守り、それぞれの家へ利益をもたらし、必要な役目を果たせば十分。それが初めからの契約である。
もっとも、幼いころの交流会では二人とも案外楽しそうにしていたので、トゥーリオも少しくらいはうまくいくものと思っていた。そこだけは、残念だった。
ガルヴェ子爵は息子から聞いたという話をした。イェルナには以前から別の男の影があり、学園でも噂になっている。息子は長く耐えた末、人前で婚約解消を宣言した。やり方についてはこちらにも非があるので謝罪したい。トゥーリオは途中で遮らず、話し終わるまで待ってから紅茶を一口飲んだ。
「それで、御子息から聞いたあとに何を調べられました?」
子爵の眉がわずかに動く。「学園で相当広まっている噂です。息子だけが疑っている話ならともかく、複数の生徒が同じことを」と言いかけたところへ、トゥーリオが静かに重ねた。
「その複数とは誰でしょう。最初に見た者はどなたで、娘とグッドール侯爵家の御子息がいつ会い、何をしたのか。御子息の話を聞いたあと、一つでも御自身で確かめましたか」
返事が来ない。トゥーリオは少し待ってから、困ったように眉を寄せた。
「本当に何もしていないのですか。それは困ったな。我が家では噂が出た三日後から人を入れていますよ。もっとも、うちの使用人では証人として弱いのでね。私に頼まれて娘を庇ったと言われれば面倒ですから、妻の実家を通じてブレイユ公爵家へ事情を話し、メイドを二人貸していただきました。公爵家には今回の婚約から得るものがありません。そのくらい遠い家の人間なら都合がいい」
「公爵家のメイドを、学園へ?」
「ええ。一人は膝が悪くて、娘が何度か休むよう勧めたそうです。それでも最後まで仕事をすると聞かなかったらしい。真面目な方ですよ」
ガルヴェ子爵の顔つきが変わった。何を見たのかききたいのだろう。トゥーリオはその視線に気づきながら、急かすことなく紅茶へ口をつけた。
「グッドール侯爵家の御子息と娘が二人きりになった事実はありません。一度、教授を交えた場で話したほかは、廊下ですれ違って挨拶をしただけだそうです。後者については数秒ほど、と記録に残っている。几帳面で良い仕事をするものですね」
そこでようやくカップを置き、皿の上の焼菓子へ手を伸ばした。妻が先ほどから狙っているものとは別の種類を選ぶ。余計な争いは一日に一つで充分だった。
「数秒で我が娘の純潔を疑う根拠が作れるなら、ぜひ私にも教えていただきたい」
ガルヴェ夫妻は何も言わなかった。子爵夫人だけが膝の上で指を組み直す。
「……そこまでお調べになっていたのですか。ですが、それならグッドール侯爵家にも確認を取られたのでしょう。先方から我が家へは何の連絡もありませんでしたが」
「ああ、それはそうでしょう」
トゥーリオはあっさり頷いた。
「グッドール侯爵から連絡をいただいたのは、噂が出始めて間もないころですよ。ノーマン殿の名が出回り始めた翌日だったかな。あちらからすれば、御子息が突然よその家の令嬢との密通相手に仕立てられたわけです。まず、その令嬢の父親へ事情を尋ねるのは当然でしょう」
「しかし、ジョシュアはイェルナ嬢の婚約者です。婚約に関わる問題なら、我が家にも────」
「なぜです?」
子爵が口を閉じた。
トゥーリオはわずかに首を傾ける。
「その時点でグッドール侯爵家が知っていたのは、御自分の息子と私の娘が密通しているという噂が流れていることだけです。御子息が何を考え、誰から何を吹き込まれているかまでは御存じなかった。でしたら、まず私のところへ来るでしょう。私も同じ立場ならそうしますよ」
子爵夫人が何か言いかけ、やめた。
「グッドール侯爵とは若いころから多少の付き合いがありましてね。御子息本人も、学園で娘と何度か顔を合わせた程度だとすぐ説明してくれました。侯爵は幸い、話の分かる方です。こちらも調査を始めていること、娘本人から事情を聞くこと、噂の出所まで必ず突き止めることを約束したところ、それ以上騒ぎを大きくせず待ってくださいました」
それはかなり助かった、とトゥーリオは思う。グッドール侯爵家が名誉毀損として正式に抗議を申し入れていれば、学園内の恋愛沙汰という顔では済まなかった。
「寛大に扱っていただけたのは、私と侯爵の個人的な友誼があったからです。だからといって、許される話へ変わったわけではありませんよ」
トゥーリオはカップへ手を伸ばしかけ、やめた。話しているうちに紅茶はすっかり冷めている。
「娘には婚約者を裏切って密通した女という噂がつき、ノーマン殿には婚約者のいる令嬢へ手を出した男という話がついた。二人とも何一つしていないのにね。そうなれば、私には娘の父親として、そしてグッドール侯爵へ調査を約束した者として、この件を曖昧に終わらせない義務があります。不当に傷つけられた娘とノーマン殿、二人の名誉を、きちんと回復させなければならない」
「それならなおさら、途中で我々へ知らせてくだされば……」
「ですから、知らせられなかったのですよ」
口調は変わらなかった。
「噂の出所を辿った先に、御子息と親しくしているセリダン男爵家の養女がいたのですから」
その瞬間、ガルヴェ子爵の顔からわずかに表情が抜けた。
「さらに調べると、その娘と御子息が半年前から人目を忍んで会っている。ここまで出てきたところで、こちらからガルヴェ家へ相談するわけにはいかないでしょう。御家がどこまで承知しているのか分からなかったのですから」
「待ってください。息子とその令嬢が、そのような関係にあるという証拠はどこに、」
「ありますよ」
トゥーリオは机の引き出しを開け、一枚だけ紙を取り出した。
宝飾店の注文書だった。
ジョシュア・ガルヴェの名で女性用の首飾りが注文され、届け先には学園から少し離れた宿が指定されている。受取人の欄には、ネリネ・セリダンの署名。
「これは一番分かりやすいものです。ほかにもありますが、全部並べる必要はないでしょう」
子爵は紙を受け取ったまま動かなかった。夫人が横から覗き込み、息を呑む気配がする。
「御子息は、自分が婚約者以外の女性と隠れて会っているから、娘も同じことをしていると思ったのでしょうか。そこは本人へ尋ねなければ分かりません。ただ、私には別のことが理解できない」
トゥーリオはしばらく二人を見た。
「息子から婚約者が浮気していると聞かされて、あなた方はなぜ調べなかったんです?」
返事はない。
「グッドール侯爵は、自分の息子の名前が噂へ出た翌日に私のところへ来ましたよ。私はその日のうちに娘へ確認し、すぐに外部の人間を入れた。グッドール家も御子息本人から聞き取りをしています。ところが、婚約破棄までした当人の両親だけが、誰が最初に言い出したのかさえ確かめていなかった」
声を荒らげる必要はなかった。
「私はね、御子息が愚かなことをしただけなら、まだ若さで片づける余地があると思っていました。しかし御両親まで何も調べていなかったとなると、少し話が変わってくる。これまで私は、あなた方なら互いの家へ問題が起きたとき、最低限の確認くらいはすると思って仕事をしてきたものですから」
ガルヴェ子爵がようやく目を伏せた。娘の名誉を傷つけたと告げたときより、長年の取引相手としての信用を疑われた一言のほうが堪えたらしい。トゥーリオにしても、実際そちらのほうが困る。子供が判断を誤ることくらいはあるし、若さゆえの愚行なら後から正す余地もある。そのために親がいるのだ。親が仕事をしないせいで、子供が可哀想な目に遭う。まったく、酷い話だ。
「……今回については、すべて改めて調査いたします。息子にも相応の責任を取らせましょう。ただ、あれだけ大勢の前で婚約破棄を宣言した以上、婚約そのものを元へ戻すのは難しいかと。ヴァレンド家へは可能な限りの補償を─────」
「婚約は続けましょう」
ちょうどそのとき、窓の外で植木鉢が割れた。ぱりん、と景気のいい音が庭から響く。昨日も一つ割れていた気がする。あとで庭師から給金を引くか聞かれるだろうが、二個くらいなら構わないと言っておこう。そんなことを考えてから視線を戻すと、夫妻はまだこちらを見ていた。
「ただし、イェルナをそちらへ嫁がせる話は取りやめます。御子息を我が家へ迎えましょう。嫡男を婿へ出すのが難しいなら、弟君を後継者になさればよろしい。十四歳でしたね。先日お会いしましたが、なかなか利発な子でした」
「待ってください。それは……」
「息子が伯爵家の令嬢へ虚偽の不貞を申し立て、大勢の前で侮辱した。その原因になった女性とは実際に関係を持っていた。それでも婚約を維持し、家同士の取引も今まで通り続けると申し上げています。これ以上、こちらから何を譲れば御満足ですか」
ガルヴェ子爵は黙り込んだ。その日の話し合いは長く続き、最後に残ったのが当事者二人への処分だった。ネリネ・セリダンには虚偽の醜聞を意図的に広めた責任があり、ジョシュアにはそれを利用して婚約者を衆人の前で辱めた責任がある。
「主導した者を一つ重くすれば充分でしょう。セリダン男爵令嬢を二打、御子息を一打。それでこの件は終わりにしましょう」
子爵夫人が息を呑み、夫は目を伏せた。その反応がトゥーリオにはよく分からなかった。罪を犯せば、そのぶんだけ神へ命を預けて償う。生きる価値のある者なら、神がきちんとこちらへ返してくださるはずだ。それなのに、まだ刑台へ上ってもいない息子を前に、なぜ両親のほうが先に生還を疑っているのだろう。実の親なら、もう少しくらい我が子を信じてやればいいのに、とトゥーリオは素直に思った。
───────
鞭打ち二回。
その言葉を聞いたとき、ネリネは心底ほっとした。十回でも二十回でもなく、たった二回で済む。革の鞭で思い切り叩かれれば痛いだろうし、背中が腫れたり血が出たりするかもしれない。それでも歯を食いしばれば終わる。男爵家との養子縁組は解消され、学園も退学になった。ジョシュアとはあの日以来会っていない。全部失敗したけれど、十八歳なら人生はまだ長い。
王都を離れて小さな町へ行けばいい。読み書きも計算もできるし、退学になったとはいえ学園にいたのは事実なので、商店で雇ってもらえるかもしれない。
前世の料理を売る手もある。プリンならどうだろう。一度だけ男爵家の厨房を借りて作ったときは蒸しすぎて穴だらけになり、料理人から「ずいぶん甘いスポンジですな」と言われた。あれは悔しかった。次は火を弱くしてみよう。砂糖が高いなら蜂蜜でも試せる。
そんなことを考えているうちに刑の朝が来た。朝食は出なかった。吐く者がいるから、と看守に言われても、空腹のほうが都合がいいかもしれないと思っただけだった。
連れて行かれたのは裁判所の裏にある石造りの小さな刑場。壁が高く、見上げると空だけが四角く切り取られていた。中央には分厚い木台が置かれ、その横の石床には浅い溝が通っている。前日の雨水を流すためだろうと思ったものの、屋根の下なのに濡れた跡が残っていた。
役人が判決を読み上げる。虚偽の流布、名誉の毀損、婚姻契約への妨害。刑鞭二打。やっぱり二回だ。ネリネは胸の奥で息を吐いた。
「上衣を脱がせろ」
そこで少し戸惑う。革鞭なら服の上からでもいいんじゃないだろうか。両腕を抜かれ、腰まで背中を露出させられる。胸元には布を残してもらえた。木台へ腹這いになるよう命じられ、腕を前へ伸ばすと、手首へ革帯が巻かれた。足首も固定され、最後に腰を太い帯で締められる。
「二回ですよね?」
「二打だ」
役人は書類を見たまま答えた。
二回と二打。何が違うのだろう。
木戸が開いた。
入ってきた男より先に、肩へ担がれたものが目へ入る。ネリネは、それが刑具なのだとすぐには分からなかった。人の背丈に近い長さがあり、握る側から先へ行くほど厚みを増している。黒ずんだ木肌には油が染み込み、何度も何度も何かへ打ちつけたせいか角が丸くなっていた。
鞭には見えない。
執行人が肩から下ろす。
先端が石床へ触れた。
ごん、と腹へ響く音がした。
ネリネの喉が勝手に動く。乾いた竹や木が鳴る軽さではなかった。
「それ、何ですか」
「刑鞭だ」
「それが、鞭なんですか?」
執行人はこちらを一度見た。腕の太い男で、掌には厚い胼胝が重なっている。
「芯に金属が入っている。規定品だ」
ネリネは意味が分からず、少し笑いかけた。冗談を言われたと思ったからだ。誰も笑い返さない。執行人が刑鞭の握りを持ち替え、確かめるように軽く振る。
ぶうん、と空気が鳴った。
そこで身体だけが先に理解した。
指が震える。革帯に押さえつけられた手首が細かく動き、金具からかちかちと音がした。
「待ってください。私、鞭打ちって聞いてたんです。二回だけだって。これで二回って、そういう意味じゃ……」
「判決は刑鞭二打。先ほど読み上げた」
「知らなかったんです。こんなものだって知らなくて、普通の鞭だと思ってて、だから二回くらいなら我慢できるって、」
「刑吏」
役人が呼ぶ。
執行人はもう返事をしなかった。木台へ近づくと、ネリネの腰へ巻かれた帯を引き、緩みがないか確かめる。続いて背中へ手を置き、背骨をなぞるように位置を測った。腰骨の少し上で指が止まり、そこから掌ひとつ分だけずらす。
手つきだけは丁寧だった。何かを確かめるような、医者のような手つきだった。
「どうして、そこを触るんですか」
誰も答えない。
刑鞭が視界から消えた。腹這いになっているので、見えるのは執行人の靴と、石床へ伸びた影だけ。その影が一歩下がった。
心臓の音が急に大きくなる。
ネリネは手首を引いた。革が食い込むだけで、腕はほとんど動かない。足も腰も固定され、身体のどこにも逃げる余地がなかった。
「待って! 本当に待ってください! 謝ります、もう王都にも戻らないし、あの人にも近づかないから! お願い、これだけは、」
役人が片手を上げた。
石床の影が大きく伸びる。
ドスッ、と鈍い破砕音が刑場に響き、木台が激しく揺れた。
一瞬の空白のあと、背骨が砕ける「メキッ」という生々しい音が体内に響き渡る。直後、焼けつくような激痛が背中から押し寄せ、肺が潰れてまともに息が吸えない。
激痛で口が勝手に開き、血の混じった唾液が垂れた。腰から下の感覚が完全に消え去る。
「あ、ぎゃっ……!」
肺が押されて喉の奥から空気と悲鳴が漏れ出た。手首を固定する鉄枷がガチガチと激しく鳴る。パニックで舌を強く噛み切り、口内に生臭い大量の血が溢れ出した。痛い、痛い痛い痛い痛い!! 逃げ出そう身体が勝手にもがく。その動きすら痛い。ひっきりなしに悲鳴が口から溢れていく。
「一打」
役人が記録する。
ネリネにはもう、その声が遠かった。さっきまでプリンのことを考えていた。次は火を弱くして、蜂蜜も試してみようと思っていた。その次が来ないことを理解する前に、視界が暗く沈んでいく。
執行人は足を踏み直し、二度目の刑鞭を全力で振り下ろした。
ぐしゃっ、と湿った生肉が潰れるような音が破裂する。
ネリネの体は大きく跳ね上がり、背中の肉が完全に潰れて赤黒い塊へと変わった。もはや悲鳴すら出ない。口から泡状の血を吐き出し、もう一度大きく跳ねたあと、全身の力が完全に抜けた。
「二打。刑、終了」
医官が歩み寄り、ネリネの首筋に雑に指を押し込む。ドクンとも動かない皮膚の感触を確認すると、不快そうに指の血を布で拭い、無感情に首を横に振った。
執行人は何も言わず刑鞭を布で拭き、芯に歪みがないか確かめた。
それで終わった。
───────
翌年の初夏、ヴァレンド伯爵家の庭には白い花が咲いていた。最初は白だけで揃える予定だったものの、イェルナが「少し葬式じみています。こうなった以上、せめて見た目だけでも華やかにしたいわ」と言い出し、三日前になって薄桃色の薔薇を足すことになった。
本人から頼まれたとき、庭師は澄ました顔で胸を張り、「大切なお嬢様の結婚式です。必要とあらば国中の花を集めてみせましょう」と請け合ったらしい。それを聞いたトゥーリオは、こいつ、と内心で思った。
自分が確認へ行ったときには「花は椅子みたいに倉庫から持ってこられないんですよ」と散々説教したくせに、娘の前では随分と格好をつけたものである。それでも当日の朝には薄桃色の薔薇まできっちり咲き揃えていたので、結局何も言えなかった。腹は立つが、仕事のできる男だった。
式は庭園で行われた。本来なら伯爵家が代々使ってきた礼拝堂で挙げるところだが、古い建物なので入口に階段が多い。内部も狭く、車椅子では方向転換さえ難しかった。そこで司祭へ事情を話し、特別に庭へ祭壇を設けてもらった。
ジョシュアは一年前よりかなり痩せている。一打の刑鞭で命は助かったものの、腰から下は動かず、排泄にも介助が要る。
医師からは子を作ることも難しいと言われた。それでも礼服を着せ、髪を整えれば以前の面影は残っている。隣にはイェルナが立ち、滞りなく誓約を終えた。
客も多かった。グッドール侯爵家からも祝いが届き、例の噂で勝手に間男へ仕立てられたノーマン本人からは銀食器一式と、「御結婚おめでとうございます。今後は御令嬢と廊下ですれ違う際にも二メートルほど距離を取るよう心がけます」と書かれた札まで添えられていた。イェルナが珍しく声を上げて笑ったので、トゥーリオもつられて笑う。なかなか面白い青年である。
披露の席で、トゥーリオはガルヴェ子爵夫妻の向かいへ座った。二人とも朝から顔色が冴えない。せっかくの祝いなのだから、もう少し楽しめばいいのにと思う。
「いやあ、本当に残念だった。子供は難しいそうだが、そのときは私たちで良い養子を探そう。婿殿が我が家へ尽くしてくれる限り、生活について心配する必要はないよ。医師も使用人もこちらで用意するし、屋敷も生活がしやすいように少しずつ直している。もちろんガルヴェ家との付き合いは今まで通りだ。街道も倉庫も、予定していた共同事業は全部続けよう」
トゥーリオは心からそう言った。
ジョシュアは生きている。結婚もできた。伯爵家の婿として一生の衣食住を保証され、医師も介助人も付く。ガルヴェ家では弟が無事に後継者となり、先月から父親の仕事へ同行し始めたという。交易関係も以前のまま。まったくもって完璧。綺麗に収まった。
給仕が赤ワインを注いだ。トゥーリオは杯を取り、娘を見る。イェルナも静かに持ち上げた。その隣ではジョシュアが震える右手で杯を握り、途中で傾きかけたところを、イェルナが何も言わず底から支えている。
優しい娘だ。
昔からそういう子だった。
ガルヴェ夫妻も少し遅れて杯を取った。初夏の日差しが庭へ落ち、銀器の縁で光る。楽団が曲を変え、少し離れたところでは子供たちが薔薇の陰を走り回っていた。
トゥーリオが杯を掲げると、客たちもそれぞれの席で応じた。
「さあ、我々のこれからを祝して!」
よく晴れた庭で、杯の中の赤いワインだけが、ひどく鮮やかに見えた。
【ネリネ・セリダン】
十八歳。平民の商家生まれで、十二歳のときにセリダン男爵家の養女になった転生者。頭の回転は速く、計算も得意。人の話を聞くことも上手いが、相手が何を求めているか分かるぶん、それを自分に都合よく使うところがある。根っからの悪人ではなく、むしろ自分はそこまで悪いことをしていないと思っていた。嫌なことは考えないようにすれば案外考えずにいられる性格。前世の知識はあるものの、料理や物作りについては知識だけ先行していて、実際にやるとだいたい一度は失敗する。失敗すると悔しがるが、諦めるより次を試したがるタイプ。
【ジョシュア・ガルヴェ】
十八歳。ガルヴェ子爵家の長男。人付き合いがよく、剣術も得意で、友人も多い。褒められると素直に嬉しいし、自分の好きなものへ興味を持ってもらうのも好き。反面、相手の気持ちを察するのはあまり上手くなく、自分から踏み込んで確かめるより「きっとこうなんだ」と結論を出してしまうところがある。初恋はイェルナ。本人もすっかり忘れていたが、刑鞭を受ける直前になって思い出した。もともと彼女のことが好きだったからこそ、成長するにつれて自分へ関心がないように見えることが寂しかった。あとほんの少し、自分から会いに行けばよかった人。
【イェルナ・ヴァレンド】
十八歳。ヴァレンド伯爵家の一人娘。人前では感情をあまり顔へ出さず、話すときも必要なことを簡潔に済ませる。そのため冷たいと思われやすいが、家では普通によく笑うし、どうでもいい話もする。親しい相手とそうでない相手の差がかなり大きい。ジョシュアとの結婚は家同士で決められたものだと理解していたものの、八年も婚約者として付き合っていればそれなりに情もあり、義務だけと言い切れるほど割り切ってはいなかった。本人からすれば普通に好きだった。ただ、それを相手へ分かるように伝える努力は足りなかったと思う。好きな果物はりんご。ジョシュアの好きな果物はオレンジ………と言っているが、本当はいちごが好きなこと。可愛らしい果物過ぎて恥ずかしいから誤魔化していることを、知っている。
【トゥーリオ・ヴァレンド】
三十代後半。ヴァレンド伯爵家当主。イェルナの父。基本的には温厚で、家族にも使用人にもよく話しかける。仕事になると慎重で、何か問題が起きたときはまず事実確認から始める人。自分の感情と、貴族として処理しなければならないことを切り離して考えるのが得意。そのため他人から見るとたまに怖いが、本人に怖がらせている自覚はあまりない。妻とは今でも仲がよく、娘のこともかなり可愛がっている。イェルナの婚約を決めた当時は自分たちもまだ若く、いずれ第二子、第三子も生まれると思っていた。結局一人娘のままだったので、婿が来て家族が増えること自体はとても嬉しい。
【リナエッタ・ヴァレンド】
三十代後半。イェルナの母。ブレイユ公爵家の血縁にあたり、実家との関係も良好。夫より社交的で、人の顔色を見るのも得意だが、家の中ではかなり気楽に暮らしている。美味しいものが好きで、特に甘く煮た果物には弱い。イェルナが外ではあまり感情を見せないことを昔からよく知っているので、娘の「大丈夫です」をそのまま受け取らない人でもある。夫婦ともに第二子を望んでいた時期は長かったが、結局恵まれなかった。そのぶん婿を迎えることには前向きで、息子が一人増えるくらいに考えている。ただし可愛がることと甘やかすことは別なので、ジョシュアへの評価は夫より少し厳しい。
【エド・ガルヴェ】
五十九歳。ガルヴェ子爵家当主。ジョシュアと、その下にいる次男の父。商売や領地経営では堅実で、長年ヴァレンド家とも問題なく付き合ってきた。普段は慎重な人なのだが、子供のことになると判断が甘くなる。結婚してからなかなか子供に恵まれず、かなり遅くに生まれたのがジョシュアだった。そのため自覚している以上に長男へ甘い。家督を継ぐのも当然ジョシュアだと思って育ててきたので、その前提が崩れたあともしばらく感覚が追いつかなかった。現在は十四歳の次男を後継者として育て直している。
【ビィルナ・ガルヴェ】
五十代後半。ジョシュアの母。夫と同じく子供を授かるまでが遅く、最初の子であるジョシュアをずっと大切に育ててきた。本人としては厳しく育てたつもりだが、周囲から見るとかなり甘い。息子が傷ついて帰ってくると、何があったのか確かめるより先に「可哀想に」と思ってしまう人。その優しさ自体は本物だが、ときどき相手を守ることと相手の言うことを全部信じることが一緒になっている。今では以前より口数が減った。侯爵家が巻き込まれたことで本来なら刑が重くなるところを庇われた形なので、ジョシュアがヴァレンド家で暮らしていけることについては深く感謝している。次男には同じ育て方をしないよう気をつけている。
【ノーマン・グッドール】
グッドール侯爵家の三男。年齢はジョシュアたちより一つ上。頭の回転が速く、少し皮肉屋。面倒事は嫌いだが、自分に降りかかってきたものから逃げるほど気は弱くない。侯爵家の三男なので家督を継ぐ予定はなく、本人もその立場を気楽に受け入れている。婿入り先探し中なので今回の噂話は大きめのダメージだった。真剣に大問題1歩手前。親同士の付き合いがあるから何とかなっただけ。一件以降、婚約者のいる女性と話すときだけ妙に周囲との距離を気にするようになった。本人としては笑い話にしているつもりだが、そこだけは少し根に持っている。
こうしてヴァレンド伯爵家とガルヴェ子爵家は、最初に予定していたものとは少し違う形で、それでも婚姻によって以前より強く結びつくこととなった。両家が共に守ってきた街道も、倉庫も、これから始まる事業も次代へ続いていく。二つの家の結びつきは領地を豊かにし、その積み重ねは、いずれ国の繁栄を支える小さくない糧となるだろう。

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