榎本律が小峰千紗のメッセージを黒板に貼ったのは、中学二年の冬だった。千紗は同じクラスの女子で、制服の袖から覗く手首が目につくほど細く、体育は見学していることの方が多い。冬になれば教室の中でも膝掛けを使い、授業中に咳き込んでは保健室へ行った。肩より少し長い髪の下で、頬はいつ見ても痩せている。律はそんな千紗をよくからかった。
嫌う理由があったわけでも、何かされたわけでもない。強く言い返してこないから弄りやすく、周りも時々笑った。それで充分だった。
体育を休めば「また特別待遇」と声をかけ、給食を残せば「そんなんだからガリガリなんじゃね」と笑う。千紗が曖昧に笑って俯けば、律はその場で終わりにした。泣かせてもいないし、先生に叱られるほどのこともしていない。十四歳の律にとって、そこが悪ふざけと虐めを分ける線だった。
例のメッセージも、最初からクラス中へ出回っていたものではない。SNSのDMへ送られた千紗からのメッセージを見た岸本侑汰が、仲のいい男子数人へ相談したのが始まりだった。侑汰は千紗に好意を持っていなかったものの、露骨に傷つける断り方もしたくなかったらしく、どう返せばいいかとスクリーンショットを見せた。その場にいた誰かが別の相手へ送り、そこからさらに回った。最初に外へ流した人間は、卒業するまで分からなかった。
『侑汰くんと話せた日は、帰り道がちょっと短いです。明日も少し話せたらうれしい』
付き合ってほしいとも、好きだとも書かれていない。それでも十四歳の教室では充分すぎるほど好意が分かりやすかった。
律は画像を見た瞬間に「漫画みてぇ」と笑い、その日のうちに保存した。翌朝はいつもより三十分ほど早く家を出て、コンビニで大きく印刷して学校へ向かう。
暖房も入っていない教室で黒板の真ん中へ紙を貼り、その周囲に『帰り道短縮中』『侑汰くんとおしゃべりしたい♡』『今日も話せるかな』とチョークで書き足した。最後には紙を囲むほど大きなハートまで描き、教室の後ろまで下がって眺めた。
誰かが来たら絶対に笑うと思ったし、自分でもかなり面白く出来たと思っていた。
最初に登校してきた男子は黒板を見るなり吹き出し、次に入ってきた女子は「うわ」と声を漏らした。そこまでは律の予想どおりだったが、席が埋まるにつれて笑い声が減っていく。
代わりに「これ誰が漏らしたの」という声が増え、侑汰が友人へ相談していた経緯まで知れると、その場にいた男子全員へ視線が向いた。女子からは「あんなのスクショで見せる必要あった? 」と責められ、男子同士でも誰が外へ回したのかと言い合いが始まる。侑汰は黒板を見るなり顔色を変え、紙を剥がして二つ折りにすると、そのまま律の机まで来た。
「これ、お前がやったんだろ。お前いつも小峰のこといじってたけど、ライン越えだよ。全然笑えない」
「はあ? 俺がやったって証拠は? それに最初に流したの俺じゃねえじゃん。急に俺だけ極悪人みたいに言われてもさあ。てか、とっくにカクサンされてたじゃん」
「榎本だよ。こいつ、いつも小峰さんの『みね』間違えるから。山書かないの」
女子の誰かがそう言った。言われて黒板を見ると、確かに『小峰』は『小峯』になっている。しまった、と思ったものの、そこをまた笑いに変えようとして、律はようやく気づいた。誰も笑っていない。
さっきまでの勢いが急に萎み、口の中で言い訳をもごもご転がす。侑汰は深いため息をつき、そんな律を見下ろしていた。みおろすというより、みくだす、と言った方が近い目だった。
そして律をしばらく見たあと離れていった。その顔の方が、怒鳴られるより嫌だった。
侑汰だけで終わらなかった。女子から見れば律は、女の恋心を教室中へ貼り出して笑う男になった。男子にとっても、内輪で回っていたものを大勢の前へ出し、相談を受けただけの連中まで巻き添えにした奴である。
侑汰たちのグループも一時は相当に白い目で見られ、誰が画像を漏らしたのか分からないまま何人かは仲違いした。その鬱憤まで律へ向いた。
「お前に何か見せたら、次の日には黒板に貼られそう」と冗談めかして言われたのを最後に、昼休みになると律の机へ集まっていた男子も来なくなった。
女子はもっと分かりやすく距離を取り、班決めのたびに目を合わせない。移動教室では誰も待たず、グループチャットへ書き込めば、それまで続いていた会話が一度途切れ、少しして別の話題が始まる。
無視されたと先生へ訴えられるほど露骨なことは何一つ起きない。誰も律を殴らず、机へ落書きもせず、物を隠しもしなかった。ただ一人ずつ、自分の椅子を半歩遠くへ置くようになった。
千紗は黒板をみて、顔色を悪くした。いつも顔色が悪かったから元々かもしれない。保健委員の女子に付き添われて保健室に行き、翌日から学校を休んだ。
一週間ほどして一度だけ登校したものの、教室へ入っても律の方を見ず、放課後に侑汰と少し話して帰ったきり、また姿を見せなくなる。
その次の週、担任が「療養のため、しばらくお休みします」とだけ告げた時、律は胸を撫で下ろした。本人がいなくなれば黒板の件もそのうち忘れられると思ったからだ。ところが席が一つ空いたままになっても、律の周りへ人は戻ってこなかった。学年が上がってもそのままで、律の近くには余分な椅子が一脚も寄らなかった。
その場では話してくれる。明確に拒否はされない。だが、それは“そこにいる人”への親切と言うだけで、仲間とか友人という枠には入れて貰えなかった。正直、そこまで酷いことをしたか? と思う。聞いたら余計に距離を置かれそうなので、結局誰にも言えなかった。
高校へ入る時、律は髪を明るい茶色へ染め、両耳にピアスを開けた。
黒縁眼鏡はコンタクトへ替え、中学時代に使っていたSNSも全部消す。新しいアカウントには昔の知り合いを一人も入れなかった。卒業アルバムを開けば、黒髪で眼鏡をかけた十四歳の自分がいる。洗面所の鏡に映る顔とはずいぶん違っていて、これなら大丈夫だろうと思えた。
同じ失敗をするつもりもなかった。誰かを弄る時には相手の顔を見て、笑っていなければそこでやめる。
秘密っぽい話を聞いても他人へ送らず、揉め事が始まれば余計な口を挟まない。
高校へ入ってからの律は、周囲が嫌がることを以前より早く察するようになっていた。それで充分うまくいった。放課後に誘われれば遊びへ行き、文化祭のあとには打ち上げにも呼ばれる。誕生日には日付が変わった頃から何人かがメッセージをくれ、クラス替えの前には「また同じになれたらいいな」と言われた。中学の卒業アルバムは本棚の奥へ入り、取り出すこともなくなった。
相原友太と話すようになったのは、高校三年になってからだった。
共通の友人がいて、昼休みに何度か同じ机を囲んだ。最初に何を話したのかはほとんど覚えていない。誰かが馬鹿な話をして全員で笑ったあと、顔を上げると友太がこちらを見ていたことだけは残っている。律が眉を上げると、友太は口元を少し緩めて視線を外した。
それから何度か同じことがあった。廊下ですれ違う時、階段の踊り場、購買の列。律が先に気づく時もあれば、視線を感じて顔を上げる時もある。目が合うたび、友太は面白そうに笑った。髪に何か付いているのかと思って触ってみても何もない。昼休みにまた視線がぶつかったところで、律の方から聞いた。
「友太さ、俺のこと見てるだろ。気のせいならいいけど、目が合うたび笑われるから地味に気になるんだよ。髪とか顔に何か付いてるなら普通に言ってよ」
「お前が俺の事みてるからそう思うんだよ」
「俺は見られてる気がするから確認してんの! 毎回先に見てるのそっちじゃん」
「そう? 気になっちゃうんだろうな。見ない方がいい?」
「そ、そういうわけでもないけど。減らないし……」
「お前が減ったら困っちまうな」
その日の夜、歯を磨いている時に最後の言葉だけ思い出した。翌朝には忘れていたのに、昼休みになって友太と目が合うとまた戻ってきた。
律が笑えば向こうも笑う。何度か続くうちに、友太の顔が教室のどこにあるか、探さなくても分かるようになった。
共通の友人が席を立ったあとも、二人でそのまま話していることが増えた。
友太はスマホで見つけた動画を見せてきたり、律の買ったパンを勝手に一口食べたりする。律も友太の紙パックジュースを取り上げて飲み、文句を言われれば笑って返した。
ある日の放課後、昇降口で靴を履き替えて外へ出ると、少し先を歩いていた友太が振り返った。そのまま何となく並び、駅まで行って初めて、使う電車が途中まで同じだと知った。
それ以降、昇降口で会えば一緒に帰ることが増えた。約束はしない。どちらかが先に帰る日もあったし、部活の友人といる時には声をかけない。
それでも律は教室を出る時間が近くなると、廊下の向こうを一度見るようになった。ある日、忘れ物を取りに戻ってから昇降口へ降りると、友太が壁へ寄りかかってスマホを見ていた。
「まだいたの? いつもならもう電車乗ってる時間じゃん。誰か待ってんなら先行くけど、俺のせいで残ってたとか言うなよ、ちょっと気まずいから」
「忘れ物取りに戻ったの見えたから一本遅らせただけ。次の電車でも帰る時間ほとんど変わんねえし、別に大したことしてない。だからそんな嬉しそうな顔すんな」
「してねえよ。そっちが勝手に待ってただけだろ。まあ、せっかくだからコンビニ寄って帰ろうぜ、腹減ったし」
「それでまた電車一本逃すんだろ。お前と帰ると毎回予定より遅くなるんだけど、今日は何買うか先に決めとけよ」
律は笑いながらローファーを履いた。その日から、友太がいない昇降口を少し静かに感じるようになった。理由を考えるほどのことでもなく、見つければ声をかけ、先に見つけてもらえればそのまま隣へ並ぶ。
自販機へ寄ると友太は少し先で待ち、靴紐がほどければ歩調を緩めた。律も友太が立ち止まれば何となく足を止める。そんなことが何度も重なった。
雨の強い日、傘を持っていなかった律が駅まで走ろうとすると、後ろから腕を掴まれた。友太のビニール傘は二人で入るには小さく、端へ寄ればどちらかの肩が濡れる。律が外側へずれるたび、友太が傘ごと引き戻した。
「もう少しそっち行っていいって。友太の肩びしょびしょじゃん。俺は駅まで走るつもりだったし、多少濡れても家帰るだけだから平気だよ」
「お前が外へ逃げるたび傘をそっちへ傾けるから余計濡れるんだよ。二人で入ってんだから大人しく寄れって」
「男二人で肩くっつけて相合傘とか、弄ってくださいって歩いてるようなもんじゃん」
「じゃあ好きなだけ濡れろよ。俺は止めないけど、傘から出るなら走って先行け。中途半端に離れるのが一番邪魔だから」
結局、律は笑いながら肩を寄せた。駅までの道で腕が何度も触れた。改札へ着く頃には雨脚が弱まり、傘から出る前に空を見上げる。電車へ乗って別れたあと、濡れた制服の袖を触ると、自分の側はほとんど濡れていなかった。そのことをわざわざメッセージで送るほどでもなく、律はスマホをポケットへ戻した。
体育祭の日、全競技が終わったあと、律は校庭の端で友人たちとスポーツドリンクを飲んでいた。友太はかなり離れた場所で、自分のクラスの男子と何か話している。人の多い校庭で互いの声など届かない距離なのに、ふと顔を上げた瞬間、まっすぐ目が合った。友太がいつものように笑う。律も反射的に笑い返し、隣の友人に肩を叩かれて会話へ戻った。少ししてもう一度向こうを見ると、友太は別の方を向いていた。
家へ帰ってシャワーを浴び、ベッドへ転がる。スマホには友太から『今日の日焼けやばい』と腕の写真が届いていた。返事を書きかけたところで、昼間の笑った顔が浮かぶ。そのまま、何年も思い出さなかった文章まで続いて出てきた。
『侑汰くんと話せた日は、帰り道がちょっと短いです』
中学生の律は、それを読んで笑った。帰り道の長さが変わるわけないだろ、と誰かへ言った覚えまである。けれど友太と一緒に帰った日は、乗り換え駅へ着くのが早かった。改札で別れてから家まで歩く時間の方が長く感じる。学校が休みでも会ったし、別れたあとにはまたメッセージが来るか気にしている。そこまで考えたところで、律は枕へ顔を押しつけた。
あの時、あんなことしなかったら良かったな。
声には出さなかった。千紗がどれほど傷ついたのかを分かったつもりにもなれない。ただ、自分が友太へ送ったものを教室中へ貼られたら嫌だった。翌日学校へ行けるかと言われれば、自信がない。
昔へ戻れるなら、あの画像は保存しないし、コンビニへ印刷にも行かない。黒板へ大きなハートも描かない。その程度のことを考えながら、律は友太へ返事を送った。
それから二人でいる時間はさらに増えた。学校帰りにどちらかの家へ寄り、夜までゲームをして、そのまま夕飯を食べる日もある。友太の母親に「今日も来たの」と笑われる頃には、律も飲み物を取るためなら冷蔵庫を勝手に開けるようになっていた。いちいち声をかけなくていいと、おかあさま直々にお許しが出たからだ。
最初にキスをした日も、何か特別な約束をしていたわけではない。いつものようにゲームをして、飽きたあと同じソファでスマホを眺めていた。
律が顔を上げると、友太がこちらを見ていた。いつものように笑われると思ったが、その日は視線が外れない。律もスマホを伏せ、友太から目をそらせなくなった。
「さ、さっきから何? また俺の顔見て笑うつもりなら、今日は先に言っとくけど何も付いてないぞ。鏡も見たし、寝癖も直してきたからな」
「別に笑ってないだろ。お前こそ何で急に黙るんだよ。いつもなら見られてるって騒ぐくせに、今日は随分おとなしいじゃん」
「そっちが変な顔してるからだろ。何か言うなら言えよ。そんな近くでずっと見られる方が困るんだけど」
「じゃあ嫌なら離れろよ。俺は別に動かないから、お前が好きなだけ離れればいい」
律は離れなかった。そういう気分じゃなかったからだ。追い出されたら、おとなしく退くつもりだった。ただ、追い出されなかったから、あっち行けと言われなかったから、体温が近くなった。
どちらから近づいたのか、あとになっても思い出せない。気づいた時には唇が触れていて、一度離れてからもう一度重なった。
翌日の学校では、顔を合わせるのが少し怖かった。昨日のことを失敗扱いされたらどうしようと思いながら廊下を歩いていると、向こうから友太が友人と来た。
律を見つけた友太は、普段と変わらない顔で笑った。その一瞬で肩の力が抜ける。周りにいる連中は昨日のことを知らない。すれ違ったあと、律は口元が緩むのを隠すために下を向いた。
キスはその後も続き、そのうち、自然と泊まるようになった。身体の関係も持ったが、付き合おうという言葉は出なかった。律も聞かなかった。休日には友太の方から「今日来る? 」と連絡が入り、泊まれば翌朝まで一緒にいる。学校で目が合えば笑う。律にとっては、それ以上の確認を挟む方が変に思えた。
以前から何度もあった視線が、いつの間にか一日の中でいちばん好きなものになった。
廊下の端と端でも、食堂の列でも、移動教室の途中でも、友太を見つければ目が合う。向こうが笑うと、前の晩にいた部屋や、触れた唇や、朝起きた時の眠そうな顔まで一緒に浮かぶ。
何も知らない生徒の間をすれ違いながら、自分たちだけが同じことを思い出している気がして、律はその時間を楽しんだ。
昼休みに廊下へ出れば向こうのクラスを覗き、食堂では先に友太の頭を探す。見つからない日は少し物足りない。自分が探すより先に向こうから気づいてもらえれば、もっと嬉しかった。友太が誰かと話している途中でこちらを見て、目が合った途端に笑う。そのたび律も笑い返した。
寒くなり始めた頃、律が熱を出して学校を休んだ。夕方になって友太から『生きてる?』と届き、『死にそう。プリン食いたい』と返す。三十分ほどして家のチャイムが鳴った。母親もいたので友太は上がらず、玄関先でコンビニ袋だけ渡して帰る。中にはプリンのほか、スポーツドリンクとゼリー飲料まで入っていた。
「わざわざ来たの? これくらい自分で買えるし、明日には治ってると思うんだけど。学校帰りに寄るにしても、うち駅から逆方向だろ」
「死にそうって送ってきたのお前じゃん。死なれたら貸してるプリント返ってこないし、明日も休まれたらノート見せるの面倒だから持ってきただけ。ありがたく食っとけ」
「もうちょい素直に心配したって言えばいいのに、そこまで必死に誤魔化されると逆に愛を感じるんだけど」
「熱で頭までやられてるなら今日はスマホ触るな。明日も下がらなかったら病院行けよ。あとプリンは今日食え、賞味期限短いやつだから」
閉まった玄関の前で、律はコンビニ袋を抱えたまましばらく立っていた。奥から母親に「寒いから早く閉めなさい」と言われ、ようやく鍵をかける。その夜は食欲がなかったのにプリンだけは全部食べた。翌朝には熱が下がったが、念のためもう一日休む。友太へ『愛を感じた』と送れば、『病人は黙って寝てろ』と返ってきた。その画面を見ていた時、また千紗のことが浮かんだ。
侑汰から一通返事が来るだけでも、千紗はこんな気分になったのだろうか。学校へ行く前に何度もスマホを見たり、廊下で姿を探したりしたのだろうか。
律は中学の頃の知り合いの連絡先を開き、千紗へつながりそうな相手を探しかけた。何年も経ってから突然蒸し返す方が迷惑かもしれない。そう思うと指が止まり、そのまま画面を閉じた。いつか会えたら、その時に謝ればいい。そこから先は考えなかった。
十一月の終わり、友太の部屋へ泊まった夜だった。律は借りたスウェットを着てベッドの端へ座り、床でスマホを見ている友太を眺めていた。
少し前まで同じベッドにいたせいで、普段より気が大きくなっていた。考えてみれば、友太から好きだと言われたことは一度もない。急に不安になったわけでもない。ただ一つくらい聞いてみたくなった。
「なあ、ちょっと聞いていい? 俺のどこが好きとか、何かある? 一緒にいて楽とか、顔はまあまあ好みとか、そのくらいでいいんだけど」
友太はスマホから顔を上げ、しばらく律を見た。答えを考えているのかと思った次の瞬間、噴き出した。最初は律もつられて笑い、「何だよ」と足先で軽く蹴ろうとした。けれど友太はいつまでも笑い続け、腹を押さえ、とうとう目元の涙まで指で拭った。
「お前、もしかして俺がお前のこと好きだと思ってたの? いや、ごめん、そこまで本気で勘違いしてるとは思わなかった。誰がお前なんて好きになるかよ」
律は笑いかけた顔のまま固まった。友太は冗談を終わらせる様子を見せない。学校で何度も目が合った時の笑い方も、今はどこにもなかった。
「えと、え? あの、あんま、その冗談おもしろくないかも」
「お前、中学の頃クラス中から嫌われてたよな。高校デビュー成功おめでとう、逃げ切れてないけどさ」
「中学って何の話だよ。俺、友太とは高校で初めて会ったし、誰かと間違えてるならちゃんと確認した方がいいって。そんな理由で半年も一緒にいたとか意味分かんねえよ」
「小峰千紗。あいつのDMを印刷して黒板に貼ったの、お前だろ」
胸の奥が一気に冷えた。白い紙、朝の黒板、自分で描いた大きなハート、その周りへ面白がって書いた侑汰という名前。何年も見ていなかった教室が頭の中へ戻ってくる。なんで突然、中学も違う友太からその話が出るかわからない。
「原因覚えてる? 自分があいつに何したか、今でもちゃんと言える? 」
「……俺はもう回ってた画像を印刷して黒板に貼っただけだよ。それで俺も卒業するまでずっと嫌われて、友達ほとんどいなくなったんだぞ。俺だって充分酷い目に遭った」
「それ、俺の従姉妹。俺は別の中学だったけど全部聞いてた。お前、自分が嫌われた話は覚えてるのに、あいつが学校へ来なくなったあとどうなったかは知らないんだな」
「知らないよ。担任は療養するって言ってたし、その後は誰も何も教えてくれなかった。俺だって今なら悪かったと思ってるし、病気だって知ってたらさすがにあんなことしなかった」
「あいつ、あのあとすぐ死んだよ」
律は口を閉じた。友太は律を見ない。着替えながら独り言のように話している。千紗はもともと長く生きられないと言われていたらしい。体育へ出られなかったことも、授業中に何度も保健室へ行っていたことも、痩せた身体も病気とつながっていた。
「病気だなんて本当に知らなかった! 知ってたら俺だってあんなことしなかったし、あの時悪かったってちゃんと思ってた。今さら連絡する方が迷惑かと思って、何もしなかっただけで」
「病気じゃなくても、誰にもやっちゃダメじゃね?」
友太は机の引き出しを開け、小さなUSBメモリを取り出した。それを指先で摘まんだまま少し眺め、律へ視線を戻す。
「あいつの人生最初で最後の恋を笑いものにしたんだから、俺がお前を笑いものにしてやろうと思っただけ。お前がこっちを好きになったところで、同じような目に遭わせれば少しくらい分かるかなって」
「じゃあ、最初から全部? い、いままでの、全部? 全部あいつのためにやってたってこと?」
「途中で情くらい移るかなとは思ったよ。半年も一緒にいれば、俺も馬鹿らしくなるかもしれないって。でも駄目だった。一ミリも好きになれなかったな。お前が俺を見て嬉しそうにするほど、千紗もあの頃こんなだったのかなって思っただけ」
「お、俺が勝手に勘違いしたみたいに笑うのはずるくない? 俺は本当に、す、すき、で、付き合って、」
「俺もお前で同じでクズなんだろうな。でも、もういい。使おうかと思ったけど、いらねえや。返す」
放られたUSBは律の手に入らず、胸元へ当たって布団の上へ落ちた。友太は拾わず、そのままスマホへ視線を戻す。律は小さな銀色のそれを握ったまま座っていた。
もう一度だけ好きではなかったのかと聞けば、今度こそ違う答えが返ってくる気もした。けれど、さっき腹を抱えて笑っていた顔を思い出すと声が出なかった。
部屋を出る時も引き止められなかった。靴を履き、玄関のドアへ手をかけたところで、律は初めて気づいた。
友太は一度も律の名前を呼んでいなかった。
春から何百回も話した。学校でも、駅でも、この部屋でも一緒にいた。それなのに使われたのは「お前」で、人前なら「あいつ」。律、と呼ばれた声を一つも思い出せない。自分は友太とよく目が合うと思っていたし、好きになってからはそれが嬉しくて仕方なかった。キスをしてからは、目が合うだけで二人の秘密を思い出した。その間ずっと、友太は別の誰かを見ていた。
外へ出ると終電はもうなくなっていた。律は駅まで歩き、シャッターの下りた店の前へ座り込んだ。十一月の夜気はコートの上からでも冷たかったが、家へ帰る気にはなれない。
泣いているうちに、自分があまりにも馬鹿らしくて笑えてきた。中学生の頃も、自分だけが周りの怒っている理由を分かっていなかった。高校ではうまくやれているつもりで、友達も出来たし、誰かが嫌がれば引くことも覚えた。それなのに、好きな相手が一度も自分の名前を呼んでいなかったことには最後まで気づかなかった。いつもこうだ。浮かれると周りが見えなくなる。それで他人を傷つけて生きてきたけど、ついに自分も傷つけるようになった。とんでもない自傷癖だ。
夜が薄くなっていく頃、律は千紗のことを考えた。病気だったことも、長く生きられなかったことも知らなかった。
卒業以来ほとんど思い出しもしなかった女の子を、友太はずっと覚えていた。何年も前に死んでいるのに、半年かけて自分を騙そうと思うほど忘れていない。
羨ましいと思った。
千紗は学校へ来られなくなり、そのまま病気で死んだ。それでも友太の中に残っている。だったら自分も同じくらい酷い目に遭えばいい。
高校でも嫌われ、せっかく出来た友達が全部いなくなり、みんなに笑われて、教室へ入れなくなるほど惨めになれば、友太も少しくらい気にするかもしれない。昨日まで一緒にいた人間が急に学校へ来なくなったら、一度くらい思い出すはずだ。
これでおれもびょうきになって死んだら、こっち向いてくれるかも!
頭の中へ浮かんだ声は、場違いなくらい明るかった。そこまで考えると、潰れそうだった胸が少し軽くなる。律は膝の上でUSBを握り直した。
中には友太が撮っていた写真が残っていた。表に出たら一発で人生がダメになるタイプの、こういうのが好きな人に売れば少しは値がつきそうなやつ。
友太も写ってるからダメじゃん、と、少し笑えた。悪巧みに向いてないんだろうな。優しいから。優しい人間なのに酷いことをしようとするくらい、やっちゃダメなことをしたんだな。それくらい嫌いだったんだな。理解できてしまって、本当に嫌になる。リベンジポルノっていうんだっけ。あれは好きが反転してやるやつだから、これは何なんだろう。言葉の単語ひとつひとつ分けたら、同じ意味になりそうだけど。
始発が動き始めるまでの間に中身を確かめ、自分の顔がはっきり分かるものを選んだ。友太が写っているものは、全て外した。“可哀想”になるのは、自分だけじゃないといけないから。友太は律のことが嫌いだが、律は友太を好きなままだ。だから酷いことは出来ない。友太の作戦にまんまと嵌められて、そのまま敗北している。
律はコンビニへ寄って何枚も印刷し、一度家へ戻って制服に着替えた。洗面所の鏡に映った顔は目の周りが赤く腫れ、染めた髪も崩れている。前髪を手で直しただけで家を出た。
午前六時を少し過ぎた学校には、まだほとんど誰もいなかった。朝練の生徒が来るにはわずかに早く、廊下には窓から差し込む白っぽい朝日が長く伸びている。外では小鳥が鳴いていた。普段なら聞き流す声が、今日はやけに近くまで届いた。
律は教室へ入り、コンビニ袋を教卓へ置いた。黒板の前に立って白いチョークを取り、中央へ大きく文字を書く。途中で笑ってしまい、線が少し歪んだ。誰もいない教室、冷えた朝、手の中のチョーク。中学二年の冬とよく似ていた。
小峰千紗も、あの黒板を見たのだ。
律は一度だけ手を止めた。千紗が教室の扉を開けた時、最初に何を見たのか。誰が笑っていたのか。自分の名前が書かれた紙へ近づけたのか。そこまでは分からない。
「悪かったな。あれ、辛かったよな。今ならちょっと分かる。ちゃんと罰受けてるから、これ以上祟るのは勘弁してくれよ」
誰も返事をしなかった。律は自分で少し笑い、またチョークを動かした。
一枚目の写真を貼り、その隣へ二枚目、三枚目と並べる。四隅をセロハンテープで留め、空いたところへ『恋人だと思ってたらしい』『誰がお前なんか好きになるんだよ』『また一人で勘違い』『因果応報』『きっしょ』と書いた。
まだ余白が残っている。中学の頃、自分が陰で言われて嫌だった言葉まで思い出し、『学校来んな』『みんなお前嫌い』『友達いると思ってた?』と写真の隙間へ足していく。
白いチョークが短くなると黄色へ持ち替え、その次は赤を使った。写真の周囲へ大きなハートを描く。千紗のDMを貼った朝と同じ形になった。
少し離れて眺める。ひどい有様だった。だから、もう少し書いた。
泣き腫らした顔で笑いながら、律は黒板の端まで文字を増やしていった。朝日は少しずつ強くなり、明るく染めた髪と耳のピアスを照らしている。誰もいない早朝の教室に、チョークが黒板を擦る乾いた音だけが続いた。
貼りつけられた写真のうち、一枚だけ、ほかより少し構図がずれている。
画面の端へもう一人の男の背中がわずかに見切れていた。顔は入っていない。右の肩甲骨の下には、枝分かれした稲妻のような赤黒い痣が残っている。体育の着替えで、同級生の何人もが見たことのある痣だった。朝日に照らされた写真の中で、それだけが隠れずに写っていた。

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